第1章 辻占い

エピソード文字数 11,311文字

    

 空はすっきりと青かった。
 ルシャデールはその青さを味わうように空気を吸い込むと、思い切りよく吐き出す。
礼拝堂の尖塔が、その空を突き刺すようにそびえていた。
 広場には一日の活動を始めた人々が忙しそうに往来する。
 野菜を運ぶ荷馬車、炭を摘んだロバ、ジュースを売る屋台。リンゴ売りのおばあさんは、今日も礼拝堂前の石段に座っていた。
 彼女はいつものように、噴水のそばで店開きの準備を始めた。あたりを見回し、商売を妨害してくる奴がいないか確かめる。
 広場は公共の場だから場所代など取られることはないが、時に嫌がらせを仕掛けられることはあった。何の憂さ晴らしか、通りすがりに「邪魔なんだよ」とつばを吐いて足を蹴っていく大人や、わずかな金を巻き上げようとする連中だ。とりあえず今のところ見当たらない。
「つじうらない 五タラ」と白墨で書いた小さな木の板切れを立て、噴水の縁石に半ば擦り切れた敷物を敷いて座った。
 枯草色の髪は無造作に麻ひもで縛り、やせっぽちの体にまとうチュニックは、汚れて元の色がわからない。裾からはつきだした足は真っ黒。一見、浮浪児の少年といった風だ。

「辻占か…当たるのかい?」
 気がつくと二人の男がルシャデールの前で足を止めていた。話しかけてきた男は三十過ぎくらいだろうか。
 ビロードのカフタンに長いコートを羽織る異国風のいでたちだ。もう一人は従者だろう。腰に帯びた剣に手をあて、抜け目なく周囲に目を配っている。
 子供だと馬鹿にされてか、冷やかしの客は多い。だが、目の前の男にからかいの色はなかった。いい意味での好奇心が優しそうな目の奥に明滅する。
 品のいい顔立ちだな、と彼女は思った。いばりくさった貴族連中とは違う。街中の修道僧によく見る人種だ。まるっきり清廉というわけでもなく、世事にも多少は通じているような。
 彼はルシャデールの前にしゃがみ込んだ。
「私がどこから来たか当ててごらん」
 ルシャデールは貫くような視線を彼に向けた。
 その瞬間、あたりの風景は陽炎のようにおぼろげなものとなる。目の前にいる男は、自らが放つ緑色の光に包まれていた。それは並の者よりずっと強い光だ。
(ユフェレンだ)
 ユフェレンとは、『ユフェリに属する者』を意味する。
 死者の魂、精霊、神霊……。それらが住む見えない世界はユフェリと呼ばれていた。『冥界』や『黄泉』といった言い方もあるが、それはユフェリを正確に表したものではない。
 死者が赴くところであり、始源の地ユークレイシスへの入口でもある浄福の地。普通の人間には見ることのできない世界だ。
 ルシャデールはユフェリにあるものを見たり、感じることができる。そういった者はユフェレンと呼ばれていた。呪術師や占い師、巫女、ユフェリの浄められた気を操って病を治す癒し手などである。
 自分と同類の者とあって、ルシャデールは少し警戒する。緑の光なら、たぶん癒し手だろう。
 再び、意識を現実の世界に少し戻す。彼を包む光は、その歩いてきた道に軸跡を残していた。彼女はその方角を黙って指さした。男はあいまいに微笑(わら)った。
「なるほど。もう少し前のことはどうかな?」
 軽く流された。どうも彼女の能力をわかっていないようだ。来るところを見ていたとでも思っているのだろう。
(信じようと信じまいと、どっちでもいい。それよりも肝心なのは……)
 彼女はそばの看板代わりの板切れを指で軽く叩く。
「これは失礼した」微笑って男は銅貨を一つ出した。
 ルシャデールはもう一度男の顔をじっと見た。それから目を閉じ、自分の額の真ん中に意識を集中させる。ギリギリまで集中させて、今度はそれを一度に解放する。
「白い石の大きな屋敷…門のところに大きな木…ポプラかな?木が2本。とても広い庭があって、そこを小川が斜めに横切っている」
 彼女の意識は見知らぬ土地を、鷲のように上空から見下ろしていた。屋敷の南側で小川は別の大きな川に流れ込む。川は上流の山で大きく蛇行している。その山には城が建っていた。
 ふいに、その景色は消え、別の情景に切り替わる。粗末な藁屋根の家。貧相な男と身なりのいい三人の男、彼らの間に泣き叫ぶ男の子がいる。男の一人が小さな布袋を貧相な男に渡し、彼は男の子の手を取った。ルシャデールはその光景を説明し、最後に言った。
「アトール?……アタル?そんな名前のところ」
 男はもう微笑っていなかった。深い想いに沈んだ様子で立ち上がると、
「ありがとう」と彼は銀貨を彼女の手に握らせた。
 彼らはもと来た方へと立ち去った。
 ルシャデールは手の中の銀貨をうれしそうに眺めた。
(これで、四、五日はいいものが食べれる)


「そろそろ起きろ、ねぼすけめ」
 翌朝、狐顔の犬に起こされたのは陽も高くなってからだった。ルシャデールはむっくり起き上がった。(ほこら)の入口に立てかけた扉代わりの板の隙間から朝の光が差し込んでいる。石の床に敷いたわらの先が首に当たってチクチクした。彼女は立ち上がって、わら屑をはらう。
 さびれた小さな祠(ほこら)だった。大人が寝泊まりするには頭がつかえる。子供ならば頭をぶつけることもなく、足を伸ばして横になれる。その程度の広さだ。石壁には苔が生え、屋根の朱い瓦の隙間からは草が伸びている。天井近くにはいつもヤモリが一匹張りついていた。
 かつては土着の神を(まつ)っており、花や供物も絶えなかった。今では参拝する者もない。名残の祭壇には、犬型をした御神体の石に欠けた花瓶と皿が置かれていた。
「腹が減った、何か食わせろ」犬は横柄に要求する。
「おまえは精霊だろ、食べる必要はないじゃないか」
 髪をくしゃくしゃとかきながら、あくびをする。
「精霊ではない、神だ。神には供物が必要なんだ。ついでに言わせてもらえば、この祠だって俺のだ。居候のくせに態度がでかいぞ」
「神なら大人しく祭壇に鎮座してなよ」
 彼女はそう言い捨てて、辻占いの看板を手に外に出た。カズックもついてくる。
 
 父は生まれたときからいなかった。母を亡くしたのは四年前、六歳の時だ。住んでいた家を追い出され、橋の下をねぐらにした。 
 食べ物を調達するため、盗みは日常茶飯事だった。時々はつかまって鞭で打たれたり、殴られることもあった。寺院の前などで物乞いをしたこともあるが、縄張りがあるということを知らず、他の物乞いに袋叩きにされてしまった。
 生活が変わったのは、母の死から一年ほどたった頃だ。
 寝場所の橋の下を、他の浮浪者に奪われてしまった。数日さまよった挙句に、この祠を見つけた。すでに住人(カズックのことだ)はいたが、居候を許してくれた。
 彼女がユフェレンであることに気がついたのはカズックだ。彼は『ちょっとした才能』と評価してくれた。かつて神であった彼の『指導』のもと、ユフェリを訪れることもできるようになった。
 彼女が辻占いで日々の糧を得るようになったのは、ごく自然な成り行きといえた。

 日差しがまぶしい。畑はようやく種まきの時期だが、木々には柔らかな青さの若葉が風にそよいでいる。荷車を引かせた牛を連れた農夫とすれ違う。荷車は空だ。きっと野菜を市場に卸してきたのだろう。
 彼女は街への道を歩きながら、昨日の客のことを思い出した。
「あの客なら今日も来るぞ」
 カズックが周りに人がいないのを見計らって言った。
「うん」
 ルシャデールもそんな気がしていた。別に根拠があるわけではないが、彼女のそうした予感は滅多にはずれない。
 物心ついた時、ルシャデールには幽霊や精霊などが日常的に見えていた。それだけではない。過去や未来の情景が目の前に浮かんだり、御宣託のように突然言葉が降りて来ることもある。
 普通の子供なら、血だらけの幽霊など怖がって泣いてしまうが、彼女は平気だった。経験上、強く拒絶すれば彼らは手出しできないとわかっていた。
 空から寄せられる高貴な慈愛、地の底から湧く怨念、生きる者から発する悲しみ、喜び、怒り…さまざまな感情が風に乗って彼女のそばを通り過ぎていく。
 だが、周囲は彼女の能力に不審な顔をすることが多かった。とりわけ亡くなった母はその話を嫌っていた。

 ルシャデールは仕事を始める前に腹ごしらえをすることにした。肉とレタスをはさんだパンとチーズを買い、寺院の前の階段に座って食べる。肉は半分カズックにやった。彼はまだ足りなそうな顔をしているが、気づかないふりをする。
 大気は少し湿り気を含んでいた。西の方に少し雲が見えたが、すぐ降りそうな様子はない。
 朝食を終えた彼女は寺院前の広場の噴水で顔を洗う。古い木綿の首巻で顔を拭いていると、後ろに気配を感じて、振り返ると昨日の二人が立っていた。
「君に話したいことがあるのだが、少しいいかな?」
 ルシャデールはうなずいた。
 どことなく戸惑った表情で、彼は近くの茶店にルシャデールを誘った。
 パシクンというヨーグルト風味の飲み物と上げ菓子を食べる彼女に、男はトリスタン・アビューと名乗った。フェルガナ王国から来たという。南にあるナヴィータ王国をはさんでさらに南の国だ。
「私の家は代々神和師(かんなぎし)を務める家柄でね、神和師というのは知ってるかい?」
 ルシャデールは首を横に振った。
「フェルガナの王様お抱えの呪術師、とでも言えばいいかな」
 フェルガナ王国の王が専属の呪術師を置くようになったのは千年ほど前のアルシャラード王の御世だった。カームニルの北に興ったグルドール帝国が周辺国を支配下に呑み込んでいった頃だ。
 軍備を増強する一方で、王はそれまで怪しげな者として蔑まれてきた呪術師のうち、力のある者十五人を身近に登用した。神和師十五家(今では九家に減っているが)の始まりだった。
 彼らは遠方の出来事を居ながらにして視ることができ、帝国の侵攻などを事前に察知したという。
 そのうち幾人かは帝国に派遣され、反乱軍を支援することとなった。彼らの尽力もあって、やがて、二百年続いた帝国は崩壊していった。反乱軍の参謀格だった魔術師サラディン・アズフィルとその弟子シヴァリエルスの物語は今でも楽師たちが歌っている。
 その後、お抱え呪術師は神和師と名を改め、功績を評され国内の寺院を統括する役割を担うようになり、各地の修道院が所有していた荘園を与えられた。今では大貴族並の家格を誇っている。
 ただ、一般の貴族と違い、神和師はユフェレンでなければならない。そのため、ふさわしい能力を持った子供を養子に迎え、跡を継がせるのが慣例となっていた。また、神和師は聖職者に準ずる者として、結婚を許されていない。そのため、実子による相続はありえないことだった。

「それで、もし君さえ承知してくれるなら、君に私の跡継ぎとして養子に来てもらいたいと思っているんだ……」
(跡継ぎ?)
 唐突な話だった。彼女は顔を上げずに、不信に満ちた視線を彼に向けた。
「なんで?」
「そう聞かれても説明しづらいんだが」困ったように彼はその端正な顔を歪めた。
 継嗣の選択と決定は『始源にして一なるもの』に委ねられていた。啓示は何らかの形で神和師に与えられる。夢見や遠視の術で、あるいは通りすがりの他人の一言だったり、どこそこへ行かなければという理由のない切迫感だったり。気をつけていなければわからないようなものだ。
 トリスタンの場合はカームニルから来ていた商人と会ったことだった。
 旅先で胃痛に苦しんでいた商人は宿の主人の案内で、アビュー家の施療所を訪れた。トリスタンの手当で痛みはさっぱりと解消したのだ。
 饒舌な親爺だった。治療が終わった後も、だらだらと彼のおしゃべりは続いた。その時に彼の口から、近所にいる小さなまじない師のことが出たのだ。
「年の頃は七つか八つってとこでしょうかねえ。今回の旅の吉凶を占ってもらったんですよ。なにせ、船で来ますからね、あたしは地に足をつけてないと、ひどく意気地がなくなるもんでして。そしたら、そのガキは『海はあんたを呑み込まないよ。でも、食い過ぎはやめときな』とね。『食い過ぎ注意』ぐらいの御宣託ならうちのかみさんにだってできますさね」
 彼の話から察するに、生意気な子のようだった。患者のおしゃべりが少しうっとうしくなっていたトリスタンは話の内容はあまり聞いていなかったのだが、
「会ってみたい子だね」と、適当にあいづちを打った。
 と、そばに控えていた侍従のイェニソール・デナンがはじかれたようにトリスタンを見た。
 侍従はそれを啓示だと疑わなかった。主人が困惑するほど速やかに旅の支度をし、すでに決まっていた予定の調整にあたった。そうしてフェルガナのバザルカナル港を出たのが十日前だった。
 そういえば、ひと月くらい前にそんな親爺が来たかもしれない。ルシャデールは記憶をたぐった。
 見てやった後ぐちゃぐちゃ文句を垂れて、わずかな見料も値切ろうとしたケチなおやじだ。そのおやじを介して自分のことが異国にまで伝わり、神和師とやらを連れてくる……。あまりに突拍子ないことで、かつがれているような気がした。
「漂う霧をつかむような、心もとない話と思うかもしれないがね」
 そう言って、たいして暑くはないのに、ハンカチで額の汗をふく。たぶん、彼が一番困惑しているのだろう。
 ルシャデールは答えなかった。この世に起こることに偶然はない。すべては始源にして一なる者がもたらす必然。カズックはよくそう言っている。
「急にこんな話を聞かされても、すぐには答えられないだろう。家族とか身内の人はいるのかな?」
「そんなものいたら、辻占いなんてやってないよ」
 鼻でせせら笑う少女にトリスタンは苦笑した。 
「しかし、考える時間は必要だろう。三日後に返事を聞かせて欲しい。私はカルソー通りの黒猫亭に泊まっている」 
 トリスタン・アビューはそう言って立ち去った。
 ルシャデールは椅子に座ったまま、しばしその姿を見送った。今日はもう商売を続ける気にはならなかった。立ち上がると、街の西へ歩き出した。
 
 丘の上の修道院の廃墟はルシャデールのお気に入りの場所だった。眼下に広がるカズクシャンの街。レンガ色の赤い屋根が連なり、広がっている。ところどころに寺院のドーム屋根と尖塔が突き出ていた。西へ向かうカラプト川の川筋が銀色に光っている。天気がよければ金開湾まで見えるはずだ。
 ルシャデールは廃墟の石積みに腰をかけて、その風景を眺めていた。
「いい眺めだ」いつの間にかカズックがそばに来ていた。「昔はすべておれのものだったんだが」
 カズクシャンとは『カズック神の都』という意味だ。街のあちこちにカズック神の寺院があったという。ルシャデールが辻占いをしている広場の寺院も、元はカズックが祀られていた。
「彼のことは聞いたことがある」カズックは風の匂いにふんふんと鼻をひくつかせていた。「腕のいい……そうだな、この近隣の国でも五指に入る癒し手だぞ」
「ふうん」そういう順位づけには興味がなかった。
「行くのか?」
 幸か不幸か、何のしがらみもない彼女は身一つで動ける。
「どうでもいいや」
 彼女は空を見上げた。
「おまえの親父はフェルガナから来たとか、前に言ってたよな」
 母はこの街の生まれだが、父はフェルガナ人だったと聞いたことがある。しかし、それ以上のことは知らない。彼女が生まれる前に父親は失踪。母のセレダは半狂乱になって捜したらしいが、行方はわからなかった。
 赤ん坊を抱えての生活が楽なはずがない。周囲からは里子に出すよう勧められたようだ。それを頑として聞き入れなかったのは、夫が戻ってくるのを信じていたからだろう。
だが、一年、二年と時は過ぎ、生活は(すさ)んでいった。
 ルシャデールの記憶にある母は、振り乱した髪で酒を飲み、怒鳴り散らす女だった。最初に言われたのはいつだったか……『おまえなんか、産まなければよかった』と。
「親父の方の親戚とか、いるんじゃないのか?」
「関係ないよ。いたとしても、わたしのことなんか知らないに決まってる」
 別に会いたいとも思わなかった。
 再びトリスタンという男の顔を思い出す。
「養子ってことは、あの人が私の父親になるんだよね?」
「そりゃ、母親にはならんだろう」カズックは飄々と答える。
 孤児の身に降ってわいた福運なのだろうが、実感はない。それに、はい、そうですかとついていけるほど、彼女は人を信じていなかった。
 母ですら彼女に背を向けたのだ。母が想うのは行方の知れない父のことだけ。たまに、彼女に父の面差しを求める時だけ、振り向いてくれた。そして、最後には彼女のことを一顧だにせず逝った。だが、そんな母でも世間の荒波から守る防波堤の役割は果たしていた。その後に味わった辛酸を思えば。
 無関心な人、冷たい人、攻撃的な人、蔑んだ目を向ける人。わけのわからない怒りをぶつけてくる人。ルシャデールにとって世の中はそんな大人で溢れていた。たまに「かわいそうに」と言ってお菓子やお金を恵んでくれる人もいたが、中途半端な憐みなど、自分がみじめになるだけで不愉快だった。
  
 ルシャデールは翌日、翌々日と、いつも通りに辻占いに出た。
 フェルガナ行きについては、何も考えていない。行こうと行くまいと同じような気がした。今の生活は確かに不安定だが、豊かな落ち着いた生活を望んでいるわけでもない。死ぬまで、ただ生きるだけだ。
「売り上げをよこしな」
 気がつくと三、四人の少年が目の前に立っていた。彼女より少し年上の、浮浪児の一団だ。盗みや脅しを生業としており、ルシャデールも何度か金を巻き上げられたことがある。リーダー格のスラシュは身体も大きく、腕っぷしも強い。
 首から下げた頭陀袋をルシャデールはしっかりと抑える。六感をめいっぱい使って逃げ道を探すが、四人に囲まれるとあとは後ろの噴水しかない。いつもなら、もっと前に気がつくのに、とくちびるを噛む。
「いいからよこせ!」
 少年たちの中で二番目に年長のスラシュが袋に手をかけ、引っ張った。ルシャデールははずみで前のめりに倒れ込む。膝と、顔をかばった左ひじに衝撃を感じ、ひりひりと痛む。
 だが、袋はまだ取られていない。その時、「うっ!」という声とともにカシャンと何か割れる音がした。
「何をしているんだ!」鋭い声が響いた。
 顔を上げると、目の前の割れた素焼きの茶碗の向こうから、見たことのある男が近づいてくる。
「やばそうだ、逃げろ」少年たちはただならぬ気配に逃げ出した。
「大丈夫ですか」
 彼女の前に膝をついたのは、トリスタン・アビューの従者だった。話し方も表情も柔らかで気品を感じさせるが、その隙のない物腰は武術に秀でた者だけが持つものだ。
「血が出ています。(あるじ)が近くの本屋におります。手当しましょう」
 こんなもん舐めときゃ治る。そう思ったが、またスラシュたちが戻ってくるかもしれない。きっと近くで様子を見ているだろう。ルシャデールはついていくことにした。
 金物通りの入口まで来た時、茶店のおやじが走り寄って来た。
「ああ、あんた。困るよ、客の飲んでいる茶を取りあげた上に、茶碗を放り投げてしまうなんて!うちの茶碗はコルヴェデから取り寄せた特注品なんだ。」
 怒っている割に、眉根は下がって、腰が引けている。彼の腰に下がる剣が気になるようだ。
「これで足りるだろう」
 トリスタン・アビューの従者は財布から銅貨三枚渡した。それから何事もなかったように「まいりましょう」と、ルシャデールを促した。
 金物通りの中ほどにある本屋にトリスタン・アビューがいた。本の値段について店の主人と交渉しているようだ。
「トリスタン様」
 呼ばれて彼は振り返った。そしてすぐ、ルシャデールをみとめた。
「どうしたんだ、ケガをしているじゃないか」
 彼の従者が仔細を説明してくれた。
「私の宿へおいで。手当をしよう」
 連れて行かれた黒猫亭は一階が酒場兼食堂になっており、二階と三階が宿泊用の部屋になっていた。宿屋の中でも貴族や大商人しか相手にしない上宿(じょうやど)だが、その中でもいっとういい部屋に彼らは泊まっていた。
 木や草の彫り物をほどこした椅子にすわり、ルシャデールはきょろきょろと部屋を見回す。細かな編み目で花の模様を作ったレースのカーテン。かかっている窓はもちろんガラスが入っている。壁のタペストリーはオズレン織だ。狼と犬を従える月の女神をモチーフにしていた。
 トリスタンは血や泥を洗い、彼女の額に手のひらを当てた。
 彼を包んでいる光がぐん、と力を帯びてふくらんだ。
 一つの場ができる。大地の核と宇宙の深奥が癒し手を通してつながり、彼の中で強い一つの光の柱となる。黒猫亭の部屋は消え、真っ白い光の空間にいた。トリスタンの手からルシャデールの傷に暖かな気が流れ込んできた。それは彼女の額から入ってきて、首へ心臓へ、体の隅々へと循環し、今度は汚れた気を外へ排出させる。
 癒し手から治癒術を受けるのは初めてだった。掃き溜め小路で黒いマントを着た婆さんが、手を当てて小さい子を癒しているのは見たことがある。婆さんの頭上から光の柱が立っていたが、これほど太くはなかった。近隣の国で五本の指に入るのは嘘じゃなさそうだった。
 まもなく手当は終わった。さわってみると、血は止まり皮膚も元通りに治っている。すりむけた膝小僧も同様だ。
 トリスタンは水の入ったコップをルシャデールに差し出した。
「お飲み。手当のあと、頭がぼーっとする人もいるんだ」
 ごくごくと水を飲み干す。ルシャデールは目の前の男を見た。この人もまわりも、どれだけすごいことをやっているのかわかっているんだろうか。病気やけがを治す便利な人、ぐらいにしか思ってないんじゃないか?
 ルシャデールは体の中に注がれた暖かな力を思い起こす。この人が父さんになるのか。知らず知らずのうちに心が和む。だが、口から出る言葉は投げやりな口調だった。
「どっちでもいいよ」
「え?」
「行ってもいいよ、行かなくても」
 トリスタンは手を止め、彼女の正面に回った。
「それは来てくれると受け取っていいのかな?」
「言葉通りだよ、どっちでもいい」
 ルシャデールはぷいと、横を向く。たまに、こんな気まぐれもいいさ。もし、そこでの生活がうまくいかなかったら、また辻占いに戻ればいいだけだ。一人でも生きていける。
 
「行く事にしたのか、結局」
 その晩、祠に戻ったルシャデールにカズックが言った。
 出発はあさってだという。トリスタン・アビューはそのまま宿屋に一緒に泊まるよう勧めてくれたのだが、断った。雨漏りもする祠だが、三年も住むと愛着もわく。
「おまえはどうする?一緒に来るかい?」
 カズックとは別れたくなかった。といって、『心細いから一緒に来てほしい』と言えるような素直さは持ち合わせていない。
「食い物は間違いなく今よりいいはずだよ」さりげなく誘ってみる。
「そうだろうな」
 カズックは祠を見回し、感慨深げにつぶやく。
「俺もここは長いからな。街も、この祠も。何百年たったんだか……」
 ルシャデール以上に愛着があるのかもしれない。来ないというなら、それも仕方のないことと思っていた。
「潮時かもな」
「え?」
「ついてってやるよ」
 仕方ねえな、という口調でカズックは言った。
「別に来なくてもいいよ」
「明日もここに寝るのか?」
「午後に黒猫亭へ行くって言った」
「そうか。じゃ、御神体を頼むな」
 カズックは御神体がないと長くこちらの世界にいることはできない。もともとユフェリに属する者なのだ。御神体がこちらの世界に彼をつなぐ依代になっている。
「うん」
「船旅になるんだろ、海に落とすなよ」
「わかってるよ、うるさいな」
 祠で過ごす最後の夜だった。


 翌朝、市場の茶店で干し果物と米のスープを朝食代わりに飲むと、オストーク通りへ向かった。そこは酒場と怪しげな店が立ち並ぶ。夜は紅灯に彩られる通りも、朝は厚化粧がげた女のように汚れ、明かりに使った獣脂ろうそくの臭いが鼻につく。
 ほとんど人通りはなかったが、崩れかけたようなアパートの前で女が伸びをしていた。
シュミーズの上に派手なガウンを羽織り、焦げ茶の髪は飛び跳ねている。女はルシャデールを見て、あら、と声を上げた。
「ルシャデールじゃない?めずらしいわねえ。辻占いしてるんですってね。あんたはそういうこと向いてると思ってたわ」
 かつて、階下に住んでいたベニエラだった。
「うん。部屋は誰か入った?」
「入るわけないじゃない」ベニエラは眉をひそめ、声を低くした。「首括りのあった部屋なんてさ。セレダさんは可哀そうだったけどね……。でも、大家も因業だわ。どうせ人が入らないなら、あんた一人ぐらいおいてやってもよかったのにさ」
「見せてもらってもいい?」
「いいけど、何もないわよ。鍵は開いてると思うわ。」
 ルシャデールが住んでいた頃から鍵は壊れていた。金にしぶい家主は直していないらしい。盗人に入られるような物持ちはこんなところに住まないだろうが。
 狭くて暗い階段を上り、三階の二番目の部屋だった。ドアはギイイと陰気な音をたてて開いた。石の床がむき出しの、がらんどうの部屋がぽっかりと前にあった。追い出された時に少しばかりあった家財は、滞納した家賃のかたに、大家に取られてしまった。おそらく古物屋にでも売り払ってしまったのだろう。
 壁の落書きだけが、そのまま残っている。ルシャデールが三才くらいの時に描いた母の絵だ。長い髪の女性が笑っている。
 天井を見上げると、太くて黒い梁が一本通っているのが目につく。
「まだ……そこにいるんだね」 ルシャデールは虚空に向かって声をかけた。彼女の目には見えている。梁からぶら下がったままの母の姿が。
「遠くへ行くことにしたんだ。もうここへは来ない。……さよなら」
 ちょっとの間、母を見つめる。それから踵を返して部屋を出た。

 
 二日後の朝、ルシャデールはカズクシャンの街を発った。
 カラプト川沿いの街道を西に向かい、金開湾を望む港町パウラで船に乗った。パウラからは沿岸の街に寄港しながら南へ向かう。泊まるのは港の宿屋だ。
 初めての船だったが、幸い彼女は船酔いをしない性質(たち)らしく、航海中はほとんど甲板で過ごしていた。一方、彼の養父となる男は、海上ではひねもす船室にこもり、宿屋ではほとんど食事も取れずにベッドに伏せっていた。
 自分の体調不良ぐらい治せないのか、と思ったが、それは黙っていた。まるで拷問を受けた罪人のように哀れな姿だったからだ。侍従のイェニソールはたいていは主人のそばについていたが、時折、ルシャデールの様子を見に来ていた。
「何か、島でも見えますか?」
 ルシャデールは首を振った。海原は果てしなく広がっているだけだった。
 何があるんだろう、この海のずっと向こうには。ぼんやりと考える。
「ユフェリが空の果てなら、海の果てにあるのは地上の楽園かもしれないですね」
 ルシャデールはこの侍従の心がすっと、自分に添ってきたのを感じた。思わず、彼の顔を見上げ、
「考えていることがわかるの?」とたずねた。
「いいえ」彼は静かに答えた。「海を見た時に、誰もが考えることです」
 彼女はそっと服のかくしに入れた御神体に触れた。祠に祀ってあったカズックの御神体だ。彼は今この小さな石の中に入っていた。

 

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