第11章 慈愛と呪縛

文字数 12,362文字


 空が……なんて青いんだろう。 
 アニスはぽかんと口を開けて仰ぎ見ていた。
 空の色。鮮やかで濃い青さが目にまぶしい。
 れんげ草の咲く野原が広がっていた。ところどころに白樺の木立。セルリアンブルーのオオルリが羽を休めて、ピールリ、ポールリと、よく通る声で鳴いている。枝から枝へ渡っていくリスの姿も見えた。彼らの前を茶色のうさぎが横切っていく。れんげそうの野原が終わると、今度はよく手入れされた芝が続く。
 芝の真ん中は、焦げ茶色の石畳の道が走っていた。十人ぐらい並べるくらいの幅がある。石はきっちりと、爪を差し込む隙間もなく敷かれ、表面のでっぱりやへこみもない。アニスはそれを興味深げに見ていた。
「草の上を歩いてくれる? そこは緊急用だから」
 サラユルは足元の石畳を興味深げに見ていたアニスに言った。すぐにアニスは言われた通り移ったが、首をかしげてサラユルにたずねた。
「緊急用って?」
 サラユルが答える前に、その『緊急用』がやってきた。四人の白い長衣を着たソワニがケガ人を乗せた担架を運んで、前方にある建物へと走っていく。正面に柱が六本ならんだ白い建物だ。
「施療院だよ。病気やけがで死んだ人は、体に受けた苦痛にひどく傷ついていることが多いんだ。だから、あそこで一旦治療してから、次に進むことになる」
「次って?」
 サラユルはそれに答えず
「すぐに父さんや母さんに会いに行きたいだろうけど、せっかくこっちに来たんだから、いろいろ見ていって欲しい。ルシャデールはともかく、君はめったにこんな機会ないだろう」そう言って施療院へと先導した。
 弱った人々が次々と施療院へ向かっていた。一人で行く者はおらず、たいていはソワニが付き添っている。
「ここへたどり着ける人はいいんだ。囚われの野で見たように、死んだことに気がつかず、留まっている人も多いからね」
 施療院はカシルク寺院ぐらいの大きさの建物だ。だが、入って見ると、中はそれ以上に大きかった。玄関ホールはアビュー家のものの数倍はある。両側の壁には滝が流れている。滝の水は岩に囲まれた滝壺から霧か雲のようになって外へ流れ出て行く。滝壺を囲む森。
 数人のソワニがドアの一つから出てきた。
「おお、この子が五十二代目か!」
 彼らはあっという間にルシャデールを囲んだ。どうやらアビュー家のかつての当主たちらしい。ルシャデールは嫌そうな顔をしている。
 サラユルは次にアニスの方を向いた。
「実は君に使いを頼みたいんだ」
 使い? アニスは聞き返した。この施療院に入院している患者が、向こうの世界にいる息子に伝言してほしいと言っているという。どうやら彼が橋まで迎えに来たのは、そのためだったらしい。
「いいですよ、僕でできるなら」
 サラユルはアニスを連れて放射線状に何本もある廊下の一つへ歩いていく。アビュー家のご先祖たちに捕まったルシャデールが、恨めしそうな顔で二人を見送る。
 廊下は果てがかすむほどに長かった。地の果てまで続いているのではないかと、アニスが思ったくらいだ。その廊下の両側に病室がある。一つ一つの病室に患者一人ずつベッドに横たわって過ごしている。
 ドアはついておらず、開け放たれていた。どの部屋もその人が生きていた時に過ごした家のように、家庭的で居心地のいい雰囲気だ。暖炉があったり、壁には絵が飾られ、窓際に庭を作っている部屋もあった。
 患者たちの過ごし方もまちまちだ。本を読んでいる人、窓から入ってきた小鳥にえさをやっている人、他の患者やソワニと談笑している人、シタールを弾いて歌っている人もいた。
 いくつかの部屋を通り過ぎて、サラユルはある部屋で止まった。
「カトヤさん、いい人連れて来たよ。」
 病室にいたのは四十過ぎくらいのやつれた女性だった。長い髪を後ろで束ね、やつれた青白い顔に浮かぶ影は病気以外の心労があることを思わせた。
「息子さんと一緒に働いている子だよ」サラユルは彼女にアニスを紹介し、シャムのお母さんだと教えてくれた。
 意外な事のなりゆきに、アニスは黙って用件を聞く。
「シャメルドは元気にしてるのかい?」かすれた声で彼女はアニスにたずねた。
「はい、元気です。おばさんは病気だったんですか?」
「胸の病でね。ばちが当たったのさ。息子を捨てた報いだよ」
 彼女は苦い笑みを浮かべて話した。
「あたしは十八の時に結婚したけど亭主がすぐに死んでしまってね。子供はいなかったし、実家に戻ったんだ。両親は亡くなって兄の家族の家になってたから、いづらくてね。しばらくして、やもめのパン屋に嫁に行ったのさ。それがシャムの父親さ」
だが、パン屋には亡くなった奥さんとの間に二人の小さい息子がいた。最初の頃はよかったが、シャムが生まれた頃から上の息子たちや姑とうまくいかなくなった。そのうち亭主ともケンカばかりするようになり、結局離縁されたのだという。シャムは残った。パン屋は裕福だったし、一緒に連れて行けばかえって不憫な思いをさせると、彼女は考えたのだ。それに、自分一人を養うのがやっとだった。
 シャムから家族のことはほとんど聞いたことがなかった。家がパン屋で兄が二人いるということぐらいだ。あまり話したくなかったのだろう。
「あの子は……二年前に一度、あたしに会いに来たのさ。あたしは、あの子を追い返した。いくら貧しい生活になるとはいえ、わが子を捨てたようなものだからね。どのつら下げて母親だなんて言えるもんかね」
 それから間もなくだったという、胸を患って寝つくようになったのは。
「何か伝えて欲しいことはありますか?」アニスはたずねた。
「あの子は恨んでいるだろうね」
「そんなこと……」アニスはちょっと考えてから言った。「ないと思います。僕がシャムだったら、やっぱりお母さんのことが好きだと思います。冷たくされても」ちらりとルシャデールのことがよぎる。
「……追い返して悪かったって伝えておくれ。体壊さないように、それと、いつもおまえのことを見守っているよって」
 シャムの母がすすり泣く。
「わかりました、必ず伝えます」
「ありがとう」彼女はやせて筋張った手でアニスの手を握った。
「シャムは僕によくしてくれます。兄さんみたいに、いろいろなこと教えてくれたり、励ましてくれたり。『雨が降ろうと曇ろうと、その上でお天道様は輝いてるんだぜ』ってね」
「それは……あたしが昔父親に言われた言葉なんだよ。あたしはパン屋にいた時、辛いことがあると、自分に言い聞かせるようにシャムに言ってた。ありがとう、おにいちゃん」
 早くよくなって下さい、そう言ってアニスは病室を出ると、いつからいたのかルシャデールが立っていた。
「シャムって赤毛の?」
「うん」
 サラユルが出てきて、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。これであの人も少しずつ回復していくよ」
「シャムのことが心配で、死んだ後も病気が治らなかったの?」
 サラユルはゆっくり首を振った。
「息子を捨てた自分が許せなかったんだ。あの人はもう少しで『囚われの野』にはまってしまうところだった。灯台野の楽師がかろうじてそれを止めたのさ」
 サラユルは玄関まで送ってくれた。
「彼女の息子に言ってくれないか。もし、できれば満月の晩に花を川に流してやってくれと。そうすれば、川を下って海に流れた花はここへ届く」
 わかりました、そうアニスは答えてサラユルと別れた。
「ご先祖さまたちと何をお話してたんですか?」アニスはルシャデールにたずねた
「説教風味のありがたいお話だよ。癒し手の仕事はすばらしいって。」
「きっと心配してるんですよ」
「私がアビュー家を潰すんじゃないかって?」
 そうかもしれないな。アニスはそう思い、くすっと笑う。
「でも……ここにいる連中は嫌味なんか通じない奴ばかりだ」
 ルシャデールは頬をふくらませた。
 二人は施療院を出て歩き出す。
 なぜということもなしに、右手の木立に向かっていた。樹々の間を小川が流れる。助走をつければアニスでも飛び越えられそうな幅だったが、表面の平な飛び石が置かれていた。ふちには芹が生え、クレソンが小さな白い花を咲かせていた。流れの柔らかなところではシジュウカラに似た灰色と黒の鳥が水浴びをする。
 風のそよぎと、それに乗って聞こえてくる竪琴の微かな音が、向こうの世界から身につけてきた不浄なものを洗い流していく。
 どんどん澄んでいく。僕が僕に還っていく。
アニスは空を仰ぐ。雲雀(ひばり)がどこかで鳴いていた。
(ここは覚えがある。なんだか懐かしい)
 再び目を木々の間に戻すと、その向こうに、広場のような草地が見えた。いくつかある木製の四阿(あずまや)の一つに、彼は見出した。夢にまで見た両親を。そして走り出す。
「父さーん! 母さーん!」
 目の前がゆがむ。
 ぼろぼろこぼれる涙で前がよく見えない。そんなアニスをがっちりと受け止めたのは、間違いなく父の腕だった。いったい何度その腕で抱き上げてもらったか、覚えてはいないが、その揺るぎなさにアニスは全幅の信頼を委ねていた。時には、背中から落ちそうなほどに肩越しに乗り出したこともあり、母からこっぴどく二人とも怒られた。
 父の大きな手がアニスの髪をくしゃくしゃとかき混ぜるようになでる。
「アニスったら、本当に昔からお父さんっ子なんだから」
「あ……ごめんなさい」あわてて父から離れると、母が微笑んでハンカチを渡してくれた。涙と鼻水をふき、二人を見ると記憶にあるよりも若く見えた。その後ろに祖父もいた。だが、妹の姿が見えない。
「エルドナは?」
「あの子は次に生まれ変わる準備に入っているんだ。すぐに来るよ」 
 少し落ち着いたアニスを母がふんわり抱きしめた。
「よく、がんばったわね。私たちが死んでしまった後、あなたが村を出て、知らない人たちの中で働いているのを私たちは知っているわ。えらかったわね」
 やさしい言葉はかえって涙を誘う。アニスはまた鼻水をぐしゅぐしゅとさせていた。
「ひどいよ、みんな。……僕だけ置いて。一緒に連れて行ってくれればいいのに」
「アニス」たしなめるような父の声。
「わかっているよ、そんなこと言うのは弱虫だって。弱虫でも、卑怯者でもいいよ。僕も一緒に死にたかった!」
「アニス、おまえは自分よりも辛い思いをしている人を知っているね? あの子の前でそんなことを言うのかい?」
 父も母もいろいろなことを知っているようだった。アニスはちらりと後ろを振り返った。ルシャデールが少し離れたところでこっちを見ていた。彼女のやけつくような憧憬のこもったまなざしは、すぐにいつもの冷ややかなものにとって変わった。アニスはもう一度、両親の方を向いた。
「ごめんなさい」
「おまえは弱虫ではないよ。お前がアビュー家のお屋敷で、誰にも甘えずに頑張っているのはわかっているよ。そして、ちゃんとやってきたじゃないか。十分に強い子だ。私たちは向こうの世界から、こっちに移っただけだ。いつだっておまえのことを愛しているよ」
「カデリにいるあなたに私たちが見えないのは残念だけど、それでも私たちはここで元気に暮らしているわ。いつでもあなたを見ている。それを忘れないで」
「おまえに教えるべきこと、伝えるべきことは、七年で、(たった七年だが)すべて伝えたと思っているよ。これから起こることも、ちゃんと乗り越えていく力をおまえは持っている。地図は受け取ったようだね?」
「これ、やっぱり父さんが描いたの?」
「ああ、うまいもんだろう?」アニスの父は口の端をきゅっと上げて笑った。
「あなたが来るのが待ち遠しくて、じっとしてられないんだから。道に迷わないよう、地図でも用意してあげなさい、って私が言ったの。一度なんか、待ちきれずにカデリへあなたの様子を見に行ったのよ」
 母が笑い、アニスを抱きしめた。
「私の小さな騎士さん、あなたは何も失ってなんかいないわ。私たちはここで生きているし、ね。大丈夫、あなたは一人でもやっていけるわ」
母のぬくもりは離れがたい。また向こうへ戻るのは嫌だった。母の肩越しに十七、八の少女が(とび)色の髪を揺らしながら走って来るのが見えた。
「お兄ちゃん!」彼女はそばにくると、息を切らせて、「ああ、よかった。まだいてくれて」と笑った。
「もしかして……エルドナ?」おそるおそるアニスは聞いてみた。
「そうよ!あ、こんな格好してるからわからないのね。これでいい?」彼女は一瞬にして四歳のエルドナに変わった。安心してアニスは彼女を抱きしめる。
「生まれ変わる準備をしてるって?」
「そう。計画所で先生と話し合って決めるの。次はお姫様に生まれたいって言ったら怒られちゃった。もし、お姫様に生まれるなら、自分の楽しみを我慢しても貧しい人や弱い人につくす覚悟がないとだめだって。お金持ちに生まれる方が大変なんだって」
 エルドナは頬をふくらませる。
「おまえがお姫様じゃまわりの人がかわいそうだ」
 アニスは笑った。
「ひっどおい!」エルドナは兄の方を叩く。そんな妹に、生きていた頃の思い出がよみがえる。アニスの眉根が下がった。
「もう会えないかもしれないんだね」
「まだ生まれるまで少し間があるわ。向こうの世界の時間にしたらまだ何年か先のこと。大丈夫。もし生まれ変わって、お兄ちゃんに会ったら、『豚の鼻に真珠をつっこめ!』って言うから、気がついて」
 それはかくれんぼの時、百数えた鬼が探し始める合図として叫ぶ言葉だ。
「見つけた時は『豚のしっぽはくるくる回る!』だよ」
 会ったら話したいことはいっぱいあったはずだった。しかし、言葉にならない。
(ずっとここにいられたらいいのに)
 しかし、向こうの世界に戻らねばならないことも十分わかっていた。
「僕、行かなきゃ」
「ああ、そうだね」父がうなずく。
 いろいろなことが思い出される。一緒に釣りに行って、何も釣れず母をがっかりさせたこと。山苺を取りに行って道に迷い野宿したこと。何もごちそうのない冬至祭にみんなで歌を歌ってたこと。
「おまえはいつだって、私たちの希望だった。ありがとう」
 もう一度、家族一人一人と抱きあって、アニスはルシャデールとのもとへ行く。
「ありがとう、ルシャデール」
 アニスの父がふわりと彼女を抱きしめる。
「あなただったんだね」ルシャデールが言った。「あの夜、私にミルテの花吹雪を運んできたのは」
「気に入ってくれたかな? 私たちは降りていくこともできる。君がこちらへ昇ってくることができるように」
 それからアニスの母が、彼女を抱きしめようとしたが、ルシャデールはやんわりと拒んだ。
「慣れていないんだ、優しくされるのは」
 そう、と、アニスの母は寂しげにうなずいた。
「でも、忘れないで。『庭』はここだけにあるのではないことを。向こうにもちゃんと、あなたのための『庭』があるわ」
 ルシャデールは心もとない様子だったが、アニスの方を向いた時にはいつもの不機嫌な顔に戻っていた
「もういい?」
「うん」
 アニスは何度も振り返りながら歩きだす。父も母も妹も祖父も、いつまでも手を振りかえしてくれている。また会えるのかわからない。ひどく切ない。それでも、全く失くしたわけではないし、彼らが今でも大事に思ってくれていることは、アニスの中にしっかり浸透していった。
 彼らの姿が見えなくなってしばらくしてから、ルシャデールがたずねた。
「見る? 私のかあさん」
「え……?」
「おまえの母さんとは全然違うし、もしかしたら……気持ち悪いかもしれない。でも、おまえはたぶん軽蔑したりしないだろうから」
 アニスはうなずいた。

 『庭』から再び二人はあの道へ戻る。囚われの野を突っ切っている道へ。
 ルシャデールはむっつりと黙り込んでいる。アニスは家族との再会について思いをめぐらすよりも、彼女の様子の方が気になった。さっきは何も考えずに父母に甘えてしまったが、それを見ていた彼女がどう思ったか。親と死に別れたのは同じだが、どう考えてもルシャデールの方が辛そうだ。
 彼女は道を降りて、岩山の穴の一つへと入って行く。アニスがそれに続く。

 雑然とした部屋だった。カーテンのかからない窓。部屋の隅に転がる五、六個の酒瓶。脱ぎ散らしたままの服が、何枚かベッドのそばに落ちている。テーブルの上には汚れた食器。素焼きの小さな紅壺から、血のように紅が流れ出ていた。
 そして部屋の真ん中に、梁からかけた縄で女性が首を吊っていた。年は三十前だろうか。アニスの母より若いかもしれない。ルシャデールと同じ色の髪はくしゃくしゃに乱れている。(うつ)ろに見開かれた目は灰色だ。細い手首。
ルシャデールはそのさまを、ただじっと見つめている。
〈そいつの母親さ〉
 ふいにカズックの声がして、アニスは思わずきょろきょろ見回した。もちろん、カズックはアビュー屋敷のドルメンだ。
〈あのひとは死んでからずっと、あのままここにいるの?〉
〈ああ。自分から死ぬのは一番悪いことだからな。おまえさんの妹がさっき言っていたろ、また生まれ変わるための準備をしているって。次はどんな人生にするか、計画をたてているってな。自殺は自分で立てた計画を自分で否定し、逃げてしまうことなんだ〉
〈いつか出られるの? 出て『庭』へ行ける?〉
〈いつか、な。しかし、長い時間がかかる。もっとも、そこでは時間の流れがないから、一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり、ってところか……〉
〈なんとかできないの?〉
〈神でも従うべき掟があるのさ〉
 母親の半ば開いた口から、
「ルシャ……デール……ど……こに……」切れ切れの言葉がもれる。
〈ルシャデールっていうのは親父さんの名前さ。女の子は父親に似るっていうが、そうなんだろうな。おっかさんは娘を親父さんの名前で呼んでいたらしい〉
アニスには想像もできなかった。父親が母を置いて失踪し、母が首を(くく)って死ぬ。
〈母一人、子一人の家ってのは、たまにあるさ。しかし、一緒に住んでいながら、これほど見捨てられたヤツもそういないだろうな〉
 服は一度着せたら、小さくなって着られなくなってもそのまま。ろくに拭いたこともない体は垢で真っ黒、髪は一度もとかしたことがないのか、もつれて鳥の巣よりもひどい。食事も一日に一回もらえればいい方。母親は酒場の仕事に出たまま、帰ってこないこともあったから、その間は水を飲んでしのいでいた。酒場で知り合った男を連れて帰ることもあった。
〈なぜ、このひとは自殺なんかしたの?〉
 しばしの沈黙があり、それからカズックは話してくれた。
〈その女は娘の力を、特に予見の力を嫌っていた。怖れていたのさ。そいつの父親がもう戻ってこないと、宣告されるのではないかとな。だけど、酒場の男に捨てられて、ついに聞かずにはいれなくなったんだ。おまえの父さんはまたここへ戻って来るか、と。そいつは母親に正直に答えたさ。もう二度と来ない、とな〉
〈ルシャデールは……知ってるの?自分の言ったことがきっかけで、お母さんが自殺したって〉
〈ああ、あいつはわかっている〉
 その予見がなくても、長生きはできなかったかもしれない。しかし、そうであっても、自分の言葉が最後の一押しになってしまったことを、どう考えればいいのか。
〈おれのところに来た時は、汚い身なりの中に目だけがぎらついて、ちょっとした魔物じみてたな。まったく口をきかず、敵意に満ちた目をして、周りの人間をいつも睨みつけていたな。それでもかなりマシになったんだ〉
 ルシャデールは何度もここへ来たのだろう。アニスは彼女を見た。固い表情で母を見上げる姿は、どこかあきらめが漂う。本当は、こんな姿の母を人に見せたくはなかったかもしれない。それでもアニスを連れて来たのは、彼の家族を見て、根拠のない奇跡を望んだからのように思えた。
「かあさん……」
 かぼそい声でルシャデールが呼びかける。彼女の口から出た言葉は血のように紅い花びらに変わり、どこからか流れてくる柔らかな気流に乗って吹き上がると母の上に降りかかった。それ以上言葉もなく、彼女はたたずむ。取り乱すこともなく、淡々と首を括ったままの母を見つめている。
 どうするという考えもなしに、少年はルシャデールの横に立つ。どうしたものか戸惑いつつ、少女と母親を見やる。
「お母さんの名前、何ていうの?」
「セレダ」
 ルシャデールはそれがどうしたというように、視線を彼に投げかける。
「セレダさん」アニスは語りかける。「ルシャデールはあなたのことが大好きだって」
 言葉は薄桃色の花びらに変わりセレダの上に降り落ちる。
「あなたがこうして囚われてしまっているのが、それに、そこから出してあげられないのがとても悲しいって。小さかった頃、もっとあなたに抱きしめてほしかったって」
 花びらははらはらと、首をくくったままの彼女の足下に降っては消えていく。春の雪のように。
「もっと、愛してほしかったって。だけど、今はそんなことより、あなたが早くそこから出て、幸せになれることを祈っているって」
 アニスはそこまで言うと、ルシャデールの方を振り向き          
「そういうことを言いたいんだよね?」と聞いた。
 ルシャデールは泣きそうに顔をゆがめ、唇をかんでいた。泣いていたのはアニスの方だった。彼はセレダに近づいた。怖いとは思わなかった。黒々とした絶望と悲しみ、混乱した感情が流れてくる。それは波打ち呑み込もうとアニスを襲うが、彼の中からあふれてくる輝きとぶつかり合って、昇華されていく。
(本当は生きたかったんだ、きっと。幸せに生きたかったんだ。僕の家族がそうだったように、三人で幸せに暮らしたかったんだ)
 アニスにはそう思えた。目の前に両足がぶら下がっている。
「せめて降ろしてあげられないかな?」アニスは聞くともなしに、言った。「あのロープを切らなきゃ。ナイフ……」
「これ……」
 ルシャデールが小さな銀のナイフを差し出していた。
 それを受け取ると、アニスはひょいっと飛び上がり、セレダの頭より少し高いところに留まる。浮揚するのも少し慣れた。
 左手で縄を抑え、その上をすぱっと断つ。セレダを乱暴に落とさないように、アニスは少しずつ降ろしていった。
 床に座り込んだルシャデールの母は、相変わらず虚ろな表情だったが、陰鬱な影は少し消えていた。アニスは首から縄をはずしてやった。ルシャデールは呆然と母を見ている。
「抱きしめてあげなよ。やったことないかもしれないけど。ほら、こんなふうに」アニスはそう言って、セレダの首を抱きしめる。
 しかし、ルシャデールは動けなかった。甘えようとしても「うるさい子だね! あっちへお行き」と拒絶された。愛される値打ちのない子、生まれてはいけなかった子。その思いは強く彼女の中に根を張っている。
 カタ、と部屋の隅で音がした。そこには大きな衣装箱があった。
 蓋を押し上げて、覗いている二つの目がある。アニスは近づくと、そーっと蓋をあけた。中で縮こまっていたのは小さな女の子。枯草色の髪に、灰色の瞳。妹と同じ三歳くらいだろうか。ルシャデールをそのまま小さくしたような姿。
「君は……ルシャデール?」
 衣装箱の中の女の子にアニスはたずねた。彼女は小さく首を振る。
「ターシャ。……でも、母さんはしょっちゅうルシャデールって呼んでる」
 うつむきがちにアニスを見る顔はあどけなく可愛い。思わず微笑むアニスに、ターシャもためらいがちに笑みを返す。
「出ておいでよ」
「母さんは?」
 聞かれてアニスは床に座り込むセレダを振り向く。ターシャの目に入らないはずはないのだが、彼女の目に映らないのかもしれない。ルシャデールは凍りついたように、アニスと幼い自分を凝視していた。
「お母さんは……用事でお出かけだよ」
「どこへ行ったの? もう帰ってこないの? いやだ、母さん!」
 箱から出てどこかへ行こうとするターシャをアニスは抱きとめた。
「帰って来るよ。お母さんは、ターシャのことが大好きだから、ちゃんと帰って来る」
 ターシャの目から涙があふれる。
「かあさんはターシャのことが嫌いなの。いつも、おまえなんかいなければいいのにって言うの。きっと、あたしが悪い子だから」
「ターシャは悪い子じゃないよ」アニスはターシャの背中をさする。「お母さんはターシャのことが大好きだよ。ただ、ちょっと……辛いことや悲しいことが多すぎて、うまく大好きって言えなくなったんだ」
「そうなの?」
「うん。だって僕はターシャのこと大好きだもの。お母さんがターシャのこと好きでないはずないよ」
「あなただあれ?」
「僕はアニス」
「幽霊には見えないけど、もしかして妖精さん? あたし妖精さんはよく見るの。怖いのとか、優しいのとか。」
「うーん……そんなようなもの、かな?……あ、そうだ、友達だよ」
「友達って?」
「家族じゃないけど、大好きって言ってくれる人のこと」
「ターシャのこと好き?」
「うん、大好き」
「本当? 世界中で一番?」
「うん。世界で一番」
「うれしい!」小さなターシャは飛び上がってアニスの首に抱きついた。「お礼に首飾りをあげる。」
 彼女の手には、白つめ草を編んで作った首飾りがあった。それをアニスの首にかけた。
「ありがとう」にっこりと微笑むアニス。「もう一つあるかな、首飾り?」
「うん」ターシャの手にもう一つの首飾りが現れる。
「それをあっちのお姉ちゃんにかけてあげて」
 ルシャデールは困ったようにアニスを見るが、ターシャは彼女の首に花輪をかけた。
「はい」
「……」
どうしていいかわからないルシャデールにアニスは、あ・り・が・と・う、と口の形を作って教える。
「あ……りがとう」
 その瞬間、光がはじけた。白銀の輝く粒子がルシャデールとターシャを包む。一瞬のち、ターシャは消え、ルシャデールが残っていた。その胸にはシロツメクサの首飾りがかかっている。
 彼女は首飾りをつまみ、それから上を向いて目をつぶる。涙が一筋頬を流れていく。
 その様子に、アニスの胸が痛む。誰にもすがることができなかった今までの姿が見えるような気がして。
 泣きたい時も、ああやって我慢してきたんだ。
 ルシャデールは目をぎっちりつぶって涙を押し出してから手で拭い、アニスの方を向いた。
「一度だけ、母さんが近くの野原に連れて行ってくれたことがある。その時に、シロツメクサで首飾り編んでくれたんだ。そんなことは……あれきりだったけど」
 彼女は座り込んだ母の前へ行って両膝をつくと、その首に抱きつく。
 生きていた時にしたかったこと。でも、拒まれてばかりだった。その分を取り返すかのように、いつまでもルシャデールは母にしがみついていた。肩を震わし、嗚咽(おえつ)が低くもれる。
 だが、虚空を見つめる母は腕をだらんと下げたまま、何の反応もない。
「帰らない……」母の胸から顔を上げ、彼女はつぶやいた。「ずっとここにいる」
「ルシャデール」アニスはそばにしゃがみこんだ。「僕たちは向こうの世界で生きていかなきゃいけない。ね?」
 そして、少女の手を取り、ポンポンと両手ではさむ。
 彼女は涙を手でぬぐい、のろのろと立ち上がると、母を名残惜しげに見る。
「戻らなきゃ」アニスが言った。「僕たちは先に進まなきゃならない」

 アニスと手をつないで歩きながら、ふいにルシャデールは彼にたずねた。
「友達?あの子にそう言ってたね。」
「うん」アニスは答えてから言いづらそうにルシャデールの方を見た。「信じてくれないかもしれないけど、僕はあの子にあったことがあるように思う。」
 思わずルシャデールは彼を見る。
「妹が生まれる少し前だからあのくらいの頃かな。裏山で薪にする木を拾っていたら、女の子が現れて。薪を一緒に拾ってくれて、一緒に運んでくれた。そして、家についたらいなくなったんだ。近所の子ではなかった。父さんは村人の誰かの知り合いじゃないかって言ったけど、あとで聞いたらそんな子はいなかった。」
「……それ、覚えているよ。」ルシャデールはぼそっと言った。
「え?」
「衣装箱の中で寝ていて、気がついたら森の中にいた。歩いていたら黒い髪の子がいて木を拾っていたから手伝った。どうやって帰ってきたかはわからないけど。だから最初に庭で会った時、なんとなくわかったよ。あのときの子だって。でも覚えているかどうかわからないし、頭がイカレてるとか思われそうだから言わなかった。」
「思わないよ」
「あの時、『友達になってよ』って言ったのは覚えてる?」
「どっちが?僕?」
「うん」
「ごめん、覚えてない。あっ、……その時に『友達って何?』って聞いたんじゃないかな?さっきみたいに」
「うん。友達って何だかわかってなかったから。で、教えてくれたんだよ。それで私がいいよ、って約束した。」
「うん」
「あれはまだ……続いている?」
「友達でいること?うん、続いているよ。僕はそう思っている。君は?」
「うん。でも、向こうへ戻ったら、御寮様と召使だ」
 その現実は二人に重くのしかかる。
「僕、薬草を盗ったことを言わなきゃならない。執事さんか家事頭さんに。このことは、君には関係ない。僕が自分で決めてやったことだから。それで、もし、僕がお屋敷を追い出されて乞食になっちゃっても、君は友達でいてくれるんだろ?それならいいよ。」
 ルシャデールはしばらく考えこんでいた。
「トリスタンに言えばいい。ナランやビエンディクじゃなく。トリスタンの方が、判断が甘い」
「そう?」
「うん、きっと大丈夫。なんとかなるよ」
「君の『大丈夫』は……あてにならない」施療所に盗みに入った時のことを思い出してアニスは言った。
「うるさい、男がいつまでもぐちゃぐちゃ言うんじゃない!」
そう言いつつも、ルシャデールは笑っていた。楽しそうに、そしてうれしそうに。それを見ているアニスも幸せな気分だった。
 帰り道は進むのが早い。橋を過ぎ、運河沿いに歩いていく。すぐに灯台が見えてきた。

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