聖なる夜の潜入依頼

文字数 2,545文字

 それはスー商会取締役タオ・スーからの依頼だった。とある建物に 12月24日の夜に忍び込んで、内部の人物を調べてほしいというのだ。潜入捜査。本業の暗殺ではないが、それに近い報酬が提示されている。難しい仕事かも知れないとヘイランは気持ちを引き締めた。
 依頼には服装についての条件がつけられていた。暗器を忍ばせるポケットが多数ついたヘイラン愛用の黒い戦闘用スーツではなく、スー商会から送られてくるコスチュームを着用すること。慣れない身なりでの任務は危険を伴うが、今回は暗殺ではないので護身用の武器さえ携帯していれば、戦闘用スーツでなくても任務はこなせるだろう。
「なんだ、これは……」
 送られてきたコスチュームをヘイランはいぶかしく思った。体のラインを際立たせるボディスーツに帽子のような被りもの、目の周りを覆うマスク。まるで子供の頃に映画館で観た「キャットウーマン」の主人公のようだ。違っているのはスーツの生地が黒いエナメルレザーではなく、毛羽だったダークブラウンであること。そして帽子には耳ではなく角が生えていることだった。
 24日の夜にヘイランは指定されたコスチュームを着てターゲットの建物へと向かった。建物はスー商会の本部ビルから歩いて数分のところにあるレンガ造りの家だった。スー商会の縄張り内なのに、どうしてタオ・スーが自分で調査しないのか。罠かもしれない。ヘイランの背中に緊張が走った。このコスチュームでもし相手と戦闘になったら……。ブラジャーのバックベルトにはさんだ護身用のナイフを指先で確認しながら、ヘイランは考えをめぐらした。タオ・スーの狙いはなんなのか。
 頭を左右に振って気持ちを入れ替える。考えるのはやめよう。もし想定外の事態に巻き込まれても、このナイフがあれば逃げおおせることができるだろう。依頼を引き受けたからにはやり遂げるのがプロの矜持だ。
 ヘイランはあらためて建物を見た。正面の木製の扉は、外部からの侵入を拒むようにぴったりと閉じている。四方の壁には緑色の木枠の窓があるが、内側にはカーテンが引かれており、部屋の灯りはついてない。調査対象の人物は消灯して眠っているのか。それとも部屋にいないのか。
 足音を立てずに建物を一周して侵入路を探る。正面の扉は重厚だが古びており、開けると軋んで大きな音を立てそうだ。窓から侵入するなら窓ガラスを切るのが常套手段だが、あいにくガラス切りを持ってきていない。
 あそこが最も無難か。ヘイランは屋根の上に突き出した四角い煙突を見つめた。煙が出ていないので、暖炉で火を焚いている懸念はない。侵入する部屋が居間だとわかっていればその後の行動がとりやすいので、悪い選択ではない。
 壁に手をかけて左足のつま先をレンガの隙間に押し込むと、ヘイランは勢いよく壁を登りはじめた。日頃のトレーニングで登っているボルダリングの壁に比べれば、レンガの壁には凹凸が多い。ヘイランは難なく屋根の上に到達した。
 眼下に広がる大通り見ると、カップルや家族連れが笑顔で歩いていた。父と母に挟まれて歩く小さな子供が、緑のリボンのかかった赤い箱を大切そうに抱えている。そうか、今日はクリスマス・イブか。へラインの家では昔からクリスマスを祝うことがなかった。神や宗教を信じていては暗殺者など務まらない。クリスマス・イヴに依頼をしてきたタオ・スーは華僑だから、やはりクリスマスなど頭にないのだろう。
 煙突の縁に手をかけて、てっぺんから中を見下ろした。真っ暗だ。居間にも灯りはついていないようだ。侵入するにはありがたい。ヘイランは煙突の中に体を滑らせると、手足を左右に突っ張って大の字になり、煙突の内側に張り付いた。音を立てないように注意を払いながら、一歩ずつ下っていく。伸ばした右足が暖炉の火床についた。左足と両手を煙突の内側から離し、静かに火床におりて身を屈める。足元から舞い上がった灰がふわりと顔を撫でた。
 暖炉の内側から暗い室内に目を凝らすと、部屋の隅にチカチカと光が見えた。赤、緑、黄、青色の光が星のように瞬いている。まずはあの光のところに行こう。暖炉の中から室内へと足を伸ばしたときに、ヘイランの目の前がパッと明るくなった。部屋の灯りがついたのだ。
「しまった! 見つかったか」
 眩しさに目を細めながら、ヘイランは暖炉から室内へと飛び出した。クルリと前転しながらダークブラウンの毛羽だったコスチュームの隙間に右手を入れて、護身用のナイフに手をかけた。
「メリー・クリスマス!」
 ヘイランの後ろから子供達の大きな声が聞こえた。振り向くと、十数人の子供達が笑顔で彼女を見つめている。先ほどのチカチカした光はクリスマス・ツリーの電飾だった。
 な、なんだ、これは一体……。
「さあ、ルドルフが来たあるネ」
 子供達の後ろからタオ・スーが巻き髪を揺らして顔を出した。ダボッとした赤い上下の服を着て、口の周りに白い髭を付けている。
「みんなあんたを待ってたあるヨ」
 タオ・スーがヘイランの鼻の頭に赤い球をくっつけた。ダークブランの毛羽だったコスチュームに角の生えた帽子、赤い鼻。ヘイランの格好はトナカイのコスプレだった。
「七夕祭りのあと、子供達がまたあんたと遊びたいってしつこいから、今夜来てもらったネ」
 トナカイ姿のヘイランを指差してタオ・スーがケラケラと笑うと、子供達がキャッキャとはしゃいだ声を上げた。ヘイランは目を閉じて顔を紅潮させて、小さく肩を震わせた。頭の角も震えている。
「おや、怒ってるのかい?」
 タオ・スーが眉を寄せて尋ねた。
「もしかして報酬が足りなかったかい?」
「違うわよ」
 クククと笑うと、ヘイランは横目でタオ・スーを睨んだ。
「報酬が多すぎるわ。差額でプレゼントを買って子供達に配るから、後であなたのサンタの衣装を貸して頂戴」
 ヘイランとタオ・スーを囲んで、子供達がワァと歓声をあげた。
「いい子にしかプレゼントあげないわよ。みんないい子かしら?」
「はーい!」
 子供達が手を上げて応える。ヘイランはタオ・スーに目配せをしてほほ笑んだ。
「メリー・クリスマス! 私があなたに報酬を払いたいくらいよ」
 真っ赤なお鼻のヘイランの後ろで、クリスマス・ツリーがチカチカと瞬いた。
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登場人物紹介

ヘイラン・ポランスキー。美貌の女暗殺者。

タオ・スー。華僑の組織、スー商会の取締役。

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