冬牡丹

文字数 10,505文字

冬牡丹

私は、この地域が嫌いだった。どうしても、好きになれなかった。

理由なんて、挙げればいくらでもある。主要な電車の駅が遠くて、東京に行きにくいという事だけではない。車がなければ移動だってできないし、近くに流行りのものが売っている百貨店などもないので、どうしても流行に後れてしまうということもある。ほかにも挙げればきりがない、きりがない。

「ご町内の皆様に申し上げます。また猪が道に飛び出してきましたので、暫くの間、建物から外へ出ない様にお願いします。」

一日のうちにこんなマイク放送が流れることがしょっちゅうある。猪が捕まるまでの間、危険なので、家の中にいるように、というマイク放送だ。これが、私は一番嫌いだ。それのせいで、友達の家に遊びに行くのが取りやめになるからだ。まあ、車だから、まだいいかと思うけど、歩行している間は、どうしても、猪という動物には勝てないことは知っているから、私もその通りにするんだけど、猪がでたせいで、遊びに行くのが取りやめなんて、まったく田舎にもほどがあると、イライラしたことはしょっちゅうある。

その日、私は、思いを寄せている人を、初めて家に招待することになっていた。その人は、私にはもったいないくらい優しい人で、一度出会ったら、もうほかに好きになる人はいないのではないかと思われるほど、私は思いを寄せていた。もちろん、彼のほうは、私のことをただの田舎娘と思っているだろうが、今日初めて家に来いと言ってくれたからには、彼のほうも私に好意を持っている、と確信した。だから、この日のために新しい服を買い、すべてのシミがなくなるまで化粧をし、ひび割れが見えなくなるまで口紅を塗って、あとは、彼が迎えに来てくれるのを待つだけだ、と、身構えていた。

「あんた、はしゃいでいるのはいいけれど、最近猪がよく出るから、気をつけなさいよ。」

テレビを見ながら、迎えの電話を待っている私に、母がそんなことを言った。同じ親子だけど、私は母と同じようにはなりたくないと思っている。母は、どちらかといえば地味な人で、きれいな化粧とか、洋服とかに全く興味がなく、いつも化粧もしないで、髪を手拭いで覆い、割烹着を身に着けて、ずいぶん古臭い恰好をしていた。本当におしゃれをするときなんて、式典やそういうときで十分よ、という考えから、めったに新しい服を買うこともない。私も、大学を卒業するときは、母にぜひ、かっこいい服装で出てもらいたいと望んだが、母が選んだものは、ただの古臭い和服だった。その代わり、私には、誰よりも派手な恰好をさせていく。友達のお母さんは、本人に負けないくらい派手な服装をしているのに、なんで!なんて私は当たり散らしたこともある。でも、母がいう言葉はいつもこれ。

「田舎の人間が、無理して身分の高い人のまねをする必要はないわ。」

私は、これを言われると、若いころはそんな時代は当の昔のことだと言って反抗していたけれど、さすがに30を越してしまうと、もう母とけんかする意欲もなくなって、怒ることもできず、母がそれを言い始めたら逃げることにしていた。

そういうことをしていると同時に、この町がどれほど田舎町なのか、わかるようになってきた。この町は、ないものがあまりにも多すぎる。電車もないし、大きなテーマパークもない。それに、大きな劇場もない、おいしいものが食べられる、レストランのようなものもない。もちろん個人経営の居酒屋のようなものやラーメン屋さんのようなものはあるのだが、私が知っている、おいしいものというのは、フライドポテトとか、そういうもの。それを販売しているところはないということだ。

そして、何かあったら、すぐに手を出してくる近所の人たち。どうして彼らはすぐに他人の家でトラブルがあると、こうしろああしろとうるさく言ってくるのだろうか。個人のトラブルなんて、放っておいてくれればいいのに。トラブルばかりではなくて、うれしいことがあった時も同様であり、私が大学に行ったときは、食べきれないほどの食べ物を持ってお祝いに来てくれた。大学生になったんだから、大学生らしく、パソコンとかそういう物が欲しかったのに。そういうことは認められていないのかな、と思われるほど、食べ物を持ってきてくれた。そんなに食べ物には不自由する時代ではないのにな。

ただ、私は、こういう不満を口に出していったことはまだない。口にだして言うのはご法度という法律があるわけではないけれど、口に出して言うのなら、態度で示したほうがいいと思うことにしている。だから、私は、都会に住んでいる人に思いを寄せている。幸い今は、SNSがあったりして、相手との連絡は、比較的取りやすい時代であり、スマートフォンさえあれば、周りの人にばれることもないというところは好都合だった。もう、彼と、話が進んだら、この不便な土地に別れを告げて、うんと便利な東京に行こう。私は、そうやって、このつまらない田舎を出ていく作戦を考えていた。

そういうわけで、今日は重要な日だった。その人にここへ来てもらって、田舎の不便さを突きつけるのだ。そして私は、母に彼を紹介して、彼に私を幸せにすると言ってもらって、もう、この町とさようならをする。それでいい。そして、二度とここには帰らない環境にしてもらう。それでいい。そう考えていた。

でも、彼がやってくる時間の30分前に、また、マイク放送が入った。

「ご町内の皆様に申し上げます。ただいま、バス停付近で、猪が目撃されましたので、捕獲作業を開始いたします。危険ですから、皆さまは外出は控えてくださいますよう、お願いいたします。」

バス停!といえば、この町にバスが止まるのは一か所しかないことを、私は知っている。そこには確か東京からの高速バスも停車するはず。電車の駅がすごく遠いので、この高速バスを利用することは結構多い。高速バスを利用すれば、私の自宅まで、ものの五分程度でつける。しかし、そこに猪が出現したとなれば、バス停付近は物々しい雰囲気になってしまうはず。

なんでまた。と私は思ったが、まだ30分時間はある。その間に猪が捕まってしまえば、彼もバスに乗ってやってくるはずだ!私は、壁にかかっている古ぼけた時計を眺めながら、そんな風に考えていた。

ふいに、私のスマートフォンが鳴った。よく見ると彼からだ。私は、やり取りがばれないように、電話番号は教えていないでメールでしかやり取りしていなかった。もちろん、電話番号を知らなくても通話ができるアプリケーションもあることは知っているが、母や近所の人たちにばれるのが恐ろしくて、メールでしかやり取りできなかった。

「今日はごめんね。ちょうどテレビをつけたら、君が住んでいる地域に、猪が出たそうで、危ないそうだから、そっちに行くのはまた今度にするよ。また日付が決まったら、連絡するからね。」

つまり取りやめということか。

全く、彼も男らしくないなとおもった。

「でも、猪はすぐに捕獲されると思うから、大丈夫よ。少し遅れてもいいから、来て頂戴。」

と、私は返信したが、

「いや、怪我でもしたら困るだろ。明日から会社も始まるし、猪は獰猛な動物で有名だからね。それではまたね。」

と返信が来て、私はがっくりと落ち込んだ。

「どうしたの?何をそんなに落ち込んでるの?」

母が心配になったのか、私に声をかけてきたのであるが、

「何もないわよ!お母さんに話したって無駄よ!」

と思わず当たり散らしてしまった。

「まあねえ。若いときは、どうしても自分の住んでいるところに、嫌気がさすもんだけど、それを受け入れて住んでいくとこも大切よ。」

母はそんなことを言い始めた。と、いうことはお見通しだったのか?

「当り前じゃない。そんなに熱心にメールやっているんだもの。すぐわかるわよ。好きな人ができて、その人に、会おうと思ったんでしょう?」

な、なんでわかってしまうんだろう?

「もし、お母さんに相談してくれれば、もっと安全なホテルなんかを用意してあげて、それであんたたち二人が、安心して過ごせるようにしてあげたけどね。」

それなら、教えてくれればいいじゃないか!

「まあ、あんまり言うとあんたが怒るかなと思ったから、あえて口出しはしなかったんだけど、もし好きな人ができて、うちに連れてきたくなったら、遠慮なく連れてきていいわよ。でも道中猪が出て危ないことも確かだから、そういう面から考えると、安全なホテルにでも行ったほうがいいかもね。」

私は、頭にきた。母は、私のやっていることをすべて知っていたのだ。それなら、あえて手をださないのではなく、積極的に介入してくれればいいのに。そのほうが今日だってうまくいったかもしれないのに。

「まあねえ、誰でも若いときは住んでるところから出たいと思うのよね。あたしがわかかったときは、まだこの土地の良さを知ることはできたんだけど、今の時代は、嫌だと思ったら、どんどん外へ出たほうがいいでしょうし、好きな人にそれをやってもらいたいんだったら、それだって悪いことではないわよ。」

今まで、都会の人のまねをする必要はないと言ってきた人が、なんでいきなりこんなことを言い出すのか。私はわからなかった。

「ずっとあんたを育ててきて、それは感じてたの。あんたはもともとこの土地にいたくないんだってことが、見え見えだったし。今までなら、何とか踏みとどまらせようとか、そういう風に持って行ったんだけど、今は誰かの援助を受けなくても、体さえ元気ならやっていける時代だしね。それなら、あんたの出ていきたいっていう気持ちを最大限に発揮できるようにしてやるのが親の愛情ってものかなと思いなおしたわ。今回は失敗したかもしれないけど、また好きな人と出会って、その人と一緒になりたいと思ったら、遠慮なく言ってちょうだいね。お母さんも手助けするから。」

たぶんもう、きっと、これ以上好きな人はいないのではないか。そういう人は二度と現れないのではないか、私は、そういう気持ちでいた。だから、母に今更こんなことを言われても、もう怒り心頭でしかなかった。

「お母さんは変なことばっかり言いすぎなのよ!それなら、すぐに手立てをしてくれたっていいでしょう!何もしてないくせに、いきなり私と彼のことに手を出して、今度は好きな人のところへ行けなんて、虫が良すぎるわ!子どもの時は、都会の人のまねをするなとか言って、私が欲しいものは何も買ってくれなかったじゃないの!」

「そうね。初めのころはわからなかったわよ。初めのころは、お母さんも、ちゃんとあんたのことわかっていなかったから、この地域に慣れさせようと、一生懸命育てたの。でも、それはできないんだなって、あんたが好きな人と、一生懸命メールをやり取りしているのを見て、気が付いたの。だから、これからは、あんたのことを応援してやろうって、頭を切り替えたのよ!」

「親であれば、間違いは許されるの?私が、それじゃあ、長年ほしいものが何もなくて、友達もできなくて、我慢するのを強いられた学生時代はどうなるの!私だって、ほかの子がやっているように、見かけを可愛くして、もっと華やかな鞄を持ったりして、そうやって楽しみたかったわ!それを全部お母さんは、田舎の人間が都会の人のまねをする必要な言って取り上げた!私は、ほかの子が持っているものをなにも持ってなくて、どんなに悔しかったか。お母さんわからないでしょう。もちろん、過去には帰れないけど、今そう気が付いているんだったら、私は、お母さんに謝ってもらいたいわ!私の、青春を返して!」

私は、ここで初めて、長年たまっていたことを口にした。母は、それをいう私を、ごめんなさいという顔で見つめた。

「そうね。あんたには、悪いことをしたと思っているわ。だから、好きな人が出てきたら、今度は東京でもどこでも、すきなところに行っていいわよ。お母さん、あんたにお詫びをするつもりで、今度は応援してあげるからね。あんたの望んだ親ではなくて、本当にごめんね。」

「謝ってよ!手をついて謝ってよ!本当に私が悩んだり、苦しんだりした時間を返して!ただ、口で言われたって、私は何も得をした気にならないわ!」

私は、怒りが頂点に達して、思わず母にそんなことを言ってしまった。

「そうね。あんたが、そこまで傷ついて、真剣に悩んでいたなんて、お母さん何も知らなかったわ。ごめんなさい、本当に。」

母が、頭を下げようとしたその瞬間、

「おーい、佳代ちゃんいるかい。」

役場の吉田さんが、玄関先にやってきた。

「佳代ちゃん、お願いなんだけど、この人に何か食べさせてやってくれないかな。あの、バス停の前で立っててさ。俺が猪が出るからどっか建物に入ってろ、と言ったら、ごめんなさいと言ってふらふらと倒れ込んじゃった。なんでもきけば、朝にたくあん一つ口にしただけで、何も食べてないんだって。頼むよ、佳代ちゃん。」

吉田さんは、背中に背負っていた男性に対してこんなことを言っている。

「まあ、大変だねえ。じゃあとりあえず、ここへ座らせてあげようね。昭子、座椅子持ってきて。」

母は、本来ならテーブルに座らせるはずなのに、座椅子に座らせてやろうと言い出した。私は、こたつに入らせるのかと驚いたが、ああそうか、とすぐにわかった。彼は、げっそりとやせていて、これでは、テーブルに座るのは難しいし、椅子から落ちて怪我でもしたら大変だ。私は、押し入れを開けて、使っていなかった座椅子を急いで組み立て、こたつの前においてやる。吉田さんは、彼をその椅子に座らせた。

「どうもすみません。水穂さん、本当にもう疲れきっているみたいで。」

玄関先からまた声がする。連れの人物だろう。

「あなたも中に入って頂戴。詳しく話を聞きたいから。」

母がそういうと、連れの人もすみませんと言って中に入ってきた。足が悪いようで、車いすに乗っていた。

「すみません。もうこの水穂さんが、何も食べないから悪いんだ。僕も、毎日食べるように言い聞かせているんだけどね、かかっている特殊な病気のせいで、食べ物をなかなか口にしなくなっちまってよ。もう、どうしようもないんです。」

と、連れの人がそういっている。私は、その座椅子に座っている人物の顔をまじまじと見た。とにかく、きれいな人だ。少しばかり日本人離れしたところもある、映画俳優によく似た人物がいそうな、そういう顔だ。

「ちなみに、僕は、影山杉三。あだ名は杉ちゃんだ。ご迷惑かけますが、どうぞよろしく。」

「もう、自己紹介なんていいから、早くこの人に何か食べさせてやったほうがいいよ。でないと本当にだめになってしまう気がする。」

吉田さんが、それを打ち消すようにいった。

「あ、すみません。本当にお構いなく、、、。」

細い、しわがれた声で、水穂さんがいった。顔に合わず、か細い、しわがれた声であった。

「おう、口が利けたか。そんなことより、お構いなくじゃないよ。バス停の前であんな風に倒れられては、体がもたんよ。早く、この佳代ちゃんに、何か作ってもらいな。」

「昨日の牡丹鍋の残りでよければだけど、雑炊しようか。温かいものがいいでしょう?」

吉田さんが心配そうに言うと、母も、彼にそう話しかけた。私も何か言葉がけをしたかったが、何を話していいのやらわからず、そのまま黙っていた。

「すまんねえ。わざわざ飯まで食わしてもらって。じゃあ、悪いけど、それでいただきますよ。」

水穂さんに代わってなのか、杉三という人がそういう。

「あの、本当に寝かしてもらうだけで結構ですから、、、。」

まだ二人の意見は合致していなかったのか、水穂さんはそういうが、

「いや、食べろ!食べないと、動けない!」

と、杉三が強くいったため、

「すみません、お願いします。」

と、頭を下げた。

「じゃあ、作りますから、少し待っててください。昨日の牡丹鍋の残り物で悪いんですけど、猪は、栄養価もあるし、たぶん精力もつくと思います。」

母は、台所に行って、すぐに昨日使った土鍋に火をつけた。部屋中、イノシシ肉の匂いが充満した。

「うまそうな匂いだな。」

杉三がそういうが、水穂は何の反応もしない。

「大丈夫か?いいにおいがしているのに、無反応で、、、。」

吉田さんはまだ心配そうだ。

「はい、できた。即席の雑炊だけど、とにかく早く食べてもらいたくて、急いで作っちゃった。」

母は、こたつの上に鍋敷きを敷いて、そこに雑炊の入った鍋をどしっと置いた。

「さあどうぞ。思いっきり食べてください。」

「はい。」

水穂さんは、匙を受け取って、雑炊に手を付け口へ入れたが、口に入れたとたんにせき込んでしまうのだった。

「バカ!せっかく出してくれたんだから、早く猪肉、食べろ!」

杉三は、そういって彼を鼓舞するが、どうしても、ダメなようである。何、この人、と、私は嫌な気がした。でも、母は、にこやかにわらったまま、彼の隣に座って、匙をとった。

「さあ、おばさんと一緒に食べよう。怖いことはないわよ。」

何を始めるのかと思った。でも母は、にこやかに笑って、雑炊に匙を入れ、いかにもおいしそうに食べるのだ。例の猪肉も、独特の匂いがあるが、おいしそうに食した。

「ほら、おいしいわよ。お米もちょうどよく煮えているし、大根だってとろけそうね。猪の肉はちょっと癖があるけど、ちゃんと、生姜で臭みを抜いてあるから、歯ごたえがあって、いい味だわ。ちょっと一緒に食べてみようか。」

水穂の顔の前に、小さな猪の肉の塊のはいった匙が差し出された。本当に小さな塊で、ご飯の中に紛れ込んでいるだけの小さな塊と言えそうなものであるが、猪の肉であることは間違いない。

「おばさん、食べたけどすごくおいしかった。今寒いし、雑炊は温かいわよ。」

優しそうに、母はそうゆっくり語り掛ける。

「ほら、食べてごらん。」

別に強制しているようないい方はしない。それをしたら、かえって逆効果になってしまう、と、言いたいのだろうか。でも、私は、そういうやり方をする母が、まるで、反抗期の子供に対して甘やかしているように見えて、ある意味では腹が立った。

お母さん、何をやっているの、こんな人に、そんな風に接して、子どもじゃあるまいし、何をやっているの?

相手をしている水穂さんだって、大人らしく怒ればいいのに。できないんだろうか?唇がわなわなと震えている。なんで?そんなに食べ物というものが怖いの?

「おばさんのこと、嫌い?そうだったらおばさん、悲しいな。おばさんは特に、あなたに対して、何かしようとか、そういうことはないわよ。そうじゃなくて、あなたが、何もできなくなって、弱っていくのは悲しいの。おばさんはただ、あなたと一緒に、雑炊、食べたいだけなんだけど。」

「お母さん。馬鹿なことは、、、。」

私は言いかけたが、役場の吉田さんに、ストップをかけられてしまった。

「かわいそうになあ。何にも食べられないのか。それじゃあ、生活していくにあたってずいぶん苦しいだろう。」

吉田さんは、そういうことを言っている。

「もう一回言うね。おばさんは、あなたと一緒にご飯を食べられるとうれしいんだけどなあ。」

水穂は、おばさんから、匙を静かに受け取って、口に入れた。

その時は、咳き込むことはなく、静かに雑炊を飲み込んだ。隣にいた、杉三と役場の吉田さんが、おおーと、感心した声を上げた。

「さあ、もう一回食べてみよう。今度は、大根よ。大根。」

また、小さく切られた大根が、そっと顔の前に差し出される。おばさんがにこやかに笑うと、水穂はそれを受け取って、静かに飲み込んだ。

「次は、ほうれん草。慌てなくていいからゆっくりと。」

次は細かく切ったほうれん草が、まだ差し出された。水穂は今度も飲み込んでくれた。

もう一度、猪の肉を差し出したが、もう、首を横に振ってしまった。

「もういいの?たった三口でおしまいにする気?」

私は、本当に変な人だと思って、思わずそう言ってしまったが、

「よく食べられてよかったね。じゃあ、次はもうちょっと食べられるね。きっと食べられるよ。」

母は、驚きもしないで、優しくそう言った。この人は、いったい、、、と私は変な目で彼を見るが、彼のほうは、それに返答する余裕はないようだ。

「どうする?少し休んでいく?」

と、いう母に、

「はい。」

と、彼は答えた。

「昭子、毛布持ってきて。」

私は母から命を受け、いやいやながらに、押し入れから毛布を一枚出した。すると、母は座椅子を倒した状態にして、彼の体に毛布を掛けてやった。もう疲れ切っているらしく、彼は、暫くすると、音に対しても反応を示さなくなった。

一体何がここで起きているのだろう。私からしてみれば、子どもが一人増えたようにしか、見えなかったが、、、。

「本当に、ありがとうな。親切に食わしてくださって。いつもああして優しく接してやれば、もうちょっと食うと思います。だけど、みんな結構感情をぶつけることのほうが多いので、勉強になった。」

「そうか。大変だな。こういう人が身近にいると、かなり大変でしょう。本人もかわいそうだが、周りの人も、巻き込まれるからね。」

杉三が礼を言うと、吉田さんが杉三をねぎらうように言った。

「いや、僕が、礼なんか言われる必要はないさ。僕は別に、こいつが近くにいるだけで、危害があるとは思ってもいないよ。」

「いやいや、ちゃんと、病院とか、そういうところには連れて行ってるの?」

「まあなあ、でも、本人が頑として言うことを聞かないんだ。」

「そうかあ。何とかして、それではいけないと彼に言って、できるだけ早く良い医者を探してさ、正常にご飯を食べられるように、何とかしてもらえ。でないと、ほら、なんだっけ、あのアメリカの有名な歌手みたいに、大変なことになるよ。」

そういえば、そういう人を聞いたことがある。でも、私は、遠い異国の、自分とは関係ない国家で起きていることとしか考えていなかった。でも、今ここで、この人物は、ご飯を食せないという症状を起こした。もしかしたら、そういうものが、私たちの身近であるのかもしれなかった。

「でも大変ね。これでは、歩くのもやっとでしょ。理由なんて、話せば長くなることだし、あえて聞かないけど、とにかく、彼に安心していられるところを作ってあげてね。」

母もそういっている。私は、この人たちがなんで抵抗なくこの人物に接することができるのかが、わからなかった。私から見れば、容姿こそきれいな人であることは間違いないが、どうも変な人、というように見えてしまう。でも、確かに、アメリカの有名な歌手の話は私も聞かされたことはあって、それと同じことが、今ここでおこったといいうことであることは疑いない、、、。私は、どうしたらいいのかわからなくなって、母や役場の吉田さんが、話していることを聞いているしかできないのだった。

でも、この人のことをなんというべきだろうか。

人間は、追い詰められると、食事したり、立って歩いたり、そういうことが何一つできなくなることは知った。

「あ、もしもし。そうですか。猪、無事に捕獲されましたか。よかったです。あ、俺ですか。今ちょっと難儀している人を見つけて、介抱していたところです。あ、すみません。会議が始まる頃には、ちゃんと役場に戻りますんで。」

役場吉田さんは、そう言って、電話を切った。同時に杉三が、眠っていた水穂をゆすって起こし、

「起きろ。帰るぞ。もう、おじさん会議に行かなきゃいけないんだってよ。」

と、声をかけると、水穂は、頭をふらふらさせながら起きて、

「ご迷惑をかけてすみません。今度お詫びに来ますから。今日はこれで勘弁してください。」

持っていた財布を開けて、母に、一万円札を差し出した。

「いいえ、そんなものは結構よ。ちゃんと、食事をとれるように頑張ろうね。」

それも、優しく断る母。どうしてこういうことができてしまうんだろうか?

「じゃあ帰るか。心配だから、バス停まで送っていくよ。歩けるかい?」

吉田さんに言われて水穂はよろよろとたちあがる。吉田さんは、まだ心配らしく、ほらよと、彼に肩を貸して、慎重に歩き出していった。そのあとを、杉三も追いかけて行った。

「不思議なものね。でも、都会じゃ絶対にない話ね。猪が出るようなこういう田舎でないと。」

座椅子を片付けながら、母はそんなことを言う。

確かに今回の騒動は、猪が出たことが原因であったが、ほかに何をもたらしたのだろうか。

「でも、お母さん。」

と私は聞いた。

「なんであの人に、ご飯なんて食べさせることができたの?」

「お母さんにならないと、気持ちは出てこないわよ。」

母は、あんたにはまだ早いといいたげに言った。

「お母さんになるとね、子育てで苦労しているから、他人も苦労しているんだろうなってのが、すぐわかるの。」

「そうなの。じゃあ、私も理由がわかる日が来るかな?今回は、猪が出たせいで、私の大事なことは、全部お流れになっちゃったけど。」

私は、母にそんなことを言ってみた。母は、にこやかではあるけれど、ちょっと寂しいなという感じの顔をして、私に言う。

「そうね。きっとあんたもわかるようにできているんでしょうけれど、今はそれが必要ないと思われているような気がしてならないのよね。」
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