第1話

文字数 14,166文字

 

 一八九一年五月四日


 横にホームズがいた。

 ライヘンバッハの滝の崖でお互いの命を狙いながら、私たちは話をした。恐ろしいことにホームズは私が作り上げた組織の全貌をほとんど解明していた。

 ある日、ひとつふたつと、イギリスにおいて私が設計した犯罪計画が頓挫した。私は捕まった組織の者の救出を図りながら、なぜ計画が失敗したのか精査した。答えはすぐに出た。シャーロック・ホームズ、彼が私の計画を台無しにしていたのだ。彼は、私が、あるいは組織が実行した犯罪を、袖の汚れ、靴の傷、たばこの吸い殻、些細な物証から一つ一つ解き明かしてしまった。くやしさと喜び、二つの感情がわき上がった。

 私は証拠を隠滅し、組織の者の救出をはかりながらも、蜘蛛の巣のように張り巡らせた情報網を使い、ホームズの働きを眺め、時に妨害を、時に暗殺を仕掛けた。ホームズはそれらを巧みにかわし生き延びた。

 やがてホームズも私の存在に気づき始めた。私の後を、痕跡を、一歩、一歩と追いかけてきた。まるで影のようにぴったりと、その影が、いま私の横にいる。

「退屈はしていないかね」


 私はホームズに問うた。


「まさか、あなたがいなくなれば別でしょうがね」


 ホームズは笑った。









 五ヶ月後


 一八九一年九月の二十二日、私は村の山道を歩いていた。

 体の具合はだいぶ回復した。足の方は杖をついて歩くぐらいなら問題なかった。左肩は完治とは、ほど遠く、直ったとしても、以前の自分の肩の具合というものを覚えてはいないのだが、通常のように肩を動かせるようにはならないそうだ。

 私は森の中の物置小屋で熱を出して倒れていたらしい。キノコを採りに来た農夫が私を見つけてくれたそうだ。それから、人を呼んで村まで私を運んでくれた。

 なぜ森の物置小屋で倒れていたのか、私自身全くわからなかった。それどころか、自分の名前もわからず、森で倒れていた以前の記憶がなかった。記憶喪失というやつである。

 破れたコートや体に打撲跡があることから、暴漢に襲われ、そのショックと、その後の発熱で記憶をなくしたのではないかと、医師のハミルトン氏は言っていた。そういわれると、なにか、恐ろしい敵に襲われたような、そんな記憶の断片とも感情とも言えないはっきりとしない恐怖をうっすらとだが覚えていた。警察も話を聞きに来たが、ろくに捜査もしていないようで、未だ私は身元不明の男のままである。

 その後、しばらくはハミルトン医師のもとで患者として暮らしていたが、ある程度怪我が治り、どこか住まいをということで、ボイジャー夫妻が所有している離れに住むことになった。

 私が着ていた服の中に、少なくない額の紙幣と、胸ポケットやズボンのポケットなどに金貨があったので、それを使って、謝礼をしようとしたが、ハミルトン医師は、記憶が戻るまではと、一銭も治療代を受け取らなかった。ボイジャー夫妻も、なに、部屋があいているからと、下宿代を取ろうともしなかった。朝と夕の食事もボイジャー夫人に出してもらい、なにもかも頼り切っている状況に、ありがたいとも申し訳ないとも、身勝手ながら、若干の居心地の悪さも感じていた。なるべく早く、体と記憶を元に戻し、ハミルトン医師やボイジャー夫妻に恩を返そうとそれだけは心がけていた。


 そんな日々の中、リハビリがてらに、山道を歩いていると、馬のいななきが聞こえた。栗毛色の見事なまでの駿馬が狭い山道を猛スピードで駆け下りてきた。私は慌てて、道からそれ、山道の木に捕まるように避けた。馬の持ち主は私の方をちらりと見て、そのまま走り去った。年は四十かそこら、顔は赤く酒に酔っているように見えた。慌てて避けたせいか、左の肩にひどい痛みを感じた。私はそれ以上の遠出をあきらめ、山道を降りることにした。


「ああ、そいつは、ブーテナントだ」


 夕食はいつもボイジャー夫妻と取っていた。夕方山道で会った乱暴な人物について話した。


「お知り合いですか」


「知り合いなものか! あんなろくでなし。エマがかわいそうだよ」


 ボイジャー氏が不快そうな表情でいった。


「エマさんとは誰です」


「ああ、ブーテナントの嫁だよ。かわいそうに、いつも殴られて、あいつの父親が生きていた頃はまだましだったんだが、去年死んでからは、酒は飲むは、賭け事はするわで、やりたい放題だ。あの様子じゃあ、すぐに家の財産を食いつぶしてしまうよ」


「あなた、あまり、よその人の話をしてはだめよ」


 ボイジャー夫人は夫をたしなめた。


「まぁ、あの男に会ってもあまり近づかんことだ。ろくな事はないからな」


 ずいぶん嫌われているようだ。


「そんなことより、あなたの傷の具合の方が心配だわ。あしたハミルトン先生に見てもらってはいかがです。せっかくよくなり始めたんですから」


 ボイジャー夫人は場の雰囲気を変えるように、にこやかな笑顔で言った。


「ええ、そうします」


 ボイジャー夫人が言うように、肩の辺りが少し腫れ始めていた。



 肩の痛みは一晩たっても治まらなかった。朝食後すぐに見てもらいに行くことにした。

ハミルトン診療所は市場近くの比較的開けた場所にあった。ボイジャー家から三十分ほど歩かなければならない。痛む肩を押さえ、ゆっくりと歩いた。

 


 石造りの二階建ての古い建物で、ハミルトン医師の父親から受け継いだ病院だそうだ。一階は受付と診療所で、二階は入院患者用のベッドになっている。

 私は待合室に三十分ほど待ち、診察室に案内された。

 ハミルトン医師の年齢は三十代前半、私は自分の年齢すら覚えてはいないが、彼と比べれば二十は年上だろう。親子ほどの差がある人間に無料で体の面倒を見てもらっているという、罪悪感のようなものがあったが、肩の痛みが罪悪感で消えるものではないし、月に一度病院に来なければ、ハミルトン医師は診療鞄片手に私の現在の住まいである、ボイジャー夫妻所有の離れに訪れるであろうことは想像に難くない。


「どうですか。ウッドさん体の具合は」


 ハミルトン医師は言った。ウッドとは私の仮の名前である。森で記憶を失った私にハミルトン医師が名前をつけてくれたのだ。名前に関して特にどうという感想はない。


「実は肩を痛めまして」


 私は山道で、ブーテナントが乗っていた馬にぶつかりかけ肩を痛めたことを説明した。不思議なことにブーテナントという男の話をすると、温和な表情しか見たことのないハミルトン医師の顔がこわばった。口の奥に何か塊を飲み込んでいるような、とても興味深い表情であった。


「それは災難でしたね。肩を見せてもらえますか」


 ハミルトン医師はいつもの柔和な表情を見せ、私の肩を診察した。少し骨の位置がずれていたらしく、それを直し、包帯で固定してくれた。痛みはずいぶん和らいだ。

 私はハミルトン医師に礼を言い、やはりお金を払わず診療所を出た。


 道すがら、私はハミルトン医師の表情について考えた。ブーテナントの名前を出したとたん、いつもとは違う表情を見せた。ハミルトン医師とブーテナントとの間に、一方的、あるいは双方向の増悪が存在するのではないかと、想像した。

 それがどのようなものなのか、医師という仮面をつけている彼の奥底になにがあるのだろうか。

 私の頭の奥、記憶の部屋の中から、なにかが軽くノックをするような不思議な感覚があった。



 気晴らしにと、ボイジャー氏と外に出かけることがあった。馬車で一時間ほど、町の方に出て食事や酒を楽しんだ。そこで、私はボイジャー氏とともにカードゲームを行った。そこで私は思いの外、勝ってしまい、小金を得ることに成功した。

 カードはそれほど難しいものではなかった。運が左右するようなものなら別だが、ある程度戦略が立てられるものなら、問題なかった。捨てられたカードをすべて覚えておき、残っている相手の手札をよめば最終的に負けることはまずない。相手の顔を見て、心を読むのはなぜか得意であった。

 そのことを、ボイジャー氏に話してみると、「そんなことできるのかい。だいたい捨ててあるカードなんか全部覚えられんよ」驚いた表情を見せた。



 それからしばらくして、私は一人で賭場に出入りするようになった。これを利用して治療費や家賃を捻出しようと考えたのだ。ギャンブルで生計を立てようなど、愚かな行為であると思わないでもなかったが、他に金を稼げそうな方法を特に思いつかなかった。最初の頃は、勝ちすぎてしまい、相手をしてくれる人間がいなくなってしまったので、要所要所で負けることにした。そうすることによって相手は気持ちよく勝ったような気分を味わえることができる。もちろん、ゲーム全体を通してみたら、最終的に私が得をするようになっている。基本カードゲームを中心にしていたが、時々ボクシング賭博にも手を出した。八百長の試合があって、そこで目立たない程度にかけた。不自然な賭け方やそこに出入りしている人間などによって簡単に見分けることができた。

 私はそうやって稼いだ金を、ハミルトン医師に治療費として渡し、ボイジャー氏に家賃を渡し、ボイジャー夫人には食事代を渡した。最初の頃は皆、賭け事で稼ごうなどやめなさいといっていたが、毎回勝ってくるので、そのうち何も言わなくなった。


「あんた、記憶喪失前は、凄腕のギャンブラーだったのかもな」


 ボイジャー氏はそう言った。




 私は日課の散歩と、三日に一度ほどのギャンブルをしながら、過ごした。三ヶ月ほどたったが記憶はいっこうに戻らなかった。

 ある日、酔っ払ったブーテナントが私がやっていたカードゲームに参加してきた。気乗りはしなかったが断る理由も特になかったので、ゲームを行ったのだが、カードゲームをしている最中にも酒を欠かさず、負けるたびに悪態をつき、その上、私に対していかさまだと難癖を付けてくるので、「いかさまではない」というと、「はっ、わかるものか! あんたのその突き出た額は俺のカードをのぞき見するために発達したものだろう」などと言ってきた。たぶん、記憶喪失前も温厚であった私もさすがに頭にきて、つい言わなくて良いことを言ってしまった。

「それならば、あなたのその大きな拳は、一体何のためについているのです。奥様を殴るためについているのですか?」


 ブーテナントは、ぎょっとした顔をした。


「何を言ってるんだ。俺が妻を殴るような男に見えるか」


「ええ、見えますとも、その真新しい拳の擦り傷、手の甲の打撲痕、どれも上から下へ打ち下ろした時にできるものです。少年をいたぶる趣味がおありになるようなら別ですが、小柄な女性でしょう。商売女の可能性も考えられましたが、あなたの体からは香水のにおいも、おしろいの匂いもしません。よって、かわいそうな女性を家の中でいたぶっていると推測したのです」


 実際のところ、ボイジャー氏に聞いた話をもっともらしく理屈付けしただけのことなのだが、話しているうちに、なにやら記憶を刺激するものがあった。こういうくだらない当て事をする人間に昔、会ったことがあるような気がした。

 私の向かいに座っていたブーテナントは激高し、わけのわからない叫び声を上げ立ち上がった。それから飲んでいたグラスを私に投げつけようとするような気がしたので、先に身を乗り出し酒が入ったグラスを取り上げた。図星だったのか、ブーテナントは一瞬ぽかんとした顔をした。テーブルをひっくり返そうとしたのでテーブルの真ん中辺りに体重をかけそれを防いだ。今度は机を回り込んで、私の元にやってきたので、テーブルにかけておいたステッキを、どたどたと歩くブーテナントの両足の間に差し込むとあっけなく転んだ。ブーテナントは一転して怯えた表情を見せた。

 彼は私の予測通りに動いた。それは非常に興味深いことであった。それと同時にこれまで感じたことのないような充実感を感じた。

 客が騒動に気づいたのか、集まり始めた。

「てめぇ、何者だ!」


 床に這いつくばるブーテナントにそう問われ、私は。


「私は」


 言葉に詰まった。何か頭の奥で持ち上がってきていた。それは少し私の様子を見るように顔を出し、すぐに深く沈み込んだ。

 答えに詰まる私を見て、ブーテナントは何か侮蔑的な言葉を浴びせようとしていたので、杖を使って一撃し気絶させた。

 そのあとは、混乱する頭を抱えながら、仮住まいのボイジャー家の離れへ帰った。








「よくやった!」


 私の行った行為がいつのまにか村に伝わっていたのか、ビールをひげに付けながらボイジャー氏が上機嫌な様子で言った。


「いいのでしょうか」


 村の人たちも、ブーテナントの所行には眉をひそめていたようで、私の行いを賞賛する向きがあった。


「あんたやる人だと思っていたよ。はははは、見たかったね。あの間抜けが、ぶっ転げて、気絶するところなんてよ。いっひっひひ」


 ボイジャー氏の顔は赤かった。


「私は、あなたのやったことを、あまり感心しないわ」


 食卓に、ジャガイモとベーコンの炒め物とチーズをたっぷり使ったオムレツを並べながら、ボイジャー夫人は眉をひそめた。


「私も無分別な行為をしたと反省しています」


 半分ほど、身を守るためにやむを得ないことであったが、己の名前さえ思い出せない状況下で目立つ行動は控えるべきだろう。


「なーに気にすることないよ。これに懲りてあの野郎も少しはおとなしくなるだろうよ」


 ボイジャー氏は杯を空け笑った。


「そうかしら、よくないことが起こらなければ良いけど」


 ボイジャー夫人はため息をついた。



 残念なことにボイジャー夫人の懸念は当たっていたようだ。

 私がハミルトン診療所に立ち寄った時のことである。病院内で騒ぎが起こっていた。病院のドアに近寄り聞き耳を立てていると、ハミルトン医師と何者かが言い争う声がした。相手は、ブーテナント氏のようだ。

 後に聞いたことなどを総合すると、私に殴られたブーテナント氏は腹いせに奥様に暴力を振るったようだ。怪我をした奥様をメイドがハミルトン診療所に連れてきたが、ブーテナント氏は妻を帰せと怒鳴り込んできたそうだ。

 どしどしと歩く音が聞こえてきたので、私は曲がり角まで移動した。ドアが勢いよく開いた。

 赤ら顔をしたブーテナント氏が夫人の腕をつかみ引きずるように出てきた。


「やめなさい。まだ治療中ですよ!」


 ハミルトン医師は、ブーテナントを止めようとしていた。
「うるせぇ! 藪医者が!」

 腕を振り払った。


「もういいのです」


 ブーテナント夫人が力なく言った。

 夫に腕をつかまれ馬車に乗り込むブーテナント夫人、ブーテナント夫人を見送るハミルトン医師、その様子を、私は物陰から見つめながらも、己の心が隆起していることに気づいていた。それがなんなのか。

「わからない」


 つぶやいた。



 数日経ったある日、山道を歩いていると、少し離れた道をハミルトン医師が歩いていることに気がついた。声をかけようとしたが様子が少しおかしかった。ハミルトン医師は目深に鳥打ち帽をかぶり、背中には真新しいリュックを背負っていた。見た目だけなら、ハイキングを始めたばかりの初心者が歩いているように見えるが、その顔つきや肩の上がり具合、山歩きを楽しんでいる人間にはとうてい見えなかった。

 ハミルトン医師は山道を歩きながら、時々立ち止まり辺りを見渡した。目線は上、木の枝を見ているようだ。それから小一時間ほどハミルトン医師は山道をうろつき山を下りた。


 どうにも落ち着かなかった。

 私の頭の中で、何かが目覚めようとしている。そんな感覚があった。

 私は、何者なのだろうか。

 体は細く食も細い。肉体労働者ではないだろう。最近は改善されたが、猫背だと言われた。下を向いて作業する職業の人間であったのかもしれない。ハミルトン医師の書斎の本を見せてもらったことがあるが、何冊か読んだ記憶がある本があった。

 身につけていた衣服は汚れてはいたが、比較的高価なものだった。

 財布も持っていなかったそうで、時計や指輪のようなものもなく、強盗に、取られたのではないかと言われたが、それなら、上着のポケットの紙幣が残されていたつじつまが合わない。

 妻や子供がいるのか、その辺りのことも全く覚えていなかった。最初からいないのか、それとも、いるのにもかかわらず忘れてしまっているとしたら、病が原因とはいえ、薄情な人間であるのかもしれない。頭部への打撲のようなものがないため、熱か何らかの精神的ショックが原因で記憶喪失になったのではないかと、ハミルトン医師は推測していた。

 覚えている記憶と、思い出さない記憶に妙な境界線があった。一般的な知識や常識などは覚えているのだが、不思議なことに己のことに限って思い出さないのだ。そのような記憶喪失はあるという話なのだが、私に関してはその境界線が明確すぎるような気がしてならなかった。頭の中にいる看守が、私という記憶のみ閉じ込め監視しているような感覚であった。


 私は発見されたときに着ていたコートをもう一度調べてみることにした。残念なことと言ったら失礼であるが、コートは一度ボイジャー夫人が洗ってくれたようで、汚れのたぐいはほとんど残っていなかった。左の肩の部分に傷とへこみがあった。警察は強盗に鈍器で殴られたのではと推測していたが、へこみを注意深く見ると、石の破片のようなものが布地の奥に食い込んでいた。石で肩を殴られた、いや、コートが裂けるほど殴りつけるのは難しい。逆に、高いところから、石の上に肩から落ちたと考える方が妥当だろう。しかし私が発見されたのは森の小屋だ。小屋の中で石の上に落ちるなどと言うことはないから、どこか他のところで落下し、肩を打ったとみるのが妥当だ。

 コートの裏地にかたい物がある感触があった。よく調べてみると、コートの胸元の少し下辺りに縫い目があった。縫ってある糸を歯で切り、中を探ってみると、小さな宝石がいくつか出てきた。



「私の、ものなのだろうか」
 おそらく、そうなのだろう。

 非常時のことを考えて、隠しておいた。そう考えるのが妥当だろう。そのような用心をする必要性がある人物だったと言うことなのだろう。

 私は記憶を失い倒れていた小屋の場所を農夫に聞き、行ってみることにした。






 大きくはない、丸太を組み合わせて作った頑丈な小屋だ。

 私は記憶を失った状態で、この小屋の中にたどり着き、意識を失ったのだろうか。それとも何者かに運ばれたのだろうか。

 物置や休憩所として使っているそうで、薪や斧、釣り道具などがあった。

 私は小屋の外に出て、しばらく歩いてみることにした。北へ少し歩くと水の流れる音がした。この川をさかのぼれば何があるのだろうか。


「ライヘンバッハ」


 知らぬうちに声を出していた。



 私はハミルトン医師の元へ行くことにした。結局のところ、何の記憶も取り戻すことはできなかった。記憶を取り戻す、よい方法がないかと相談するつもりだった。例の山道で見たハミルトン医師の姿も気になっていた。

 ハミルトン医師はいつもの柔和な表情で私を迎えてくれた。山道で見た表情とはまるで違った。おそらく医師としての仮面をかぶっているのだろう。

 相変わらず、あまり動かない肩の診察を受けた後、記憶を取り戻す方法が、何かないか聞いてみたが、ハミルトン医師も、その知識はないようだった。

 ハミルトン医師の手のひらにかすかに細い筋のような黒い跡を見つけた。

 気になったので、手の汚れをそれとなく聞いてみると、ハミルトン医師の表情が少し変わった。

靴を磨いたばかりで、などと言っていたが、ハミルトン医師の靴は曇っているし、靴を磨いて筋のような跡がつくことは考えにくい。

 手を隠すような仕草をハミルトン医師はみせた。何を隠しているのだろうか。私はハミルトン医師を観察した。

 瞬きを繰り返す。眼球が揺らぐ。眼球の奥には視神経が束になっており、左右交差して脳に、前頭葉につながっている。何かを予測したような気がした。枝にある葉は、どのような落ち方をしても必ずどこかに落下するのだ。

 この感覚。


「私はそれを知っている」


 私はつぶやいた。ハミルトン医師は不思議そうな顔でこちらを見た。



 私は熱いめまいのような感覚を額に感じながら、ふらふらと仮住まいのボイジャー家の離れへと帰った。思考は回転していた。夜になりベッドに入っても、得体の知れない興奮状態に陥りろくに眠れなかった。朝になっても、その状態が続き、すべてがゆっくりと動いているように見えた。ボイジャー夫人が口を開く前に何を言うかわかった。ボイジャー氏が手を動かす前に何を食べようとしているのかわかった。すべてがゆっくりと、私だけが少し先の未来にいるような、とても心地よい感覚だった。



 私は離れの片付けを行った。普段から掃除は心がけているので、さして苦労はせず、私の痕跡は消えた。それから荷物をまとめ、私はボイジャー夫妻に別れの挨拶をすることにした。

 ボイジャー家に行き、つい先ほど記憶が戻ったことを伝えた。ボイジャー夫妻は戸惑ったような顔をしたが喜んでくれた。

 美術品の買い取りに来た際、道に迷い、馬から落馬し、頭を打ったせいで記憶をなくしたと説明した。財布や荷物は、すべて馬にくくりつけていたため、身分を明かす物などが何もなかった。家族が心配しているだろうから、すぐに帰るつもりだと伝え、感謝の念を伝え、今までお世話になったお礼にと、離れのテーブルに、お金を置いているので納めてほしいと伝えた。ボイジャー夫妻は受け取りを拒否したが、感謝の気持ちを形として残しておきたいのですと、納得させた。別れを惜しみながらも、ハミルトン医師に挨拶をしてから家族の元へ帰りますと、私はボイジャー家を後にした。



 少し時間をつぶし、夜になってから、ハミルトン医師を訪ねた。


「お別れを言いに来ました」


 私が言うと、ハミルトン医師はぎょっとして振り返った。机に向かってカルテを書いていたようだ。

「ウ、ウッドさん、驚かさないでください。こんな時間帯にどうしたんです」


 病院はすでに閉まっており、看護師などもいない。入院患者は二階にいるが、それほど数は多くない。静かな夜だった。


「記憶が戻ったんです。お別れを言いに来ました」


「えっ、記憶が、それは、驚きました。よかったですね。どうぞおかけになってください」


 ハミルトン医師は医師の表情になった。私はいすに座った。


「すべての記憶が戻ったと言うことですか」


「ええ、すべて」


「いったい何がきっかけで戻ったのです」


「先生のおかげですよ」


「私ですか。いえ、正直言って記憶喪失の治療方法など私は皆目わからず、これといって何もできていないのです。記憶が戻ったとしたら、あなた自身の力ですよ」


 ハミルトン医師はほほえんでいる。少し戸惑いもあるが、患者が治ったことを純粋に喜んでいるのだろう。


「先生にはとても感謝しています。お礼にいいことを教えましょう」


「なんです」


「ブーテナント氏を落馬に見せかけ殺すのはおやめなさい」


「な!」


 ハミルトン医師は怒りと恐怖が混ぜ合わさった表情を見せた。感情が複雑に入れ替わっていく。とぼけようか迷っているようだ。


「実は、偶然山道であなたを見かけましてね。上を見ながらあなたは歩いていました。死に場所を探してさまよい歩いているように見えましたよ。しかしそれは違う。その道はブーテナント氏が馬でよく通る道だった。蹄の後が無数にありましたからな。あなたは木と木の間に針金かひものような物を張って、馬に乗ったブーテナント氏の首を引っかけようとしていた」


「いったい何の話です。いくら何でもそんな言いがかり、何の証拠があるというのです」


 どうやら、ごまかすことにしたようだ。


「証拠など、必要ありませんよ。あなたをとがめようとも捕まえようとも思ってませんからね。証拠と言うほどの物ではないですが、あなたの手のひらに黒い筋のような物がかすかに残っていました。あれは靴墨か何かで針金を黒く塗った跡ですよね。黒く塗った針金は、おそらくリュックサックの中に入れているのでしょう」


 手についていた墨の跡は細かった。強度を考えれば針金が妥当だろう。

「あなたは」


「ふふふ、やりたければやればいいのですよ。ただ、難しいのでは、ブーテナント氏は、上下に動く馬の上に乗っているのですよ。運良く針金が当たった後、死ねばそれでよし、もし死ななければ、偶然通りかかったふりをして、落馬したブーテナント氏を殺害しようと考えたのではないですか」


 申し訳ないと思いながらも私は笑い声を漏らしてしまった。いやいや、悪いわけではない。そういう、さいの目を振るうような犯罪もあるだろう。ただ、もうちょっと、もっといいやり方がいくらでもあるだろうに、そう思うと笑い声が出てしまったのだ。ふははは。


「こ、殺す気などなかったんだ。ただ、エマに、ブーテナント夫人に、暴力を振るうのをやめてくれればそれでよかったんだ」


「そんなことで、あの男は暴力を振るうことはやめませんよ。余計な八つ当たりを増やすだけです」


 驚いた。そんな都合よくいくわけがなかろうに、まるで子供のいたずらだ

「どうすればよかったというのだ」


「普通に殺せばいいのです。銃でもナイフでも、こんな田舎の警察がまともに事件を捜査すると思いますか。しかも嫌われ者のブーテナント氏だ。殺して埋めてしまえば誰も文句は出ません。毒薬なんておすすめですよ。あなたならいくらでも手に入るだろうし、医者のあなたが死体を見て、酒を飲み過ぎた所為で心臓を壊したとでも診断を下せばいいんです。人格者のあなたなら、何人殺したって誰も疑いませんよ」


「私は、ブーテナント氏を殺したかったわけではないんだ。暴力を、あの男の暴力をやめさせたかったんだ」


「あなたが何もしなくても、ブーテナント氏の暴力はいずれなくなるでしょう」


「どういうことだ」


 ハミルトン医師は驚いた顔をした。


「実はここに来る前に、ブーテナント邸に行ってきました」


「なぜ」


「安心してください。あなたの、いたずらに近い殺害計画など、漏らしておりません。確かめたいことがあったので、こっそり見てきただけです」


「しかし、屋敷には」


「ええ、何人か、メイドや執事、ブーテナント氏やその奥方も、いらっしゃいましたが、私は人に気づかれずうろうろするのが得意なんですよ」


「それで何を見てきたんです」


「ブーテナント夫人によるブーテナント氏殺害計画です」


「なんだって! 彼女がそんなことをするはずがない」


 ハミルトン医師は口を大きく開け、立ち上がった。


「正確に言うと、彼女がどういう方法をとるのかはわからないのです。私は探偵ではありませんからな、私がわかるのは、殺意と可能性のある方法です。彼女は車いすをお持ちですよね。あと睡眠薬も」


「ええ、ずいぶん前にあの男にひどい怪我をさせられたのです。その時に、当時ご存命だったブーテナント氏の父親が車いすを購入したとか、睡眠薬は私が出しました」

「物置小屋に車いすがありました。ほこりがたまっていましたが、手形がいくつかついていました。ブーテナント邸の近くに池がありますね。酒に睡眠薬を混ぜ、家で酒を飲んで眠ってしまったブーテナント氏を車いすに乗せ、近くの池に連れて行き、そこに放り込めばいいのです。その後、馬を池の近くに連れて行き、車いすの跡を消してしまえばいい。そうすれば、家で酒に酔ったブーテナント氏が馬に乗り、町に行こうとして池の中に誤って落馬した。そう警察は見るでしょう。問題は屋敷で働いている者に気づかれないようにすることですな。屋敷から少し離れた場所に住んでいるようですが、こっそりやれば、まぁ大丈夫でしょう。そんな手が込んだことをしなくても、ベットで寝てる間に口をふさいでしまうという方法もありますが、疑われる可能性が増えます。それに家の中で死なれるのは精神衛生上あまりよくありません。死体は家の外が望ましい。とはいえ、人を殺す方法など無限にありますからな」


 終わったことの答えはすでに出ているが、まだ起こっていないことの答えは、出せないものだ。


「ちょっとまってください。そういう方法があるからといって、彼女がそんな恐ろしいことをするとは限らないではないですか」


「そうですね」


「だったらなぜそんなことを」


「私にはわかるのです」


「なにを」


「彼女が人を殺そうとしていることが」


 これから人を殺そうとする人間はとてもきれいな目で対象を盗み見る。どこを、どうやって、頭の中で繰り返す。彼女はきっと、物置小屋の車いすを触りながら、夫を殺すことを想像している。きーこきーこ、車いすを動かしながら想像している。


「あなたはいったい何者なんです」


「自己紹介がずいぶん遅くなりました。私の名前は、ジェームズ・モリアーティ」


「モリアーティ教授、シャーロック・ホームズと共に命を落としたと、新聞の記事で見た記憶があります」


「ずいぶん悪く書かれていたのでしょうな」


「では、その後、滝壺にホームズ氏と落下した後、記憶喪失になったのですね」


「あなたのおかげで助かりました」


 肩を岩棚に打ち付け、滝壺に落ちた後、何とか浮き上がり、私は川を泳いだ。左肩は全く使えなかったが、幸い、古い時代の泳法を知っていたので、それを使って泳いだ。その途中に身元を証明するようなものはすべて捨てた。もし、誰かに発見されるようなことがあれば、私が悪名高いモリアーティー教授であるとわかってしまうと恐れたのだ。

 私は己を捨てることにした。

 人は窮地に陥ると手近な大きな力にすがりつくものだ。私は長く組織に居すぎた。私は必ず組織に頼るだろう。そうなれば、あの男は必ずそれを嗅ぎつける。私が生きていると必ず感づく、あの猟犬に追われ今度こそ本当に裁判にかけられ絞首台に送られることになる。

 組織も身分も、そして、モリアーティという私自身も、捨てなければならなかった。

 川を下り、川から出てたき火をし体と衣服を乾かし、森の小屋の中で、私は自らに暗示をかけ、モリアーティという記憶を封印した。

 その後、記憶を失った私は村の人に助けられたというわけだ。


「どうして、私に会いに来たのですか」


 ハミルトン医師はおびえた表情をした。


「もちろん、お礼に来たのですよ。アドバイスも少々」


「それだけですか」


「ええ、それだけです」


「その、私が警察に通報するとか、考えなかったのですか」


「ええ、おそらく、あなたは通報しない」


「なぜそんなことが」


「ブーテナント夫人のことがあるからですよ。もし、私が逮捕されたら、ブーテナント夫人の犯罪計画を私が話すかもしれない。あなたはそう考える」


「しかし、彼女の犯罪は、まだ起こっていない。私が止めれば」


「ええ、あなたが止めれば、彼女は犯罪を止めるかもしれません。ですがいいのですか」


「なにが」


「彼女が夫を殺さないということは、彼女はあの男に死ぬまで殴られ続けることになる」


「それは」


 ハミルトン医師の顔がこわばった。怒りと恐怖、それと絶望、無力感がそれを包み込んでいる。


「どうしますか。ブーテナント夫人の計画を阻止しますか。それとも見て見ぬふりをしますか」


「私は」


「ブーテナント夫人の計画が実行された場合、その死因の究明のためにあなたが呼ばれる可能性が高いでしょう。近くの医者と言えばあなたですからな。そうなると、あなたが死体を調べることになるでしょう。ですが、あなたは知っている。誰がブーテナント氏を殺したのか、あなたは知っている。ブーテナント夫人が犯人であると知っている」


「私は、私は、どうすれば、そうだ。あなただ。あなたがやってくれないか。あなたなら」


 ハミルトン医師は私の腕をつかんだ。目が血走っている。


「私なら、なんです」


 私は、ハミルトン医師の目の奥をのぞき込んだ。


「あなたなら、殺せるのでしょう。誰にも気づかれず、あの男を殺せるのでしょう。完全に誰にもばれず、あなたなら、困らないのでしょう」


 人はたやすく悪に染まる。善良な医師が私に殺人の依頼をするのだ。おまえなら何も感じないだろ。人を殺したって何も感じないだろう。やれよ。やってくれよ。悪にすがりつくのだ。


「お断りします」


「なぜだ」


 記憶喪失の時に面倒見てやったことを言うかどうか悩んでいるぞ。おっ、思いとどまったな。さすがにそれは無理だろうと、医者としてそれは許されないと考えたのかもしれない。


「お願いします。彼女を救ってください」


 ハミルトン医師は私に懇願した。


「何の得になるのです」


 私は言った。


「得って、お金、そうだ、警察だ。あなたのことは黙っている。警察にあなたのことを話さない」


 ハミルトン医師は、勝ち誇ったような、歪んだ表情をした。


「私は簡単に警察に捕まる気は無いのですが、仮に私が警察に捕まったら困るのは、犯罪を計画している、あなたたちお二人なのでは」


「それは」


「それに、あなたが警察を呼べば私なんかよりもっとやっかいな人間を招き入れることになりますよ」


「誰がくるというのです」


「シャーロック・ホームズです」


「シャーロック・ホームズ、彼は死んだのでは」


「いいえ、生きています。私を滝に落としたのは彼ですからね。ただ、私の部下に命を狙われているため、死んだことにして、しばらく身を隠しているのでしょう。ですが、私が生きていると知れば、どんな危険を冒してでも、彼は必ず駆けつけます」


 崖の上に伏せさせておいたモラン大佐がホームズを殺していなければ、ホームズは生きているだろう。もしモラン大佐がホームズを殺していれば、おそらく、モラン大佐はそれを喧伝する。彼は己が仕留めた大きな獲物を黙っていられる人物ではない。


「私が生きていたと知れば、シャーロック・ホームズは必ずここを訪れます。その時、根掘り葉掘り、私の逃走先を調べるため、この村を調べ歩くでしょう。きっとあの男は袖のすり切れ一つで、あなたの殺人計画と、ブーテナント夫人の殺人計画を、ブーテナント氏が生きているか死んでいるかにかかわらず暴いてしまうでしょう」


 おかしな才能を持ってますからな。私は付け加えた。


「そんな」


 ハミルトン医師の顔から生気が抜けおちた。


「ご理解いただけたようで」


 私は一つお辞儀をして、コートに隠しておいた宝石を、お世話になったお礼ですと、テーブルにおき、ハミルトン診療所を去った。



 私は村を抜ける街道の道を歩いていた。月明かりのない、暗い夜道だった。村でリハビリに励んだおかげで、左の肩は動かないものの、足腰はずいぶん丈夫になった。猫背も少しは改善した。

 ハミルトン医師には、ずいぶんと、ひどいことをしてしまった。ただどうにも、未熟な犯罪計画には厳しくなってしまう。

 ふふふ、これから、ハミルトン医師はどうするのだろうか。ブーテナント夫人の犯行を止めるのだろうか。それとも、己が考えた稚拙な犯行計画を推し進めるだろうか。それとも私のことを警察に話すだろうか。何もしなくても、何かをしても、彼は苦しむことになるだろう。

 暗闇の中、私は歩いた。


 了

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登場人物紹介

ジェームズ・モリアーティー教授

ライヘンバッハの滝にて、ホームズと共に落下し、死んだと思われていた人物。

シャーロック・ホームズ


ハミルトン医師

ボイジャー氏


ボイジャー夫人

ブーテナント

酔っ払い。

妻に暴力を振るっている。

エマ

ブーテナントの妻。

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