第1章・旅立ち

文字数 22,445文字

「お呼びですか、族長」
 輝く鎖帷子を身に着けて、ジョスは居間で寛ぐ族長の元へ歩み寄りながら言った。小脇に抱えた

の翼が付いた兜も、しっかりと磨かれている。族長一族の徴として、左には長剣と片刃の小太刀を佩いているし、背の短剣の手入れも怠ってはいない。一分の隙もない姿だった。
 今日は族長集会からの戻り船があった。航海を終えた族長達は疲れている筈だ。しかも、夕刻には宴が開かれる。それなのに呼び出しがかかるのは異例の事だった。族長の命とあらば、忠誠を誓った女戦士としては、何を差し置いても出向かなければならない。例え、それが、父親であったとしてもだ。
 安楽椅子にゆったりと腰を掛け、足下に牧羊犬をはべらせた父は、ジョスに向かって杯を上げて見せた。近くに来い、という事だ。
 側に行くと、父は族長の顔をしていた。金色の髪はまだその輝きを失ってはおらず、青い眼は全てを見透かしてしまいそうだった。居間に呼ばれたという事は、何かをやらかしたのではなさそうだったが、それでも、落ち着かなかった。肩に掛けた雪原狼の毛皮の頭部が睨んで来るのではないかと思った。
「今日で、お前の女戦士としての任を解く」
 父が静かに言った。一瞬、何の事か分らなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか。わたくしが、何か重大な失態でも犯しましたでしょうか」
 ジョスは震える声で言った。
「お前の働きに不足も不満もない」父の声は飽くまでも静かだった。「お前の縁談が、決まった」
 世界が、ぐるりと回ったのかと思った。
「聞えているか」金色の髭の陰からでも分かる苦笑いを浮かべて、父は言った。「お前の縁談が決まった、と言ったのだが」
「なぜ、今頃になって」
 ジョスはようやく言葉を発する事が出来た。「わたしは、もう、二十五になりますのに」
「安心しろ、相手は三十二で初婚、お前の兄と同じ歳だ。お前は婚期を逃したかもしれんが、それは相手も同じだ」
 この北海では、大抵の娘が十七、八で結婚する。相対的に男も早くなる。割合に遅かった兄にも、既に子が三人いる。それ故に、ジョスはこの年齢で自分にそのような話があろうとは思いもしなかった。
「相手は白嵐ダヴァル殿の弟君、巨熊(きょゆう)スヴェルト殿だ。船団長で部族きっての――いや、北海随一の戦士だ」
「ダヴァルどの、の」
 ジョスは愕いた。まさか、父が自分をそのような場所に嫁にやると言い出すとは。
「…お母さまは、ご存じなのでしょうか」
「お前があの島へ嫁に行く事は、既に了承済みだ」
 では、自分がどのように抵抗しようとも、この決定は覆されないという事だ。
 ジョスは思った。
 母が反対したならば、父も考え直しただろうに。
「明日からは、家政を学べ。来年にこの島で開かれる族長集会の戻りに、ダヴァル殿がお前を島へ連れて行って下さる」
「でも、お父さま、わたしは…」
 無駄だと知りながらも、ジョスは言った。
「でもは、なしだ」ジョスの言葉はあっさりと消された。「もう決まった事だ。集会でも報告した。あちらでも、一年かけてお前を迎える準備をして下さる。スヴェルト殿は独立した館を構えられる事になるので、お前は、そこの女主人としての役割を習得せねばならない。一年で全てをこなすのは至難だろうが、母上や他の者から、しっかりと学べ。お前の事だ、心配はしておらんがな。それに、ダヴァル殿は弟君の縁談を歓迎しておられる。多少の事は、大丈夫だろう」
 父の言葉に逆らう事は出来なかった。それが出来るのは、部族の年長者だけだった。それだとて、通る事は殆どない。ただ一人、母だけが、その考えを覆す事が出来た。
「さあ、行って軍装を解け。まずは、女の衣服の着付けを学ばなくてはなるまい」海狼はにっと笑った。「皆、手ぐすね引いて待っているだろう。覚悟するんだな」
 ジョスは素直に父の命には従わなかった。任を解かれた以上は親子の関係に戻ったのだ。だから、真っ先に向かったのは、母の許だった。
 母は、大抵は機織り部屋か裁縫室にいる。機の音が絶え間なく聞えていたので、ジョスはそちらに向かった。
 自分の知らぬ間に全てを決められるのは嫌だった。せめて、意向を訊いて欲しかった。答えは決まっていたかもしれないが、それでも、勝手にされるよりは良かった。
「お母さま」入室を問う事も忘れてジョスは部屋に入った。「お父さまが…」
「あなたの縁談のお話しをなさったのでしょう」
 ()を操る手を休めずに、母は穏やかに言った。
「でも、わたしは――」
 勢い込んで言おうとするジョスを、母はやんわりといなした。
「お父さまは、あなたの幸せを第一に決めてくださったのですよ」
「結婚なんて、別にしたくはありませんもの。それは、お父さまのお考えになるわたしの幸せであって、わたしの考える幸せとは違います」
「そのように拗ねたりしないで」
 機を織る手を休めて、母はジョスに向き直った。「ほら、ご覧なさい、あなたの花嫁衣装に、と思っているのよ」
 自分の目と同じ空色の反物を見て、ジョスはあっと思った。両親は、族長集会の前から、自分を嫁がせるつもりでいたのだ。それでなくては、いかに手の早い母だとて、これほど細かい地模様を、この長さまで織れるはずがない。
「前から、お二人で決めていらしたのですね」
 ジョスは声の震えを止める事が出来なかった。母にまで、裏切られたように感じた。
「お母さまは、知っていて黙っていらっしゃったのね」
「相談は受けました。あなたの縁談について」母は紫の眼をジョスに向けた。「わたくしの気持ちと、あなたの気持ちとをお訊ねになりました」
「では、どうしてその時にわたしにおっしゃってくださらなかったのですか。わたしの気持ちを、いくらお母さまとは言っても、本当にはご存じないでしょう」
「あなたに言えば、絶対に嫌だと言うでしょうとは、お伝えしました。それに、わたくしはもう、あの島とは縁のない者です。お父さまは今の族長とは特に利害関係をお持ちではないですし、あなたが嫁いだからといって、何かが変わるというのでもないでしょう。ただ、あなたが幸せになるにはどうすればよいか、お考えになった末の、ご決断なのですよ」
「結婚が幸せなんて、誰が決めたのですか。わたしは女戦士のままで充分に幸せです」
「そうね。でも、あなたはそれで幸せだと、自分をごまかしてはいないかしら」
 ジョスは思わず、首から下げた物を握り締めた。
「あなたがいつまでも運命にこだわっているのは分っています。でも、出会えただけで幸せなのです。その上、あなたはそのような贈り物まで頂いたではありませんか。あなたは、わたくしにとっても、お父さまにとっても、たった一人の娘なのですよ。嫁いでしまえば、族長集会に出られるお父さまやお兄さまはともかく、わたくしはもう、一生、あなたと会うことはかなわないのです。そのようなところに、本当に心から送り出したいと思いますか。あなたが、幸せになれるかどうか分らないようなところに、行かせたいと思いますか」
 母の言葉に、ジョスは唇を噛んだ。この島を出れば、母とは一生、会えないのだ。
「わたくしは、お父さまの判断を信じております。あなたは、あちらの族長に望まれてその弟君に嫁ぐのですから」
 と、母は言葉を切った。
「ジョス、確かに、家庭に入るのが一番の幸せとは限りません。あなたは、本当に女戦士として生涯を捧げることができるのですか。一人で生きて行く覚悟はできているのですか」
「――あの方でないなら、一緒になったところで幸せにはなれません」ジョスは言った。「一人でも、同じです」
 こんな事になるのだったら、約束の言葉だけに頼らずに、兄にあの人の消息を訊ねておくべきだった。名を聞いておくのだった。だが、もう遅い。
 母は密やかな溜息をついた。
「あれから、何年たちましたか。もう、来年で十四年になるのではありませんか。運命という考えは、この島でしか通用しないものなのです。酷なことを言うようですが、あちらは、もう、あなたのことをお忘れなのかもしれません。お父さまは、あなたに悪いようには決してなさいません。一年我慢して、それでも幸せになれないようでしたら、戻っていらっしゃい。わたくしからお父さまにお話ししましょう。それなら、何もおっしゃらないでしょう」
「本当に、それでもよいのですか」
 信じられない思いでジョスは言った。
「あなたが不幸になることをお父さまはお望みになりません。家族の誰一人として、そのようなことを望んでいるわけではないのですから」
「でも、わたしはあの方が忘れられないのです。それなのに、他の方に嫁ぐなんて、本当にできるのでしょうか」
 母は、無言で微笑んでいた。


 何故、このような事をしなくてはならないのかと、裁縫室でジョスは苛々した。
「ほら、じっとしなさい」叔母のソエルの叱咤が飛んだ。「いちいち動かないの。いいかげんにしないと、髪の毛が引きちぎれるわよ」
「叔母さま、痛い」
 ジョスは訴えたが、そんな事などお構いなしにソエルは髪に櫛を入れて行く。
「いったい、いつから梳いていないのよ、この子は」
「そんなこと、憶えていません。三つ編みさえできればいいのでしょう」
「一人暮らしの男だって毎日、髪と髭の手入れは欠かさないわよ。もっと身だしなみに気をつけなさいよ。いくら兄さまが無頓着だと言っても、こういうことはきちんとなさっていたわよ。わたしだって、全員に目を配るわけにもいかないんですからね」
 実際にはソエルは父の従妹なのだが、幼い頃から共に暮らしていた為、兄妹と変わらなかった。夫は父の副官エルガドルだった。しかも、ソエルは女戦士達の面倒を、女戦士を引退した者と共に引き受けていた。それを避けていただけに、ぐうの音も出なかった。
 まだまだ苦行は続きそうだった。
 髪を整えたら、その後には着付けの練習が待っている。子供の頃のように、すっぽりと頭から被ってお終い、という訳にもいかないようだ。女戦士は男と同じ格好なので、特別な技術もいらなかった。
 だが、用意された衣服を見る限り、ぞっとするくらいに面倒臭そうだった。
 説明では、下着、無地の重ね着、そして長着の順。馬に乗る時や冬には男のように下に()を着ける。飾り紐の結び方も、細さや長さによって変わり、未婚、既婚でも違う。どれもが母の手作りなので質と着易さは折り紙付きだが、どうして皆はこんな面倒なものを毎日着るのだろうかと不思議だった。また、あの裾でよく転ばないものだと感心した。
「…羊毛用の梳き櫛でも持ってこようかしら」
 ぽつりとソエルが言った。
「羊と同じだなんて、あんまりだわ」
「だったら、文句言わないの」
 また、叱られた。
「どうしたというの」
 母の声がして、ジョスはほっとした。「部屋の外にまで聞えているわよ」
「お母さま、助けて。ソエル叔母さまったら、羊の金櫛で髪を梳くって」
 思わず、泣き言が出た。
「あらあら」笑いながら母が近付いて来た。「見事にからまったものね」
「でしょう」ソエルが言った。「いっそのこと、切ってしまって、一年で伸ばす方がいいかしらね」
「それだと、編み方を憶えるのが大変でしょう」母はソエルから櫛を受け取った。「もう一つ、お願い」
 鏡を見ていると、母は二つの櫛で器用にもつれ髪をほぐし始めた。丁寧だったが、その手は早かった。するすると面白いように絡まりが小さくなって行く。こういった器用さでは、やはり、母の右に出る者はいない。
 十二歳で女戦士としての修行に入る前には、このようにしてよく髪を()かして貰った事を思い出さずにはいられなかった。柔らかな手さばきは、全く傷みを感じさせなかった。
「こんなものかしらね」
「さすがはリィルお義姉さま」
 ソエルが感心したように言った。
「糸をほぐす時の要領でよかったようね」
「まあ、髪も糸もそう変わらないでしょうね」ソエルが笑った。「じゃあ、次は編みましょう。簡単な三つ編みにするわ」
 てきぱきと、ソエルは髪を編んだ。叔母や母ほどには長くない髪だったが、父に似て少し癖のあるせいか、毛先がはねた。
「長くなれば、目立たないでしょう」
 ソエルは素っ気なく言った。母はその様子を見て少し笑い、部屋を出て行った。
「さて、それじゃあ、着付けをしましょうか。この分だと、着せるだけでも大変なのに、行儀作法まで教えなくてはならないのですものね。先が思いやられるわ。絶対に、兄さまには恥をかかせられないのですからね、ジョス、心しなさいよ」
 叔母の命令は絶対だった。

    ※    ※    ※

「縁談ですと」
 同じ頃、ダヴァルの館でもひと騒動起こっていた。
「そんな勝手を、何故(なにゆえ)、されるのですか」
 対峙する年長者よりも頭一つ分、長身の男が言った。引っ掻き回しでもしたのか、肩より長い濃い茶色の髪は乱れていた。「俺は今の生活に何の不満もありませんぞ」
「何度も言わせるな」背丈は劣るが同じく大柄の男が、うんざりとしたように言った。「これ以上の縁談が、もうお前に来る事はないぞ。海狼殿の一人娘だ。それほど若くはなくとも、お前の歳からして文句は言えないはずだ。それに、まだ、子も産める」
「女房も子も、別にいらんでしょう、俺には」憤然として、男は言った。「兄上には男子が三人いらっしゃるし、俺が結婚する理由など、どこにもないでしょうが。現に、叔父上は生涯独り身でおられたではないですか」
 族長のダヴァルは溜息を吐いた。
「あの一族と姻戚関係を結ぶのは、それ程、簡単な事ではない。以前にあの一族に嫁入りした娘はおらんし、嫁に迎えた所も、殆どないのだぞ。それが、あちらから話を持ちかけてこられた。だから、持参財も結構なものだ。取り敢えずは、我が一族への贈り物として龍涎香を一年分、確約された」
「結局は実利を取られた訳ですか。売りつけられた嫁を買うのですか」
 嘲笑うようにスヴェルトは言った。茶色の目が細められた。
「そうでもしなければ、お前も結婚せんだろう」
「俺が結婚して、持参財の他に何の得が兄上にあると仰言るのです」
「私ではない」ダヴァルは顔をしかめて声を落とした。「タマラがな、お前のような大飯喰らいの飲んだくれの義弟の世話はもう、うんざりだと言うのだ」
「恐妻家の兄上らしい。要は、女房殿に俺の世話を押し付けたい訳だ」
「何とでも言え」
 ダヴァルはどっかりと椅子に腰掛けた。
「だが、お前も船団長として示しを付けるべきだ。叔父上はお前の面倒をよく見て下さったが、お陰で結婚出来なかったというのが父上の後悔だった。北海の男は、鯨や鯱を幾ら倒そうが、遠征でどれ程手柄を立てようが、一人前ではない。結婚してこそだ。特に、族長集会の際には、実権はタマラにあろうとも、一応の名代はお前なのだからな。それに、ここ数年、遠征は全てお前に任せているだろう」
「嫁き遅れの上に、俺のような戦馬鹿でこのご面相の男の女房にくれるなど、余程の醜女(しこめ)でしょうがね。厄介払いですか」
「馬鹿を言うな」ダヴァルは呆れたように言った。「海狼殿の奥方にはお目にかかった事はないが、人前にも出さない程の美人との噂だし、息子達も男前揃いだ。失礼な事を言うものではない。有り難い話なのだから、断る理由など、どこにもないだろう」
「有り難い、ですと。こちらは却って迷惑ですな。別に女に不自由はしておりませんし、女房など、面倒な事ばかりではありませんか。そこに子供が加わったら、もうおかしくなりそうだ」
「決まった事だ。文句は言うな」ダヴァルは語気を強めた。「いいか、来年、海狼殿の島での集会の戻りに、嫁御を連れて帰る。それまでに、お前が叔父殿から相続した土地に館を建てる。お前はお前で準備を進めろ。分ったな。手を抜くなよ。反論はなしだ」
 やはり、面倒だと、スヴェルトは思った。
 イルガスと義兄弟になるのは(やぶさ)かではない。良い友だ。だが、その妹であろうと、嫁を取るのは、また、別の話だ。
 短く刈った(こわ)い顎髭を撫でながら、スヴェルトは低く唸った。
 今夜は戦士の館で酒をかっ喰らおう。馴染みの女の所へしけ込むのも良かろう。どれ程義姉が嫌がろうが、知った事か。


    ※    ※    ※

「ぐっ」
 腰紐を締められて、ジョスは思わず唸った。
「変な声を出さないの」
 また、ソエルに叱られる。「下紐はしっかり結んでおかないと、後で大変なことになるわよ」
「大変、て」
 大袈裟に過ぎるのではないかと思って、ジョスは言った。
「身体を動かすために、ゆるみがとってあるでしょう。それが全部、下に落ちてくるわよ。そうなったら、どうなるかくらい、分るでしょう」
「どうなるのかしら」
 想像もつかなくて、ジョスは笑った。
「へらへら笑わないの」ぴしゃりとソエルは言った。「全部、下にずり落ちたら、何もできないでしょう」
 歩きづらいのは、どうしたっても変わらない、と思った。
「裾を持って歩けば――」
「それは正装の時だけ。普段からそんなことをしていられないでしょうが。仕事はどうするのよ」
 ゆるみをなくして仕立てて欲しいと思ったが、言うのは止めた。更に叱られるのは目に見えていた。
「でも、お義姉さまのお作りになったものは、どれも軽いし肌触りも申し分ないでしょう。これに慣れてしまったら最後ね。絶対に他の衣類は身につけられないでしょう」
「だから、お父さまも、絶対に他の物は身につけられないのでしょう」
「兄さまは、また、別。あの人は無頓着なだけよ。放ってけば、擦り切れていようが破れていようが、生乾きだろうが平気で着かねない人だもの。お義姉さまがきちんと管理なさればこそよ」
 そう言ってから、急に思い出したようにソエルは付け加えた。
「そうそう、お義姉さまといえば、あなた、絶対に料理だけは習ってはだめよ」
「堅焼き麵麭(ぱん)くらいは、家代々の女の配合でしょうから…」
「ぜったいに、だめ」ソエルは厳しく言った。「料理は全て厨房頭からにしなさい」
「でも…」
「理由を知りたければ、エルドとイルガスにお訊きなさいな。兄さまに訊いてもむだよ。あの人は特別なんだから」
 母は一体、何を作ったのだろうかと思わずにはいられなかった。最も簡単な堅焼き麵麭ですら、習ってはいけないとは。
「さ、次は長着」
 手際よくソエルは衣を広げた。
「あなたがいつ必要になってもいいように、お義姉さまが準備してくださっていたのだから、感謝しなさいよ。でなければ、今頃、大わらわだったわよ。どれもあなたによく似合っているし、さすがだわ。本当なら、自分で用意するものなのですからね。あなたが織ったのは、竪機だけでしょう」
 織物の才のない叔母に言われたくないと思いながらも、ジョスは大人しく長着を身に着た。
「わたしも女戦士を目指していたから、結婚だけが幸せじゃない、というあなたの気持ちもわかるわ。でもね、世の中はそんなに単純なものじゃないの。わたしたちは自分で相手を見つけて一緒になるのが普通だけど、他の部族では、顔も知らない相手と結婚を決められるのも珍しいことじゃない、というもの。特に、族長家の女は生き方を選べない、というわ」
「だから、わたしにもそうしろ、とおっしゃるのですか」
 納得出来ずにジョスは言った。母もソエルも、兄でさえも運命と結ばれたというのに。
「考え方しだいよ。兄さまが決められたことですもの、大丈夫よ。お相手は悪い人ではないわ」
「でも、あの島は…」
 ジョスは言い淀んだ。
「そうね、兄さまたちにとっては因縁の島ね。でも、なぜ、兄さまがわざわざその島の族長の弟君を選ばれたのか、わたしたちが知ることはできないわ。信用するしかないの」
「どうして、お父さまはこんなに急に決めてしまわれたのかしら」
 ずっと、疑問に思っていた事だった。
「兄さまのお考えは誰にもわからないわ。別に独り身でいるのもここでは珍しいことではないのですものね」
 そう言いながら、ソエルは幅広の飾り帯をジョスに渡した。「リィルお義姉さまのお考えは、もっと、わからない。でも、二人とも思いつきでそんなことをなさったりしないわ。何か、お考えがあるのでしょう」
「お母さまは、一年我慢して、無理だったら帰って来てもいい、とおっしゃったわ。そんなことって、あるのかしら」
「まさか」ソエルは愕いたようだった。「そんなこと、あるわけないでしょう。あちらの族長集会に合わせて戻されるなんて、あなたにとっても兄さまにとっても、不名誉でしょう」
 やはり、あれは気休めの言葉だったのだと、ジョスは思った。欲しかったのは、そのような言葉ではなかったというに。
「でもね、あなたに利があるとすれば、そのお義姉さまに似た顔立ちと、兄さまやわたしに似た性格よね。まずは見かけのように女らしくして、その男の心をわしづかみにするの。そうなったところで、一気に締め上げてやればいいわ」
「一気に締め上げる、なんて、何を言っているのよ」もう一人の叔母であるローアンがやって来た。父の実の弟エルドの妻だ。「そんなこと、教えなくても大丈夫だわ。この子だったら、勝手にやるでしょうよ。それよりも、持参する布類について相談なのだけど」
 自分はどれ程信用がないのだろうか、と思った。
「適当でかまわないでしょう。冬だって、ここほどは寒くはないのでしょう。人も物も豊富でしょうし」
「族長の娘として恥をかかせるわけにはいかないでしょう。あちらの衣服とは違っていても、それで嫁入り道具としては不備はないはずだし。婿殿の分も、必要でしょう」
 ああ、そうだったわね、と言って、ソエルはローアンの書き付けに目を通した。
「反物はもう少しあってもいいんじゃないかしら。あちらの族長一家の分も必要だし、ジョスの義姉になる人には、特に多めに贈ったほうがいいと思うのだけど」
「あんまり多くてもねえ」ローアンは考えるように言った。「エルドの話では、族長は、それでなくても結構な財を持たせるつもりらしいの。遠征から戻ればすぐに、雪原狼と雪原熊の狩猟に出かけるそうだし、龍涎香だって、一年分でしょう、贈り物としては破格よ」
「こちらから持ち出した話だから、と聞いたわ」
「女の方から申し込むことはまず、ないでしょうね」
 ローアンは,母と共にこの島に来た人で、外の世界の慣習にも詳しかった。
「リィルお義姉さまに時にも、龍涎香を一年分、支払っているわ。奴隷の値段としてはそれこそ破格だったし、まあ、それだけの価値のある方だわ。この子だって、持参財が多ければ、向こうだって無下には扱えないでしょう」
 まるで人を物のように扱うのだなと、ジョスは思った。他部族との結婚とは、そういうものなのだろうか。持参する財産で、扱いも変わって来るものなのか。女は、所詮、部族間の道具であり、その絆を深める為に子を産む存在でしかないのだろうか。そのような結婚に、初めから愛情が生まれる余地はないだろう。また、相手も自分を気に入る事はないと思われた。今まで一族から、他部族へ輿入れした女が殆どいない事からも、それはいかにもありそうな事だった。
 両親も叔母達も、結局は運命に出会い、家庭を築いている。そのような人々に、本当に自分の気持ちを理解してもらえるのだろうかとジョスは思った。
「わたしって、結局は物なの」
 つい、口に出してしまった。
「そんなわけないでしょう」ローアンが怒ったように言った。「あんたはあたしたちの大事な姪っ子。大事にされて欲しいだけよ」
「でも、あちらでは持参財で決まるのでしょう」
「それは否めないわね」あっさりとローアンは認めた。その率直さがジョスは好きだったが、今は不安になるばかりだった。「そのせいで結婚できない人たちもいるわ。男には結納財が、女には持参財が欠かせないのだから」
「わたしの夫になる人にも、そういう女性がいたとしたら、どうなるの」
「そんな心配はいらないわ」ローアンはきっぱりと言った。「そんな女性がいたら、族長が交代した時の特別な祝いとして,許されていたでしょうね。それに、女性の持参財は正直、親からの相続分ですもの。男は自分の結婚の申し込みを取り消すことはまずできないし、取り決めの後でそういうことになったら、女に賠償財を結納と同じ分だけ、支払わなくてはならないのですもの。相手を気に入っていたり、格式を気にするのでなければ、持参財の多少は大した問題ではないわ」
「イルガスと同じ歳で初婚、というのはどうなの」
 そのソエルの言葉にも、ローアンは大した事ではなさそうに答えた。
「北海きっての戦士なら、戦士稼業が楽しくて、結局は婚期を逃したのかもね。全て族長がかりなのでしょう。それなら、気楽だわ。わざわざ結婚しようとは思わなかったのかも。あるいは選り好みのしすぎか」
「戦士は、そんなに人気があるのですか」
「あちらではね」さらりとローアンは言った。「あちらではね、戦士階級があって、族長一族に次いで力を持っているわ。あんたのお相手は、族長の弟君だというだけでなく、船団長なのだから、更に特別よ。エルガドルのようなものね。相手は選びたい放題、と言ってもいいかもしれないわ。結婚して男として一人前と言われるのだけれど、独り身が気楽だから、という男もいるにはいるわ。そういう男なら、ある意味、厄介よね。家庭に居着かないこともあるでしょうし、正妻の他に側女をおくことも珍しいことじゃない。家使いの女奴隷で美人なのは、まず、そうだと思っておいたほうがいいでしょうね」
「ちょっと」ソエルがローアンを睨んだ。「不安にさせてどうするのよ」
「心構えは必要でしょう。あたしの母親だって、側女だったのだし、それが他の部族では当たり前なの。ジョスは、そんなところへ嫁ぐのだから、後で知るよりはいいでしょう」
 それに――とローアンは言った。
「それに、相手のことが気に入らなかったら、全部そいつのことは側女に任せておくのね。他に子供ができようが、平気でいられるくらいに気に食わない相手だったら、そうすることもできるわ。男の子を一人産んでしまえばこっちのものよ。どんな猛者を気取っていても、案外、正妻には頭の上がらない男は多いものよ。特にあんたは海狼の娘という、最強の肩書きを持っていくのだから」
 なんて(したた)かな人なのだろうかと、ジョスは改めて叔母を見た。赤毛には白い物が混じっており、右眼には革の眼帯をしている。若い頃に失明した、とは聞いてた。だからこそ、他の人よりも強くいられるのだろうかと、ジョスは思わずにはいられなかった。また、そういうところに、叔父は魅かれたのだろうと。
「ま、相手があんたに惚れ込んでくれるのが一番よね」ローアンはにっと笑った。「あたしは手加減しないわよ。絶対に、そうさせてみせるから、そのつもりで覚悟なさいよ」
 強いのも善し悪しだ、とジョスは天を仰いだ。
「飾り帯を持ったまま、ぼうっとしないで、さっさと結びなさい」
 父の弟とは言え、運命のエルド叔父が勝てないのも道理だと思った。ソエルは夫のエルガドルと歳が離れている事もあってか、人前では大人しく従っている。だが、ローアンは決して変わる事はない。現役の療法師である、という事も関係しているのかもしれない。若い頃の苦労が関係しているのかもしれない。何れにせよ、エルド叔父はローアンにぞっこんだが、その生き方には決して口を挟まない。それが、叔父の愛情なのだ。
 そのように、自分の生き方や、やり方を許してくれる男であれば、何とかやっていけるのかもしれない。
 愛情はなくとも。


 着付けが終わったところで、夕食の知らせがきた。何度もやり直させられて、もうへとへとだった。
「さっさと席についたほうが、恥ずかしくないわよ」
 ソエルの言葉に、むすっとしながらもジョスは食堂に向かう事にした。だが、一歩を踏み出すや、早速、裾を踏んだ。
「あんたは、歩き方から教えなくちゃいけないの」呆れたようにローアンが言った。「とりあえずは、裾を蹴飛ばすように歩いていきなさい。あたしたちは、ここの片付けをしてから行くわ」
 今日は集会から父が戻ったので、大広間での宴会なのだという事をジョスは思い出した。ということは、この姿を部族の他の者達にも見られるという事だ。
「さっさと行きなさい。走らずにね」
 ソエルから釘を刺された。部屋から出たら裾をからげてでも一番乗りしてやろうという考えは、とうにお見通しのようだった。
 脇の扉からそっと中を窺うと、既に多くの人が集まっていた。両親も既におり、ジョスに気付いた父が静かに席を立った。誰よりも存在感があり、目を引く人なのだが、何故か誰にも気付かれずに行動する事も出来るのだった。現に、父が動いた事に気付いたのは母だけだった。
「そのような所で何をしている」
 苦笑いを浮かべて父は言った。「さあ、席に着け」
 ジョスの手を取り、父は席へと導いた。女性としての扱いを受けた事がなかっただけに、ジョスは愕いた。
「その格好だと、母上に実に良く似ている」
 父は微笑んだ。
 父からそのような言葉を掛けられたのも、初めてだった。ジョスは愕くと同時に、鼓動が高まるのを感じた。裳着の儀式を済ませた十二歳からずっと、女戦士としての暮らしをして来た。これからは初めて尽くしの生活が待っているのだ。
 兄のイルガスが妻のウィーラを伴って現れた。二人には六歳を頭に三人の子がいた。兄の妻が自分と同じ歳である事を、改めて意識した。ウィーラは北岬の羊飼いの娘であったが、その父親は他島からやって来た戦士であり、父の軍船の重要な乗組員の一人でもあった。外の事情を聞くには最適な人かもしれないと、ジョスは思った。
 父に良く似た兄は、ジョスを見て笑みを浮かべた。不思議な事に、この兄の性格は血の繋がりのない母に似ていた。人間の性格とは、育てる者の影響を強く受けるのだろうかとも思ったが、それは自分には当てはまらないようにも思えた。
 外へと続く扉が勢いよく開き、弟達が入ってきた。十五歳のオルハ、十七歳のマグダルと二十一歳のフラドリスだ。上の二人は共に父譲りの緩やかに波打つ豪華な金色の髪と青い眼だった。オルハは嬰児でこの島に来た養い子なので、茶色がかった金の髪と茶色の目をしていた。フラドリスは顎髭を生やしてしたが、ジョスにはまだ、子供にしか見えなかった。三人は、席に近付くとジョスの姿を認めてぎょっとしたように足を止めた。
「ジョスの隣の席だ」
 父が言った。
 三人は、ジョスが睨み付けると観念したように席に着いた。
 まだまだ、人はやって来た。集会からの戻りに伴う宴会にしては、人が多いと思った。職の長達までがいる。
「皆、揃ったな」
 頃合いを見計らって、父が高座から立ち上がって言った。「今日、皆に集まって貰ったのは、報告すべき事象があるからだ」
 不審そうに、皆が父を見ている事に、ジョスは気付いた。まだ、何も知らされてはいないのだ。落ち着いているのは、同じ卓の一族の年長の者達だけのようだった。
 父は、皆の杯を満たさせた。
「この度の族長集会にて、我が娘ジョスと白嵐ダヴァル殿の弟君、巨熊スヴェルト殿との婚姻が決定した」その言葉に、広間がざわめいた。困惑だ、とジョスは思った。それが静まるのを待って、父は言葉を続けた。「来年の当方での集会の折に、ダヴァル殿がジョスを迎えて下さる。一年は長いようで短い。皆だけでなく奥方や娘子にも、ジョスの嫁入り支度に時間を割いて貰う事になると思うが、宜しく頼む」
 男達が立ち上がった。躊躇いがちながらも、弟達も。
「御目出度う、ジョス」イルガスが杯を掲げて言った。「スヴェルト殿なら、私も良く知っている。必ず、お前を幸福にしてくれるだろう」
 他も者達も口々に祝いの言葉を述べた。
「では、ジョスの婚約を祝って、乾杯といこう」
 父の弟エルドの言葉に、皆は一斉にジョスに向かって杯を掲げた。良く分らないまま、ジョスも杯を手にした。
 返礼に杯を掲げるだけで、何も言う事が出来なかった。若い女性用に水で薄めた蜜酒は、何の味もしなかった。いっその事、今までのように()でいきたいものだと思った。
「刺繍はわたしにお任せください、お義母さま」ウィーラが言った。「お一人では、手が回りませんでしょう」
「でも、子供達の世話もあるでしょうに」
「そろそろ外へ連れ出せる歳ですから」イルガスが言った。「ジョスを優先してやって下さい」
 その言葉に、母は微笑んだ。
「姉上が御結婚出来るとは、奇跡でも起こったのですか」
 マグダルが言った。ジョスは弟を睨み付けた。
「父上も良く、御話を纏めて来られましたね」フラドリスが感心したように言った。「相手のスヴェルト殿は、姉上が女戦士だと言う事を御存知なのですか」
 フラドリスはまだ、集会には随伴させて貰ってはいなかった。
「御存知ではないな」父が言った。「別に、言う程の事でもない。他の島には、女戦士はおらんし、また、理解出来んだろうからな」
「女戦士が、いないのですか」
 ジョスは愕いた。「では、遠征の際には、どのようにして島を守るのですか」
「他部族では、遠征に出る者がいても、充分に島を守るだけの男がいる。だから、その必要がない」答えたのはイルガスだった。「大体、族長とその直属の戦士が島を守るからな。父上くらいなものでしょう、未だに現役で遠征に出ておられるのは」
「そうだな」
 海狼の呼称を持つ父は静かに言った。「龍心エリアンド殿と黒鷲ディオン殿は長く海に出ておられた。特に、エリアンド殿は海上で亡くなった程の海の民であらせられた」
「伝説的な方々ですね」オルハが目を輝かせた。「父上はお会いになられたのですね」
「集会や交易島でな。ディオン殿は愛鷲を亡くされてからは遠征には出られなくなったがな」
「鷲は、それ程に長生きする生き物なのですか」
「四十年から五十年は生きるそうだ。ディオン殿の黒鷲は五十二年、生きたそうだ。それ故にこそ、ディオン殿にとっては大きな存在だった。奥方よりも長く連れ添った相手だったからな」
「そんなに長く生きるのですか」マグダルは溜息を吐いた。「敵わないな。それでは、ディオン殿の運命はその鷲だった、という事になりますよね」
「そうでもあるし、そうでもない」父は言った。「鷲の一族にとり、鷲は神よりの賜り物だ。だが、運命は人間とは限らんのも。確かだ」
 お父さま、わたしは運命と出会ってしまったのです。
 ジョスは、そう言いたい気持ちを抑えた。
「だが、それが全てではなかっただろう。運命であろうとなかろうと、ディオン殿は非常に若くで奥方と一緒になられたし、大層、大事にされておられた。面倒だとは仰言ってはいたが、側女もお持ちではなかったのだから」
 それは、自分に向けられた言葉のようにジョスは感じた。
「私としては、姉上があちらで騒動を起こさなければ万々歳だと思いますが」
 フラドリスの言葉に、ジョスは思わず卓の下でその脚を蹴飛ばした。
「ほら、姉上、そんな風に直ぐに腹を立てて人を蹴飛ばすようでは、先が思いやられます」
「フラドリス」穏やかに母が言った。「からかうものではありません」
「いいじゃない」
 ソエルが言った。「一年後には、ジョスとそんな風に喧嘩もできなくなるのですから、今のうちに、せいぜい喧嘩なさいな」
「確かに」エルドも頷いた。「私とソエルはこうして顔を合わせる事も多いから、色々と衝突する事もあるが、お前達は、そうそう会えるものではないのだからな」
 その言葉に、フラドリスは黙り込み、マグダルも大人しくなった。
「でも、ジョス姉さまのお相手のスヴェルトさまは、どのようなお方なのですか」
 ソエルの娘が訊ねた。年頃の娘には、そちらの方が気になるようだ。
「例え、どの身分であっても、決して女を殴る事はない、とだけ、言っておこう。これは、外の世界では珍しい事だからな」イルガスが答えた。「良い男だ。それは、保証する」
 娘達の間に笑いがさざ波のように広がった。
 男前かどうかなど、大した問題ではない、とジョスは思った。

は、確かに、父や兄弟のように整った顔立ちではなかったかもしれない。だが、自分が運命と感じたのは、あの笑い声だった。耳にした誰もが笑みを浮かべてしまうような、あの声と笑顔だった。
 顔だけで、その人を夫として認め、尊敬出来る訳ではないだろう。一生を、その男に託さなくてはならないのだ。だから、少なくとも、どのような身分であれ、女を殴らない、というのは好感が持てた。ソエルの言ったように、締め上げる事が出来れば最高なのだろうが。
「姉上の事ですから、直ぐに出戻って来るのではありませんか」マグダルが言ったが、強がっているようにしか聞えなかった。「殴るわ蹴るわ、物は投げるわで、戻されそうな気がしますが」
「一年は、我慢してもらいます」静かに母が言った。「お互いに。それでだめなら、戻ればよいと思いますよ。わたくしは大丈夫と思っていますが」
 その言葉に、父と兄は頭をのけ反らせて笑った。ソエルの夫、エルガドルは必死で笑いを噛み殺しているようだった。
「冗談事ではありませんよ、義姉上」エルドが言った。「海狼の娘が出戻りなど…まあ、相手をどうにかするよりはましでしょうが、何と言っても、この島一の女戦士ですから」
「リィルは大丈夫だと言っただろう」
 父は叔父に言った。
「まあ、そうですな、しかし、族長、エルド殿は何も世間体の事を御話しになっている訳ではありませんでしょう」
 エルガドルが言った。
「それはそうですよ。世間が何と言おうが構いません。でも、それではジョスが可哀想すぎましょう。海狼の娘が出戻っただの、男をのしただの何のとなれば、集会で物見高い者達はジョスを探すでしょうよ」
 叔父にまで、男をのす、などと言われるとは思わなかった。だが、訓練での事を考えれば、身に覚えがあるだけに何も言い返せなかった。
「ご心配なく、エルドさま」母は微笑んだ。「ジョスは、そんなに自制のきかない弱い子ではありませんわ。ベルクリフさまの娘ですから」
「全く、この御夫婦には敵わない」
 エルドは溜息を吐き、エルガドルは笑みを浮かべた。頬にある大きな傷跡のせいで、それは歪んだように見えた。そして、イルガスは口に手を当てて大笑いするのを(こら)えているようだった。その横では、ウィーラが困ったような顔をして兄を見ていた。
 両親の間には、互いの信頼があるからだ、とジョスは思った。そうでなければ、例え、一年我慢したとしても、戻って来るなどとんでもないという事になっただろう。だが、父はただ、黙って杯に口を付けているだけだった。その顔には苦笑が浮かんでいるに違いなかった。

    ※    ※    ※

 一年は、あっという間だった。
 幾つもの長櫃に嫁入り道具が調えられてゆき、それと同じくらい持参財も用意された。
 何度かの早船の往来で結納財と持参財の約束が交わされていたが、詳しい事はジョスは結局、何も教えて貰えなかった。冬の荒波がおさまり、夏の気配がすると、相手方から結納財が運び込まれた。銀製品が殆どであったが、そのような物は、ここでは結局、鋳つぶされて別の物に加工されるか、交易島での交換品に変わるかだ。銀の重さで決まるのならば、何も細工物で送って来なくてもと思った。同じ結納財でも、灌木ばかりのこの島では、船と木材の方が歓迎される。
 大した興味なく、ジョスは贈られた物を見た。これで自分が買われて行くような気がした。また、個人的な贈り物めいた物もなく、相手もこの結婚を望んではいないのではないかと思われた。
 しかも、相手の風貌も性格も、詳しい事は婚約を告げられた席上で話題になった事以外、何も教えて貰えなかった。父や兄は知っているはずなのに、わざと話題にしないようにしているようだった。
「なぜ、お父さまもお兄さまも、わたしの相手の人の事を何も教えてはくださらないのですか」
 ジョスは母に訴えた。「ご存じのはずなのに、どうして」
「お父さまの考えはわかりません」母は言った。「お兄さまは、お父さまから口止めされているのでしょうね。あなたが自分の目で、しっかりとその方を見定めることをお望みなのでしょう」
「向こうの方も、わたしをお望みではないのでしょう。二十五の女なんて、どんな年齢の男性でも嫌がられのではありませか。後妻ならともかく、初婚の男性は、とかく若い人を好むものでしょう」
「そのようなことを、言うものではありません」
 母にしては珍しく、強い声だった。だが、直ぐに普段の柔らかな口調に戻った。
「あなたは、まだ、若いわ。世界の事を、まだ何一つ知らない…まだ、お会いしてもいないのに、そのように決めつけてはなりません。結納財をよくご覧なさい。これは、族長の奥方さまが選ばれたものでしょうね。あなたのお義姉さまになられる方です。女性的な銀の装飾品が多く、男性の好む物は殆どありません。男性が選ばれたのだとすれば、大陸渡りの精製されていない武器の方が多くなっていたでしょうね」
「どういう意味ですか」
「ここに、族長や弟君の意思は殆どない、ということかしら。実権は、族長の奥方さまがお持ちなのでしょうね。あなたが気をつかうべき方は族長ではなく。奥方さまでしょうね」
 これだけの事でそれが分るのかと、ジョスは愕いた。
「女性には、同じ女性に厳しい方もいらっしゃいます。この方は、どうやらそういった人のようですね」
 小さな指輪の一つを手に取って、母は言った。「ご覧なさい、この細工の見事なこと。銀に金線で模様を入れてあります。自分の工房では、これだけの物を手掛けられるのだという自信のあらわれでしょう」
「それくらいなら、この島の工房でも作れます。それに、お母さまの織物だって、負けてはいませんわ」
「そう思ってくださるとよいのですが」
 母は優しく微笑んだ。
「お母さまは、いつだって自分を卑下しすぎだわ」ジョスは思い切って言った。「不作の時、交易島でお母さまの反物が船倉いっぱいの穀物になったではありませんか。あれで、どれだけ助かったのか、一番わかっていらっしゃらないのはお母さまだわ。それに、この細工の元も、結局は、略奪品でしょう」
「そのような事を言ってはなりません」母は溜息を吐いた。「わたくしたちも北海の部族であり、もし、交易島で交換する物がなければ、積荷船を襲うしかないのですから」
 そう、羊毛も麻も一定して収穫できる訳ではなく、ここで豊富なのは海の幸のみだ。魚介だけならばひと冬を越すには充分な保存食が作れる。作物の代わりに、浜に打ち上げられた海藻も手に入る。だが、それだけでは生きてはいけない。海藻は、人間だけではなく、羊にも必要なのだ。北海の七部族で最も人数が少ないとは言っても、食糧の確保に掠奪は欠かせない。それを少なくするべく、母は交易島で売る布を織ったが、穀物の価格は一定ではない。時には思わぬ値にまで跳ね上がる事もあるという。また、黒麦や燕麦が病気に罹ってしまえば、どうにもならない。ジョスの憶えているだけでも麦の病気は三度発生している。その病に冒された麦を食べた人間も罹患する為、病気の発生と共に全ての穀物が焼き払われる。食糧が足りなければ、性質(たち)の悪い風邪も流行る。それで子供の頃は遊び仲間を失った事もあった。
 そういった全ての事に、両親がどれ程,心を砕いて来たのかは、ジョスも良く知っていた。
 母は、特別だ。
 ジョスはそう思った。
 幼い頃に一族を亡くした人だからか、常に他者への愛情に溢れており、誰とも較べる事は出来ない。父がそうであるように、母は部族にとっての太母でもあるのだ。そしてまた、ジョスは自分は母のようにはなれないと分っていた。自分はあのように優美でもなければ寛容でもない。
「やっぱり、無理だわ、お母さま」
 ジョスは母に抱きついた。「わたしは、ダヴァルどのの島には行けません」
「何を言うの」優しく、母はジョスの髪を撫でた。「あちらでは、もう、あなたを迎える準備を整えていてくださっているのですよ。わがままを言ってはいけないわ」
「でも、もう、お母さまとは会えなくなるなんて、耐えられない」
「幼子のようなことを言わないで。誰もが何かを失いながらも生きて行くものなのです。あなたは、まだ、何も失ってはいないではありませんか。大丈夫です。あなたが幸せでいてくれさえすれば、会えなくなるくらい、わたくしは我慢できます。思いはいつでも、あなたにありますから」
 いいえ、お母さま、わたしは運命を失ったのです。それで、幸せになどなれる訳がありません。
 ジョスはそう言いたかった。産まれ育ったこの島を離れる事のみならず、嫁してしまえば、あの運命の人とは二度とは出会えない。出会えても、どうにもならない。
 それが叶わぬ願いと知っているからこそ、それ以上に母との別れは辛かった。しかも、母やローアン叔母との因縁が深いその島へ行くのは、辛いだけではなく苦しかった。
「この島は幸せです」母は言った。「誰もが自由で、誰もが平等で。それを守るのがお父さまの務めです。あなたも、その一翼を担ってきてくれました。女戦士の

は、自由の象徴でもあることは知っているでしょう。でも、無理に嫁がせたくないのは、当然です。誰もがあなたの幸せを祈っています。それに、島の誰もが祝ってくれているではありませんか。どこへ嫁ぐかは関係なく、皆が祝ってくれているではありませんか。わたくしたちが、あなたの幸せを願うのは、あなたの不幸なのでしょうか」
「でも、海神の使いが来ました」
 そう、異変の前には必ず、この生き物が浜に揚がった。
「あなたたち姉弟がわたくしに宿る前にも、揚がりましたよ」ゆっくりと母は言った。「吉兆となるか、凶兆となるかは、誰にもわかりません。何かの前兆であることは確かですが、それを読み取る術は失われて久しいのです。わたくしもお父さまも、吉兆と捉えていますよ。この婚姻は、絶対にあなたを幸福にするものだ、と」
「結婚なさるのは、お母さまではないわ。わたしは、会ったこともない人と、島に着いたその日に結婚するのよ。無理だわ。幸福になんて、なれるわけがありません。わたしは運命と出会ってしまったというのに」
 母は、まだ何かを言いたそうに一度は口を開いた。だが、結局は一言も発しないままに口を閉じた。そして、哀しげな顔でジョスを抱き締めた。


 遂に、その日が来た。
 満月からの十日間にわたる族長集会が終わり、次々と積荷船が出て行く。だが、常とは違い、島の外で全ての積荷船が族長船を待っていた。
 ジョスは、族長室で母の作った衣装を纏った。空色の長着には、地模様で、目を凝らさなければ分らない程に微妙な色で海狼の紋章が織られている。黄金色の飾り帯も母の作った物で、交易島で買い求められた遠い国の野蚕(やさん)糸という産物から出来ていた。これを手に入れる為に父がどれ程の値を払ったのか、想像もつかなかった。普段は履く事のない布靴の刺繍は、兄嫁のウィーラがほどこしてくれたが、これも素晴らしいものだった。
 全ての準備を終えて、母から薄絹を被せられた。
「いいこと、絶対に、他の人に顔を見せちゃだめよ」ソエルは厳しく言った。「婿殿と二人の時だけに、この薄絹は取って貰うの。女の人でもだめよ」
「誰かに何か言われたら、それがこの島の伝統だと言いなさいよ」ローアンが口を挟んだ。「お高くとまってと言われても、絶対よ。いいわね」
 二人に迫られて,ジョスはたじろいだ。
「でも、ここでは儀式の時にそんなことは――」
「婿殿に惚れ込ませるために考えに考え抜いたのですからね、床入りまでだろうが何だろうが、絶対に、そうしないとだめよ」
 ソエルの剣幕に、母は笑った。
「でもねえ、あんたは本当に

リィルにそっくりだわ」ローアンが溜息を吐いた。「この島に来るまでにリィルは、痩せすぎで俯いてばかりいて美人には見えなかったけど、今では誰よりも綺麗で若いわ」
「茶化さないで」
 母が言った。
「準備は出来たか」
 父と兄弟がやって来た。エルドやエルガドル、従妹弟達とは既に幸運を祈り合った。今は船着場にいるはずだ。
 マグダルが産まれた日、他島で産まれたオルハが父の腕から母に渡された日の事は、今でもはっきりと思い出せる。オルハが父の庶子ではないかと疑い、父に冷たく接した時期もあった。異母兄のイルガスはいつでも優しく見守ってくれた。フラドリスはよく、書物の分からない言葉を聞いてきたものだ。
「姉上、化けた」
「これっ」
 マグダルの言葉に、ソエルが叱った。「そんな事を言うもんじゃないわよ」
「だが、顔を見せてくれるか」
 父が言い、母が頷いてみせたので、ジョスは薄絹を上げた。
「母上との儀式を思い出すな」感歎したように父は言った。「大丈夫だ、スヴェルト殿も気に入られる」
「そうですね」
 兄が笑いを堪えるように言った。
 さあ、と父の差し出す手に、ジョスは自分の手を重ねた。
 そして、部屋を後にしてから、別れを済ませなくては、と振り向いた。だが、ここで別れるはずの女性三人は自分達の後を付いて来ていた。
「お父さま、お母さまもいらっしゃるわ」
「当然だろう、娘を見送りに出るのは。私の船で、島の外まで皆で送る」
 族長集会にこの島の女子供は決して姿を見せない。男でも、訳ありの者達はその間は

を潜めている。そういう島なのだ、ここは。
 館を出ると、集落は不自然に静まり返っていた。人の気配が感じられなかった。
 船着場まで、洞窟を下った。この隧道を下るのも、これで最後だ。海へと通じる広い洞窟には、族長船と父の軍船の他に船の姿はなかった。
 一族が姿を現すと、待つ者達の間から声が漏れた。母は唯論の事、部族の女が他部族の前に姿を現すのは、初めての事だった。
 五部族の族長達が居並ぶ前を、無言で父は進んだ。各部族長は、一族の者達に拝礼をした。身の周りの世話をする奴隷を伴う他島の慣例とは事なり、供もなく、たった一人で嫁して行くジョスの勇気を称えての事だったが、その事をジョスが知ったのは後になってからだった。
 父は、正面に待つダヴァルの前で足を止めた。ジョスの鼓動は早くなった。いよいよ、その時が来てしまったのだ。
「では、ダヴァル殿、我が娘ジョスを貴殿の弟君の妻として送り出そう」
「確かに、承り申した」
 父の手が、ジョスから離れた。
 嫌だ、と、思わず父に抱きついた。
「幸せに、ジョス」
 既に父ではなく、海狼としての顔と言葉だった。
「ジョス」母が歩み寄り、ジョスを抱き締めた。「大丈夫よ、幸せに」
 兄弟や叔父や叔母と抱擁を交わした。
「来年は絶対に、会いに行きます」
 先程まで憎まれ口を叩いていたマグダルまでが、十八になってさえ涙目だった。
 改めて、父の手からダヴァルの手に、ジョスは引き渡された。筋張った父や弟達とは事なり、肉厚な手だった。
 導かれるままに船に乗り込むと、既に乗船していた戦士達が一斉に姿勢を正して抜き身の長剣を眼前に掲げ、ジョスを迎えた。父の船に較べると幅は広かったが、吃水の浅い北海の船である事に変わりはなかった。父の軍船の舳先には狼が彫られていた。鷲の島は鷲だが、他の北海の族長船は竜だった。
 そして、他の族長船を先頭に、ダヴァルの船は船着場を離れた。
 少し遅れて、父の船が出た。
 断崖に、銀の兜の女戦士達が散見された。
 鳥の鳴き声のような、独特な声が谺する。
 船の舳先には、水先案内の者がおり、ジョスに微笑みかけた。かつての仲間だ。(ねえ)さまがた、妹たち、さようなら、とジョスは叫び返したい気持ちを抑えた。
 隘路を抜け、帆柱が立てられた。狭い水路を船は進んだ。永遠に続けばよい、と思った水路は、だが、あっけなく終わり、女戦士はすれ違いざまにジョスに頷いた。そして、横付けされていた父の船にひらりと乗り移った。
 開けた海には、大小様々な島の船が浮かんでいた。
 集落が異様に静かだった理由は、これだったのだ、とジョスは理解した。
「ジョスお嬢さまあ」
 苦労をかけた厨房頭が、小船から叫びながら手を大きく振っていた。それがきっかけとなったのか、普段は物静かな人々が、口々にジョスの名を叫び始めた。子供の頃から見知った老人、遊び相手になった子供達、そして、中には子供を連れた幼馴染みの姿があった。
 誰かが島を指さした。振り返ると、断崖にも人影があった。法外追放や元奴隷などで、決して他島の者の前に姿を見せたくない者達だ。様々な詩を教えてくた老詩人も、その中におり、竪琴を鳴らしていた。その音が、ジョスにも聞えた。大好きだった詩だ。
 この島には、もう、帰る事はないだろう。
 皆もそれを分っている。ジョスの輿入れする島が、どういう場所なのかも知っている。それでも、別れを惜しんでくれている。自分は、知らずして皆の愛情に包まれてたのだと思った。その人々を乗せた船は、どんどんと遠ざかって行く。
 島の光景、洞窟の枝葉までもが思い出になって行く。引き返す事の出来ない船出だった。もし、戻る事があったとしても、それは今のジョスではない。
 父が、片手を上げた。もう一方の手は、母の身体に回されている。
 あのような一対になりたかった。
 ジョスは思った。
 いつも,父母が口にしていた言葉、比翼連理。
 二人はだが、一羽の鳥の両翼のようだった。どちらが欠けても、空は飛べない。そのような運命の人と添いたかった。
 他の族長船が、嫁ぐジョスに礼を尽くす為に近付いて来た。
 一艘、一艘の族長が、ジョスと両親に向かって胸に手を当て、(こうべ)を垂れた。女戦士として、その水先案内を務めた事もあった。だが、誰一人として、その事には気付いていないようだった。
 父は返礼をする。だが、ジョスは、教えられたままに、背筋を伸ばして立っていた。
 毅然として。女戦士に戻ったように。
 他の族長船が離れ、やがて、父の船も離れようとした。
 その時に、不覚にも涙がこぼれた。
 海狼ベルクリフの一人娘として、最後まで他人にそのような姿は見せたくはなかった。だが、両親はそれに気付いたようだった。母は、父の胸に(いだ)かれ、その(かんばせ)を伏せた。海神の娘の目には、涙が溢れているのだろう。それを、ジョスには見せまいとしているのだろう。ゆっくりと、父が頷いた。海狼は弱みを見せない。見せるのは、母の前でだけだ。
 父の軍船の船脚が落ちた。
 ここが、別れの場所。
 ジョスは島と船が遠ざかって行くのを見つめた。族長以外に身分などない安寧の場所。それとは気付かなかった、揺籃(ようらん)
 やがて、全てが水平線に消えて行くと、ダヴァルは帆を揚げさせた。
 逆風ではあったが、微妙な調整で風を捉え、船脚が早まった。
 ジョスは、艫を見やっていた目を舳先へと向けた。そして、そちらに向かった。
 この先に、自分の未来があるのだ。それがどういった物なのかは、全く想像もつかなかった。引き返す事が叶わぬ事だけが、確かだった。
「ジョス様」戦士の一人が、足下に跪いて言った。「外海へ出ますので、風が強くなります。天幕の方へいらっしゃるようにと族長が申しておします」
「こちらの方角に、あなたがたの島があるのですか」
 ジョスは言った。
「はい」
「では、もう少し、気が済むまで、こうさせてくださいな」
「しかし――」
 渋る戦士を薄絹越しに見下ろし、ジョスは言った。
「わたくしが、お願い申し上げていると、族長にお伝えください」
 その姿は凜として気高く、まさに海狼も娘でしかなかった。
 そして、それは長く戦士の間で語り継がれる事となった。
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