【Tー⑪】雑音
文字数 5,666文字
──トラさんがこちらに顔を向ける。
もちろんそれは、何か理由があっての事。
所以として在る、彼女が今ぽつりと呟いたその一言は……俺にとっても意識を傾けるに余りあるモノ。
「…………何 が、帰ってくるまで……って?」
「沙華 ……私の親友です」
象られた造形は、ひどく座するばかりで。
針の上に身を置いている様な……鋭利を伴った常は、そこを決して離れようとはしない。
「…………そ の 人 に 、何 か あ っ た の ?」
ただの偶然。
もちろん、そう捨て置く事も出来る。
だから俺は努めて冷静を装ったし、ブレる視線を点に留め続けようとした。
「真衣ちゃん」
そこで、トラさんの声が割って入る。
広縁からこちらへ歩み寄る彼を俺達は仰ぎ見た。
「どうしました虎太郎さん」
「悪ぃんだけど、茶のお代わりもらっていいかな」
構いませんよ、と彼女が応えるのと同時にトラさんは俺の方を見て呟いた。
「……落ち着け。女の前で鼻息荒くするもんじゃねぇぞ」
「…………はい」
その言葉に、装ったつもりの冷静は……少しだけ本当になる。
逸る動機は……自らで過去と銘打ったはずのそ の 名 が、未だこの胸中に渦を巻いているという事への証でしかなかった。
「どうぞ」
急須を持つ真衣さんは、俺の分の湯呑みも改めてくれた。
礼を言いながら倣い……一口啜る。
「端折って悪かった。……続き聞かせてよ、真衣ちゃん」
「……わかりました」
トラさんの言葉に向き直った真衣さんは。
脚を正しながら、ゆっくりと綴っていくのだった。
────────────
──────
───
……視界が少しだけ淀んで、すぐに霧散する。
音にも成らぬ溜息と共に吐き出された紫煙は、まるで俺の頭の中を呈しているかの様に思えた。
「…………七年、か」
漏れた言葉は、指す意識を纏ってなどいない。
発せられた要素のひとつが……無様に反芻されただけだ。
……それも僅かな夜風に吹かれ、姿を失くす。
りり……と耳に混じる虫の音はそれを嘲笑い、点々と広がる星空はこちらを見つめ続け……いや、何かを迫られているとも感じさせられた。
「……ん…………」
逃げる様に外した視線と共に最後のひと吸いを施し。
手元に携えていた煙草の灯を、備え付けの灰皿で揉み消した。
既に消灯されている民宿を傍目に、散らばる思考を纏めようとする。
頭を冷やすと告げ外に出たは良いが、まだ何一つとして目的を為していない。
…………俺は、先程真衣さんから綴られたモノを脳内で再構築していくことに努めた。
サヤカという名を持つ友人が、過去に居たということ。
そして七年前のある日から、神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消してしまったということ。
その時を境に、あの黒い異物が現れ始めるようになったこと。
不思議な事に……異物は彼女の前にしか現れた事が無かったようで。それに伴い、真衣さん自身も自らを鍛え……それに対応してきたということ。
……それが、消えた友人と何かしらの繋がりがあると信じて。
だが、確定的な手掛かりを得ぬまま失踪を迎えてから七年が経ち……法的には死 亡 したと扱われる事が可能になってしまうという。
それに合わせ、友人の帰る場所である島 の開発もいよいよ現実化してきたところで──
────その時に現れた、話 の わ か る 俺達への接近を試みた……という事だった。
「…………」
……降る要素は、絡み合う蜘蛛の巣のように張り巡らされ。そのひとつひとつは、決して先を見通させる事はしなかった。
その所以は、あまりにも捨て置き難い彼女の────
「──龍宮、火ぃくれ」
「ん…………トラさん……」
その膜を引きちぎったのは後ろから声を掛けてきた彼だった。
……その咥えた煙草の先端に指先を宛てがい、ヤマト を灯す。
命が吹き込まれたそれの初動を施し、トラさんは大きく息を付きながら紡いだ。
「サンキュ。……お前が今考えてる事、当ててやろうか」
「……拝聴します」
「…………偶然にしちゃ出来過ぎだ、でも気にしたらダメだ仕事に集中しろ、しかし、だが、それでも、いやどうして、なぜ…………ってな具合か?」
「……ご明察、賜ります」
俺の言葉にトラさんは肩を竦めながら鼻で笑う。
「そんなに気になるなら明日真衣ちゃんとまた神社でも行って話聞いてこいよ、ワケ有りだったんだろ?」
「それは…………ええ。確かに言っていました」
蟷螂との会合を果たしたあの神社は、どうやら件の友人が好んで赴いていた場所らしかった。
その為、定期的に真衣さんはその場を訪れ何かの足取りを掴めないかと思案し続けていたのだそうだ。
「結局あの虫野郎のせいでまともに観る事も出来なかったしよ、ちょうど良いじゃねぇか」
「いや、しかし……仕事中にそんな私事で」
「わかっちゃいたが、んな事気にしてんのかよ」
「もちろんです。島民の方とのコミュニケーションという括りであればともかく……もしかしたら今自分は、請け負っている仕事を反故にしてしまう方向に動こうとして──」
「──バカタレ」
「あいた」
俺の思考と言葉を、トラさんの小突きが制す。
彼は短くなった煙草を灰皿で消化しながら……俺に向き直った。
……その瞳は、鈍い輝きを携えた鋭さを体現していた。
「仕 事 を台無しにするなんざ……テメェ、許されると思ってんのかコラ」
「は……はい。心得ています、なのでやはり……」
「ドアホ。仕事の為に家族や近しい人間を蔑ろにする事はもっと許されねえ。……なんの為に働いてんだよ、俺らは」
「っっ…………それ、は……」
「両 方 ぶん取れや」
「…………え?」
「仕事も女も両方イケっつってんだよ」
「りょう……ほう、ですか」
「難しいのか?」
「い、いえ……しかし……」
返す言葉を紡ぎあぐねる俺に、トラさんはひとつ息を吐いたあと。
……自らに親指を突き立てながら言い放った。
「オイ、お前俺を誰だと思ってやがる」
「え」
「あのトラさんだろうが」
「…………はい」
「なら答えは出てんだよ」
「え……っと……」
「クソち ょ れ ぇ 、だろ。……お前は、誰の教育を受けたんだ?」
「…………っっ」
……その言葉は。
靄が掛かっていた思考を容易く、快活に切り裂いてみせる。
信用という言葉を彼らしく伝えてくれた事に感謝と、その顔に泥を塗らぬ為の奮起が……同時に沸き立つ。
いつのまにか鋭さが抜けていたその瞳へ居直り、俺は大きく首を縦に振った。
「ちったぁワガママになれよ、誰も責めやしねえ。……きっちりかましていけ」
「……はい。ありがとうございます」
そのまま深々と頭を下げた後……彼から差し出された缶コーヒーを受け取る。
そのタブを傾けながら、トラさんの方へ顔を向けた。
「では、明日はトラさんも一緒に神社へ」
「あーいや、悪ぃけど明日俺は別行ってくるわ」
彼も俺と同じく缶を空けながらそう言い放つ。
そのままぐい、と喉を鳴らしながらコーヒーを呷った。
「別? どこかへ現調ですか」
「や、ちょっくら顔出しっつーか挨拶っつーかなんつーか。……ま、トラブルの未然防止ってやつ」
「未然防止、ですか」
「あーコレよ、コレ」
そう言うトラさんは。
自分の頬を指差し、そのまま指で頬を斬るようなジェスチャーを見せた。
……そ れ の意味するところは、想像には容易いが。
「ん……なるほど」
「まあ一応話は通ってるとは思うけど、後から何かあってもアレだしな。……本当は今日行っとくべきだったけど、さすがに疲れちった」
「……了解しました。申し訳ありません、お手数掛けます」
「構うこたねーよ、こればっかりは俺のがスムーズだろ。終わったら合流すっからまた連絡するわ」
よろしくお願いします、という俺の返しを受けたトラさんはそのままコーヒーを一気に呷る。
俺もそれに倣い、動作を同じくした。
互いの間を纏う夜風と響く虫の音、そして満天の星空は……ようやく本来の情緒を取り戻した様に伺えた。
俺が飲み干したのは……きっと。
喉を通ったモノたけでは無かったのだろうと、そう思う。
────────────
──────
───
「なるほど、虎太郎さんはあ ち ら へ行きましたか」
こつ、こつ、と。
二人分の足音がその場を叩く音が響く。
──トラさんと交わした夜は明け……翌日。
俺と真衣さんは、昨日の続きを兼ね神社へと赴いていた。
相変わらずの長い階段は……まだ鳥居を覗かせてはくれない。
「うん、俺も及びがつかなかったよ」
「元々そちらの社長さんと観光協会 から一応の筋 は通していますが……でもそうですね、賢明です」
「会社 からも既に?」
「ええ、電話越しでしたがとても快く応対してくれましたよ。そのテの事に慣れていらっしゃるんですかね」
おおこわいこわい、とわざとらしく後ずさる真衣さんに苦笑を返し。
「それで、真衣さん。……ご友 人 の事、なんだけど」
「…………ん」
……お互い、額に乗った汗を一度拭いながら。
向いた方向はそのままに、言葉だけを交わしていく。
「まずは、話してくれてありがとう」
「……いいえ。こちらこそ、突拍子もない話を受け止めてくれて感謝しています。そして昨晩は大変な失礼を働いてしまいました、申し訳ありません」
「いや、それはもういいよ」
「……いいモノも見れましたもんね」
そう言いながら、彼女はタイトスカートの裾をたくし上げる素振りを見せた。
「いや、あの……うん。もうそういう事にしておくよ」
「龍宮さんは中々からかい甲斐がありますね」
彼女の言葉を無視しながら、大きく背けた視線をまた前方へ戻した。
……頭上に煌々と光る太陽は、変わらず階段を登る俺達を照らし続けている。
両脇に揺れる木々は、この入場を称えているのか……または否定しているのか。
ざわざわと風に合わせ揺れ動くばかりで、決してその意図を汲む事など出来はしないだろう。
「……友人の子は、この神社によく来てたって話だったよね」
「…………はい。特に理由は思い付かないと言っていましたが、しょっちゅう通っていたみたいで」
「何か感じるところがあったのかな」
「どうでしょう。……私も彼女も、特にそういったものへ趣を置く方では無かったのですけど」
「そうなんだ?」
「はい。なのでなおさら、なぜ沙華がここを気に入っていたのかが図りきれませんでした」
そう語る真衣さんの横顔は……少しだけ昔を思い返しているのか、僅かに目を窄めていた。
「だからこそ、何かの可能性を感じたと」
「そんなところです。……まあ、だからと言って何かに繋がると楽観視してはいませんが」
「……諦めていないだけ、すごい事だよ」
「…………とんでもないです」
「その子のご両親は……?」
「もちろん、諦めてなんていませんよ。ただ……やはり見ていて愉快なものではありません」
その瞳に宿したのは、果たして何なのか。
彼女にとってのその存在は……きっと今の所作に対する大きさなのだろうと改める。
「そっか。……それにしても、あの異 物 を相手に、よく今までやってきたね」
「ああ……もちろん最初は面食らいました。ただ、蹴れば吹っ飛ぶのがわかったので」
「道場通いの成果……ってとこかな」
「当時の沙華にもまだ敵いませんけどね」
そう言ってのける真衣さんだが……実際、昨晩の蟷螂との立ち回りの時から感じてはいた。
……彼女から、多大なオドの息吹を。
恐らく。
この島の環境と合わせ彼女自身の体質と努力が重なり、今の強さが成っているに違いないのだろうと感じさせられた。
「この島の女性には気を付ける事にするよ」
「あはは、その方がいいです。お二人のそ の 辺 り もまた詳しく聞かせて下さい」
……言いながら彼女は、俺がヤマトを行使した時の動作を真似て観せた。
「どうしようかな」
「とても期待しています。……それにしても、龍宮さん」
「ん?」
「私は別に構わないのですが……今日神社 への出向を望んだのには、何か理由があったんですか?」
「……それは」
「いえ、すみません。決して邪推するつもりは無いのですが…………貴方が沙華の名を耳にした時、少しだけ様子が違ったので」
……真衣さんが少しだけ声色を和らげ、その言葉を紡いだと同時に。
ようやく階段はその終わりを視界に写し、掲げられた鳥居が存在を示し始めた。
「…………俺も、話せる事は話すよ。とりあえず、境内に行こうか」
「……わかりました、行きましょう」
そのまま歩を進め、頭上に鳥居を過ぎらせ……昨晩臨んだこの場を再び踏み締める。
そして。
一陣に吹き抜けた風は頬を掠め……はるか後方へ去り木々を揺らす。
仰々しく佇む本殿は、俺達をじっと見詰めている様にも思えた。
広がる彼岸花は、その朱を否応無しに咲き乱し……俺の視界を支配していく。
境内を囲むように在るそれは、まるで何かの儀式でも催すかの様に伺えて────
────境内の中央に、黒い歪みが浮かび始めた。
「なっっ……!!」
「え……!?」
注視する俺達を余所に。
その黒はずぶ、ずぶ、と。
音にも成らぬ音を響かせ歪な脈動を繰り返し突起をひとつ、またひとつ増やしながら……何かの形を為していく。
見るに堪えない……とも感じさせられるが、視線を外す事が出来ない。
もしア レ を収める事を拒否すれば……次の瞬間に果たして自分はこの光景を過去に出来るのか、その保証が望めない。
ならばせめて、現実としてコレを受け止めるしかない。
……そしてついに接地を果たした黒は、痙攣にも近い身動ぎをそこで止めた。
最終的に。
四肢を携え頭を擡 げ、翻る素振りを見せる所作の端々はまるで──
「────人……間……っっ!?」
そう判断するにはあまりにも易い。
それ程に……現界した黒はどこまでもヒトを模していた。
なにより。
────なにより。
その、顔 。
ソレがヒトであるのならば。
存在を認知、或いは識別する為の主要因のひとつであろう……顔。
俺は眼前に現れたヒ ト に対し、ある判断を下さねばならなかった。
交差する言葉は、その形を歪に捉え──
「……サヤ、カ…………っっ!?」
──その音はきっと、この場を切り裂くには容易いのだと……俺の心中を強く叩いた。
もちろんそれは、何か理由があっての事。
所以として在る、彼女が今ぽつりと呟いたその一言は……俺にとっても意識を傾けるに余りあるモノ。
「…………
「
象られた造形は、ひどく座するばかりで。
針の上に身を置いている様な……鋭利を伴った常は、そこを決して離れようとはしない。
「…………
ただの偶然。
もちろん、そう捨て置く事も出来る。
だから俺は努めて冷静を装ったし、ブレる視線を点に留め続けようとした。
「真衣ちゃん」
そこで、トラさんの声が割って入る。
広縁からこちらへ歩み寄る彼を俺達は仰ぎ見た。
「どうしました虎太郎さん」
「悪ぃんだけど、茶のお代わりもらっていいかな」
構いませんよ、と彼女が応えるのと同時にトラさんは俺の方を見て呟いた。
「……落ち着け。女の前で鼻息荒くするもんじゃねぇぞ」
「…………はい」
その言葉に、装ったつもりの冷静は……少しだけ本当になる。
逸る動機は……自らで過去と銘打ったはずの
「どうぞ」
急須を持つ真衣さんは、俺の分の湯呑みも改めてくれた。
礼を言いながら倣い……一口啜る。
「端折って悪かった。……続き聞かせてよ、真衣ちゃん」
「……わかりました」
トラさんの言葉に向き直った真衣さんは。
脚を正しながら、ゆっくりと綴っていくのだった。
────────────
──────
───
……視界が少しだけ淀んで、すぐに霧散する。
音にも成らぬ溜息と共に吐き出された紫煙は、まるで俺の頭の中を呈しているかの様に思えた。
「…………七年、か」
漏れた言葉は、指す意識を纏ってなどいない。
発せられた要素のひとつが……無様に反芻されただけだ。
……それも僅かな夜風に吹かれ、姿を失くす。
りり……と耳に混じる虫の音はそれを嘲笑い、点々と広がる星空はこちらを見つめ続け……いや、何かを迫られているとも感じさせられた。
「……ん…………」
逃げる様に外した視線と共に最後のひと吸いを施し。
手元に携えていた煙草の灯を、備え付けの灰皿で揉み消した。
既に消灯されている民宿を傍目に、散らばる思考を纏めようとする。
頭を冷やすと告げ外に出たは良いが、まだ何一つとして目的を為していない。
…………俺は、先程真衣さんから綴られたモノを脳内で再構築していくことに努めた。
サヤカという名を持つ友人が、過去に居たということ。
そして七年前のある日から、神隠しにでも遭ったかのように忽然と姿を消してしまったということ。
その時を境に、あの黒い異物が現れ始めるようになったこと。
不思議な事に……異物は彼女の前にしか現れた事が無かったようで。それに伴い、真衣さん自身も自らを鍛え……それに対応してきたということ。
……それが、消えた友人と何かしらの繋がりがあると信じて。
だが、確定的な手掛かりを得ぬまま失踪を迎えてから七年が経ち……法的には
それに合わせ、友人の帰る場所である
────その時に現れた、
「…………」
……降る要素は、絡み合う蜘蛛の巣のように張り巡らされ。そのひとつひとつは、決して先を見通させる事はしなかった。
その所以は、あまりにも捨て置き難い彼女の────
「──龍宮、火ぃくれ」
「ん…………トラさん……」
その膜を引きちぎったのは後ろから声を掛けてきた彼だった。
……その咥えた煙草の先端に指先を宛てがい、
命が吹き込まれたそれの初動を施し、トラさんは大きく息を付きながら紡いだ。
「サンキュ。……お前が今考えてる事、当ててやろうか」
「……拝聴します」
「…………偶然にしちゃ出来過ぎだ、でも気にしたらダメだ仕事に集中しろ、しかし、だが、それでも、いやどうして、なぜ…………ってな具合か?」
「……ご明察、賜ります」
俺の言葉にトラさんは肩を竦めながら鼻で笑う。
「そんなに気になるなら明日真衣ちゃんとまた神社でも行って話聞いてこいよ、ワケ有りだったんだろ?」
「それは…………ええ。確かに言っていました」
蟷螂との会合を果たしたあの神社は、どうやら件の友人が好んで赴いていた場所らしかった。
その為、定期的に真衣さんはその場を訪れ何かの足取りを掴めないかと思案し続けていたのだそうだ。
「結局あの虫野郎のせいでまともに観る事も出来なかったしよ、ちょうど良いじゃねぇか」
「いや、しかし……仕事中にそんな私事で」
「わかっちゃいたが、んな事気にしてんのかよ」
「もちろんです。島民の方とのコミュニケーションという括りであればともかく……もしかしたら今自分は、請け負っている仕事を反故にしてしまう方向に動こうとして──」
「──バカタレ」
「あいた」
俺の思考と言葉を、トラさんの小突きが制す。
彼は短くなった煙草を灰皿で消化しながら……俺に向き直った。
……その瞳は、鈍い輝きを携えた鋭さを体現していた。
「
「は……はい。心得ています、なのでやはり……」
「ドアホ。仕事の為に家族や近しい人間を蔑ろにする事はもっと許されねえ。……なんの為に働いてんだよ、俺らは」
「っっ…………それ、は……」
「
「…………え?」
「仕事も女も両方イケっつってんだよ」
「りょう……ほう、ですか」
「難しいのか?」
「い、いえ……しかし……」
返す言葉を紡ぎあぐねる俺に、トラさんはひとつ息を吐いたあと。
……自らに親指を突き立てながら言い放った。
「オイ、お前俺を誰だと思ってやがる」
「え」
「あのトラさんだろうが」
「…………はい」
「なら答えは出てんだよ」
「え……っと……」
「クソ
「…………っっ」
……その言葉は。
靄が掛かっていた思考を容易く、快活に切り裂いてみせる。
信用という言葉を彼らしく伝えてくれた事に感謝と、その顔に泥を塗らぬ為の奮起が……同時に沸き立つ。
いつのまにか鋭さが抜けていたその瞳へ居直り、俺は大きく首を縦に振った。
「ちったぁワガママになれよ、誰も責めやしねえ。……きっちりかましていけ」
「……はい。ありがとうございます」
そのまま深々と頭を下げた後……彼から差し出された缶コーヒーを受け取る。
そのタブを傾けながら、トラさんの方へ顔を向けた。
「では、明日はトラさんも一緒に神社へ」
「あーいや、悪ぃけど明日俺は別行ってくるわ」
彼も俺と同じく缶を空けながらそう言い放つ。
そのままぐい、と喉を鳴らしながらコーヒーを呷った。
「別? どこかへ現調ですか」
「や、ちょっくら顔出しっつーか挨拶っつーかなんつーか。……ま、トラブルの未然防止ってやつ」
「未然防止、ですか」
「あーコレよ、コレ」
そう言うトラさんは。
自分の頬を指差し、そのまま指で頬を斬るようなジェスチャーを見せた。
……
「ん……なるほど」
「まあ一応話は通ってるとは思うけど、後から何かあってもアレだしな。……本当は今日行っとくべきだったけど、さすがに疲れちった」
「……了解しました。申し訳ありません、お手数掛けます」
「構うこたねーよ、こればっかりは俺のがスムーズだろ。終わったら合流すっからまた連絡するわ」
よろしくお願いします、という俺の返しを受けたトラさんはそのままコーヒーを一気に呷る。
俺もそれに倣い、動作を同じくした。
互いの間を纏う夜風と響く虫の音、そして満天の星空は……ようやく本来の情緒を取り戻した様に伺えた。
俺が飲み干したのは……きっと。
喉を通ったモノたけでは無かったのだろうと、そう思う。
────────────
──────
───
「なるほど、虎太郎さんは
こつ、こつ、と。
二人分の足音がその場を叩く音が響く。
──トラさんと交わした夜は明け……翌日。
俺と真衣さんは、昨日の続きを兼ね神社へと赴いていた。
相変わらずの長い階段は……まだ鳥居を覗かせてはくれない。
「うん、俺も及びがつかなかったよ」
「元々そちらの社長さんと
「
「ええ、電話越しでしたがとても快く応対してくれましたよ。そのテの事に慣れていらっしゃるんですかね」
おおこわいこわい、とわざとらしく後ずさる真衣さんに苦笑を返し。
「それで、真衣さん。……ご
「…………ん」
……お互い、額に乗った汗を一度拭いながら。
向いた方向はそのままに、言葉だけを交わしていく。
「まずは、話してくれてありがとう」
「……いいえ。こちらこそ、突拍子もない話を受け止めてくれて感謝しています。そして昨晩は大変な失礼を働いてしまいました、申し訳ありません」
「いや、それはもういいよ」
「……いいモノも見れましたもんね」
そう言いながら、彼女はタイトスカートの裾をたくし上げる素振りを見せた。
「いや、あの……うん。もうそういう事にしておくよ」
「龍宮さんは中々からかい甲斐がありますね」
彼女の言葉を無視しながら、大きく背けた視線をまた前方へ戻した。
……頭上に煌々と光る太陽は、変わらず階段を登る俺達を照らし続けている。
両脇に揺れる木々は、この入場を称えているのか……または否定しているのか。
ざわざわと風に合わせ揺れ動くばかりで、決してその意図を汲む事など出来はしないだろう。
「……友人の子は、この神社によく来てたって話だったよね」
「…………はい。特に理由は思い付かないと言っていましたが、しょっちゅう通っていたみたいで」
「何か感じるところがあったのかな」
「どうでしょう。……私も彼女も、特にそういったものへ趣を置く方では無かったのですけど」
「そうなんだ?」
「はい。なのでなおさら、なぜ沙華がここを気に入っていたのかが図りきれませんでした」
そう語る真衣さんの横顔は……少しだけ昔を思い返しているのか、僅かに目を窄めていた。
「だからこそ、何かの可能性を感じたと」
「そんなところです。……まあ、だからと言って何かに繋がると楽観視してはいませんが」
「……諦めていないだけ、すごい事だよ」
「…………とんでもないです」
「その子のご両親は……?」
「もちろん、諦めてなんていませんよ。ただ……やはり見ていて愉快なものではありません」
その瞳に宿したのは、果たして何なのか。
彼女にとってのその存在は……きっと今の所作に対する大きさなのだろうと改める。
「そっか。……それにしても、あの
「ああ……もちろん最初は面食らいました。ただ、蹴れば吹っ飛ぶのがわかったので」
「道場通いの成果……ってとこかな」
「当時の沙華にもまだ敵いませんけどね」
そう言ってのける真衣さんだが……実際、昨晩の蟷螂との立ち回りの時から感じてはいた。
……彼女から、多大なオドの息吹を。
恐らく。
この島の環境と合わせ彼女自身の体質と努力が重なり、今の強さが成っているに違いないのだろうと感じさせられた。
「この島の女性には気を付ける事にするよ」
「あはは、その方がいいです。お二人の
……言いながら彼女は、俺がヤマトを行使した時の動作を真似て観せた。
「どうしようかな」
「とても期待しています。……それにしても、龍宮さん」
「ん?」
「私は別に構わないのですが……今日
「……それは」
「いえ、すみません。決して邪推するつもりは無いのですが…………貴方が沙華の名を耳にした時、少しだけ様子が違ったので」
……真衣さんが少しだけ声色を和らげ、その言葉を紡いだと同時に。
ようやく階段はその終わりを視界に写し、掲げられた鳥居が存在を示し始めた。
「…………俺も、話せる事は話すよ。とりあえず、境内に行こうか」
「……わかりました、行きましょう」
そのまま歩を進め、頭上に鳥居を過ぎらせ……昨晩臨んだこの場を再び踏み締める。
そして。
一陣に吹き抜けた風は頬を掠め……はるか後方へ去り木々を揺らす。
仰々しく佇む本殿は、俺達をじっと見詰めている様にも思えた。
広がる彼岸花は、その朱を否応無しに咲き乱し……俺の視界を支配していく。
境内を囲むように在るそれは、まるで何かの儀式でも催すかの様に伺えて────
────境内の中央に、黒い歪みが浮かび始めた。
「なっっ……!!」
「え……!?」
注視する俺達を余所に。
その黒はずぶ、ずぶ、と。
音にも成らぬ音を響かせ歪な脈動を繰り返し突起をひとつ、またひとつ増やしながら……何かの形を為していく。
見るに堪えない……とも感じさせられるが、視線を外す事が出来ない。
もし
ならばせめて、現実としてコレを受け止めるしかない。
……そしてついに接地を果たした黒は、痙攣にも近い身動ぎをそこで止めた。
最終的に。
四肢を携え頭を
「────人……間……っっ!?」
そう判断するにはあまりにも易い。
それ程に……現界した黒はどこまでもヒトを模していた。
なにより。
────なにより。
その、
ソレがヒトであるのならば。
存在を認知、或いは識別する為の主要因のひとつであろう……顔。
俺は眼前に現れた
交差する言葉は、その形を歪に捉え──
「……サヤ、カ…………っっ!?」
──その音はきっと、この場を切り裂くには容易いのだと……俺の心中を強く叩いた。