自己暗示を知ってるかい?

文字数 1,246文字

せっ、先輩、僕っ……やっ、ややややや、やっぱりっ! オッ……オオオオオーディションははははははわわわわわ……むっ、むむっ……無無無無無理理理理理理理……!
太田垣君……
しっ、失礼します!
憧れの人の前では恥をかきたくない。失望させたくない。人は誰しもそう思うもの。彰はそのまま踵を返して鏡花に背を向けると、逃げ出すように音響効果室の扉へと向かった。

しかし、手首がグッと掴まれ引き戻される。
……!
大丈夫……太田垣君、キミには出来る……
振り返ると、鏡花がじっと見つめていた。そして、掴んだ彰の手首をそのまま放そうとしない。
先輩の手……あ、温かい……
鏡花はもう片方の手を伸ばして彰の手に重ねる。
自己暗示というのを知っているかい?
自己……暗示……?
ふふっ、どんなに舞台経験のある役者だって、本番前は緊張するものさ。
だから自分で自分に暗示をかける。
自分にはできるってね……
……。
暗示のかけ方は色々だ。好きな音楽を聞いたり、決められた動作を儀式のように繰り返したり。有名なのでは、手の平に人という字を書いて呑むというのもそうだね……
鏡花は、彰の瞳から目を逸らさずに言葉を続ける。

やや低い彼女の声、その落ち着いた口調には人を引き込むゆったりとしたリズムがあった。
そして、それは役者一人きりで完結するものではないんだ。
その周りの者も、役者が自分にかけた暗示を助けるように、それに合わせる。この人ならきっと出来る、あなたが舞台に立つなら何の心配も要らないというように振舞う。
……優秀な監督や演出家、プロデューサーというのは、そういうことを心得ているものなんだ……わかるね?
(わかるような。わからないような……)
だが、要するに、彼女は今、彰を落ち着かせようとしてくれている。それだけはわかった。

それでも、こんな美人に間近でじっと見つめられて、両手を重ねて手を握りしめられては、自宅にオスカー像を何体も飾っているようなベテラン俳優だったとしても平静でいられるはずがない。平常心など百億光年の彼方に吹き飛ぶというものだ。
でもっ……せっ、先輩……
キミには出来る。
……さあ、自分の口でも言ってごらん。
(口で……いってごらんだって……なんかすげーエロい……)
いや、そんな意味では言ってないだろ。
だがしかし、そんな思考が駆け巡るほどに彰は興奮してしまっていた。

それでもどうにか、言われるがままに、カラカラに乾いた喉の奥から絞り出すようにして声を発する。
ぼ……僕には……出来る……
そうとも、キミには出来る……
すかさず鏡花が輪唱するように繰り返す。

相手の暗示に合わせて振舞うというやつだ。
周りのリアクションが暗示を強化する……彼女の口にしたその通りだ。
彰は拳をギュッと握ったまま椅子に戻って再び腰を下ろした。
わ……わかりました。それで……オーディションは何の役なんですか?
まだ少し緊張は残っているけれど、頭の中は随分と冷静さを取り戻して来た。
その様子に鏡花が満足気に頷く。
実は、太田垣君にお願いしたいのは、役者じゃないんだ。
へっ?
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登場人物紹介

神楽見鏡花(かぐらみ・きょうか)

桜坂すめらぎ学園の演劇部部長。
プロの劇団の脚本をも手掛ける才色兼備の美少女。

水城亜優(みずき・あゆ)

桜坂すめらぎ学園の新入生。
鏡花に憧れ演劇部に入部する。

太田垣彰(おおたがき・あきら)

桜坂すめらぎ学園の新入生。
亜優にはいつもヘタレ扱いされているが、スケベに関しては大胆なところも。

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