第2話 へなちょこな前言撤回

文字数 2,929文字

 前回の投稿で「文章のカラーを取り戻すべく特訓をする!」という決意表明をしたのだが、へなちょこなわたしは、始める前にくじけてしまったので、特訓をやめることにした。

 くじける要因となったのは『センスをみがく文章上達事典』(中村明 東京堂出版)という文章読本。やみくもに特訓しても上達できなければ意味がないから何かを教本にしようと思い、だいぶ前に買ったものの急いで読む必要もなかったため本棚に置きっぱなしになっていたこの本を、教本として使うことにした。あらためて表紙と帯をまじまじと眺めると、帯にはこんなキャッチコピーが書かれている。

文章表現総合講座
入門からプロの技まで
書く(文章をはっきりと)基礎編24
練る(表現をゆたかに) 応用編21
(みが)く(文体をしなやかに)実践編14

 表紙をめくって目次を見ると、書く・練る・研くという三つの章が立っている。帯のコピーに列記されているのは各章で、24とか21とか14とかいう数字は、章のなかの項目数を表していることが判明した。項目一つにつき一つのテーマが設けられ、たとえば“書く”の項目1には「句読点のルール」というタイトルと「打つも打たぬも思いやり」という副題が付されていて、テン(読点)とマル(句点)の効果的な打ち方を学べる内容になっている。章が進むにつれて、基礎→応用→実践、という具合に学びのレベルが上がっていく。

 肝心の中身だが、どの項目にも小説の一文が三つ四つほど取り上げられていて、なぜその一文が良いのか、どんな点を参考にすべきなのか、という解説がされている。わたしの気をくじけさせたのは、この解説文である。

 わたしには、解説に書かれている内容がほとんど理解できなかった。なぜなら、解説文が感情を交えて書かれているため。著者はそのつもりはないのかもしれないが、わたしにはそう感じられた。で、なぜそれが気をくじく要因となったかというと、実はわたしは、感情を理解したり表現したりすることが苦手なのだ。

 きちんと調べたわけではないから憶測で言うのだが、わたしが感情を理解できないのは、おそらく成長過程の家庭環境の影響だと思う。問題の多い家庭だったため、子どもの頃のわたしは、トラブルが起きるたびに感情に振り回されていた。たかが感情とはいえ、黙って振り回されていると気力も体力も大いに消耗する。どうにかしなければ身が持たないと思ったわたしは、とりあえず試しに、感情が発生したら一旦無視する、ということをやってみた。するとラッキーなことにこの試みが上手くいき、感情に振り回されずに済むようになった。が、それと引き換えに、感情を理解することが苦手になってしまった。

 いまだにわたしの脳ミソは、感情的な表現に触れると「ここは自分の出番じゃないもんネー」と勝手に休んでしまう。イヤイヤ、ちゃんと働けよ、と別の脳ミソでは思うのだが、反抗的な脳ミソのほうは「できんモンは、できん」と頑として動かない。先述した本の解説文を読んだときも、この反応が出た。たとえば、“練る”の35項に出てくる「名詞止め」の解説を読んだとき。

<ことばで表現しきれない感情を伝える手法に、「名詞止め」がある。>

 ドしょっぱなから、わたしの反抗脳は付いて行けなかった。“ことばで表現しきれない”という意味が、頭でわからないだけでなく肌感覚でもわからない。わたしの脳ミソを置いてきぼりにして、解説はこう続く。

<本来なら名詞の後に何らかの述語が続くはずだが、そこをあえて省略し、感きわまったという気持ちを投影させる技法である。>

 なぜ感きわまった気持ちを省略することがいいのか、これまたワカラナイ。さらに混乱したのは、事例として取り上げられている太宰治の『人間失格』(新潮文庫ほか)の一文と、その解説を読んだときだ。

<人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました。
 これらは名詞に当然続くはずの述語に相当する部分を明確に省いたという単純な例ではない。その名詞をぽつんと置いただけのように見える。感動という内面の動きの対象となる、ある観念なり判断なりを、ただ投げ出しただけの例に近いのではなかろうか。>

 もう、お手上げ状態。解説文の感情表現が豊かすぎて、何度読み返しても、どういう意味なのか一つもわからない。これが、わたしの脳ミソの“感情が理解できない”現象なのである。

 一方で、わたしの脳ミソがすんなり理解できるのは、論理的に書かれている文章。ライターになって間もない頃、教本として使っていた『論理的な作文・小論文を書く方法』(小野田博一 日本実業出版社)に、共感できる一節がある。“文章を活き活きと書く”とはどういうことなのかについて、こう書かれている。

<「活き活きと書け」をもう少していねいに言い換えると、「出来事の概要や解釈だけでなく、細部も(読み手がリアリティを強く感じるように)詳しく書け」となります。細部を書くことで作文にパワーが加わるのです>

 これならわたしの反抗脳も、字面を追っていくだけでなにを言っているのか理解できる。このあと駄目押しで説明が続くのだが、それがまた、わたしの反抗脳には心地良い。

<細部のみを書くのではなく、「細部を書くことで何を伝えたいのか」が正確に読み手に伝わるようにしなければなりません。活き活きと書くだけではなく、概要や解釈は必要なのです>

 “細部を書くことで何を伝えたいのか”を読み手に伝えようとする姿勢が重要だということは、仕事を通じて実感しているため心底共感できる。また、補足として述べられている

<抽象的な説明や「あなたの判断」だけでなく、読み手を納得させる細部が必要>

 という言葉にも大共感。こういう書き方が、わたしの脳ミソにはスッと馴染むのである。

 『センスをみがく文章上達事典』を特訓の教本に選んだのは、正解だったと思う。全体を通して実践的な構成になっているし、例文を挙げて丁寧な解説がされているし、なにより、解説文そのものが叙情的で美しい。本の内容が腹落ちすれば、きっと個性的な文章、カラーのある文章を書く練習に活かせるだろうと思う。でも、わたしには、せっかくの良い内容が理解できない。だから、特訓をやめることにしたのである。残念だけれど、カラーのある文章を取り戻すことは諦めた。

 昔、多少なりともカラーのある文章を書けていたのは、なんの制約もなく自由に書ける立場だったからなのだと、特訓を断念してようやく気づいた。ライターになり、制約を守りながら書くことが当たり前になってからは、むしろ制約がないほうが書きづらいとさえ感じる。今のわたしには、個性的な文章、カラーのある文章を書くことはハードルが高いのだな、とあらためて思った。

 でもまぁ、味も素っ気もない淡々とした文章が、わたしのカラーと言えばカラーなのかもしれない。だからムリをせず、これまでどおり身の丈に合った書き方を続けていくことに決めた。

 文章を書くことが嫌いなわたしには、書きたいことは一つもないけれど、伝えたいことはたくさんある。読みやすくてわかりやすい文章を心がけながら、このアトリエでいろいろなことを伝えていこうと思っている。





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