第三話 池田屋事変(解説付き)

文字数 1,612文字

 元治元年6月5日の夜、京都の長州藩定宿の池田屋に長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王志士たちが集まった。
 新選組に捕縛された古高俊太郎の扱いを論じ合った場には亀弥太とシジミもいた。

 結局、古高の奪還は行わず新選組を待ち伏せ反撃することとなった(*1)。

 その後、亥の刻に池田屋へ近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ほか計10名が到着した。 
 外につながる表口と裏口に3人ずつ配置し、屋内1階に永倉と藤堂、2階に近藤と沖田が突入する。

 「御用改めである。手向かいいたすと容赦なく切り捨てる」

 待ち構えていた尊王志士たちは一斉に新選組に襲いかかる。
 
 沖田は志士を一人切り倒したが、肺結核の発作がおきその場に卒倒。
 藤堂は鉢金をとった額に敵刃を受け出血で視界を失った(*2)。
 永倉も切り合いの際に左手親指の付け根を切られ刀が持てない。
 近藤勇は一人で十数名の志士と対峙していた。

 そのうちの一人が声を上げて近藤に切りかかった。

 その場全員の腹に響く近藤のかん高い気合が轟くと、虎徹が一閃し相手が斃れた(*3)。

 志士一同は恐れおののき、ある者が亀弥太を近藤の前に押し出した。亀弥太は震えあがり身をすくめた。

 「この卑怯者めが」

 近藤が声の方を見るとシジミが、こると輪胴けん銃(*4)を志士たちに向けていた。
 
 その刹那、左手で扇をあおぐように撃鉄を連続して動かして6連射した(*5)。
 近藤が見とれていると銃身を持って銃を二つ折りにして空の輪胴をはずし次の輪胴に取り換え、さらに6連射。
 銃煙が立ち込めるなか、近藤は志士たちの中へ飛び込んで行った。

 「今のうちに亀弥太は長州藩邸へ行け。また会おう」

 シジミはそう言い残すと部屋を飛び出した。



*1 作者設定。実際は、京都焼き討ち画の実行直前に大物古高の捕縛とアジト制圧があって
  不逞浪士たちは大混乱しており、善後策を検討するための会合を池田屋で開くことになっていた、とされる。

*2 藤堂は相手を片付けた後に安心して油断していたとされる。現場の室内がとても暑かったため、鉢金を外したところ、押入れに隠れていた伏兵に斬りつけられた、らしい。

*3 この事変に同道した者が、近藤先生が斬り合っている現場は見ていないがときおり物凄い気合いが聞こえた、と言ったとされる。姿は見えなかったが、先生のカン高いかけ声が自分たちの腹の底へもビンビン響いた、らしい。

*4 作者設定。この時にシジミが使った拳銃はコルトM1851とした。
  「西部を制覇したリボルバー」コルトピースメーカーは池田屋事変の時点ではまだ製造されていないため、使えなかった。また、ピースメーカーは弾を撃ちつくした際のリロードにとても手間と時間がかかる点からも選から落とした。
  とくに全弾発射後に途切れなく再発砲するためにはピースメーカーだと弾込め済の銃を2丁以上携行しないとできないが、それは当時の服装では隠しきれず目立つし、2丁揃えるには高価すぎると思われる。
  金属製カートリッジが使えないコルトM1851は弾丸の弾込めや天候に気を使うが、銃が二つ折り式のため弾込め済の輪胴(シリンダー弾倉)を事前に用意しておけば、輪胴を交換するだけで続けて再発砲できた(このためピースメーカー発売後も長く西部で使われた)。
  なお、桜田門外の変で井伊直弼が襲われた際に用いられたのはこの銃で、ペリーが幕府に献上した銃を水戸藩で複製したものらしい。

*5 かつてのアメリカ西部劇映画では、ガンマンが抜いた拳銃を右手側の腰の前に持ち、左手で素早く撃鉄(ハンマー)を何度も起こしては離す動作を繰り返し連射するのが見られた。
  この早撃ち方法が扇(ファン)を速くあおぐように見えたためファンニングと呼ばれた。
  また、当時は黒色火薬が用いられたため銃を撃つと周りが煙で覆われ何も見えず、煙が晴れるのを待つか地面に伏せて打ち続けたと言われている。

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