僕の背中には

文字数 2,020文字

 月曜日の駅のホーム。都会はいつでも喧騒に溢れていると思っていたが、上京して案外そうでもないと知った。茹だるような夏の空気がワイシャツ越しに纏わり付き、大勢の活気を奪って行く。数少ないベンチで、老人が我が物顔で眠っていた。
 屋根から覗く朝日が暑い。流れ落ちる汗が睫毛に触れて、僕は鞄を持たない指で掻き出した。

 朧げな視界の先には中年のサラリーマン。ジャケットの背中には『怠』という漢字があった。彼の少し間を開けた隣には若い女性。ワンピースの後ろには『眠』の字が浮かぶ。
 僕には昔からおかしな特徴がある。それは「背中を見ると人の気持ちがわかる」というものだ。じぃっと見つめるとその人の気分が文字になって見えてくる。
 例えばさっきのサラリーマンは気怠く出勤中。ワンピースの女性は寝不足。他にもイヤホンから流れる音楽に揺れる人には『楽』という字が浮かんで、『性』とある人は痴漢でも起こさないかとヒヤヒヤする。

 そして、最前列に立つ一人の女学生の背中に『終』という字が見えた。

「……あ」

 快速電車が通り過ぎる瞬間、少女は屋根の外に飛び出した。耳に残したくない音が線路上で響いて、ホームは絶叫に包まれる。的中してしまった悪寒は全身を駆け巡り、僕はすぐにトイレに向かった。


『ただ今、人身事故の影響により全線で運転を見合わせております。運転再開には時間がかかる見込みです。ご迷惑を――』

 繰り返す放送を耳が覚え始めていた。陰気臭かった月曜日の駅には悪態や怒気を孕んだ声が溢れる。誰も女学生を悼むなんてせず、迷惑だと否定した。追い詰められた人間に同情もしない社会が少女を殺めたのは間違いなかった。

 会社に遅刻の電話を入れかけて、スマホを叩く指が止まる。振動とともに訪れたのは上司の名前。僕は焼けた喉で応えた。

「もしもし」

『おい。今どこだ? どのくらいで着く?』

「えっと、電車が動くまでは何とも」

『お前さ、甘えんなよ。そういう時は気合いでどうかしろ。タクシー使うとかあるよな』

「は、はい」

 舌打ち混じりに「本当お前はグズだな」とありきたりな悪口が飛んで、自分勝手に電話は切れた。
 やっと掴んだ内定。親に上京させて貰ったからには頑張ろうと決めていたが、唯一の同期は二か月で去り、上司のストレスの捌け口は僕だけになった。
 もし自分の背中を見ることができたら、どんな字が浮かんでいるのか。鬱屈した気分を表す字や情けなさを痛感する字。或いは、少女と同じ『終』があるのかもしれない。
 僕はどんな植物よりもがっくりと項垂れていた。

「お兄さん。大丈夫ですか」

 遠慮がちな声が近くで誰かを呼んだ。顔を上げると見知らぬ男性がベンチに座る僕を見ていた。人当たりの良い笑顔の三十代くらいの人だ。

「顔色が悪かったので声をかけてしまいました。もしかしてさっきの事故ですか?」

 男性は僕の隣に腰掛け、親身な態度を取ってくれた。

「私は養護教諭です。だから放っておけなくて。良ければ少しお話しませんか」

 そんな親切をいつ振りに聞いただろう。僕は気づけば近況を語っていた。就職のために上京したこと。今がとても辛く、少女の気持ちがわかること。わかっていたこと。

「僕は人の気持ちが背中に見えるんです。だから余計に神経を使っちゃって」

 聞いてくれる男性に甘えてベラベラと話した。内に秘めていたものを吐き出すのは、すっからかんの胃袋よりもずっと気分が良い。
 男性は危ない人に声をかけたと後悔してこの場を離れると思っていた。しかし彼は立ち去らず、自分なりの解釈を加えて言う。

「共感覚、なんですかね。音を聞いたら色が見えるような。貴方の場合、人の雰囲気が字になって見えるのかも」

 すると男性は懺悔のように沈んだ表情をした。

「羨ましいです。私も貴方みたいだったら、さっきの女の子を……」

 その先は口にしない。同時に僕に話しかけた理由がわかった。彼は同じ後悔をしたくなかったのだ。
 重くなった空気を察して、男性は笑顔を繕って聞いてくる。

「誰の背中を見てもわかるんですか?」

「自分の背中は見えませんよ」

 僕が言うと、それもそうですね、と笑ってくれた。冗談交じりの会話なんて久し振りで、暫く話し込んでいた。

「そろそろ行かないと。貴重なお話をありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 男性は立ち上がった。僕は見送らないで顔を伏せる。彼の優しさが本物だと信じていたかったから。
「あぁ」と何かに気づいたような声が聞こえた。思わず顔を上げたら、男性がこちらを向いている。

「今しがた、私にも見えましたよ。貴方の背中には『(ゾク)』って書いてあります」

 ゾク。男性が言ったことは数秒の後に理解できた。続く、だ。僕の人生は続く価値のあるものなのだろうか。

「お互い、自分を大事にしましょうね」

 見えない優しさが人生の緊張を解してくれた気がした。一人残された僕は、再びかかってきた催促の電話をボタン一つでブチ切った。
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