第1話

文字数 1,988文字

「夏木さんて、いつも下向いてるよね」
「やだ暗ーい」
午後の休み時間、教室の端から聞こえてきた会話にあかりはうつむいた頭をますます沈みこませた。
くすくすっと笑い声が別の方向からも聞こえてきた。
目の前が一気にぼやけて、ぽとっと雫が垂直に落ちた。
「あーあ、泣かせちゃった」
「イジメだイジメ」
近くにいた男子数人がはやし立てた。
「え、いじめてないし」
「騒がないでよ、バカ男子」
ぐしょぐしょの視界の中で周りの声だけが聞こえてくる。
「ごめんね~夏木さん、今言ったこと気にしないでね」
「そうそう冗談で言ったの。ごめんね」
女子二人がいそいそと近づいてきた。
「松やんにチクったろ」
「学級会やな、これは」
からかう男子の声も「なんなん、もう」と呟く女子の声も、さざめく空気と共にすうっとあかりの前を消えていった。

「クラスの子には、よく言い聞かせましたんで。言えば分かる子たちなんやけど」
額を何度もハンカチで拭きつつ、松やんはそう言った。
「先生、この子敏感なところがありまして」
母の隣であかりはうつむいていた。
放課後の静かな教室に運動場で遊ぶ子供の声が響いた。
「じゃあ、ちょっと鈍感になりましょう」
え?と私と母は松やんを見た。
ちょっと待ってください、と言って松やんは席を立った。
いつもはもしゃもしゃの白髪頭が今日はしっかりとなでつけられている。
前方の机から松やんはゴソゴソと何かを取り出し、戻って来た。
「これ…カメラ?」
あかりは松やんの手元を覗き込んだ。
「そう、一眼レフカメラって言うんだ」
「随分立派ですね。先生ご自身のものなんですか?」
とあかりの母も興味深げに眺めている。
「ええ、趣味の範囲でやっておりまして、腕は三流なんですけどね」
松やんは白い歯を見せて笑った。
そういえば以前、写真が趣味だと話していたことをあかりは思い出した。
松やんはカメラを構えると、あかりと母の方にレンズを向けた。
あらやだ、と姿勢をただす母の横で、あかりは体を固くした。
「固い固い、二人とも。はい、マヨネーズ!…違った、はい、チーズ!」
フラッシュと共にシャッター音が鳴り響いた。
撮った写真を見せてもらうと、きりっと口を引き締めた母の隣に視線を完全に下に向けた自分の姿があり、あかりは恥ずかしくなった。
「よそ行きの顔ですなぁ」
カカカと松やんは笑った。
母はやだ口元にシワが、なんて呟いている。
「カメラを意識しちゃうとつい固くなっちゃうでしょう。人の視線も同じで、気にしすぎると本来の自分を出せなくなってしまう」
松やんはレンズをいじりながら
「いい写真を撮ってもらうには鈍感さも必要ですな」
そう言ってカメラをあかりの方に差し出した。
「これをしばらく貸し出すから、好きに使ってみて」
松やんの言葉にあかりは耳を疑った。
「まあ先生、こんな高価なもの壊してしまったら…」
「簡単に壊れるような代物じゃありませんよ。それに」
松やんはクククと笑った。
「君だったらきっと使いこなせる」
はっと顔を上げたあかりを、松やんはしっかりと見つめた。
「これは僕からの宿題。このカメラでいっぱい写真を撮って、撮られて、鈍感さを手に入れてみて」
松やんの言葉は分かるようで分からなかったけど、あかりはこのカメラを使ってみたくなった。
「写真は誰もが主役になれる。レンズの向こうは、ユートピアだ」
松やんの言葉が、妙に耳に残った。

以来あかりはいろんなものを撮るようになった。道端の花。お気に入りの文房具。家族の食卓。公園で出会った猫。それから・・・いつも挨拶するお隣のおばあちゃん。これには自分でも予想外だったが、自宅の庭で写真を撮っていると、塀の向こうから
「いいもの持ってるねぇ。私も撮ってくれる?」
とニコニコと声を掛けられたのだ。思った以上にきれいに撮れて喜んでくれたことが、あかりには誇らしかった。

「夏木さんて、最近変わったよね」
「うん、あんま下向かなくなったし堂々としてるよね」
以前あかりを暗いと悪口を言った子たちの会話がふと耳に入ってきた。
あかりはそっと席を離れ教室からベランダに出た。
向かいの校舎の軒下には、ツバメが巣を作っているのだ。目立たないこともあって、クラスの子で気付いているのはあかりだけだった。
松やんに報告すると
「よく気付いたなぁ。視野めっちゃ広いな」
と褒めてくれた。
「ヒナが生まれる瞬間、撮ったらどうだ」
と言われ、返すつもりだったカメラはもうしばらく借りることにした。
視線をちょっと上に向けるだけで世界がグンと違ったものに見える。松やんはそんなことに気付かせてくれた。

「お、いいね。この表情」
「変にカメラを意識してないところがいいですね。表紙は彼女で決まりでしょう」
夏木あかりさん、とスタッフに呼ばれ、ゆっくりとステージの上に立つ。白く照らされた空間にシャッター音が響く。
目にするものすべてが主役になれる。レンズの向こうはどんなときでも、ユートピア。
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