第8章 ミルテの枝

文字数 13,165文字

    

 翌朝、水汲みをしているアニスのところにトリスタンが顔を出した。もうすでに斎宮院に出仕するための礼服を身につけている。厚地の生地で仕立てられ、裾に銀糸の刺繍が入ったものだ。重そうな上に暑そうだ。
 普段ならこんな早くに出仕することはないが、祭りが近いので忙しいのだろう。
「御前様……おはようございます」
 西廊には滅多に顔を出さない主人の訪れに、アニスは少し驚いた。トリスタンはちょっといいかな、と井戸端から少し離れた方へ彼を呼び寄せた。
「昨夜、君がルシャデールを見つけた時、彼女は何か言ってたかい?」
 アニスはトリスタンを見ながら、考え込んだ。
「えっ……と、お迎えに行った時、僕はみんな心配していますって言ったら、どうでもいいよ、って仰っていました。御寮様は、もし自分がアビュー家の養女でなかったら誰も心配なんかしないと、仰られて。」
 トリスタンは眉をひそめた。その時、イェニソール・デナンが現れた。
「御前様、こちらでございましたか」
 トリスタンは侍従にちょっと待て、と言うように手の平を向けて押しとどめた。
「それで?」
「誰かに自分のことを一番に考えてくれる人が欲しいんです。でも、御前様はそんな風に考えてくれていない、と御寮様は思っています」
「一番か……言ってやるのは簡単だ。だけど、あの子は嘘を見抜く。嘘を言ったら、その後は二度と信じてもらえないだろうな」
 トリスタンは独り言のようにつぶやいた。
「一番でなくてもいいから、大切なら大切だと言ってあげてください」
「うん、そうだね」
「御寮様は投げやりというか、どうでもいいような感じでした」
「それでも、屋敷に戻ってくれたんだ」
「はい」
「その他には?」
「その後は、だいぶ具合が悪くなっていて。動けなかったようでしたので、カズ……いえ、一人で負ぶってきました」
「君はすぐに彼女がどこにいるかわかったんだね?」
「え……それは……」
カズックのことは言っていいのか判断がつかなかった。
「他の人の秘密に関わることなので……ごめんなさい、僕の口からは言えません。御寮様にお聞きになってください。御寮様はよくなられたんですか?」
「うん、まだ眠っているが、熱は下がったよ。……君はルシャデールのことを大事に思ってくれているんだね」
「はい」アニスはにっこり笑って答える。「御寮様は……本当は優しい方だと思います。ただ、きっと、怖いんです。また、見捨てられてしまうんじゃないかと……。それに、自分の気持ちをうまく言えなくて。本当はとても寂しいんだと思います」
「ありがとう、アニス。それから、執事の部屋には行かなくていいよ。私が直接聞くと言ったからね。事情聴取はなしだ」
 アニスの顔がぱあっと(ほころ)んだ。朝からそれが心配で落ち着かなかったのだ。ありがとうございます、と頭を下げて、正門へ向かう主人を見送った。

「いい子だ」正門へ歩きながらトリスタンは言った。
「はい」侍従がうなずく。
「ルシャデールにも近いうちに侍従を決めてやらねばならない」
「……彼をと、お考えですか?」
「うん」
「アニサードは多少、心根の弱いところがございます」
「わかっている。侍従は辛い役目だ。見た目はいいが、何を置いても主人大事。主人のために泥をかぶり、非難を受けることもある。犠牲にしなければならないことも多い。そうだろう?」
 デナンは答えなかった。
「主人の方もそれを理解していなければならない。主人と侍従、互いの間に信頼がなければやっていけない。しかし、ルシャデールが信頼できる者となると、そう多くはないだろう。あの子は人の心を見抜く。だから、むしろ純な子の方がいい。強さはあとで身についていく。そう思わないか?」
 トリスタンの言葉に、侍従は黙ってうなずいた。
 
 ルシャデールはベッドの上に起き上がっていた。
トリスタンの手当で熱はすっかり下がっていたし、少しだるさは残っているものの頭もすっきりしていた。
 一晩中ついていてくれたソニヤは朝から元気に、彼女の世話を焼いている。体を拭き、寝具を取り換え、今はルシャデールの食事を取りに厨房へ行っていた。
 ルシャデールはそっとベッドから出て、窓に寄った。夕べの雨はすっかり上がり、きれいに晴れあがっていた。アニスが庭の水盤のところにいた。足元に木桶が二つある。水盤の水を取り換えるのだろう。
 雨の中、彼は迎えに来てくれた。本当は待っていた。アニスでなくても、誰でもいい、探し出してくれるのを。
(私を一番にしてくれる人を一緒に探してくれるって言ったけど……一緒に探すってどういうことをしてくれるつもりだろ? いや、あいつもわかってないかもしれない)
 わかってないけど、何かしてくれようとしている。それが、うれしくて、おかしくて、ルシャデールの口に笑みが浮かぶ。
 その時、アニスが振り向いた。よくなったんですね、と言うように、笑ってルシャデールに向かって小さく手を振る。彼女も振り返す。
 立場をわきまえなければならない、と彼は言っていた。そういうものかもしれない。王子と乞食が友達とは聞いたことがない。王子と乞食は友達になれないのか?
トリスタンと話さなきゃならない。ルシャデールはそう思った。開かない扉の前で、駄々をこねる幼児のようなまねをするのは、そろそろ終わりにしよう。鍵をくれと、言うだけでも言ってみよう。
「あら、ベッドから出て大丈夫ですか?」
 ソニヤが戻って来た。彼女の後ろに二人の従僕が食事を運んできていた。彼らは居間の方に手早く、食事の用意をする。ルシャデールはガウンを羽織り、食卓の前に座る。今日はトルハナではなく、そば粥があった。ミルクとはちみつ入りだ。それを彼女はゆっくりと味わって食べる。
「トリスタンは?」
「今日はドルメテ祭の準備で早くから、斎宮院にお出かけです。先ほど屋敷を出られたかと思いますわ。」
「帰るのはいつ?」
「ドルメテまであと三日ですから、終わるまでお帰りにならないかもしれませんね。」
 そう、と答えて、ルシャデールはオレンジジュースに手を伸ばす。
「ラーサ師は?」
「今日はいらっしゃいません。御寮様のお加減が悪いと伝えてあります」
「それなら、ソニヤ、私はご飯の後しばらく横になっているから、おまえも少し休んでいいよ。夕べ、ほとんど寝てないんだよね?」
 ソニヤは驚いて大きく目を見開いた。それから「大丈夫ですよ」と、うれしそうに微笑んだ。ルシャデールがそういう気遣いを見せるのは初めてだった。
食後は再びベッドに入る。部屋の中は静かだった。
 遠く街の方から、ハカリという弦楽器を奏でる音が聞こえる。祭りのために楽師や芝居の一座がたくさん来ているという。暖かな風が開けた窓から吹き込んでくる。
 気持いいな。ユフェリみたいだ。ルシャデールは思った。
昨夜、ソニヤはルシャデールのそばで手を握っていてくれた。ときどき、額に乗せた濡らした手ぬぐいを取り換えていたのも覚えている。
 母にそういうことをしてほしかった。かまってほしくて、わざと風邪を引いて熱を出したこともあった。ベッドの近くで吐いてしまって、ひどくぶたれたのを思い出す。そして、吐いたものを自分で始末しなければならなかった。それからだったろうか、母には何も求めないようになったのは。
 ルシャデールの胸の中奥深く、その頃の小さな彼女がまだ泣いている。ずっと無視してきたのだが。
 突然、そばでポンと音がして、振り返ると花守のミディヤがいた。木の葉の姿で立っている。
「なあにぃ、泣いてるの?」
 ミディヤはルシャデールの目じりに濡れた跡を見つけて言った。
「泣いてないよ。あくびが出たときに涙がでたの!」
 あわてて目をこする。
「何の用?」
「アニスからよ、はい、これ」
 ミディヤが差し出したのはミルテの枝だった。
「何、これは?」
「アニスがあたしに頼んできたの。いちばんきれいな花を持って行ってあげてって」
 しかし、枝には葉ばかりで花も花芽も見えない。
「花なんかついてないよ」
「いやねえ、風流がわからない人は」ミディヤは軽蔑したようにルシャデールを見た。「わからない?これから花の芽が出てくる枝なのよ」
 そう言われると、肉眼にはとらえられないが、枝の付け根にところどころに光る部分があった。ミディヤは誇らしげに言った。
「『咲けなかった花が一番美しい』のよ」
「何、ことわざ?」
「そう、あたしが今作ったの。それに、ミルテは祝福の花よ。」
ルシャデールは受け取り、礼を言った。
「そうだ、庭に戻ったらアニスに伝えて。『予定通り、ドルメテの中日』って」
「えーっ、あたし使い走りじゃないのよぉ」
 カズックと同じことを言う、とルシャデールは思った。しかし、カズックと違ってミディヤは下手に出た方がよさそうだ。
「かわいいミディヤ、お願い」
「わかった。ついでに言っとくわ。下品でぶっきらぼうでひねくれ者の御寮様が人恋しくて泣いていたって」
「そんなこと言わなくていい!」
 思わずベッドから飛び起きるが、花守はぴょんぴょんと跳ねて窓から出て行った。
 だから精霊は嫌だ。つぶやきながらルシャデールはベッドに戻った。きっと、アニスは咲いている花の中で一番きれいな花を、と考えてミディヤに頼んだに違いない。精霊の考えることは変にずれていることも多い。その一方で要点をぐっさり突いてくる。
「咲けなかった花が一番美しい」
 ルシャデールはつぶやいた。折られた枝に出てくるはずだった花は、もう芽を出すこともなく終わるのだろう。彼女は白い花びらを覆うようにたくさんの白い雄しべを広げる、繊細な花を思い浮かべる。
 ルシャデールは枕元のコップに水差しの水を注ぐと、ミルテの枝をさした。根がつけばいいなと思いつつ。
〈ありがとう、アニス、ミディヤ〉
 布団に入ると、彼女はもう一度眠りについた。

「枝?」
 アニスはほうきの手を止めた。午後からは庭に二十五軒もある四阿(あずまや)の掃除だった。散らばっていた枯葉はひとところに集められ、白大理石の床に山盛りになっている。
「そうよ、ミルテの枝。まだ花の芽が出てきてない枝よ。『まだ咲いてない花が一番美しい』そうでしょ?」
 ミディヤはルシャデールに言ったのとは少し違うことをアニスに言った。今の彼女は十二、三歳くらいの女の子の姿をしている。くるくるとカールした金髪に小生意気(こなまいき)そうな青い瞳だ。
「何、それ? 花はついてなかったの?」
「ええ、一個も。素敵でしょ?」
「あ……あ」
 まあ、いいや。きっと気持ちは伝わったはずだから。
「それから伝言よ。予定通り、ドルメテの中日に、って」
 何のことかはすぐにわかった。このところ御寮様の機嫌が悪く、その話は半ば捨て置かれたようになっていた。
「あたしは伝令じゃないのよ。お礼は?」
「お礼? ありがとう」
「馬鹿じゃないの、あなた! あたしみたいにかわいい女の子に、男の子がするお礼と言ったら、ほっぺにチュッ、しかないじゃない!」
「えーっ?」
 思いっきり嫌な顔をしてしまったのだろう。ミディヤは頬を膨らませ、顔を赤くして
「あなたなんか嫌い!」と叫んで消えた。次の瞬間、大きなつむじ風が四阿を巻くように荒れる。おさまったあと、アニスが掃き集めた枯葉はすっかり散らばっていた。
「あーあ……」
 自分の不調法をほんの少し後悔したが、やっぱり掃除をやり直す方がいいや、と思い、再び掃き始めた。その時、ふたたびミディヤの声が耳元で聞こえた。姿は見えない。
「そういえば、彼女泣いていたわ。」
「え? なんで?」
「知らない」
 それきりだった。
 何か、辛いことを思い出したのだろうか。アニスは昔、父とした話を思い出した。それは、どこかへ出かけた帰り、夜道を歩きながらした話だった。
『昔、森に一羽の鵺鳥(ぬえどり)が住んでいた。食べ物も多く平和な森だったが、ある日、嵐が森を襲ったんだ。とてつもなく大きな嵐で、激しい風に森の木々はごうごうとうなり、根こそぎ倒れてしまいそうなくらいだった。鵺鳥はねぐらに帰ろうとしているところを、嵐に巻き込まれてしまった。強い風にほんろうされ、羽ばたくこともままならず、何時間も鵺鳥は嵐の中にいた。そして、嵐が去った時に、鵺鳥は広い海の真ん中にいたんだ』
『海ってなあに、父さん?』
『そうか、おまえはまだ見たことがなかったな。ケレン湖へ去年行ったろう?あの湖をもっともっと広くしたようなものかな。東の果てから西の果てまで、ずっと大きくて深い水たまり、とでも言えばいいかな。そうだ、エルパク山に登ったとき、頂上から雲海が見えただろう?』
『うん、一面に雲が広がっていた。すごかった』
『あの雲が全部水になったような感じかな。ところどころ雲の間から山の頂上が突き出ていただろう、ああいうふうに、海にも小さな陸地があったりするんだ。さあ、話の続きだ。どこまで話したかな?』
『鵺鳥が海の真ん中にいた、ってところだよ』
『そうだ。鵺鳥がいたのは果てのない海の上だった。西も東も北も南も陸地どころか島の影一つ見えない。だけど、鵺鳥はもといた森に帰りたかった。だから、何日も何日も飛び続けた。昼も夜も。だけど、陸地は見つからない。鵺鳥はもう力が尽きかけていた。それでも夜の闇の中、星ひとつ出ていない空の下を飛び続けるんだ、ヒョーヒョーとか細い声で鳴きながら。森を探して』
『それで父さん、鵺鳥はどうなっちゃうの?』
『どうなるかな?』
『……海に落ちて死んじゃうよ。かわいそうだ』
『おまえが神様の手を持っていたとしたら、どうする? さあ、アニサード・イスファハンは神様になった。何でもできるぞ。何をする?』
『そしたらね、……島を作ってあげるんだ。そうだ、そして木をたくさん植える。森を作るんだ。元いたような森を。そうすれば鵺鳥は羽を休めることができるよ』
『いいぞ、アニス。それじゃ、鵺鳥は島に来て、大きな木の枝に止まった。でも、誰もいない島だ。鵺鳥は寂しくなった。また海を飛んで探しに行こうかと思うようになるんだ』
『じゃあ、また同じことになっちゃう』
『果てのない旅だね』
『誰か連れて来るよ。僕は神様だから、誰かどこからか連れてくる』
『おやおや、その誰かさんは突然神様に連れて来られてしまうのかい? 親や兄弟や友達と別れて?』
『ダメかな? じゃあ、じゃあ……僕がその島に住む! そして鵺鳥と友達になるんだ。そうすれば、鵺鳥は寂しくないね?』
『ああ、きっとそうだね。そして鵺鳥は幸せに暮らしました、おしまい』
 そこで家の灯りが見えてきて、父さんと競争したんだった。エルドナが生まれて少し経った頃だった。
「よっ、なにぼんやりしてるんだ!」
 いきなり後ろから背中を叩かれた。アニスの思いは破られた。シャムだった。苗の入った籠を肩に担いでいる。
「痛いよ」
「さっさとやんねえと、二十五軒終わんねえぞ」
 はっぱをかけてシャムは、薬草園へ走っていった。再び、アニスは鵺鳥に思いを巡らす。ルシャデールという名の鵺鳥に。
 先日、執事に言われたことは忘れていなかった。あの時はショックだったが、よく考えてみると、誰かの悪意があるような気がした。誰かとはもちろん言うまでもない。アニスは唇をかむ。
 お屋敷を追い出されたっていい。僕は正しいと思った方へ行く!
 
「おい、起きろ! 起きろったら、起きろ!」
「うーん、うるさい」
「何を言う、起こせと言ったのはおまえだぞ」
 カズックの声にゆっくりと目をあける。室内は暗さがやわらぎ、外は青い大気に包まれている。まだ夜明け前だ。ルシャデールははっと気がついた。トリスタンに会わなければならない。がば、と起き上がる。
 養父と話をしなければと思ったのは三日前だったが、話す機会がなかった。例年ならば祭りの一週間ぐらい前から帰宅しないのだが、今年は深夜になっても連日帰宅しているという。先だっての失踪騒ぎで、ルシャデールのことを気にかけているらしい。ただ、出仕が早朝のため、彼女が朝起きた時にはすでに屋敷にはおらず、実質的にはいないのと同じだった。
 顔を洗って、服を着て、髪をとかし、御浄衣処(ごじょういどころ)へ向かう。
アビュー家の屋敷は神和師の住まいとして、通常の貴族の屋敷にはない施設がある。舞楽堂、御浄衣処、御定処(ごじょうどころ)御禊処(おみそぎどころ)の四つである。一階の表廊下を東に行くと隣の大寺院へ通じる渡り廊下に出る。渡り廊下は途中で分かれており、右へ行くとそれらの四施設へ繋がっていた。
 手前から禊をする御禊処、祭事用の衣服に着替える御浄衣処、静かに瞑想をする御定処、そして奉納舞踊の修練を行う舞楽堂が並んでいる。
 トリスタンは御浄衣処で結髪の最中だった。
 何と言って声をかけていいものか迷って入口に立っていると、イェニソール・デナンが気がついた。
「おはようございます、御寮様」
「おはよう」
「おはよう、ルシャデール。今朝は早いんだね」
 結髪しているトリスタンは振り向かず、目線だけ彼女に投げかける。
「忙しいだろうけど、ちょっといい?」
「もちろん。支度にはもうしばらく時間がかかる」
 トリスタンはまだ祭事用の長衣を着ていなかった。ルシャデールは部屋の隅に座った。支度するのを見ているのも面白かった。トリスタンの髪は柄の長い筋立ての櫛でいくつかの部分に分けられ、左右に三分の一残し、頭頂部に結い上げられる。デナンの持つ櫛ですいすいとトリスタンの髪が結われ、形作っていく。ルシャデールは不思議なものをみるようにそれを見つめていた。
「そのために髪を伸ばしていたんだ」
「そうだよ。髪も装具の一つなんだ。似合う、似合わないにかかわらずね。」
 ルシャデールはいつもと違う養父の姿をじっと見る。端正な顔立ちだと思う。神和師でなければ、あちこちの女性から好意を集めたに違いない。
「何か話があったんじゃないのかい?」
 黙っているルシャデールに、トリスタンの方から問いかける。
「うーん……やっぱりいい。何を話すか忘れた。」
 召使のアニスと『御寮様』のルシャデールとでは身分が違うから、親しく話したりできないのがつまらない。何とかしてほしいと、言いたかった。だが、何とかしてもらったとしても、ますますアニスを困らせることになるかもしれない。
(アニスのことじゃない、言わなきゃならないのは)
 そう思ったが言いだせず、それより髪が結われていく様がなかなか面白い。
「見てていい?」
「もちろん」
 頭頂部に作られた瓜型の結はアーモンドオイルと蜜蠟で作られたワックスで固められた。結の根元は銀色のリボンできつく縛られ、余ったリボンは後ろに垂らす。次に結のまわりにヒスイや銀、アベンチュリンなどの石がついた髪飾りをつけていく。
 耳にはトルコ石を飾る。左腕に銀の太いブレスレット。細かな細工がしてある。装飾品を身につけていくと、天上から降りてきた神のようだ。しかし、神よりももっと、温かい血の流れを感じる。
(うん、いいな)
 心の中でつぶやく。そして最初の問いが彼女に降りて来る。さりげなく、辛辣な問いを発する。
「あなたにとって、私は何なの?」
 トリスタンは深く息を吸い、少女を見る。跡継ぎの養女。そんな答えは求められていない。家族……にはなりきれていない。
 返ってこない応えにルシャデールの方が口を開く。
「私にとって、あなたは家主みたいなものだと思う。親子ではないし、家族でもない。たぶん、あなたもそうでしょ? あなたの家族は向こうの人たちだ」
 薔薇園の中の一つの家族。ルシャデールは幸せそうなその姿をくっきりと思い出すことができる。愛し合っている男と女がいて、その間に生まれた子供がいる。祝福された子供だ。彼女には手の届かない世界だった。
「確かに、あの二人は私の家族だし、君とはまだ、そういう風にはなれていない。跡取りということがなければ、養女に迎えることはなかった。それも事実だ。だからといって、 今、現実にここにいる君のことをおろそかに考えているわけじゃない」
 養父も悩んでいるのは、ルシャデールにもわかる。彼自身も幼い頃に、アビュー家に連れて来られた。神和師になることが、何を意味するかも理解せぬままに。
最愛の女性と実の子は、世間に公表できない。表むきは他の男のものになっている。跡継ぎの養子とは、親子にもなれず、といって他のものにもなれない。
「どうして血がつながらないのに、私たちは親子にならなきゃならないんだろう? 親子って何だろう?」ルシャデールは誰に、というわけでもなくつぶやく。
 トリスタンは重苦しそうに目を伏せた。それから再びルシャデールに眼差しを戻した。
「君はどうしたい? ここを出て行きたいとでも?」
 ルシャデールは首を横に振った。
「それも悪くないかな。辻占いのルシャデールに戻るだけだから。でも、今はまだ出て行かない。あなたがこんなひねくれた娘は、すぐ出て行って欲しいと言うなら別だけど……」
「そんなことは考えていない」
 情けない気分に侵されて、トリスタンの顔はしだいにうつむきがちになっていく。
「御前様、顔を上げてください」
 トルコ石のピアスをつけようとしていた侍従が声をかける。その声にトリスタンは頭を上げた。
「あなたが悪いわけじゃない」
 ルシャデールは立ち上がった。
「いつだったかアニスに言われた。『御前様のような方がお父様ででいいですね』って。でも、私みたいなのが跡継ぎでよかったなんて、誰もあなたに言わない」
そう言って彼女は御浄衣処から出ようとした。トリスタンがやにわに立ちあがり、腕を抑える。そのはずみで、装飾品を乗せていた盆が飛んで、床にヒスイや水晶が散らばった。
「そんなことはない。……誰も言わないとしても、私がそう思っている」
「ありがとう。優しいね」ルシャデールはふっと口もとをほころばす。
(でも、わかってしまうんだ。あなたが心底そう思っているわけじゃないって)
 彼女は養父の手を柔らかくふりほどく。
「御寮様」デナンが呼びとめた。床の石を拾う手を止め、ルシャデールを見つめていた。「時間をかけてください。御寮様にとって、アビュー家での生活は居心地のいいものではないかもしれません。ここを出ることを含めて、その選択はあなた様のものです。しかし、神和師の継嗣に選ばれた者は、人にない稀有の才を持つのです。それは有効に使っていただきたいのです。御寮様のご器量ならばお一人になられても、それはおできになると思います。ですが、アビュー家にいてこそ、できることもあるのです。あなたの手を待つ人がいます。それをお忘れなさいませぬように」
 そう言って、デナンはルシャデールに頭をさげた。
「差し出たことを申しました。御無礼お許し下さい」
 彼女は首を振り「ありがとう」と言い置いて出て行った
 空が白んできた。隣の寺院から礼拝を知らせるシルクシュの音が聞こえる。
 アビュー家を出て行くことは、今までまったく考えていなかった。トリスタンに言われて、その道もあったかと気づいた。ここ、ピスカージェンでも、近郊の少し大きい街でもいい。以前のように辻占いをしてだったら、ギリギリの生活でもできるだろう。カズックも一緒に来てくれれば、それほど寂しくない……だろうか?  
 以前ならカズックがいてくれれば十分だった。でも、今は……。
 本棟へ戻ったルシャデールは、もうひと寝入りしようかと階段の近くに来て、玄関のドアが開いているのに気づいた。アニスが玄関前を掃除している。
「おはようございます、御寮様」
「早いね」
「はい、御前様のお出かけ前には、玄関掃除を済ませなければなりませんから」
「アニス、もし私がこの家を出て、街で辻占いをするようになって、乞食とあまり変わらなくなっても、おまえなら会えば声をかけてくれるよね?」
 家を出ると聞いて、アニスは心配そうに眉を寄せる。
「もちろんです」
 その時、二頭の馬を連れた厩番のギュルップと、荷馬を連れたエンサルがやってきた。荷馬には大きな黒い衣装箱が二つ括りつけられている。二人とも普段より上等の服を着ていた。見送りの執事が彼はルシャデールに気づき挨拶をする。
「御寮様もお見送りですか?」
「うん」
 トリスタンは悲しげな瞳をルシャデールに向け、屋敷を出た。祭りが終わって帰って来た時には、彼女はいないのではと、不安に感じているのかもしれない。
 部屋へ戻ろうとしたルシャデールをアニスが止めた。 
「御寮様、手を出してください」
「何?」
 ルシャデールは言われたままに手を差し出す。アニスはその手を自分の両手ではさむようにしてポンポンと二回軽くたたく。
「前にもしたけど、これは何?」
「元気になるおまじないです」彼はにっこりと笑い、励ますようにつけ加えた。「逃げちゃだめです」
 そう言ってアニスは一礼すると、今度は水汲みのために西廊の方へ走っていった。知らず知らずのうちに、暖かい思いが込み上げてきた。

 トリスタンは祭りの間、屋敷に戻らないようだった。時折、着替えなどの荷を届けに従僕が斎宮院と屋敷を往復している。主人のいない屋敷は静かだ。施療所を訪れる病人も普段の半分以下らしい。
「御前様が案じていらっしゃいましたよ」従僕頭のハランが本祭りの朝に言った。「明日の朝また着替えをお届けに参りますが、何かお伝えすることはございますか?」
 特に何も、ルシャデールはそう答えた。同居人と言ってしまった相手に何を言えばいいのか。しおらしいことを言っても嘘くさいだけだ。
 正午前からカズックがドルメンで煎じ薬を作り始めた。昼食後にルシャデールも行ってみると、狼男のような姿のカズックがいた。
「また今日は一段と男前だね」
「さすがにおまえは驚かないな」振り向きざまに彼は言った。「坊やは『ひえええっ!』ってひっくり返ったぞ」
 カズックは携帯こんろにかけた土瓶に向かって胡坐をかいている。人間の大人ぐらいに手足が長くなっているが、顔と体毛はそのままだ。アニスが狼男と思って怯えたのも無理はない。
「いつもの格好じゃ火を(おこ)したり、土瓶を持つのには不向きでな」
 確かに、肉球のついたあの前足では無理だろう。
「俺のメシはどうなった?」
 後でアニスが持ってくるよ、ルシャデールはそう答えた。厨房の使用人に頼むには、彼女よりアニスの方がスムーズに運ぶ。
 しばらくして、アニスがやってきた。左腕に薬草摘みの籠を持ち、右手には少し割れ目の入った木製のボウルを持っている。カズックの姿に、顔が少しひきつっている。
「ごはん、持って来たよ。カズック」
「おお、ありがとうよ」身をひと振るいすると、いつもの狐犬が現れた。がつがつと餌に食いつき、あっと言う間にボウルは空になる。
「そういや、おまえがいたネズルカヤ山地は狼男の伝説があったな」
「うん。悪いことをすると狼男が来て連れて行かれるよって言われた」
「ふん、あれも大昔は荒ぶる神の一人だったが、いつの間にか化け物にされてしまったな」
 煎じ薬ができるまで、まだまだ時間がかかる。
「御寮様……このお屋敷を出て行かれるんですか?」
 けさ彼女が言ったことを気にしているらしい。
「うん、いや……出て行かないよ、たぶん」
「よかった」
 アニスはそのまま薬草摘みに出て行った。

 その晩、アニスはそっと西廊の屋根裏部屋を抜け出した。
 酒を飲みながらサイコロ賭博に興じているギュルップの部屋のそばを通りぬける。聞こえてくる声から、参加しているのは庭師が二人と従僕が三人くらいだろう。大声で笑っている。
 月は出ていない。真っ暗な中を気をつけて進む。西廊の建物の角でルシャデールが待っていた。二人、手をつないでドルメンへ向かった。
 木の椀に入った煎じ薬は、ランタンの灯りに照らされて、どろっとした深緑色をしている。気持ち悪い色だなと思いながら、ぐいっと、一息に煎じ薬を飲み干す。ルシャデールとカズックが息をこらして見つめている。
 何が起こるんだろう。すると、体が波打つように感じた。ゆらゆら揺れる。すいっと体が軽くなる。寝息が聞こえた。見るともうひとりの自分が岩壁にもたれたまま眠っていた。
(ええーっ! あれは僕? じゃあ、ここにいるのは? やっぱり……僕だよね? 大丈夫かな? このまま離れたら死んじゃうなんてことないのかな?)
 誰かが腕をつかんだ。ぐいっとひっぱられ、あたりの景色が消えた。

 真っ暗な世界だなあ。冥界って本当に(くら)いんだ。
 あたりを見回してアニスは思った。一筋の光もない。しかし、同じ闇でも北丘陵の夜に体験した闇とは違う。気持ち悪くはなかった。もっと柔らかく暖かい。心が自然と開かれていくような安心感に満たされている。母の胎内はこんな感じだったかもしれない。
 御寮様はどこに行ったんだろう、それにカズックも。そう思ったら声が聞こえた。
「……ニ……ス、アニ……ス、アニスったら! 何回も呼ばせるんじゃない!」
 振り向くと、すぐそばにルシャデールがいた。その足元にはカズックもいる。
「ごめんなさい、気がつきませんでした」
 周りはすべて闇なのに二人は見えている。それをあまり不思議とも感じなかった。
「どんな風に見えてる?」ルシャデールがたずねた。
「え?」
「私とカズックは見える?」
 はい、と答えて、質問の意図がわからず、アニスはそのままルシャデールが何か言うのを待った。
「他は?」
「真っ暗です」
 ルシャデールはカズックの方を見た。
「ここはまだ冥界とは言わない。生きた人間の世界と重なっている。門前の道ってところだな。屋敷の上空だ」カズックは説明した。
 闇が少し薄らいだ。灯りがいくつか見える。建物が足のずっと下に見えている。
「あっ!」
 うわあああー! 落ちる! 助けて!
 急速に地上が近づいて来る。激突する直前、がくん、と落下が止まった。アニスの足が強い力で掴まれ、宙ぶらりんになっていた。
「ばーか。落ちないよ」
 バカにした口調でルシャデールが言った。彼女はアニスの足首を握って空中に留まったまま、微塵も揺らがない。カズックが教えてくれる。
「俺たちは魂だけなんだ。肉体を持った状態なら、この高さで支えも台もなければ真っ逆さまに墜落するだろうが。人魂の話を聞いたことあるか」
「うん、死んだ人の魂が青白い炎になって浮いているとかって」
「そうだ、今ああいう状態だ。人魂は浮いていても下に落ちたりしない。ただ、落ちると思うと、落ちてしまうだけだ」
「落ちると思うと落ちる……落ちないと思えば落ちない?」
「その通りだ、坊や」
「腕離すよ」ルシャデールはそう言って、手を離した。アニスはそのまま浮いていた
「すごい……」
 まわりを見てごらんよ、ルシャデールが言った。三人がいるところは屋敷の屋根と同じ高さだ。真下には玄関から門までの石畳が見える。門番小屋の外では門番と庭師がカードゲームに興じている。かたわらには酒の瓶が転がっている。門番が手を叩いて笑っている。金を賭けていたのだろう。庭師がポケットから小銭を取り出して相手に渡していた。
「ユフェリと言っても、見ての通り、この辺はまだカデリと重なっている」カズックがアニスに説明した。
「おれはこっちでおまえたちの体を見ててやるよ。二人で行ってこい」ルシャデールの顔が心細そうなったのを見て、彼はつけ加えた。「おまえは何度も行ってるんだ。坊やをちゃんと案内できるだろう?」
 ルシャデールはうなずいたが、内心は心配だった。
「大丈夫だ」カズックはアニスの方を向いた。ユフェリにはあちこちに案内人がいる。困ったらすぐ助けを求めればいい」
「うん。僕たちの体を頼むね」
 アニスに不安はなかった。
「行くよ」
 ルシャデールはアニスの手を取った。
 ユフェリに向かっていく二人を見送り、カズックはつぶやいた。
「頼んだぞ、坊や……」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み