8 叶わない想い

エピソード文字数 8,375文字

 蒼子さんの家は、カーナビに田宮さんの教えてくれた住所を打ちこんで、すぐにたどりつけた。三十分以上は走ったようだったけれど、時計を確認すれば十分あまりだった。
 見知らぬ人を訪問するなんて、心臓が大きく跳ねる。だけど緊張している場合ではなかった。
 深呼吸をして、玄関のインターホンを押す。
 突然の訪問に、玄関で出迎えてくれた蒼子さんのお母さんは、何事かと驚いた。
「蒼子さんと……同じ研究室の者です」
 偽りを、上品な白髪のお母さんは信じてくれた。
「あの子、声はだせないけれど耳は聞こえるから、筆記で会話が成り立つわ」
 お母さんが蒼子さんを呼びにいくと、やがて蒼子さんがひとりで現れた。
 ロングヘアの痩せた女性だった。彫りの深い顔立ちには蔭りがあって、災難な事故に遭ってしまった悲痛さがにじみでていた。
「伊東雅樹さんから、ことづてがあって……ご主人のことで」
 私の言葉に、蒼子さんは目を見開いた。
 それから私に両手のジェスチャーで「待ってて」と伝えると、家の奥へ入っていった。 
 上着をはおってでてきた蒼子さんが、私を表へと誘う。
 私は事情を説明した。田宮さんが斎木の人質に捕らわれていること、雅樹さんもそこにいること。
 蒼子さんは何度も息を呑み、ノートに「一緒にいく」とだけ書き記した。
「警察には?」
 私の問いかけに、蒼子さんは首を横に振った。こんな事態になってまで、なにを怖れて警察に通報しようとしないのだろうか。
 私たちは車に乗りこみ、廃校へと向かった。
 運転席から流れる街灯を見ながら、私は焦る。このままのこのこといったところで、斎木の思うツボだ。
「蒼子さん。やっぱり通報させてもらいますよ」
 私は路肩に車を止めて、スマートフォンから110番をした。
 助手席の蒼子さんは、やめてと何度も手を振ったけれど、私は屈しなかった。事の次第を説明して、電話を切る。
「そこで待っていてくださいって、警察が」
 けれど蒼子さんは首を横に振って、人差し指を前へ前へと差しだし、ジャスチャーで先を急ぐよう示した。
 私はまた、車を発進させた。そうして廃校へついた。まだ警察はいない。
 新校舎の二階、奥の教室へ、蒼子さんをつれていった。
 教室の入り口から中をのぞく。
「蒼子!」
「蒼子さん!」
 驚愕に近い田宮さんの声につづいて、千年ぶりに恋人に会ったような雅樹さんの声が響いた。
 雅樹さんは教室の中央で椅子に座らされ、後ろ手に縛られていた。メガネのレンズにひびが入り、唇が切れて血がにじんでいるのが、窓から射しこむ街灯の明かりでわかった。斎木と争ったということが見て取れる。
 雅樹さんの隣、窓側には、椅子三つぶんくらい開けて、田宮さんが同じように縛りあげられていた。口もとからすこし、血を流している。
 ふたりとも、足を椅子の脚にくくりつけられていて、身動きは取れない。
 教室に机はなかった。がらんとした空間に、私たちはいた。ただ椅子が、山になって教室の隅にある。
 私たちは、教室の中へとゆっくり進んだ。
「まさか蒼子さんがきてくれるとはな。田宮さんの兄貴といい仲になっても、まだ亭主のことは気になるんだな」
 なんだって? 蒼子さんが、田宮さんのお兄さんと? 不倫していたというのだろうか。リサーチ会社の人が言っていたように、夫婦のすれ違いだけじゃなくて、別居の原因はそこにもあるのだろうか。
「さあ、早くこのデータ、見せてくださいよ」
 薄ら嗤いを浮かべる斎木。隣の蒼子さんを見れば、斎木を睨んでいた。
 それから蒼子さんは田宮さんを見やると、「どういうこと?」と、首を傾げて見せた。
「いや……だから……そういうことだよ。俺の自損事故の次の日、蒼子から手紙が届いた。雑貨屋のインコのかごにUSBメモリをつけてある、そこに俺の知りたかったことがすべて書かれてある、って。なんで鳥かごになんか……」
 困ったように髪をかきあげて、蒼子さんはペンを走らせた。

  ほんとうに知りたいときに
  自分の手で見つけだしてほしかった 

 暗がりの中、私がスマートフォンのライト機能で照らしたノートには、そう書かれていた。
「田宮さんの知りたかったことってのは」
 手にナイフをちらつかせて、斎木が言う。
「開発途中の新薬についてと、それからオレの横領の件だよな? 田宮さんが蒼子さんから手紙がきたって、すぐに教えてくれたんだよ。それでオレを、強請り返してきたってわけ。そりゃ、あの店に空き巣に入って、USBメモリ、先に奪いたくもなるでしょう?」
「空き巣の犯人も、やっぱりあなたですか!」
 大声で雅樹さんが言えば、「うるせえ!」、斎木が怒鳴った。
「……でも……田宮さんが、なんでここに縛りあげられているんですか?」
 私の声は震えて上ずる。
「さっさとケリつけようと、こうして呼びだしたんだよ。田宮さんがよ、面倒な事故を起こしてくれたおかげで、保険屋が嗅ぎつけやがってな。いろいろとまた、身辺がうるさくなってきたんだよ」
 斎木が言うのは、うちの会社で手配した、リサーチ会社のことだ。
「なあに、保険屋なんて欺しとおす自信はあるさ。でもオレだって、いいかげんこの件は終わりにしたいだ。早く新薬を発表しなきゃならないしなあ?」
 深いため息をついて、蒼子さんがノートにメモ書きをする。
 
   達彦なら、こんなトリック
   かんたんにわかると思ったのに

 そう書かれたノートを見せて、蒼子さんは雅樹さんの前の床に置いてあった、パソコンの正面に座った。私も隣にひざまずく。
 蒼子さんはまず、パソコンのコントロールパネルを開いた。そこのフォルダーオプションから表示をクリックし、さらには〝登録されている拡張子は表示しない〟のところのチェックをはずした。
 それから問題の、データのアイコンの拡張子を変えた。bmpからdocへと。
 すると、ワードの文書がでてきた。画像ファイルだとばかり思っていたこのデータは、文書ファイルだったのだ。
「でてきたっ! なんだ、文書かよ。データが画像のわけないとは思ったんだ」
 斎木の声につづいて田宮さんが「どうなってるんだ?」と訊いた。田宮さんの場所からでは、雅樹さんの前にあるパソコンが見えない。 
「拡張子を変えて、保存したんですね」
 雅樹さんが蒼子さんに言うと、彼女はうなずいた。
「でも、なぜ?」
 雅樹さんの言葉に、

  すんなり読まれたら
  恥ずかしかったから

 蒼子さんが大きくノートに書き記した言葉が、パソコンの明かりで読める。
「どけ!」
 蒼子さんを押しのけて、斎木がパソコンの前につめ寄る。
 画面には……〝田宮達彦さま〟の文字。
 斎木が穴の開くほどに画面を見つめている。
「なっ……んだよ、これはよっ!」
「おい、斎木、なにが書かれてあるんだ?」
 田宮さんの言葉に、私は震える声で文書を読んだ。

  田宮達彦さま
  あなたがこれを読むときは、あなたが私を必要としなくなったときですか?
  それともその反対ですか? 
  達彦は、大きな勘違いをしています。
  私の心を切り裂いて、達彦に見せてあげたい。
  ソラちゃんは、全部知っているのに。
  あの青い鳥が、全部知っているのに。
  達彦、私はあなたを憎んだとしても、嫌いにはなりません。
  それだけです。
  田宮蒼子  
 
「……それだけって……これだけか?」
 斎木が蒼子さんを見た。蒼子さんが深くうなずく。
「あのインコが知ってるって……なんだ?」
 田宮さんが訊く。
「今は、伊東さんのところにいるんですよね?」
「はい……でも、逃げちゃったし……僕にもなんのことか……」
「雅樹さん!」
 思いきって、私は言った。
「私、雅樹さんに隠していたことが……」
「明日香ちゃん?」
「ソラちゃんは、おしゃべりなんです、とっても。人の言葉を話すんです。そうですよね、蒼子さん?」
 こくり、蒼子さんがうなずく。
「よく話してくれます。ただいま、とか、寒いね、とか……機嫌がいいときには、ひとりでぐちゅぐちゅ、ずっとしゃべってます」
「たしかにそうだよ。でも、なんで明日香ちゃんが知ってるの?」
「ごめんなさい、雅樹さん。ソラちゃん、今、うちで飼ってるんです」
「なんだって?」
「ごめんなさい! それで、あの……最近ソラちゃん、言うようになったんです。誰も、うちの家族の誰も教えないのに、〝ターチャン、ダイスキ〟って」
「そんなこと、僕のところでは言わなかったよ」
「ターちゃんて、それって……」
「そうです、田宮さん。達彦さんの、ターちゃんですよね?」
 私は田宮さんを見た。
「ああ、そうだ……学生のころから、蒼子とはつきあっていた。当時、蒼子に俺は、ターちゃんと呼ばれてて……だけどここ何年も、蒼子は俺に向かって、そんなふうに言ったことなんて、なかったじゃないか……」
 うなだれた田宮さんに、蒼子さんが駆け寄ってひざまずいた。
 泣いていた。蒼子さんが、涙を流しているのが、パソコンの画面の明かりでぼんやりと浮かびあがっている。
「蒼子は俺じゃなくて、兄貴のことを……」
 激しく左右に首を振って、蒼子さんが嗚咽を漏らす。自分の胸を叩いて、田宮さんに両手をさしだす。
「……なんだよ、蒼子、おまえは兄貴と不倫してただろ? おまえたちがいるところ、俺は何度となく、目撃しているんだ!」
 蒼子さんがノートにペンを走らせた。

  それはあなたのことを
  お義兄さんに相談してた
  あなたが私を
  ちゃんと見てくれなくなってから

「蒼子、おまえ……」
「なんだって? 蒼子さんは田宮さんが大好きってわけかよ。田宮さんの兄貴と、不倫してたんじゃなくて? ならオレたちのしたことは、なんだったんだよ……なあ、田宮さんよ?」
「俺はっ……! 俺は蒼子への不信感から、蒼子を……」
「殺そうとした?」
 咬みつくような、雅樹さんの声。
「蒼子さんが重症を負った、あの事故は、わざとだったってことですか?」
「ああ、そうだよ……俺だけのものにしておきたくて、俺だけを見ていてほしくて、ただその一心で……!」
「なんでそんなことを……っ! どれだけ蒼子さんが、どれだけあなたのことを……うちのアパートに越してきて、蒼子さんは店にきてくれるようになって……蒼子さんは言ってましたよ。私は主人に、片想いをしているんだって。私を見ているようで、自分のことしか見ていない人だってね」
 激しい口調に、雅樹さんの心の痛みを知る。あこがれの人には愛しい人がいて、よりによってその相手に、殺されそうになった――。
「そうだよ、俺は自分のことしか見てなかったよ……蒼子がインコを飼いはじめたのは、俺へのあてつけだと思ってたんだ」
「どうして?」
 私は咄嗟に言葉がでた。
「どうしてそう思ったんですか? どうしてふたりは、すれ違ってしまったんですか? 言葉に表していたら、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」
 哀しみが胸を貫く。私だってそうだ。おんなじだ。真柴くんに、私だって想いを伝えきれていなかった。真柴くんは言ったのだ。別れるときに、「明日香の気持ちがわからない。だからほかの女に目がくらんだ」と。
 それは都合のいい言い訳だった。それでも私にも非があった。真柴くんの存在が当たり前で、ぞんざいにしていなかったとは言い切れない。私は、想いを言葉にしてはいなかった。
気持ちは変わっていなかったのに、伝わっていなかった。幸せが、いつのまにか両手からこぼれ落ちていた。
「ちゃんと伝えあっていたら、気持ち、伝えられていたら……」
 喉もとが熱くなった。胸に重い石がつかえたようなのに耐えていたら、涙があふれだした。
「蒼子さんも田宮さんも、こんなに好きあっているのに、想いが交差しちゃうなんて。 ソラちゃんに言うんじゃなくて、蒼子さんはちゃんと田宮さんに、自分の気持ちを言えてたら……。田宮さんだって考えていたこと、そのまま蒼子さんに、ぶつけられていたら……!」
「ああ、そうだよ、俺は言えなかった……わかってなかったんだよ、蒼子の気持ちが……そして自分のことを、コントロールできなくなっていた……」
 強い口調で言うと、田宮さんはうなだれた。
「最後にもう一度だけ会おうと、蒼子を誘いだしたんだ。斎木もいるから、ややこしい話にはしないよ、って。釣りにでて、帰りに富士山を……富士山に沈む夕陽を見ようと、現場に誘った……」
 私の推理は、久保田さんが調べてくれたように、当たっていたのだ。遠いところからきた、ひらめきが。
「だけど自分では手を下せなかった。金に困っている斎木に頼んだんだ……俺が金をやるから、蒼子を殺してくれって」
「ほんとうにそんなことを?」
 声をあげた雅樹さんを、田宮さんは見た。
「俺から心が離れてた……そう感じてたんだ……だからこそ、失いたくはなかった。蒼子の心までは……」
「じゃあ田宮さん、蒼子さんの事故は、偶然の事故じゃないってことですか?」
 私は問いただした。
「ああ、そうだ……殺すことが目的だった。斎木に頼んで、轢き殺そうとした……」
「だけど!」
 雅樹さんが大きく息を吸って、ため息で前髪を吹きあげた。
「蒼子さんは、偶然の事故だと言い張った。あなたの意図を知った上で、蒼子さんはかばったんですか? それとも、脅されたんですか? 蒼子さん?」
 頭を左右に揺らして、蒼子さんが違うと表現する。すぐさまノートに字を書きなぐると、田宮さんに見せた。

  達彦に
  犯罪者にはなってほしくなかった

 白いノートに書かれたのは、あまりにも哀しい愛の言葉だった。
 自分を殺めようとした人を赦し、さらに愛しつづけるなんて。神さまがいるとしたら、どうしてこのふたりにこんな愛を与えたのだろう。
 私はそのノートを受け取り、斎木の前に近寄って見せた。
 斎木は呆然としている。
「くっ……」と息を吐いた田宮さんが、涙をこらえているのがわかる。
「悪かった、蒼子……でも、俺は蒼子が死ななくて、心のどこかで安堵したんだ」
「なんだよ、なんなんだよ、田宮さんてば。オレがいちばんの悪人なわけ? ひでえなあ」
 斎木が深くため息をつくと、田宮さんがふっと笑った。
「斎木はいつだって金に困っていた。それに、蒼子を妬んでいたんだよな? だから斎木の事故に見せかけようと持ちかけたら、ふたつ返事で引き受けたんだよ」
 だまったまま、斎木はうなずく。
「妬んでいたさ、そりゃね。女のくせに、オレより研究の成果はあげるし、女だからって上司に気に入られて。あげくにはとんとん拍子で昇進してやがるんだぜ? 給料だって、オレとはえらい違いだよ。不公平だよなー、っとによっ!」
「斎木はこうなんだ。その妬みに俺は気づいていた。だからつけこんだ。斎木はたやすく引き受けたよ。だけどこいつはそれをネタに、俺を強請りにかかったんだ」
 ははっと、私の隣で斎木が嗤う。
「それでオレを強請り返そうと、このUSBメモリにオレの横領と、オレが開発を断念した新薬の情報が入っているだなんて、大法螺吹いたんだな?」
「大法螺じゃない、ほんとうにそう思って……しかし、おまえに協力してもらったのが、とんだ誤算だった……いや、蒼子を殺そうとしたことが、いちばんの間違いだった!」
「あの……田宮さんの自損事故、あれは偶然だったんですか? 私、あなたの起こした事故の、担当なんです」
 私の問いかけに、田宮さんが「きみが……」と、私を見た。
「あの自己で保険金が入れば、斎木に金が払えると思って……蒼子の事故でかなりの慰謝料が入るのを知って、これしか手はないと思いついたんだ。でも、その翌日に蒼子から、USBメモリについての手紙が届いた。斎木を強請り返すネタがあるなら、あんな自作自演することはなかったのにな……」
 ため息をついて、田宮さんが嗤った。
 ……やっぱりあれは、保険金詐欺。久保田さんの読みが、そのまま当たってしまった。
「……とにかく! オレの横領を知ったってのが、まずいな。ここにいる四人みんながよ」
 斎木がズボンのポケットから、ビニール袋を取りだした。そこに入った白い粉を、私たちの足もとに撒き散らす。
「なんだ、それは!」
 雅樹さんの叫びに、田宮さんが「まさか……」と、声を漏らす。
「青酸カリか?」
 斎木がにやついた。
 青酸カリ……?
「オレは借金まみれでな。こんな世の中、こりごりなんだよ」
 斎木はズボンの後ろポケットから、500ミリリットルのペットボトルを取りだした。透明の液体が入っている。
「それは……塩酸?」
 田宮さんに向けて、斎木がペットボトルを見せつける。
「そうだよ、塩酸だ」
「でも、濃塩酸は持ちはこびが危険……水で薄めた、希塩酸か?」
「そのとおり。これを青酸カリにぶち撒けば、どうなるかわかるだろう?」
 私の目の前の斎木が、ペットボトル左手でふってみせる。右手には、ナイフだ。
「田宮さん、どうなるんですか?」
 雅樹さんの声は、ひきつっていた。
「シアン化水素ができる……気体になれば、青酸ガスだ。その粉……青酸カリが50グラムだとして……空気中の濃度を計算すれば……」
 静寂があたりを包んだ。私は田宮さんのこたえを待った。希望を見いだそうと、すがる思いで。
「この広い教室であっても、それだけあれば……致死量だな……」
 田宮さんの小さな声は、私たちに絶望を与えた。
「……んだってっ?」
 雅樹さんが立ちあがろうとした。斎木が雅樹さんを見ているあいだに、私は肩にかけていた鞄の中を、そっとまさぐった。手の感触で、それだとわかった。
 一、二歩よろめいて、雅樹さんは椅子ごと倒れこんだ。椅子に結わえられた足がもつれたのだ。
 雅樹さんをおもしろがる斎木に、一瞬の隙ができた。
 私は鞄からそれをだし、正面の斎木の目元に向けてスプレーした。
「ぐわっ!」
 不意をつかれた斎木はとたんに咳きこんで、目をつぶった。虫除けスプレーだ。
すかさず私は、鞄で斎木の顔を数回殴り、その左手のペットボトルをつかんだ。
「……っんだよこの女っ! よこせっ!」
 斎木が私へナイフをふりかざす。瞬時に私は逃げた。蒼子さんが教室の隅にあった椅子を持ちあげ、その脚を斎木に向けて、力まかせに押しつける。
「おいっ、なにすんだよっ!」
 暴れる斎木。
 私は塩酸を奪おうと、再び手を伸ばした。
 けれど私の手は空を切る。背の高い斎木の掲げた塩酸には、とうてい届かない。ナイフが指先をかすめる。
 斎木はナイフを持った手で、蒼子さんの押しつけていた椅子を、ついに払いのけた。
 再びにやつく、斎木の目。
「逃げろ! 明日香ちゃん、蒼子さん!」
 雅樹さんの声。でも、このままじゃ、雅樹さんも田宮さんも……!
「そこまでだ!」
 男の人の大声とともに、強い照明。
 眩んだ目をしばたたけて見ると、斎木がたちどころに数人の警官に押さえられていた。
「警察だ! おとなしくしろ!」
 スーツ姿の刑事が言った。
「くっそー、邪魔すんじゃねえ!」
 わめく斎木は、床の上で羽交い絞めにされていた。
 その光景をまるで映画を見るようにながめていると、小さな男の子が私に近づいてきた。
 目を疑った。
 それはタケルだった。私の小さい弟の、タケルだった。
「タケル!?」
「ケーサツと、校門のそばで会ったから、この教室だって教えたの。犯人と人質の数もね。ひとり、女の人が増えてたけど」
「あんた、帰ったんじゃなかったの?」
「だって、心配じゃんか。明日香が呼んだんでしょ、ケーサツ。作戦会議してたから、突入にちょっと時間かかっちゃったみたい」
「あんた……もうっ!」
 私はタケルを抱きしめた。タケルはあのときとおんなじ、柔軟剤のいい匂いがした。  
 縛られていた雅樹さんも田宮さんも、そのロープをほどかれた。
 蒼子さんは、刑事が肩に置いた手をふりほどいて、田宮さんに駆け寄った。
 そうして田宮さんに抱きついた。
「ごめん、蒼子……俺がしたこと、赦してもらおうとは思わない。だからもう、おまえの気持ちも、自由にしてよ」
 なおも蒼子さんは、田宮さんにしがみついた。涙を流し、声にならない声を漏らして。
 そんなふたりを、警官が引き離した。

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