出発

文字数 5,130文字

 出発
 
 黒い鳥がこっちを見ている。
 視線に気が付いたのはいつだったか、いつからなのか、茶谷雄介は考えてみたが、見当も付かなかった。見渡す限り、薄暗い幹線道路沿いの一段上がった歩道を歩いているのは、赤いリュックサックを背負った茶谷だけだった。彼の足元に伸びる歩道は最近整備されたばかりで、唐突に現れる自動販売機の強すぎる明かりに照らされても、陰影を残すことなく底が無いように黒々としていた。そんな真新しい舗装路は雨や通行人の靴底による消費はほとんどされておらず、たっぷりと油で湿って弾力さえ残っている。茶谷はそんな新しいアスファルトを品のある卸したて黒い絨毯のようだと思い、それを贅沢に踏みつけることを自分だけがこの時点では許されており、まとわり付くような黒い鳥の監視は感じていたが、まるで既存の世界から自分が歓迎されているように思えてきて、少しだけ愉快に感じられた。
 時計は夜九時を回ろうとしていた。すでに一日はほぼ終わっていた。茶谷は久々に駆けずり回ったせいで、膝に疲労感を感じていた。足取りは重く、眠気が意識を混濁させる。目を瞑ると、一日の出来事の断片が網膜に浮かんでくる。白い建物、黒い鳥、青い海、赤い血、彩られた記憶の断片に、おもわず声をあげそうになったが、必死に目を開き、悪夢を追い払うかのように濃紺の夜を見つめた。
 暗闇に色を失ったアスファルトは、いつの間にか昼に溜め込んだ熱気をほとんど大気に奪われていて、水気を含む大気は勝手に揺らぐことなくじっとした無風状態。対流を拒否したため肌に張り付く空気は、冷たくも無く暑くもない。春に大気にばら撒かれた希望を抱かすような甘い花の臭いもこの頃になると、ほとんどが消費されている。それにまだ、夏のざわめきは遠い。五月の夜はきわめて平面的で、親切に突き放している。茶谷は、夜を見て落ち着いた。今から自分が何をしようと五月の夜が、それを拒むことが無いように思えた。
 長距離バスが発着する人通りの少ない広島駅裏のバス停には、雨をよける程度の背の高い吹きっさらしの屋根が並び、クロームメッキが艶やかな柱の上、蛍光灯が静かに白く並んでいる。その下に高速バスが三台ほど行儀の良い大型犬のように大人しく並んでいる。エンジンは止まっていて音はしなかったが、ウインカーの点滅が落ち着かない印象を与える。点滅に身を任す待合用の青いベンチには誰も座って無くて、いっそう寂れた印象を与えていた。茶谷は到着したバスの発着場を見渡し、あまりの人気の少なさに時間と場所を間違えたのではないかと疑ったぐらいだった。
 唯一いたのが、「東京行き」という札を持った、蛍光色の派手なジャンパーを着た五十前後のはげ頭の案内男だった。彼は案内人という業務を遂行するふりをして棒のように突っ立っていた。茶谷は出発前に、世間に消費されつくされたような無残な男と接触したくなかったので、街頭の手渡しティッシュなどに見られる無償のサービスを振り払う時のようにさりげなく避けて通り、足早に東京行きの長距離バスに乗り込んだ。
 入口にA4用紙の表があり、乗客は名前を書くことになっていた。人件費削減のためのセルフといえども、この手抜かりはやりすぎのような気もしたが、茶谷は紳士的な消費者を自認するだけあって、横並びに逆らうことなく、一行上の「タヤマケイタ」に続いて、同じようにカタカナで「チャダニユウスケ」と名前を書いた。署名という自己表現により、存在宣言を終え、その場に入ることに申請、許可を得た安心感を獲得したような、「ここにいてもよい」という権利を勝ち取った気がして頼もしい気もしたが、同時に自筆署名という契約的行動により、この場にいた証拠を残したことを後悔した。
 音の篭る車内に乗り込むと、茶谷は一目で自分が四人目の乗客だということがわかった。先に乗った乗客、三列目左の窓際に一人目、アイマスクをした匿名性の高い三十代のサラリーマン、ネクタイを緩めた彼は、おそらくバスが事故にあって自分が潰れたバスによって無残に圧縮され死んでも気が付かない感じだった。とにかく酷く疲れているし、一秒でも多く眠ることで精一杯に見えた。六列目右の窓際に二人目が窓ガラスに顔を貼り付けて、その熱気でガラスを曇らせ、反射する社内の景色さえ消して、見つめる先の外の景色に集中し、バスの車内と自分の世界を隔絶しようと頑張っているステレオタイプな二十代のアイドルおたく、イヤホンからはAKB48の曲「あいたかった」がシャカシャカと漏れている。誰が彼に会いたいのかは不明だが「共有の場所が苦手なプライバシー重視の、しかし寂しがり屋な現代の若者」と一括表記してもかまわない感じだった。そして後ろの席から三列目の左の窓際に三人目が座っている。三人目の特徴はコンビニで立ち読みでもしていそうな大人しい青年、服装もなんとなく暗いが普通、髪型も美容室か理容店で行ったのか判別できないぐらいに普通、特徴も普通というあいまいな言葉しか思い浮かばない。職業年齢はどうとでも判断できる。群衆の中で一度見失うと永遠に見つかりそうにないぐらい印象が薄い彼は、今まで何処ででもそうしてきたかのように静かに目を瞑っている。眠ろうとしているわけでもないし、世の中がつまらないので目蓋を閉じて遮断している感じでもなかった。ただ彼は、何処にいても、ついさっきそこに来たとしても、ずいぶん前からそこにいた印象がある、「実存」と言う言葉が似つかわしい感じだった。
 しっかり観察した茶谷はどいつが「タヤマケイタ」だろう?と不必要な対抗意識を持って、三人の乗客をじろじろ見ないように自制しながら、ゆっくりと狭いバスの通路を通り抜けて、一番後ろの席の右隅に陣取った。激安深夜バスのチケットには最後尾中央と書いてあったが、ゴールデンウィーク中にあった激安バスの高速道路での大事故の影響でキャンセルが多かったらしく、座席は埋まりそうもなく何処に座っても構わない雰囲気があった。だが、彼は一番後ろの列を選んだし、しかし、指定の席には座らなかった。些細なことかもしれないが、規制を破ることによって、消費者としての優位性、わがままを実行したい欲求を果たしてみた。それが彼にとっては仕立てたシャツのようにピタリとちょうどよかった。
 紺の制帽と白いカッターシャツ姿の運転手がステップを踏む音を響かせてバスに乗り込んできた。運転手は暑苦しい体型と暑苦しい真っ黒い油っぽいべっとりとした長髪をしていた。彼は下を向いたままで車内放送の黒いマイクを取ると口にあて喋ったがスイッチが入ってなく、放送事故の様相で何を言っているのかまったく伝わらなかったが、スピーカーを通さない平べったい声が車内にくぐもって響いた。
 「ほんじすは、ごりよたまわり、みなしゃま、ありがとうごじゃいます。とうバスは九時十五分にトキョにむけてしゅぱつしたします。トチュウ、二度ほどトイレきゅけを入れさせていただきます。ありがとうごじゃいます。しゅぱつします。」
 運転席の上、乗客すべてに向けられた大きなデジタル時計は九時十五分をとっくに過ぎていて、ドライバーである在日中国人の陳は乗客名簿の確認や乗車券の確認などせずにエアで閉まるドアをボタン一つでプシュっと閉め、世界からバスを切り離した。遅れを取り戻す為、急いでシートベルトを締めると、夜の街に青と白の鯨のような巨大なバスをのっそりと放った。今年四十歳を迎える無口な陳は東京と広島間の運転時間は五百時間を越えており、多少荒いが上海仕立ての運転技術も身につけていた。茶谷は先日のニュースを思い出し、無事に東京に着くのだろうかと考えたが、無事、着いたら着いたで、その先を考えると面倒な気がした。なんとなく落ち着くために他人と自分を比較する。他の乗客の様子を見ると、三人は一ミリとして動いてない。深夜バスの車内で静かに動かない三人の後姿を確認して、彼らは先日見た「真夜中のカウボーイ」に出てくるラッツィオみたいだと勝手に思った。だったら、可哀そうにフロリダを目前にして、とっくに死んでしまったのだろう。そう思うと今から行動に移すことが気楽に感じられた。
 窓の外には一定の距離に置かれた水銀灯の街灯がまぶしく列を成して、夜の景色は人工の明かりの元に、音の似合わない新たな新鮮さを与えられていた。景色はひどく静かで、茶谷は昼間の出来事がうそのように思えた。車内では床下からディーゼルエンジンの唸りが絶え間なく聞こえて、減加速の度に音程を変えていた。ウグー、グ、ウグー、カラカラ、ウグー、一定ではないバスのエンジン音が茶谷の記憶をゆっくりとかき混ぜている。バスの窓から見た景色、ずいぶん昔の記憶もあるが、ほんの数時間前の記憶も浮かんでくる。十分も走ると、暗闇の中に浮かぶ人工の光が眩い宇宙ステーションのような白と赤のゲートが現れ、申し合わせたように失敗無く開いた。大海を泳ぐクジラのような大きなバスは流れに乗って色のない高速道路に入った。ここからは一定の消費と推進により走行は安定する。揺れや雑音という邪魔者がようやくいなくなったと、茶谷はスマートフォンを取り出し指で弾いて音声録音のアプリを起動する。これから茶谷は彼にとって生まれて始めての自発的な生産に取り掛かる。肉声によるメッセージをMP3ファイルで録音、保存し、そのファイルをユーチューブにアップロード、世界に対して自分の作品を公開する。茶谷は期待と緊張に胸を弾ませた。消費の楽しさにない、生産する期待、喜びを予感した。こういった嬉しさがこの世の中にあるのなら、もっと早く知っておけばよかったと心底思った。ただ、音声を世界に発信した後のことを考えると、善悪混ざった大勢の人が聞いて、かつて自分がしたように、心臓をえぐり取ろうとするようなえげつないほど敵意を剥き出しにして、「つまんね」「バカ死ね」「くそニート」等、知らない連中が、勝手に泥靴で部屋に押し込んでくるように容赦なく批判してくるだろうことは、なんとなくだが覚悟していた。ネット社会に蔓延する、自称常識人たちによる悪意剥き出しの容赦ない言論の袋叩き、良識の砦、正義の味方と自分たちを定義する、極端で、いきがった連中に、せっかく築き上げた自分の思想を、思慮なしの残酷さでコケにされ、消費される。そう思うと、表現に対する期待は薄れ、裸で町に放り出されたような恥ずかしい気持ちがこみ上げ、こんな自分自身を消費するようなマネは一度きりでいいと思った。
 もう一度、バスの中を見渡す。あれからサラリーマンもオタクも青年も一ミリも動いてなかった。運転手はハンドルを握って前を向いている。茶谷は緊張で胸が重くなったが、思い切って喉につっかえる言葉を絞り出すように、一人勝手に赤面して、声のボリュームを異様に気にしながら、大きめで上ずった声で、なんとか言葉を表に吐き出した。
 「・・乗客の皆さん、すまないが、これからメッセージの録音をするので、うるさくなるが、気にしないでくれ。先に謝っておく、ごめんなさい。じゃあ始めます。」
 最後の言葉が出ると胸がスッキリとした。首の後ろにびっしりと汗をかいていたが、もう心は青く晴れ渡っていた。地に足が着かぬ場所に飛び出たような不安感を感じてはいたが、初めに断りを入れたのだから、反論さえなければ、行動を起こしていいということになる。この先のクレームは一切受け付けない。この一言により、このバスの中で茶谷は言葉を発する物語の生産者となり、残りの乗客は、何もしないで聞く物語の消費者という関係になった。役割さえ決まれば、あとはその役割にそって行動すれば、その役目を果たすことになる。サラリーマンは眠ったままで聞く役割を受け持つことになった。オタクはヘッドフォンから流れるAKB48の曲を世界のすべてだと思って没頭しているままで、聞く役割を一方的に押し付けられた。残る目を瞑った何処にでもいる青年は、消費者になることを、言われたまま、あるがままに受け持った。運転手の陳は、後ろの席で始まった独り言を気にかける余裕を持ち合わせていなかった。
 茶谷はスマートフォンの画面を押して録音を開始した。物語は始まり、同時に終わりへと向かう。その過程、変質こそが消費であり、その過程を見届ける受益者となる消費者が物語の生産者にとって大変重要となる。茶谷はとりあえずの四人の消費者の向こう、バスの外、暗闇のあちこち、日本中、世界中に及ぶまで、自分がメッセージを生産する生産者になる為に必要な消費者の影を出来る限り想像した。
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