結婚生活

文字数 3,757文字

 好きな異性と一緒に暮らせるのは、幸福なことだ。ほかには、何もいらない、と思えるのである。
 1990年、私、24、彼女18の齢で、小田急線の登戸駅から徒歩10分ほどの、多摩川にほど近いマンションの部屋を借りた。家賃、9万円。きれいな、2DKだった。
 夏の暑い盛りに、ふたりで不動産屋めぐりをして、そこが一番よい部屋だった。不動産屋には、婚約者です、と言っていた。ふたりがそれぞれバイトで稼いでいた、合わせて100万円の貯金は、このマンションの敷金礼金、冷蔵庫や食器棚、家具の調達などで、瞬く間に霧散した。

 あたらしい、関係を、ふたりで築きたかった。私は、女に、小さくまとまってほしくなかった。私にとらわれることなく、彼女の能力のようなものを、伸ばしてほしいと願っていた。
 私は、男だからといって、威張りたくなかった。また、そんな、威張れるような男でもなかった。
 彼女は、在宅でワープロを使って、英語の構文を分析するバイトをしていた。それで1ヵ月10万ほどの収入を得ていた。しかし、お金にとらわれることなく、彼女にしかできないような生き方で、生きていってほしいと思った。私より、はるかに頭の回転が早く、有能であると、ひそかに畏敬していた。

 4階のベランダから、向ケ丘遊園の観覧車が見え、よみうりランドのジェットコースターの先っぽが見えた。晴れると富士山も見えた。梨園がすぐそばにあり、マンションの裏手のほうには小川が流れていて、春には桜が川沿いに並んで咲いていた。夏の花火は目の前の多摩川で間近に見えた。
 私はこの女となら、子どもをつくって、いいと思った。それまで、誰か異性と、そういう機会がなかったわけでもない。しかし、私はその行為をする時に、この女と一緒に子どもを育てていけるだろうかと、必ず考えずにはいられなかった。行為に、踏み切れなかったこともあった。

 だが、彼女とは、子どもがいないのが、何か自然でないようだった。幸福だったのである。私は貯水槽のバイトを毎日して、手取り25万は稼いでいた。家に帰ってくると、彼女が食事をつくってくれた。任天堂のファミコンを買って、スーパーマリオブラザーズで、ふたりよく戦った。
 たまには口論もした。ふたりで生活をするということは、相手を無視できないものだった。私は、それぞれが、それぞれのペースで暮らしていけば、それでふたりの生活は成り立つものだと考えていた。
 私は、あまり相手に干渉しないよう、していたつもりだった。相手が、朝、いつまで寝ていようが、昼間だらだらしていようが構わない。自由にしていてほしかった。

 そう、自分が相手に求めるものは、自分が自分に求めるものと、同じであった。私は、しゃんとしようとした。ちゃんと掃除もして食器も洗い、だらしない生活にならぬようにした。しかし、気まずくなるきっかけは、私のいい加減さに起因することが多かった。
 掃除をしても、よく見ると埃がまだ残っていたりした。食器を洗っても、まだ汚れが落ちていない。それでも、自分としては、掃除をして食器を洗ったつもりでいた。洗濯をして干すときも、あまり乾かないような干し方をした。
 彼女の方が、しっかり、きちんとできていた。私が自信をもってできていたのは、布団を干すことくらいだった。
 一緒に生活をするということは、大変なことだと思った。もし別れるとしたら、最初の一、二ヵ月がその機会ではあったろう。しかし、私達は別れなかった。さいごのところで、投げきれなかったのである。
 翌年の一月、彼女の妊娠が分かった。よかったと思った。これで、子どもを育てて、生きて行くのだと思った。

 私は、せいいっぱいの努力をした。つわりで大変そうな彼女に、自分のできることを、やっていた。貯水槽の仕事をしなくなり、家事を、ちゃんとこなそうとした。栄養のありそうなものを買い、彼女の好きな果物を買い、どうか美味しく食べれるように、料理をつくった。
 しかし、だいたいが、もどされた。いちごを食べると、どういうわけか、必ずもどした。カップラーメンと、納豆ご飯なら大丈夫だった。こんなもので、いいのだろうかと思った。
 九月に、元気な赤ちゃんが生まれた。明け方、陣痛が来て苦しそうだったので、かかっていた助産院へ電話した。タクシーを呼び、助産院へ行く途中も、苦しそうだった。大丈夫かい、と運転手が心配そうによく振り向いた。
 助産院に着くと、三十分くらいで子どもが生まれた。産声をあげた時、私はカメラを探していた。バッグの底にあった。

 さて撮ろうとしたら、えっ、そんなところから撮るの、と助産婦さんに言われた。赤ちゃんが出てきて、助産婦さんがとりあげたところを撮ろうとした。現像する写真屋もびっくりしそうなところだった。ほかに、どの位置から撮ったらいいのか分からず、途方に暮れた。
 まだおっぱいが出なかったので、同室の人のおっぱいをいただいた。
 一週間ほどで退院した。荷物をまとめ、どうもありがとうございました、と出ようとした。肝心な赤ちゃんを忘れそうになった。

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 フリガナをつけないと、読めない名前をつけた。彼女が、字画やらの本を読んで、これが良いのだった。いい名前だと思った。男の子だったら、翔という名にしようとしていた。私には何の想像力もなく、彼女に任せきりの名づけであった。
 子どもを、可愛いと思った。不思議な気もした。こんな小さな生き物が、どうやって大きくなるのかと思った。
 ほとんど二時間おきに授乳するので、夜泣かれると、つい、イライラして、違う部屋で寝ようとして、申し訳なかった。ふたりでつくった子どもなのに、ひとりにまかせては、いけなかった。ただ、朝早くからバイトに行くことを思うと、ちゃんと寝なくてはと思っていた。

 友人が、何人も、訪れてくれた。友達にも、どんどん遊びに来てほしかった。女友達も少なくなかった。しかし、一緒に暮らしはじめてから、波がサーッと引くように、遠ざかっていった気がする。不思議な感じだった。私自身が、そんな雰囲気をつくっていたのかもしれない。淋しく思った。
 ハイハイしはじめて、ひとりで立てるようになり、三人で一緒にご飯を食べる。何か会話の拍子に、おめえが…、と私が妻に言ったら、子どもが、おめめ、おめめ、と自分の目を指さした。意表を突かれて、笑うしかなかった。
 妻も私も、子どもの一挙一動に、幸福なのだった。

 家庭というのは、子どもがいて、はじめてそれらしくなったように感じる。まるで、共同体である。三人のうち、だれか一人が欠けたら、がらがらと崩れさるようなあやうさも、同居していた。
 安住しながらも、私は、どこかへ行きたい気持ちに、よくさいなまれた。何も、不満はなかった、といえば、嘘になる。何か不満はあった。
 それは、自分の中で処理することもできる。相手に言って、相手にどうにかしてもらうことも、できるかもしれない。
 しかし、私は自分の根本的なものを変えられないように、相手も、相手の根本的なものを、変えられるはずもない、と思っていた。

 私は、そんな、相手を、好きになったのだ。私は、ひとづきあいが好きだった。彼女は、どちらかというと、ひとづきあいが苦手のようだった。そんな彼女を好きになったのは、自分の中にも、知らない私がいて、ほんとうはひとづきあい、私は苦手なのではないか、と思った。
 彼女の中の何かと、私の中の何かが、共鳴しあって、おたがいに好きになれるものだと思っていた。ひとが、ひとを好きになるというのは、そういうものではないか、と。
 私は、そとへ、出たくて、しようがなかった。しかし、妻と子どもの存在というのは、私の後ろ髪が引っ張られるようだった。私は、妻子をだいじとしていた。だいじとするなら、そのまま、だいじにすればいい。しかし、それが、なかなかできない自分が、たしかにいるようだった。

 私は、自分を、病気かもしれないと思った。知人から、「Kさんは、強迫観念症ではないか」と云われたことがあった。~すべきだ、~すべきだ、との強迫観念にとらわれているのなら、この世のひとたち、みんな強迫観念症ではないか、と思った。
 妻を、私は、ありがたいと思っている。「病気に、逃げちゃダメ」とも、言ってくれた。一緒に、いてくれた。いつも、そばにいてくれた。そばが、たまらなくいやになるときもあった。
 私は、自分勝手な人間だと思う。だから、妻にも、自分勝手さを求めたのだろう。勝手になってくれれば、私と同罪だ。共犯してくれれば、私の罪、軽くなる。甘ったれた根性があったのだろう。

 しかし、とまた考える。私はずっと、こんな人間でありつづけて生きてきた。こんな自分でありつづけることの限界も、見えてきた。
 私は妻を、ありがたいと思う。それをどう表現し、体現したらいいのか、術を知らないでいる。きっと、わかってくれるだろうというのも、甘えた思惑だ。
 何も考えず、ひとを愛せたら、と思う。何か考えても、同じなのだということも分かっている。分かっているつもりで、何も分かっていないことも、知っているつもりでいる。
 私には、思いやりというものがないのだろうか。
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