第90話 猟師と猟犬
文字数 959文字
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私はみなさんに言った。
「『石』というのは、すごい犬ですよ。この豊かな自然の中を猟犬として駆け巡っていたのに、ある日、 箱に入れられて汽車に乗せられ、何十時間もかけて東京へ。ここを離れる時は、もう5歳の成犬でした。だからこそ不安も大きかったと思います。信市さんとの別れも辛かったでしょう。でも、そのおかげで『石』は、純粋日本犬・柴犬の血を守りました」
信市さんと石の別れの時を想像すると、いつも涙が溢れてくる。
ポンとの別れと重なってしまう・・。
信市さんは、どれだけ辛かったことだろうか。
「石」のいないこの山は、どれほど静かで、広くて、寂しかったことだろうか。
石見の山の中しか知らない「石」が、まったく環境が異なる大都会、東京へ。
どんな運命が「石」を待っているのだろう。信市さんは、その行く末をどれほど案じたことか・・。
私はポンと死に別れたけれど、生き別れた信市さんの方が、その辛さや苦しさが大きかったのではないかと思う。死なれたら、あきらめるしかない。そこに「救い」がある。
私は長い間、ペットロスで苦しんだけれど、「ペットと飼い主」の関係と、「猟犬と猟師」の関係は、根本的に大きな違いがあるのでは無いかと思う。
「ペットと飼い主」は、互いに向きあっている感じがするけれど、「猟犬と猟師」は、同じ方向に向かう同志であり、運命共同体。
一蓮托生、そこには、私には想像もつかないような絆、繋がりというか、“何か”があるような気がする。
「ペットロス」などという、ここ最近の言葉では、表せない・・“何か”が・・。
しかし、その信市さんの途方もない哀しみや苦しみがあったからこそ、今、世界中の人々に愛される日本が誇る「天然記念物・柴犬」がいる。
「わしにはようわからんが、お前には何か大きな使命があるようじゃ。わしが一人占めできるような犬ではないようじゃよ・・」
きっと「石」の「本質」と「遺伝力」、その素晴らしさを一番わかっていたのは、信市さんだと思う。
昭和11年5月、石号は東京へ。その2ヵ月後、信市さんは36歳の若さで亡くなっている・・。その子細は、ご親族もわからないという。
次号に続きます。