4話 エイト・フェザーハント

文字数 2,728文字

自分には何もない。確かに有るのはこの体と、エイト・フェザーハントという名前だけ。欠陥だらけの存在で、普通の人が持っている感情は、例外なく記憶から滑り落ちていく。

自分の価値を探していた。自分が生きる理由を、ずっと探していた。だけどどれほど頑張っても、ついぞこの手に落ちてくることなく、探すことを諦めた。自分を、諦めた。

その日、自分はあらためて自分の無能さを再認識させられた。
「これだからロボットは」。
正しいと思ったことを行動に移しただけだった。自分の思う正しさがどれほど正しいのか、よく分からなくなった。
無断で会社を出て、あてもなく歩いた。冷たい雨が気持ちいいと感じた。このまま雨粒が自分の存在を溶かしてくれたらいいのに、そう願った。

「どうぞ」

そんな自分に声をかけてくれた人。彼は価値のない自分に微笑みをくれた。欠陥だらけの自分と、傘を分かち合ってくれた。そのとき感じた感情のカタチはわからない。まだ教えてもらってない。だけどきっと絶対に、温かい感情だったと思う。

柔らかい洋服に、アールグレイ。紅茶とシフォンケーキ。何処の誰とも知らない自分を無闇やたらに詮索せず、名前だけを聞き、話を聞いてくれた。特殊だと言ってくれた。その夜、ふかふかのベッドの上で、幸せの感覚を強く記憶した。その根底にあったのは、生まれて初めて経験した、受け入れられる喜び。
両親も、職場の人も、これまで出会ってきた人は皆、特殊性ゆえに自分を否定したがった。それが普通だと思っていたから、当たり前のように自分も自分を否定した。けれどそんな当たり前を、彼が溶かしてくれた。


自分は二十四歳、彼は三十五歳だと言うから十一歳も年上なわけだが、彼は若々しくどこか年齢不詳な雰囲気がある。加えて優雅で上品で堅実な雰囲気も。幼く心許ない自分とは、真逆の存在に思えた。

自分は二十四年も生きているが、同い年の人と比較して、大幅に劣っている自覚がある。人との会話が酷く不得手だからだ。適切な表現を選ぶ自信がなく、話し方がたどたどしい。投げかけられる言葉の表面上の意味は即座に理解できるが、内包される感情を意識的にくむのに時間がかかってしまう。必死に感情を推測しても、間違えて文脈がおかしくなれば、会話は瞬時に終了する。ひたすらそんなことの、繰り返し。

読書や周囲を観察するなどして、言語学習や感情表現の習得にはいつだって意欲的でいたつもりだ。けれどやはり、本物のコミュニケーションとは質が違い、そこに規則的なパターンなどなかった。だけど本物を実践しようにも、自分には家族がいない。友人がいない。恋人がいない。話したい人がいない。手が届く場所に、本物がなかった。

人はひとりでは生きていけないのに、人と人を繋ぐ大事な手段である会話が、絶望的に下手で上達もしない。だから自然と、自分はひとりだった。

一変して、ここに来てからは本物だらけ。更に彼の反応は、これまでのそれと違った。自分が言い間違いをしても、彼は会話を止めたりしない。自分は、間違えることは自分が至らないがための結果で、恥ずかしいことと信じていたが、最近は必ずしもそうではないらしいと思えている。彼が失敗の意味を正してくれたおかげだ。

「フェザーハントさんは謝り癖があるようですね。少し気をつけてみましょうか。いいのですよ、いくらでも間違えたって。学ぶきっかけになりますし、次に活かせば良いのですから。今回も、また新しい言葉に出会えてよかったですね」

彼のおかげで、正しい言葉がわかる。彼のおかげで、新しい感情をたくさん知った。

正直なところ、ここにおいてもらうようお願いしたのは衝動的な決断だったと思う。それにいつまでここにいるかは決めていないし、もしかしたらある日突然追い出される可能性だってある。それでもいい。仮初であっても自分を受け入れてくれた彼を、自分は尊敬し感謝し続けるだろう。たとえ彼が、どんな人でも。


***


居候を始めて一ヶ月が過ぎたが、ここは部屋数が多く、まだ入ったことのない場所がある。自分はリビングか寝室のいずれかで過ごすことがほとんどだが、他にも執務室、書斎、物置、ピアノの部屋などがあった。
その日は書斎で読書を堪能。途中、気になる言葉を見つけたので尋ねに行くことにした。彼は執務室で仕事中だが、何かあれば遠慮せず声かけして良いと言ってくれている。廊下を進み、ドアをノックすれば、すぐさま応える穏やかな声。
「どうぞ」
爽やかな香りが出迎える、彼の執務室。机上に飾られた白い花束が、風に揺れていた。窓から降り注ぐ柔い陽光を受け、淡く煌めく彼のブロンド。
そんな安堵のため息が溢れそうな雰囲気に包まれつつ、室内をしばし観察していると、眼鏡の奥で微笑む瞳。
「どうされました?」
自分は慌てて机に駆け寄った。
「この言葉の意味を、教えてください」
彼は自分が指差す箇所を確認し、珍しく考え込む様子を見せる。
「鬱陶しい、ですか」
「はい。自分はこれを言われたことがあります。その経験から、相手が嫌いで、顔も見たくない感情と理解しています。これは正しいですか?」
「当たらずとも遠からずです。鬱陶しいは、タイミングが悪かったり、頻度が多すぎるなどして、その瞬間は少しだけ距離をおきたい気分ですかね。若干の苛立ちも含むでしょうか」
「あの、それはまさに、この状況ですか?」
「おやおや。本当に心配性でいらっしゃいますね。もしそうなら、今頃この部屋から追い出されているのでは?」
「なるほど」
盛大な安堵と照れを隠すため、強引に話題を変えることに。
「あの、これは何の仕事ですか?」
「そういえばまだ言ってませんでしたね。()きのお仕事です」
「かき?」
「お花屋さんですよ。まあ、もう店頭に立つことはないので、こうして自宅で仕事をしているわけですが」
「なるほど。それは、楽しい仕事ですか?」
「ええ。とても」
その瞬間、庭だけでなく、室内にも生花が多い理由が分かった。
「おや、もうお昼を過ぎていますね」
眼鏡を外して立ち上がりつつ、彼は続けた。
「昼食にしましょう。何か食べたいものはありますか?」
お世話になってばかりで申し訳ないので、自分が準備をすると申し出た。とはいえ料理は得意でなく、パンケーキと簡単なサラダを作る程度で精一杯。単純なレシピであるはずのパンケーキを少し焦がしてしまったが、彼は完食してこう言った。
「失敗は成功のもとですよ。ぜひまた御馳走してくださいね」

自分には何もなかった。確かに有るのはこの体と、エイト・フェザーハントという名前だけだった。けれど今、それでいいのだと、揺るぎない安心感に包まれている。そして、ここからはそれを変えていけるのだと、自信と希望に満ち溢れている。

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