今宵の成り損ない

文字数 2,642文字

「私のことを絶対に殴らなくて、一言も罵らない。そういう男の人がタイプです」

 語尾にハートマークがいくつも並んでいそうな、弾ける笑顔で私はそう言い放ち、ずずずずず、と薄まったジンジャーエールを一気に紙ストローで啜り上げる。と同時に向かい側、横一列に並ぶ五人の男の顔をざっと流し見れば、それぞれの顔には一文字ずつ、
「ご」
「愁」
「傷」
「さ」
「ま」
 とはっきり表記されてあった。
 私はいつものように、でへへー、とひょうきんそうな笑みを足してその場を誤魔化す。ご愁傷さま。そう、その通り。私は生まれもって「ご愁傷さま」な人間なのである。的確な表現を、表情を、本当にどうもありがとう。
 あっすみませーん、じゃあ私、そろそろ終電あるんで帰りまーす、みんな、ごめんねえー。真顔で左右に二人ずつ座っていた女たちに一言断り、五千円札を一枚机に置くと、私は一度も振り向かずに一人で飲み屋を出た。
 後ろ手にドアーを閉めて、歩きながら左手首の腕時計を確認する。午後九時半前。終電って、一体なんだっけかな。自分で言っておいてなんだけれどちょっとウケるよな。みんな今ごろネタにしてくれてるかな。そうだといいな。意見交換会だなんて大層な名前でごまかしやがって、二度と利用されてたまるか、どう考えても合コンじゃないか。名前だけ着飾りやがって、どうせどいつもこいつもそれなりの奴らと一発ヤりたいだけの癖に、だっせえの。
 ようやく青に変わった横断歩道を大股で渡る。あの角を曲がれば、書店がある。私はこの街全ての書店の位置を脳内で完璧に把握していた。
 さて、今夜は何を買おうか。


 肉厚で色とりどりの背表紙、その一つ一つを私はじっくりと時間をかけ念入りに吟味する。それはたとえば、先ほどの「意見交換会」にやってきた五人の男が私を含めた五人の女を品定めする様子と酷似していた。名前――たしか長谷部といっただろうか、あの自称・医療関係の男が一等私以外の女どもに狙われていたように思う。それはそうだ、だって聞こえがいい。医療関係だなんて、いかにも医者と繋がりがあるように感じられるもの。
 常識的に考えて医者には金がある。私の同僚の女はみんな金のある男が好きだ。きっと郁美(私の右隣りに座っていた、ぱっと見清楚な黒髪セミロングの女だ。彼女は私の周囲にいる人間から男女関係なく “実力派ビッチ”と呼ばれ非常に有名な存在である)は今夜、長谷部とホテルで寝るだろう。ただ、彼女が求めているのは長谷部本人ではなく、その奥にいる『真正の医者か、それに準ずるほどに収入と地位のある独身の次男、または三男』なのだけれど。
 長谷部はそのことに気づいたうえで、ワンナイト・ラブとして郁美と寝るのだろうか。それともすでに郁美のことを「この女ちょっといいよな、清楚そうだし、案外処女だったりして」だとでも考えちゃっているのだろうか。そうだったら長谷部、可哀相だな。夢、一瞬で敗れるだろうな。郁美めちゃめちゃセフレいるんだよな。まあ私にはべつにどうでもいいことなんだけどな。
 私は依然本棚を睨んでいる。男と不必要な会話をした後に買うのは一冊だけ、と決めてあるからだ。そういうルールを設けないと、私は金の許す限り際限なく本を買ってしまう。


 私のストレスの捌け口は、いつだって本の中にあった。
 文字の羅列を目で追っているときだけならば、私は無限に自由なままだった。どこにも属せず、だれにも縛られず、何にも制限されなかった。
 自称・父親だったあの男に朝晩関係なく殴られ続け、事実・母親だったあの女に理不尽な理由で罵られ続けた幼少期も、その二人から離された代わりに他称・私を保護してくださった心優しい遠い親戚の伯母にネグレクトまがいのことをされ続けた学生時代も、私は一人になればいつも本を読んでいた。
 本というものは、ありがたいことにいろんなところで存在している。幼いころ親の目を盗んでは頻繁に家から逃げ出し、近所のスーパーマーケットのレジ裏にある本棚の絵本を繰り返し何度も読んだ。最初こそ店員に邪険に扱われたが、私の薄汚く傷だらけの見た目から何か察したのだろう、店長とやらが私がそこで本を読むことを許容し、それ以降は誰も何も言わないでくれた。伯母の家の隣は図書館だった。
 もし、朝から晩まで無言で私を受け入れてくれたあのスーパーや図書館がなければ、私は確実に自ら死を選んでいただろう。私にとって本とは、それほどまでに崇高な存在だった。


 私はきっと一生、誰一人も生きた人間を愛おしく思うことはない。
 あのスーパーの店長には心から感謝している。図書館の人たちにだって頭が上がらないし、足を向けて眠ることはあまりにも恐れ多くてできるはずがない。けれど、それ以上の気持ちは一切持てなかった。
 だって彼らは私を許容しただけだった。そこにいることを否定しなかっただけだ。
 今まで生きてきて、私は生きた人間、誰一人にも、正しく“助けてもらえた”ことなんてない。
 けれど、本の中は違う。その薄っぺらな紙の上で、文字の羅列でしかない「ヒーロー」はいつだって私を「ヒロイン」として救い続けた。本を読んでいるあいだだけならば、私はヒロインとして、ヒーローに助けられることを待っているだけのか弱い生き物でよかったのだ。


 小一時間かけ、ようやく納得のいく一冊を、今夜の私のヒーローを見つけ出し私はレジを経由して書店を出る。
 私は今夜、難病を抱えそれでも健気に生きようと必死に日々を過ごす美しい高校生のヒロインという役柄を与えられた。それはあくまでも本の中でしか生命を与えられていない、現実の私とは極端にかけ離れた場所にいる女の子だ。
 けれど、それでも充分すぎるほどのことなのだ。短命の美少女役が似合わないだなんて、そんなこと私自身が百も承知だった。そもそも、私の人生に「ヒーロー」が現れるわけがない。だって私は、私自身を含めた人間全てが大嫌いなのだから。
 スキップ雑じりで帰路を急ぐ。
 ああ、早く一ページ目をめくりたい。大好きな「本」の中に沈んでしまいたい。会ったこともない作家の空想の世界でならば、私はヒーローを待つだけのヒロインでいることが許されている。一文字進むたび私は美しい、ヒーローに愛されるべきヒロインとしてふっくらと肉づけされていく。
 私という生命は紙の上でどろどろに溶けて、次第に紙と同化し、いつか私は私の肉体を完全に失う。ヒロイン、という四文字の、ただの羅列に成り果てる。
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