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文字数 1,752文字

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 目を覚ますと周りのものが暗がりの中で少しずつ形をとりもどして次第に視界がはっきりしてくる。何時だ? 寝室は仕事部屋とひと続きになっていて、どちらも窓には雨戸がついている。おれは普段日中もずっと雨戸を閉めたままだからほとんど真っ暗だ。雨戸の向こうには草が伸び放題になっている庭と名乗るのはおこがましいという程度のスペースを挟んで垣根がある。ろくに手入れもされていない垣根は葉もまばらで、その向こうの歩道を歩く人の視線をほとんど遮らない。さらにめぐりあわせの悪いことに垣根の向こうには狭い道路を挟んで小学校の正門があって、うちの前の通りはその通学路になっている。前に窓を開けて外を眺めていたらガキどもが遠巻きに覗いて不審者が住んでるとか言いやがって、それが学校で問題になったとかで町内会の爺さんが注意しに来たことがある。町内会としてはあなたがちゃんと会費も納めてるしゴミ捨て場の掃除もしているまっとうな人だとわかっているけれどあまり子どもを怖がらせないでほしいんだと。知るか。おれはただ暮らしているだけだ。

 末端のクリエイターなんてものは健全な小学生から見れば不審者でしかないのだ。大いに不本意ではあるけれど残念ながらそれは事実だし認めざるを得まい。くたくたのジャージなんかで早朝にゴミを出したり日中は閉じこもっていて家にいるのに呼び出しに応じなかったり真夜中に車で出かけたりする。朝寝て夕方起きるような生活だからそういうことになるのだけれどそんなサイクルで暮らしていることがそもそも不審だ。そういうやつのことを世間では不審者と呼ぶらしい。だからおれは雨戸を開けないことにした。小学生に無用な不安を与えるつもりはないし面倒に巻き込まれたくもない。雨戸を開けない生活にはすぐに馴染んで、むしろ居心地が良かった。

 雨戸が作り出す暗がりに目が慣れ始めると机の上で音を立てている目覚まし時計が見えてくる。この目覚まし時計は文字盤と長針、短針の先の部分に蓄光塗料が塗られていて暗闇でも乳白緑色に浮かび上がるのだ。その文字盤が示しているのは世間一般ではお昼と呼ばれるあたりで、おれにとってはまだもう少し寝ていても良い時刻だった。仕事部屋の隣にはキッチンがあって、そこには雨戸のない小さな窓がある。キッチンと仕事部屋の間はふすまで仕切られていて、今はキッチン側からふすまのわずかな隙間を通って日の光が細く薄く差し込んでいる。その中に部屋の埃が漂っているのが見えた。

 おれは起き上がるとすぐにコンピュータを起動した。おれの動きが部屋の空気をかき回し、埃の世界に干渉した。埃たちは乱流(タービュランス)を与えられて予測の難しい運動に突入した。コンピュータの起動を待つ間に用を足そう。おれがキッチンへ続くふすまを開くと光の帯は霧散してキッチンから仕事部屋への緩やかなグラデーションに落ち着いた。埃の世界は新たに持ち込まれた干渉によってさらに別の運動を始める。おれが生きているのはこの埃の上みたいな世界だという気がした。ある時点でおれとおれの別の可能性が分岐する。二人のおれは隣同士の埃に乗っている。そこにわずかな乱流が発生するとそれぞれが違う運動に引っ張られる。さまざまな干渉が次々に起こり、おれの足場はどんどん予測不能な場所へ運ばれる。気づけば隣同士だったはずのもう一人のおれはもはや見えないほど遠いところにいる。逆に気が遠くなるほど遠かった可能性がすぐ隣に来ていて、ちょっと乗り出したらそっちの足場へ移動できたりすることもある。新しい足場に乗っても遠い未来でほとんど同じところへ着地するかもしれないし、途方もなく離れたところを漂うかもしれない。おれは冷蔵庫の上にたまった埃をみながら、その一つ一つがどこからやってきたのかを想像した。隣り合った二つの埃がそれぞれ遠く離れた別の場所からここにたどり着いたのかもしれないと思うとたしかなことなど何もないという気がした。おれはそこに強く息を吹きかけて溜まっていた埃をふきとばした。

 用を足して戻ってくるとコンピュータの前の椅子に座り、真っ先にメールを確認した。受診トレイを開くとやはり返信が届いていた。おれは震えていないのに震えているような気がする手で最新の未読メールをクリックした。
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