二十六の巻 近くて遠い、公方様

文字数 5,423文字

 願いかなって夜廻(よまわ)り隊に無事参加出来た私は、中庭に集められた集団の一番後方にいる。

 前方におわす光晴(みつはる)様のお近くを陣取るのは、普段は滅多に表に出てこない、御広敷(おひろしき)留守居役(るすいやく)やら、御広敷番頭(おひろしきばんがしら)など。そして、そんなお偉方の背後にはかなりの数となる男性役人がずらりと並び整列している。

 切裃(きりかみしも)やクレ染めと呼ばれる濃紺の装束(しょうぞく)に身を包む各々の服装。そしてここが大奥だという状況から察するに、この場に集められたのは御広敷添番(おひろしきそえばん)と呼ばれる男子役人と、御庭番(おにわばん)の伊賀者達のようだ。

 どうやら錚々(そうそう)たる人物と人員が今回の夜廻りに駆り出されているらしい。

 (もはやこれは幽霊との(いくさ)ですか?)

 異常事態とも言える雰囲気に私は圧倒されていた。

 ただ一つ、不服な事がある。それは大奥御火乃番(おひのばん)。つまり誰よりもこの場所を知り尽くしているであろう、お(せん)ちゃんと私は、まるで「おまけ」といった感じ。列の後方に付くよう指示されたということ。

 (これじゃ、光晴様がよく見えないじゃない)

 よりによって、現在私は一際ガタイの良い男性の背後に控えている。しかも片膝をつき、頭を下げているという状況なので、もはや絶望感しかない。

 (光晴様を拝見しにきたんだけど)

 当の本人のお姿は、前方に確かにいらっしゃるにもかかわらず、チラリとも見えない。私に見えているのは自分の汚れた草履と乾いた土のみ。

 (話が違う……)

 私は悔しさのあまり、唇を噛んだ。

(みな)(もの)、寒空の中すまないな。しかし私達が夜廻りを始めてから、大奥で不審な姿を見たと言う者は一人もいない。よって、我らの夜廻りは確実に成果を出していると言える。難儀ではあるが、今日もよろしく頼む」

 光晴様の心を奮い立たせるような、ハキハキとした、自信に満ちた声が響く。

御意(ぎょい)!」

 張り切った男性役人達の声が闇夜に響く。

「では、各班二名ずつとなり、指定箇所の夜廻りを開始!」

 留守居役の気合のこもる掛け声で、私達は蜘蛛の子を散らすように、持ち場に向かうのであった。


 ***


 何かがおかしい。
 そう気付いたのは、休憩の時。

 普段は御火乃番の詰所(つめしょ)として用意されている、(わず)二畳(にじょう)ほどの部屋。擦り切れた畳の上には、お鍋の形をした、鉄製の丸火鉢(まるひばち)と、お茶を入れる道具が入った茶箱が置かれただけの、至って質素な部屋だ。

 その茶箱の上に、今日は何故か饅頭(まんじゅう)がポツンと二個ほど乗せられていた。

「お(こと)ちゃん、言っていい?」
「うん。たぶん私も今、お仙ちゃんと同じ事を考えていると思う」

 私達は猫の額と例えるにも烏滸(おこ)がましいほど小さな土間で、呆然と立ち尽くしたまま会話を続ける。

「あのさ、もしかして、だけどさ」

 お仙ちゃんが饅頭を見つめながら遠慮がちに口を開く。

「うん」
公方(くぼう)様に貰った鶴屋(つるや)のお饅頭ってこれなのかな?」
「そんな気がするよね」
「手渡しじゃないってこと?」
「だよね。私もてっきりそう思ってた」

 お仙ちゃんと私は顔を見合わせる。そして二人同時に、ガクリと肩を落とす。

「ま、そういう事もあるか。お琴ちゃん、休憩しよ」

 吹っ切れたように言うお仙ちゃんの言葉に頷き、私達はお茶の用意をする。それからお仙ちゃんと私は土間に足を投げ出し並んで座る。

「今思えば、確かに手渡しされたとは言ってなかったかもなぁ」

 お仙ちゃんが、手のひらに乗せた饅頭を恨めしそうに見つめた。

「そうだよね。頂いたって言ってたから嘘じゃないし」

 私は淹れたてのお茶が入った湯呑(ゆの)みをお仙ちゃんに手渡す。

「ありがとう」
「いえいえ」
「…………ぷっ」
「…………ぷっ」

 しっかりと化粧を施し、白くなった顔を見合わせ、私達は同時に吹き出した。

「つまり公方様に御目見得なんて出来ないってことだよね。あーあ、お化粧して損した」

 お仙ちゃんが(ほほ)(ふく)らませる。

「ほんと。落とすの面倒なのに」

 私も同意する。

「ま、お饅頭に罪はないからね
「そうだね」

 お仙ちゃんと私は、饅頭を有り難く頂戴する事にした。

「それにしても、数ヶ月前には伊桜里様のご懐妊(かいにん)で喜んでいたのにさ、こんなふうになるとは思ってみなかったよね」

 お仙ちゃんが何気なく口にした「ご懐妊」という言葉にドキリとする。何故ならその事実を、大奥にいる誰かの口からハッキリ聞くのが初めてだったからだ。

 (その可能性はあるんだろうなと、思ってたけど)

 外にいた私には伊桜里様のご懐妊は、ただの「(うわさ)」でしかなかった。しかし、大奥内で働く者の口から出ると言うことは、伊桜里様が光晴様の(たね)を宿していた。それは事実で間違いないだろう。
 そもそも伊桜里様の死について、まるで箝口令(かんこうれい)が敷かれたように、今まで誰も口にしなかった。だからすんなり情報を入手できなかった。それに加え、以前正輝に言われたように、「流産」という言葉は安易に口にすべきではない。ここ大奥では特に。

 よって帷様にも聞けず、正直私は今の今まで、「伊桜里様がご懐妊されていたかも知れない」という事実を記憶の片隅に追いやってしまっていた。

 (ここに来てまさかお仙ちゃんの口から聞けるとは)

 お仙ちゃんが私を「仲間」だと認めている証拠に他ならない。

 『忍びは成功する環境を選択し、人間を含めたその環境の流れを読み、情報を()り所にし、利があると確信した流れに乗るべし』

 私の脳裏に有り難い忍術書の言葉が蘇る。

 (環境の流れを読み、か……)

 大奥を取り巻く環境で大きな出来事と言えば、今まさに私が駆り出される事となった幽霊騒ぎだろう。そして幽霊騒ぎにより、その原因とされる伊桜里様の事を皆が思い出し、伊桜里様について話さずにいられない状況に自然と流れが変化した。

 (それに、今日のお仙ちゃんは狙い所かも知れない)

 『激しい行動や緊張が取れた直後は、人間は虚脱(きょだつ)状況になりやすい』

 私は再び、教本の一つ、『忍術伝書(にんじゅつでんしょ)』に書かれた一文を思い出す。

 本日のお仙ちゃんは、昼間から夜廻りについて頭がいっぱいで、浮かれていた。夜番に備え、仮眠を取るべき時間に私の元へやってきて、しかもお風呂は三回も入ると公言していた。

 (明らかに張り切っていたよね)

 それなのに、努力の全てが水の泡となった今この時。

 (気落ちしているお仙ちゃんは「(きょ)」の状態で、しかも気が緩んでいる)

 つまり、現在私は情報収集をするにあたり、格好の獲物を前にしているということになる。

「私はさ、伊桜里様って方を知らないんだけど、どんな人だったの?」

 私は早速実行に移すべく、先ずは差し障りのない会話を振る。

「あ、そっか。お琴ちゃんは新参者(しんざんもの)だもんね」
「うん。だから良くわからなくて。美麗(みれい)様みたいな感じ?」

 真逆を言って、カマをかける。

「まさか。どっちかって言うと真逆。凄く綺麗で優しくて。それでとても芯を持った方だったかな。ほら、伊桜里様のお父様は、町奉行(まちぶぎょう)に就かれているでしょう?そのせいか、正義感に溢れてた感じ」

 お仙ちゃんは打てば響くといった感じで、事細かに良く喋ってくれる。

「正義感って、どうしてわかるの?」

 気になった言葉を拾い上げ、私は尋ねる。

「大奥ってさ、物がわりとよく無くなるじゃない?」
「あー、うん」

 私はお夏さんの髪に飾られていた、珊瑚(サンゴ)根掛(ねが)けを思い出す。

「大抵は自分が何処かに置き忘れたとか、勘違いとか、そういった感じなんだけど、たまに本当に誰かが盗みを働いてる場合もあってさ」
「うん」
「そういう時、私達御火乃番と共に、伊桜里様は捜査に当たったりしてたんだよねぇ」
「え、伊桜里様が?だって御中臈(おちゅうろう)だよね?」

 (同じ御中臈の美麗様なんて、一切外に出て来ないけど)

 だから綺麗なお召し物を身にまとう、御中臈ともあろう身分の方が、藍色のお仕着せを着た、下働きである私達と共に出歩く。その姿が全く想像できなかった。

「美麗様と違って、伊桜里様はあんまり部屋に閉じこもっているのが好きって感じじゃなかったからさ」
「そうなんだ」

 (あーでもわかるかも)

 伊桜里様の父上である、太田(おおた)忠敬(ただたか)様は、今でこそ西大平(にしおおひら)(はん)の藩主、つまり大名であるけれど、元々は我が家同様、石高(こくだか)が一万(ごく)未満の旗本(はたもと)だった人だ。しかし、江戸の町の治安を守るため尽力した功績が前将軍、秀光(ひでみつ)様に高く評価され、三河国(みかわこく)西大平藩、一万石を領することとなり、正式に大名(だいみょう)となったのである。

 (だから、伊桜里様は旗本の娘として生まれたわけで)

 いわゆる武士の娘の教養として、剣術稽古(けいこ)もしただろうし、武士道(ぶしどう)などもかじっていたのかも知れない。だから、正義感が強いのだろうし、大奥の仲間と仲良くしたいと願う気持ちも芽生(めば)えていたのかも知れない。

「でもま、大奥内とは言え、私達と共にうろついたりする事とかは、岡島(おかじま)様によく叱られていたけどね。でも公方様の後ろ盾があるから、ある意味伊桜里様は最強だったかも」
「最強か……」
「まぁね」
「そういえば、美麗様がお手つきになったのは、いつ頃なの?」

 私はもう一つ、長らく疑問に思っていた事を尋ねる。

「それがさ、ドロドロしてて」
「ドロドロ?」
「伊桜里様のご懐妊が判明した後なんだよね」
「えっ!?」

 (光晴様、さいてい!!◎△$♪×¥●&%#?!)

 私は全女性を代表し、心で光晴様をとても公言できない、酷い言葉で罵倒(ばとう)した。

「でもまぁ、その前に伊桜里様が御庭(おにわ)で転ばれて、流産しちゃったし、だから光晴様も魔がさしたって言うか、まぁここはそういう場所だから、全然いいんだけどさ」

 お仙ちゃんは暗い顔でお茶を(すす)った。

 (でも、お辛い気持ちの伊桜里様に寄り添うべき時期だったんじゃないの?)

 そんなのまるで女性を、子を産む道具としか見ていない証拠だ。

 私は無性に腹が立って仕方がなかった。と同時に、これらの事情を帷様や正輝(まさき)は知っていたに違いないと確信する。

 (女である私に言いづらいから、きっと口にしなかったんだ)

 けれど、それは間違っている。確かに私は光晴様にかつてないほど怒りを覚えているが、この国に光晴様のお世継ぎが必要なことくらい、理解している。だからここで、任務を投げ出すような事はしないし、光晴様を伊桜里様の恨みだと言って、襲ったりもしない。

 (正直謀反(むほん)を企てたい気持ちはある)

 しかし、それが意味のないことくらい理解している。

 (だからこの腹立たしい気持ちは、今だけにするけど)

 私はこみ上げる怒りを、お茶と共に流し去る。

 残されたのは、伊桜里様が流産した。その後に光晴様が美麗様に手をつけた。新たに仕入れた、無情な現実。とても非情な世界だなと、今度は悲しくなってきた。

「あ、そろそろ後半戦の準備しなきゃ」

 お仙ちゃんが、慌てた様子でお茶を飲み干した。

「そっか、行かなきゃだよね」

 私も気持ちを切り替え、残りの饅頭を口にいれる。それからお茶と共に、一気に饅頭を胃の中に流し込む。せっかく貰った貴重な鶴屋の饅頭。もはやその味を楽しむ余裕もない。

「問題は、明日の朝。みんなにどうだったって、聞かれる事だよね」

 お仙ちゃんは立ち上がりながら、顔を曇らせる。

「夜廻り先発隊(せんぱつたい)が言ってた、公方様の見た目。今思えば、あれってみんな大奥で囁かれる事ばかりで、目新しい情報はなかったんだよねぇ」
「そうなんだ」

 私はお茶の道具を持って、土間(どま)に降りる。そして(かめ)に入った水で、お茶に使った道具をすすぐ。

「その場の雰囲気で、つい本気にしちゃったけど、先に当番を終えたみんなだって、内心公方様に御目見得(おめみえ)出来ないって、絶対肩透かしを食らったはず」

 お仙ちゃんが茶箱を脇に寄せながら愚痴る。

「だから責める訳にもいかないよね。そもそも嘘はついてないんだからさ」
「そうだよね。むしろ聞いて困らせちゃったのは私達のほうだし」
「お琴ちゃん、明日は私達がその餌食(えじき)になるんだよ?覚悟しとこうね」

 お仙ちゃんの言葉にゾッとしながら頷く。

 (やはり正直に御目見得出来なかったって言おう)

 未だ自分に回ってくるはずの番を、首を長くして待つみんなに悪いと思う気持ちはある。さらに言えば、正直に言うことでみんなから楽しみを奪う気もしなくはない。

 (けど、全然わからないし)

 光晴様のお姿をチラリとも拝見できず、それっぽい嘘すらつけない状況だ。だからここは正直に言うに限る。

「何が事件でも起こらないかな?そうしたら公方様にお会い出来るかも知れないのにね。幽霊は一体何をしているのやら」

 お仙ちゃんが、草履を履きながら、いつぞやの私のような事を口走る。
 光晴様に会いたいと思いを募らせた結果、「誰か病気にならないかな」とうっかり願ってしまったあの件だ。 別に呪おうだとか、そもそも本気で考えていた訳じゃない。とは言え。

 (願いは叶ったけど、お(たつ)ちゃんは大丈夫かな?)

 何となく、具合が悪くなったお辰ちゃんに悪いような気がしてきた。

 やはり人の不幸を迂闊に願ってはいけない。私はその事を肝に銘じる。

「さ、行くよ。何が起こるのかわからない。それが良くも悪くも大奥だからね」

 お仙ちゃんが元気な声を出す。

「まだ公方様にお会いできる機会はあるかも知れないもんね」

 私もお仙ちゃんの元気に乗っかる。本当は未だ光晴様に対する怒りを抱えている。

 (でも、光晴様を恨んだところで、伊桜里様は戻ってこない)

 だったら、私に出来ることを考え、行動すべきだ。すなわちそれは。

 (今日のお勤めが終了しだい、正輝及び、帷様に恨みの書を(つづ)ってやる)

 それを励みに、私はこの夜を乗り切ろうと思うのであった。
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