祝杯まで3秒前
文字数 2,472文字
綾乃が所属しているワインテイスティングサークルは、常時三十名ほどのメンバーが集う、ごく気楽なサークルである。
その構成メンバーの年代は、二十代後半から六十代前半と幅広く、職業も様々だった。
例えば、ショップオーナー、キャビンアテンダント、ライター、パティシエ、キュレーター、会社員等々、そして一風変わったところでは、ジャグラーや花火師、万華鏡作家等が名を連ねていた。
さて、二ヶ月に一回のペースで開催されている会合で、一体何をやっているのかと言うと、メンバーから集めた会費で購入したヴィンテージもののワインを、食事と一緒に味わい、和気あいあいと歓談するのだ。
ただそれだけと言ってしまえば、それまでの話なのだが、頻繁に「乾杯」という言葉が飛び交う祝杯の雰囲気のなせる技なのか、サークル内で祝い事があったという話は、良く聞く話ではあった。
例えば、社内で昇進した、店舗の売上が伸びた、難関の資格試験に合格した、念願の転職に成功した、子供が第一志望の学校に受かった、二人目の孫が産まれた等、そんな内容の話だ。
そして勿論、結婚報告も、ちらほらと入ってくるおめでたい話題の一つだった。
結婚報告に関して言えば、サークル外の相手と結ばれるのは勿論のこと、サークル内の結婚成約率というのも、思いの外高かった。
今現在、サークル内の約半分のメンバーが、夫婦共々参加している状態だった。
サークルの発起人である、村瀬というイタリアンレストランのオーナーは、五十代半ばの恰幅の良い紳士なのだが、その結婚成約率の高さが自慢らしく、時々、結婚相談所でも開こうかなあなどと、冗談めかして口にすることがあった。
そしてつい先日、綾乃自身も、メンバーの一人である小牧原から、プロポーズを受けたばかりだった。
二人共通の趣味であるダーツを楽しんだ後で、しっとりとしたジャズピアノの旋律が流れる落ち着いた雰囲気のバーの、小さなテーブル席に揃って腰を落ち着けると、小牧原がいつものように、ぼそぼそとした口調でこう切り出した。
「僕も、そろそろ結婚しようと思うんだ」
長年、大手企業でエンジニアとして勤め続けている小牧原は、寡黙な職人気質の傾向が強く、お世辞にも社交的とは言いがたいタイプだった。
それ故、一世一代のプロポーズに至っても、自己完結型に偏ってしまうのは、致し方のないことなのかも知れない。
とは言え、小牧原のそんな朴訥な人柄を、好ましく思っていた綾乃には、異存があろう筈もなかった。
それで、こう答えた。
「そうね。私も、そうするのがいいと思うわ」
すると、小牧原は心底安堵した様子で、少年のように無邪気に破顔してみせた。
「良かった。
綾乃ちゃんだったら、きっとそう言ってくれると思ってたよ。
嬉しいなあ、ありがとう」
綾乃は、感情表現が不得手な小牧原が、時折見せることのある、純真であどけない笑顔が、殊の外好きだった。
その度に、彼が大切にしている宝箱の中身を、特別に見せてもらえた気分になったものだ。
しかし、欲を言えば、両家の親族に結婚の報告をする日取りであるとか、結婚式場の下見に行く段取りであるとか、何かしらの具体的な進展が欲しいところではあった。
けれども、焦りは禁物だ。
長年の間、煮え切らない態度を温め続けてきた小牧原が、漸くのことで、プロポーズしてくれたのだ。
今は、その無上の喜びを、大切に噛み締めておくべき時なのだ。
何しろ、岩が喋り出すのを待っていたようなものなのだから。
そうしてそれは、綾乃が小牧原と知り合ってから五年目の、三十七歳にして迎えた、人生の春の一コマだった。
そんな出来事があってから、一週間ほどが過ぎたある夜、サークルの会合が開かれることになった。
開催場所は、村瀬がオーナーを務めるイタリアンレストランだ。
サークルの会合に合わせて、臨時休業にしているため、店内には仲間内特有の、寛いだ雰囲気が漂っていた。
大概、メンバーの誰かしらから、結婚報告がある場合には、村瀬に事前に話が行くことになっていた。
それ以外のメンバーには、当日になるまで、知らされることはない。
だが、村瀬のウキウキした様子や、ワインクーラーに用意されているロマネ・コンティのボトルを目にしたりすれば、今夜は結婚報告が行われるのだということが、一目瞭然だった。
と言うのも、発起人の奢りで高級ワインが振る舞われるのは、メンバーの誰かしらが結婚を決めた時という習わしが、既に出来上がっていたからだ。
勿論、その晩も、例外ではなかった。
所用で少し遅れると言う小牧原に先んじて、綾乃は他のメンバーと共に、テーブル席に着いていた。
その夜の彼女の装いは、シャンパンゴールドのシルクブラウスに、シックな柄のプリントパンツを合わせ、スパンコールがちりばめられた黒いパンプスを履いていた。
メンバーの前で結婚報告をするという、晴れがましい日であっても、スカートやワンピースの類を身に付けるという発想は、綾乃の中には沸いてこないものだった。
それは、彼女自身の仕事が、写真家という活動的なものだからでもあり、身長が百六十八センチはある大柄な自分には、妖精のようなフェミニンな格好は似合わないと、頑なに思い込んでいるからでもあった。
それでも、格好はどうあれ、小牧原の到着を、胸を高鳴らせて待つ感覚は、愛する人との結婚が決まったばかりの女性特有の、初々しいものに違いなかった。
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・・・ ロマネ・コンティで祝杯を〈祝杯まで2秒前〉へと続く ・・・
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