第4話

文字数 4,203文字

 老人の目の前にジャスティススーツを叩きつけると、美佐は怒鳴りつけた。
「こんなのいらないわ! 私はただのOLなのよ? ヒロインになりたいわけじゃないの。捨てても良かったけど、どういうわけか足が勝手に……」
 松極堂に駆け込んだ美佐は、ハアハアと荒い息を吐いている。
「……よろしいのかな? このまま返品しても」
 奥歯にものが挟まったような言い方で、老人はにらみ返している。
「……どういう意味?」
「お主には見返したい人がおるんじゃろ? せっかくのチャンスなのに、このままふいにして、後悔しても知らんぞ?」
 真っ先にあの二人の顔が浮かんだ。ホクロ男の岸部と元親友の絵理である。
 たしかにこのままでは気が収まらない。よりを戻したいわけではないが、プライドが許さないのだ。あの二人にコケにされたままでたまるものかと鼻息を荒くする。
 しかし、ここでいったん冷静になった。
「……でも、このスーツと何の関係が?」
 当然の疑問だった。まさかこれを着たまま、鉄拳制裁を喰らわせろとでも言いたいのだろうか?
「安心しなさい。別に暴力で片をつけろというつもりはないんじゃ」じゃあどうするのと質問すると――、「ジャスティスレディが悪人を退治すれば、お主は一躍英雄となる。国民全員から尊敬されるような存在となるじゃろう。そのタイミングで正体を明かし、その人物の鼻を明かせばいい。きっとすっきりするじゃろうて」
 なるほど。それは一理あった。平和を守る上に、国民に――いや世界中に感謝される。あの二人の悔しがる顔を拝めるだろうし、モテモテになることは間違いない。
 絶対に岸部以上の男と結婚してやると息巻く美佐であった。
「じゃあ、もう少し借りておくことにするわ」
 だが、老人は首を横に振った。
「これはお主にあげた物じゃ。だから返さんでも構わんぞ」
「それではお言葉に甘えて、もらっておくことにするわ。もしいらなくなったら捨ててもいい?」
「好きにしなさい。ただし……」
「ただし?」
 老人はひと呼吸置くと、物々しく口を開く。
「このスーツに少しでも手を加えてはならぬ。少し破けるくらいであれば影響はないはずじゃが、ハサミを入れたり余計なものを貼り付けたら、効力がなくなるからな」
 美佐は心の中で舌打ちをした。このダサダサのまま、着続けなくてはならないのか。せめてもう少し装飾をしたり、デザインを変えてみたかったが、効力をなくしては意味が無かった。
「わかったわ。このまま何もしないほうが良いのよね?」
 そうじゃと老人は頷いた。
 
 家に帰りつくと、美佐は服を脱ぎ去りバスルームに入った。いつもよりぬるめのお湯にゆっくりつかりながら、今後の方針を固めていく。
 あの老人のいう通り、有名になるためには実績を積まなければならない。
 しかし、私に何ができるだろう? 
 交通違反を取り締まったり、窃盗や空き巣を捕まえるのは何かが違った。
 さんざん悩んだ挙句、一つのアイデアが浮かんだ。こうなったら女性の敵である痴漢にターゲットを絞ることにしたのである。

 思い立ったが吉日。美佐は翌朝、上司の主任に遅刻の旨を電話で伝えると、スーツの入ったリュックを背負い孫の手線に乗った。そこで痴漢を撃退して、名を上げるという寸法だ。
 ラッシュ時ということもあり、乗り込んだ電車はちょうど満員で、いかにもスケベそうな親父たちがひしめき合っている。
 痴漢を見逃さないよう注意を払い、目を凝らしながら電車内を移動していく。ぎゅうぎゅう詰めの中を進むのは骨が折れるが、へこたれるわけにはいかない。周りからは迷惑そうな視線を浴びせられ、背中のリュックがさらに煙たがられた。
 それでも正義のためならばと、二往復したところで、ようやくそれらしき人物を発見するに至る。
 美佐と同じくらいの年齢に見える女性が手すりにつかまり、体をくねらせながら、困惑した色を浮かべていた。後ろにはすまし顔のサラリーマンらしき男が右手を腰に当てながら、上下に動かしている。まわりの何人かは気づいているようだったが、誰一人注意するものはいない。ジャスティスレディの出番だと思われた。
 だが、ここで問題が生じる。
 今は普通の格好なので着替えなくてはならない。かといって電車内に更衣室などあろうはずもなく、次の駅まで待って、トイレに駆け込むしかなかった。それまで大人しく痴漢を続けてくれていればいいのだが(?)、そうでなければみすみす逃すことになりかねない。
 かといってこのまま捕まえる勇気もなかった。声をかけるだけでも恥ずかしいし、もし反撃されれば怪我を負うかもしれない。それにたとえ捕まえたとしてもジャスティスレディのアピールにもつながらない。感謝状を貰ったところで、腹の足しにもならないだろう。
 美佐は次の停車駅を待った。
 幸いなことに一分足らずで到着すると、他の乗客たちをかき分け、全速力でトイレに向かう。途中、ぶつかったせいで誰かが転んだが、気にかけている場合ではなかった。痴漢に比べれば、転倒など些細な事。むしろ小さな犠牲で済むのだから、感謝して欲しいくらいだ。
 早着替えには自信があったので、ものの数秒でジャスティスレディに変身することができた。当然アイマスクも忘れてはいない。
 発車のベルが鳴り響き、猛ダッシュで元の電車に向かう。人の目が気になったが、それでも人を押しのけながら閉まりかけのドアに滑り込むことができた。
 奇異の目が美佐に集中する。しかし、素顔をさらしていないので思ったほどの気恥ずかしさはなかった。目を皿にしながら、先ほどの痴漢を探す。だが、どこを見渡しても男は見つからない。被害者の女性の姿も消えていた。
 おそらくさっきの駅で下車したに違いない。
 手持無沙汰となった美佐は、今さらながら羞恥を憶える。さっきまでは何ともなかったが、突き刺さるような視線を耐えきる自信がなく、美佐は次のホームで降りた。
 そのまま出勤したが、とても仕事にならなかった。

 翌日も遅刻の連絡を入れ、美佐は孫の手線に向かう。
 昨日の反省を活かし、コートを羽織ると、その下にジャスティススーツを着込んだ。しかし季節は真夏。いかに冷房が効いているとはいえ、汗がだらだらと流れ落ちる。昨日とはまた別の冷たい視線を浴びたが、何でもない顔をした。
 しばらくすると、ひとりの女子高生が、うつむきながら顔を赤らめていた。まさかと思い近づいてみると、彼女の後ろには二十代と思しきアロハシャツの青年が、ニヤつきながら腰をくねらせていた。今度こそ逃すまいと、美佐は素早くアイマスクを装着すると、勢いよくコートを脱ぎ捨てた。
 車内が一斉にざわつき始める。美佐はそれに構わず青年の手を掴み上げ、後ろにひねる。
「いてて……何しやがる、この女(あま)!」
「痴漢の現行犯よ! 警察に突き出すから覚悟しなさい!!」
 そして女子高生に向かい、声をかけた。
「怖かったでしょう? 安心して。もう大丈夫だから」
 しかし、女子高生は突然目尻を吊り上げると、美佐を思い切りビンタをした。
「ちょっと、何してんの! この人は私の彼氏なのよ。ちょっと痴漢ごっこしていただけなのに、余計なことしないでくれる?」
 ――えっ? ウソ? 和姦だったの? なんと紛らわしい。イチャつくなら家でしろ!
 美佐は咄嗟に男の手を放し、ごめんなさいと頭を下げる。
「そんな格好して頭おかしいんじゃないの? オバサン!」
 ――オバサン? まだ二十四になったばかりなのに……。
 それでも言い返すことができず、なすすべもないまま、美佐は次の停車駅で電車を降りた。

 翌日。美佐はこりもせずに三度目の正直を狙う。
 さすがに三日連続で遅刻するのも気が引けるが、正義のためならば仕方がない。
 この日は最後の手段として、自らが囮となる作戦に打って出ることにした。もちろん痴漢されるのには抵抗があるが、他に妙案が思いつかなかった。
 ジャスティスレディの衣装は超ミニスカの生足なので、格好の餌になりそうだった。
 美佐は孫の手線構内のトイレでジャスティスレディに着替えると、そのまま電車に飛び乗った。
 相変わらず針のむしろだったが、さすがにそれにも慣れてきて、さほど気にならなくなっていた。
 しかし、待てど暮らせど痴漢する者は現れない。
 ――こんなに破廉恥な格好をしているのに手を出さないんて、ありえなくない?
 美佐は焦りを憶え、吊革を握りながらじっと耐え忍んだ。 
 そのうちラッシュのピークも過ぎ去り、乗客も目に見えて減っていく。このままぼんやりと突っ立っていてもらちが明かない。ただ闇雲に探し回っては見つかりそうもなく、美佐は思い切って行動に出ることにした。
 ひとりの禿げあがった如何にもスケベそうなサラリーマンを視界にとらえる。美佐は彼をターゲットに選び、男の前に立つと背中を向ける。
 きっとそのうち痴漢を始めるだろうと目論んでいたが、一向に触る様子はない。
 わざと腰を振ったり、スカートをヒラヒラさせてみたが、反応はなかった。
 業を煮やした美佐は、男に声をかけることにした。
「ちょっとあなた。何やってんのよ!」
 突然のことに目を丸くし、男は唖然としながら美佐をじろじろと眺める。
「……何って、電車に乗っているだけですけど……」
 当然のように答えた。
「どうして触らないのよ!」
「どうしてって言われても……」
 男は明らかに困惑していた。
「ほら、いつもやっているんでしょう?」
「やっているって何を?」
 しらを切り続ける男に、美佐は怒りのあまり見本を見せた。
「こんなことよ!!}
 美佐は近くにいた女子大生らしき女性のお尻を思いっきり撫でた。  
「きゃあああ。何するのよ!」
 さすがにこれはマズかった。美佐は今さらながらとんでもないことをやらかしたことに気づく。だが、時すでに遅く、車内は大混乱となった。
 美佐は謝り続けながら後ずさりすると、壁に設置してある緊急停止ボタンを押す。途端にベルが鳴り響き、電車は急ブレーキをかけた。
 人を押しのけ無理やりドアをこじ開けると、美佐はホームに降り立ち、一目散に改札を走り抜けた……。
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