旅の終り、それから(3/3)

文字数 3,334文字

 予定していた山に登れなかったことと、旅がもうあと一日しか残されていないこと、そんな事情が重なって、その日の晩の僕はなんとなく塞ぎがちだった。
 旅の終わりというのはいつもそうだ。果たせなかったことばかりが思い起こされて、楽しかったこと、おいしかったもののこと、全部を忘れてしまいそうになる。だけど僕らはちゃんと旅をしたのだ。そしてその土地のおいしい食事を満喫したのだ。そのことを忘れてはいけない。
 その晩ももちろんユキちゃんはいた。そしてまたポニーテイルもいた。二人は昨日よりもいっそう仲を深めたようだった。二人はずっと一緒にいて、プレイスペースのみならず、室内のあちこちを走り回っていた。そして驚くべきことに、そこには時折ではあったが、ゲストとして僕の妹も混じっていることがあったのだ。僕はびっくりした。いつの間にあんなふうに違和感なく溶け込めるまでに仲良くなったのだろう、というわけだ。もちろん僕だって全くの仲間はずれにされたわけではない。なにか喋ったりはしたはずだ。だけど彼女たちが生み出す緩やかな連帯の輪の中には、僕の居場所は無かった。僕は男で、彼女たちは女だった。まだ幼いとは言え、その性差にはマリアナ海溝より深い溝があったのだ。
 そう、こうして僕のロマンス計画は完璧に頓挫した。結局僕は旅行を通して、ユキちゃんとほとんど仲良くなれなかった。あるいはもしかしたらそれは僕の記憶違いで、実際はよく喋って、結構仲良くしていたのかもしれない。だけど彼女たちの遠い後ろ姿や、彼女たちが僕と話すときの警戒心やよそよそしさみたいなものは、あれからもう二十年近くが経った今でもよく覚えている。ということはやはり僕はユキちゃんとそれほど仲を深めることができなかったということなのだろう。少なくとも、僕が期待するほどには。

 最終日、僕たちは何ごともなく、ペンションを去り、旅の帰途についた。僕はといえば、恐ろしいことにまだロマンスをあきらめていなかった。帰ったら絶対にユキちゃんに手紙を書こう、なんて妙な決心をしていた。すごい執念だ。旅の中ではもうロマンスが成立しそうにないことに薄々気づき始めていたものだから、あとで無理矢理手紙を送ることによって、あたかもそこにロマンスが成立していたかのように自分に思い込ませようという寸法だったに違いない。そしてあわよくばそこからまた新しい種類のロマンスを展開させようと思っていたに違いない。我ながら、全く末恐ろしくなるほどの大詩人っぷりだ。あと、これこそどうにか記憶違いであってほしいものだが、僕はその時父や母にも、あるいはどうかするとユキちゃん本人やユキちゃんのご両親にまで、手紙を書くから、と宣言していたような気がする。両親に聞けばその真偽のほどが定かになるが、残念ながら今の僕にその勇気はない。

 だけど、“決心した”なんて言っても、僕は結局一人で勝手に旅先限定のロマンスの中に溺れていただけだったのだ。福井の実家に到着するころには、僕はもうすっかり手紙のことなんて忘れていた。あるいは、覚えていて、後日書こうとはしたものの、そこで何か違うと目を覚まして止めたのか、とにかく、結局手紙は書かれず終いで、こうして、僕のまだ始まってもいなかったロマンスは見事に幕を降ろしたというわけだ。
 生活というのは、まるで波のようだ。
 僕はその後僕のもとにやってきた規則正しい、安定した生活の波に揺られながらすくすくと成長し、手紙のことはもとより、ユキちゃんとのことも、そして白馬旅行のことも次第次第に忘れていった。僕はサッカーを始め、妹もサッカーを始め、僕たち二人はあくる日もあくる日もボールを蹴り続けるようになり、そんな我が子の真っ当健全なスポーツへの打ち込みを、僕の真っ当健全な二人の親が引き留めるはずなどなく、どころか自分の趣味や時間などもうっちゃって熱中するようになり、そして先述の通り、僕の一家は子どもたちのサッカーを中心に回り始めるようになり、平均的核家族の像からも遠ざかっていった。土日は兄妹どちらかの試合が必ず入り、あるいは僕と妹が思春期になって同級の友人たちと遊ぶようになり、あるいは犬を飼ってその面倒を見なくなっては行けなくなったこともあり、そして僕たち一家の家族旅行というイベントも、それきり無くなってしまった。僕はこの白馬旅行以来、家族四人で泊りがけの旅行をしたという記憶が無い。あるいはそれが我が家族の宿命であったと言えばそれまでなのだけれど。
 そして、今、あれから二十年近く経って、僕はふと思い出したのだ。妻が寝ているベッドの隣で酒を飲みながらマンの短編を読んでいる時、あの白いワンピースを来たユキちゃんのことを。加えてその時のうちの家族状態というのも、あるいは霧にまみれた白馬村の景色などというものも。

 ――ところでこれを書いている最中に、僕はこのささやかな思い出を締めくくるにふさわしい、ある“結末”があったことを思い出した。ただこれは正直なところ、思い出したというよりも、無意識なうちにこしらえた、という方がもしかしたら正しいのかもしれない。というのも、なんだかあまりにうますぎる結末であるからだ。結末すぎる結末であるからだ。僕は確かに昔から現実を自分の都合のいいように書き換えたり、話に尾ひれをつけたりする癖があった。今でもそうだ。だけど、少なくともこの白馬村でのユキちゃんの思い出に関しては、ノンフィクション/エッセイというジャンルの中で書かれているということもあるし、また、僕にとってはなるべく手つかずの状態で残しておきたい大切な思い出であるということもあって、慎重に、入念に、可能な限りフィクショナルなねつ造を避け、そのままの形で文章に変換してきたつもりであった。そして今もそのつもりでいる。だけど、それにしても今頭に浮かんでいる結末は、なんだかあまりにこの話にとって都合が良すぎるし、あまりにまとまりすぎている。いかにもフィクションくさい。
 だけどだからといって僕はこの結末をそのままにしておくことはできない。僕はとにかくこの結末を語らずにはいられない。この思い出に、再び記憶に蘇ったこの思い出に、もう一度意味をつけ直して僕の中に戻してやりたい。その欲求を、僕は抑えることができないのだ。
 ペンションから出ていく時、管理人家族が僕たち一家を玄関先までお見送りに来た。メンバーは、管理人夫妻と、そしてその娘のユキちゃんであった。
 ユキちゃんはその時なにか熊のぬいぐるみか何かを抱きかかえていた――いや、抱きかかえていなかったかもしれない。服装は白いワンピース――いやしかし、二日前と全く同じ服装をしているというのはどうにもおかしい。というかその前に、管理人一家が玄関先まで見送りに来たというのも怪しい。あり得なくはないが、なんだかいかにも、話の終わり、という感じがしてどうにも嘘くさい。
 もう率直に言おう。別れ際はどんな別れ際か定かではなかった。もっと言えば、それは別れ際ですらなかったかもしれない。だけどとにかく、ユキちゃんはある時、僕に手を振った。そう、手を振ったのだ!それが玄関だったか、はたまた、最初に現れた時と同じ、家の中のリビングにつながる木の階段下にある柱の近くだったか、それはもう分からない。それは分からないし、どうでもいい。だけどとにかくユキちゃんは、僕に手を振った。どこかの柱に抱き着きながら、伏し目がちにこちらを見ながら、熊か何かのぬいぐるみを手の先にひっかけながら、僕の方を見て、照れたように、素早く、さっと手を振ったのだ。そのことを、僕は今はっきりと思い出せるのだ。
 嘘だろうな、とは思う。だけど、本当であってほしいな、とも思う。
 もしユキちゃんが本当に僕に手を振ってくれていて、もしこんな形でこの思い出話が締めくくられるとしたら、この思い出は、より強く、より美しい色と形をとって僕の中に戻っていくことになるだろう。そしてこれまで同様、いや、これまでよりもずっと温かく、僕を内側から支え続けていくことであろう。
 そうなってくれると、僕としては、なんだかとても嬉しく思うのである。
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