第30話

文字数 1,560文字

 突然の宣言と激しく嗚咽しだした姉に対して弟は只々、心から心配をしていた。

「お母さんには言ったの?」
「まだ、これから。お父さんにも伝えてないよ」
「あいつには言わない方がいいよ」
「どうして」
才は答えを迷いながら、姉を思って念を押すかのように言う。
「かあさんだけに説明して、すぐにでも引っ越した方がいいよ」

この一言で優月は以前の自分にまた後戻りして。
「いい加減にして。今があるのは、中元のお父さんが私の才能を見抜いて応援してくれたからなの」
才の姉を思っての優しさも、彼女にとっては弟の嫉妬の感情の一種としか考えられなかった。

「あいつは、芸術的なものに対してセンスも無いし、興味も無いよ。音楽の何も分かっていない。優月が求める存在意義なんか何も分かってない。あいつは、空手にしても心と体を繋げられないような人間なんだから。ボクは体で奴を見定めたから分かるのさ」

それ以上はやめてと叫ぶと、才は最後にと、
「二人きりになるのは避けてくれな、あと、僕には言ってないことにしておいて」
そう言って自分の部屋に戻った。

優月は母親と父親との夕食の食卓で、喜び応援してくれる姿を期待しながら報告すると、母親は心から頑張れと応援してくれたが、中元は「おめでとう」とは言ったものの、異質な何かを表情に浮かべた気がした。その時はそれが何なのかは優月には分からなかった。

 数日後、中元から「この前はちゃんとお祝いしてあげられなかったから、今からさせてくれ」とバイト中にメールが入った。
母親の香と才は後から来るからとの事であった。
少しおかしいとも思いはした。中元は今では一切、才と話もしないし、顔さえまともに見ない程に恐れていた筈だったから。優月はなんとなく気になって、才の携帯に電話を掛けてみたが繋がらなかったので、メールを送った。

 呼び出された中元の建築事務所はアルミ板の壁に囲まれた中にあり、大きな敷地には廃材や重機、トラックが無秩序に置かれていた。それらを照らす明かりがその日は消えていた。
事務所の中へ入る前に一度、家族を呼んでみた。しばらく待ったが、何の返事も無いので、誰もいないのかしらと、試しにノブを回してみるとドアが空いた。少し躊躇われたが来客用のソファーに座って待つ事にした。

急に中元が手に缶ビールを片手に暗い給湯室から出てくると同時に足元で空き缶を蹴飛ばした音が響き、固まった身体は優月の意思を全て遮断し鳥肌だけを浮かび上がらせた。
そして気付かぬうちに、鳥肌の立った皮膚をアルコールが燃えて籠ったぬくもりを押しつけるようなゴツイ掌が這ってくる。声が出させないままに、優月の口にはヤニ臭い指が押し入り呼吸が出来なくなった。

少しずつ明かりが滲みながら視界を遠のけ、ただ、手や腕や顔あらゆる皮膚を生ぬるく重さのある熱が纏わりつきながら移動する感触だけが支配した。
気が付くと辺りに「ぴーぴー」と何ともフザケタ、深刻さのない音が部屋中に響き、体中がくすぐったくなりそうな世界があった。

おおふざけで、踊っているようだ。

ピーピーピー

才ノ声。
才ノメロディー
そうだ
才の歌だ。
なんて楽しく悲しいんだ。

「そういえば、何年ぶりだろうか。やっぱり、才はすごいんだな。
ねー、才ごめんね。やっぱりあんたこそ・・・・て・・・・ん・・・・」

才の他にも誰が一緒にハミングしているのだろう。
ひょっとこ踊りか、コメディーダンスのリズムの口笛か。
なんて、気軽な口笛だ。でもその口笛に才のメロディーが絡むと名曲になる。
「ねー、この曲わたしのために完成させて」

「優月の曲だよ」
才は一言だけ絞り出すように口にした。

「あ、おとうさんは?」

ピーピーピーラリピー

姉を慕う弟の姿はなかった。
血まみれで、
股間をなでる獣が居るだけであった。

そのとき優月は本物の化け物を

可愛かったはずの弟に見た。

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