小説 立春の卵

文字数 3,741文字

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 「立春の日には卵が立つ。知っているかい」

 おれはその十五年ばかり後になってこの友人があの世へ旅立つ時、耳元で「立派な人生だったよ」とささやいてやることになるのだが、脳裏に浮かんでいたのはこの時のやつの笑顔だった。だからこの思い出をその笑顔に捧げよう。
 雪は天から送られた手紙である。
 我が友中谷宇吉郎(なかやうきちろう)は、そんな台詞で知られる「雪の科学者」だ。北海道大学理学部の教授として、雪の結晶の分類や観察に打ち込み、その道のりや理屈を「雪」という本で一般むけにかみくだいて説明した。これがわかりやすいというので評判になった。
 宇吉郎の専門は物理だが、そういった分野の発見の価値や科学の考え方というのは、それを深く学ばない人には見えにくいし、難解なものと誤解されやすい。宇吉郎の功績はそういったものを平明なことばに「翻訳」したことだ。この「立春の卵」もそうだった。
 おれと宇吉郎は地元石川県の同級である。金沢の四高(第四高等学校)で知り合ってもう三十年の付き合いになる。戦争が終わって二度目のこの夏、揃って帰省した。その日は宇吉郎の地元である片山津(かたやまつ)にほど近い日本海の入江を誘われて歩いていた。蒼穹が広がる朝だった。
 「あれは愉快な話なんだ。二月六日、各新聞がこぞって『立春の日にだけ卵が立つ』と書きたてた。元はといえば、中国の現ニューヨーク領事だかいう人が古書を読んで『発見』したそうだね。どの記事も卵が

と机の上に鎮座まします写真を載せていたよ」
 「立つか座るか、どっちかにしろ」
 「こら、揚げ足をとるな。中には写真をわざわざ卵形に加工した記事もあった熱の入れようだ」
 「おれが読んだ記事なんて『みなさん、今年はもうだめだが、来年の立春お試しになってはいかが』と締めてあったぞ」
 「ははは。おやりなさいよ」
 「ばかばかしい。立春ってのはお天道様の都合だ。卵に暦がわかってたまるか」
 「春さえ立つんだ、卵ぐらい立ってもいいだろう」
 宇吉郎は人懐こい。だいたいが科学者なんてしかつめらしい顔の写真と相場は決まっているのに、こいつはおでこをさらして満面の笑みで映っている。そしてここが肝要なのだが、人懐こいくせに食わせ者だ。雪は天からの手紙などと書くからさぞロマンチストかと思いきや、地に足ついた現実感覚がある。銭勘定もきっちりやる。研究の宣伝もお手の物で、いつもツテをつたって金を集めてくる。
 加えて多才である。科学をわかりやすく伝えるという意味では「雪」の続篇で雷雲の発生に関する「雷の話」を著した。それ以外に随筆や評論も書く。趣味で絵もやる。少し前には「雪の結晶」という科学映画なんかも作っていた。「映画となると、ぼくの十年分の研究費がポンとでた。学問の金なんざたかがしれてると思ったね」とのことだ。
 「高野、もう少し行けば岩海の岬がある。そこじゃ

栄螺(さざえ)が取れる。中学生の頃、夏休みによく来たものさ。面白い伝説もあったんだよ。晴れた日に海をのぞくと、水底に鳥居が見えるというんだ」
 おれたちのいる入江は松林を抜けた先にある小さな砂浜である。麦わら帽をかぶった少年が長い網を持って歩いている。夏の日差しをきらきらと藍色の海が反射し、海自身が内側から発光しているようだ。おれは日光に手をかざし、宇吉郎を茶化した。
 「ありえない話じゃねえな。卵も暦を気にする世の中だ」
 「ははは」
 「立春の卵に海底の鳥居か。まったく、科学者の本分はどうした」
 「そいじゃ本分の話をしようか。高野は随分稼いでいるそうだね」
 「……からかうな」
 「安本(あんぽん)の建設局長といったら実際大した仕事じゃないか。安本は『最強の経済団体』だ。そこの局長なんだから大臣みたいなものだろう」
 「からかうなと言うのに」
 安本というのは、経済安定本部の通称で、物価統制や投資にたずさわる官公庁である。建設局長はいってみれば公共事業やその予算を決めるのが仕事。といってももともとおれは満鉄(南満州鉄道株式会社)の線路工事のエンジニアだ。日本に戻ったのも今年で、一足飛ばしに肩書きだけがえらくなったような今の仕事にはまだ慣れない。
 「おまえこそ農業物理研究所(農物研)の所長になっただろう。雪、霧、雷の研究ときて今度は農業か。つくづく浮気性だな」
 「面白いと思えば関わってみたくなる。さっきの卵の話もそうさ」
 軽い皮肉は流され、話がぐるりと弧を描いて戻ってきた。立春の卵、少年の日の思い出、新しい仕事。三題噺か知らないが、どうも嫌な予感がする。宇吉郎は意味もない話を弄する人間ではない。そこにあるはずの狙いが見えず、大げさな言い方をすれば、宇吉郎のしかけた罠に絡め取られている気分がした。




 罠といえば、宇吉郎の家で馳走になった貝鍋を思い出す。
 魚はホッケを入れて、具は昆布と豆腐と三つ葉、これを薄味でくつくつ煮る。この素朴な料理が宇吉郎は大好物で、酒と一緒にキリなくつまみ続けた。罠といったのは、宇吉郎がそれを息子たちを

寝かしつけた時しか出さなかったからである。
 「貝鍋がこうも美味いのは、貝の炭酸カルシウムが溶け出るからじゃないかと思うんだ。土鍋やアルミの鍋じゃこの味にはならない」
 宇吉郎は大人の楽しみとばかりそううそぶいたが、おれは子供たちが眠ったふりをしているだけのような気がしてならなかったのだ。宇吉郎は貝殻を蹴り飛ばして言う。
 「高野、あの卵の話のなにが面白いかわかるかい? ぼくが惹かれたのは『卵はゆっくり置けば立つ』なんてすぐ目の前にあることを、世界中の人間が見逃していたことだよ。卵が立つというのは、人類の盲点だったわけだ」
 「大げさだな。卵が立っても立たなくても、人類に大した影響はあるまい」
 「たしかに。だがこれと同じようなことがいろいろの方面にあると思わないかい。それを知れば我々はもっと豊かになれる」宇吉郎はおれをちらっと見た。「高野、農物研(うち)に研究費を回す気はないか」
 「……何だと」
 「この海は澄んでいる。かさごも栄螺もある。ぼくらはこの資源を活かして行かねばならないよ。そのために必要なのは何か? 科学だ。土地や農業を考える『国土の科学』。これだよ。卵の話のように知らないことを一つずつ潰していこう。人の役に立つ研究をせねばならん」
 なるほど。たしかに今のおれの地位ならば、安本の金を宇吉郎へ工面するのは朝飯前だ。狙いはここにあったわけか。納得しかけたおれは、しかし首をひねる。
 


 三十年の付き合いがおれに告げる。研究費の無心に回りくどい手を使う宇吉郎ではない。自分を売り込む時には正々堂々と。本を書く。映画を作る。人工雪の結晶を天皇の行幸(ぎょうこう)(外出)の際にお見せすることさえした。この男はそうやって研究費も地位も得てきたはずだ。
 「大義名分を立てるなんて、変わっちまったな」
 「…………!」
 「『雪』にはこう書いて有るじゃないか。『いろいろな種類の雪の結晶を勝手に作って見ることが一番楽しみなのである』――おまえは自分の楽しみのために科学をやってると思ってたよ」
 「高野はわかってないな」微笑む宇吉郎は、普段より十も老けて見えた。「人は歳をとる。いつまでも子供のままってわけにはいかないさ」
 おれはそして思い出す。去年の十一月に宇吉郎が息子の敬宇(けいう)を病でなくしてから、まだ一年も経たないということを。十一歳になっていた長兄を宇吉郎はことのほか可愛がっていた。その喪失を忘れようとするかのように、宇吉郎が農物研の仕事に打ち込んでいると聞いたことを。
 「夏の朝の日本海は美しいな。どうしてこんなに美しいんだろう。太陽を背にして眺められるのがきっと大事なんだな……」
 朝の短い散歩ではあったが、その間に宇吉郎はいろんな顔を見せてくれた。友人としての顔、発見を純粋に楽しむ科学者の顔、研究費を集めるためなら搦め手も辞さないポリティクスに長けた実務家としての顔、ひとりの人の親としての顔。そのどれが本当の宇吉郎だったかなんて考えるのはばかげている。それらは矛盾しながらも支えあって宇吉郎の内に共存していた。「雪」のようにすぐれた入門書を書くことができたのも、純粋な好奇心、自分を理解してほしいという人間くさい欲求、他人に自分をアピールする能力、詩にひかれる繊細さ、それらを全て併せ持っていたからだ。
 宇吉郎が亡くなって少し経った頃、おれはふと思い立って卵を買ってきた。指先に神経を集中させて立ててみようと試みたが、どれだけ頑張っても、卵は立たなかった。結局茹で卵にして食べてしまった。卵が立つなんてうそっぱちじゃないかとその夜宇吉郎の口利きで出会った細君に言ったら、気の毒そうな目でおれの手を見た。一見してわかるくらい震えている両手をおれは後ろに隠し、天国で宇吉郎に会ったらウソじゃないかときっちり文句を言ってやることに決めた。


(完)
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