第3話 前妻

文字数 2,178文字

 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。
 たまたま私がそばにいただけだ。
 獣医の私のところへ息子がやってきた。犬を抱いて。真夜中にひとりで歩いてきた。副作用で体重の増えた重い犬を抱いて。
 その夜、ふたりで犬を看取った。
 そこにようやく現れた父親は酒臭かった。私は自分でも驚いた行動に出た。酔った男を外に引っ張り出し、犬を洗う水道の栓を捻った。3月だ。まだ寒かった。男は勢いよく水をかけられた。
「子供を虐待するなんて、最低の大バカやろう。あの子は返さない。酒をやめるまで返さない」
 父親はずぶ濡れで土下座した。

 妻のいない家に出入りした。いろいろ噂されただろう。父親は私に頼んだ。息子の力になってくれ、と。あなたに懐いている。心を開いている、と。
 
 家は平和を取り戻していった。やがて私は求婚された。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。似合わない。私は成人式さえパンツスーツだった。夫は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を変身させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
 嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 新婚旅行は2泊3日の近場だった。私はバレないようにした。長年のコンプレックス。夫は気づかないふりをした。
 男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド

 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。
 私が義母になったことは、救いになったのだろうか? 

 ***

 夫は土下座した。何度目だろう? 嵐の夜に、うなされて前妻の名を呼んだこともあった。
「今度は何? 好きな女でもできた?」
「ああ」
「へえ、生きている女なら、まだマシよ」
 夫は写真を見せた。私は言葉を失った。
「やはりショックか? 見慣れるとかわいいんだがな。かわいくてかわいくて、愛しくてたまらない」
 

 ***

 この家には亡霊がいる。
 夫は手を伸ばせば拒みはしない。夫の義務は果たす。疲れていても。
「好きなようにしてくれ」
と冗談を言う。

 亡霊が見ている。
 愛したのは英輔だけ。あなたの夫だった男だけよ。あなたに去られて、情けなくて、だらしなくて、放っておけなかった……でも、いまだに、この胸の中にはあなたがいる。

 携帯に着信が。音でわかる。絶対に聞き逃さないための、モーツァルトの25番。この曲はまるで印籠だ。聞いたものは、途中だろうが、最中だろうがひれ伏す。ベッドでも、車の中でも、おそらく社内でも。この男にとって電話の相手は特別な娘。
 男は入ったまま携帯を見る。すぐに返信する。
「行くのね?」
「死にたいって」
「……」
「悪いな。早く、逝ってくれ」
 私は引き止めることはできない。
「もう、早く行ってあげて」
 なによりも優先する。仕事よりも、妻よりも、自分の子供たちよりも。あの娘は、前妻が助けた少女。命と引き換えに助けた、彩と同じ歳の少女。
 父親には捨てられ、母親には殺されそうになった。助けなければ、苦しみは終わっていただろう。

 
 彩の卒業式。父親は来られなかった。別の式に出ていた。夫は熱心に学校へも行った。役員もやった。あの娘は不登校になることもなく、無事に卒業式を迎えた。卒業生代表として挨拶をしたはずだ。
 これからもそうだろう。中学、高校……何度絶望することだろう。私たちは希望を与えられるのか?

 前妻はいまだに夫の1番の女。死ぬときには彼女の名を呼ぶ。
 前妻には勝てない。バカな女、海で溺れている子供を助けた。心臓が弱かったのに。ひどい女。死んでも夫を解放しない。余計に縛り付けている。がんじがらめに。
 
 でも……あなたの産んだ子供が、あなたの助けた子供が、私を慕う。私は夫の協力者。それでいい……

 絶対に生まれてきてよかったと思わせてみせる。あなたが命と引き換えに助けた子を。英輔と私で。


***

「兄貴、兄貴のママは幸せね」
「なんだって?」
「私にだってわかる……忘れられない女。幸せだわ」
「パパの望みはおまえの幸せだけだよ」
「パパにはもっと大事な子がいる気がする」
「なんだって?」
「隠し子でもいるんじゃない?」
「バカ言うな」
「この間の海外出張だって誰と行ったんだか」
「ありえないよ」
「パパには甘えられない。誰かと私を比べてる。不満を言うと怒るもの。どんなに恵まれているかわからないのかって」

***

「久作の貯金が底をついた」
「私の貯金を使って。あるんでしょ?」
「おまえの結婚資金だぞ。いいのか?」
「使って。ありったけ」
「おまえは優しいな。誰に似たんだろう」
「パパでしょ」
「……」
「おにいちゃんにも」
「……ママにもな」
「パパ、まだ……忘れられない?」
「……」
「いいよ。私にだってわかる。だから、望を育てたんでしょ?」
「恨んでるか? 望のために、おまえのことは、ママに任せきりだった」
「望には言わないの?」
「望のいちばん嫌いなタイプだ。五体満足で働きもせず、保護を受けて」
「でも、死ぬんだよ」
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