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 僕は綾美が祖師ヶ谷大蔵に到着するまでの間、浮足立った気分でパソコンのワードを閉じ、インターネットの下らない動画を見ていた。本当なら大みそかのこういう時間は、元日に食べるおせち料理の支度をするのが一番なのかも知れない。だがおせち料理は白だしの雑煮と蒲鉾、それに数の子とハムが少しと言う簡素な物にしていたから特別な準備は必要ないし、すす払いはもう終わらせてしまった。だから非生産的な事をして午後を過ごすというのがここ二年程大みそかの定番の過ごし方になっていたのだ。
 ネットの動画鑑賞にも飽きて、音楽でも聴こうかと思っていると、スマートフォンが再びメールの着信を知らせた。確認すると綾美が祖師谷大蔵にもうすぐ着くという内容のメールだった。僕は迎えに行くという返信を送り、ハンガーに掛けてあるジャケットを羽織って祖師谷大蔵の駅に向かった。
 駅に向かう商店街の様子は、それまで住んでいた板橋の大山の年末と大差が無かった。年を越すのに必要な荷物を持った人々が行き交い、どこかに用意されたスピーカーからは安物シンセサイザーで演奏したベートーベンの第九が流れている。外灯には『謹賀新年』の垂れ幕が掛けられ、商店の入り口のドアには『迎春』や『賀正』などと書かれた張り紙が張られている。この街に住んで来年で二年目。初めは知らない土地で迎える新年は戸惑いがあったが、今はもうなかった。
 慌ただしく行き交う人々達の間を縫って駅に着くと、改札近くのドトールコーヒー前に佇む、ダウンコートに濃紺のジーンズという格好で、すこし俯いた表情の綾美が見えた。
 僕は綾美に近づいて、「やあ」と声を掛けた。すると僕の声に反応して綾美が僕を見つけると、綾美は少し表情を明るくして小走り僕の元に近づいてきた。
「久しぶり。突然押しかけたりしてごめんね」
「別に気にしないで。俺も今日はする事が無かったから」
 僕はそう答えて、綾美と共に自分の部屋へと向かった。綾美にとって祖師谷大蔵の街は初めての筈だ。近くの下北沢には何回か来たことがあるというのは話に何回か聞いていたが、この街はどう映るだろうか。会った時には明るかった表情も、もうしなびて輝きが消えている。
「良い所に住んでいるね」
 綾美は商店街を進みながら、僕にそう声を掛けた。久々に来た東京の空気と光景は綾美にとってどうだろうか。なにか負担になるような要素や対象物が無ければいいのだが。
「ありがとう。住んでいる所をほめてくれると嬉しいよ」
「英司も私の住んでいる所をほめてくれたから」
 僕はその綾美の言葉への返事を言うことが出来なかった。
 僕と綾美はそのまま商店街を抜けて、商店街から住宅街に少し入った所にある公園のところまで来た。そこから小さな道を入った所にある、それなりに新しいワンルームマンションが僕の部屋だった。
 僕は綾美を部屋に招いた。そしてキッチンに立ち、お湯を沸かしてドリップコーヒーのパックとマグカップを二つ用意した。そして冷蔵庫からカナダ産のメープルシロップを取り出して、綾美にこう言った。
「飲み物はメープルシロップ入りのコーヒーで良いよね?」
「いいわ。ありがとう」
「東秩父村で君に教わったからね」
 僕はそう答えた。コーヒーのドリップパックを開けてカップにセットし、熱くなったお湯を注ぐ。香ばしさの中に仄かな甘みを含んだ香りが広がり、落ち着いた空気が部屋に満ちて行く。お湯を注ぎ終えてドリップパックを外し、コーヒーの中にティースプーン一杯分のメープルシロップを注いだ。それを僕は手に取り、綾美の元へと運んだ。
「ありがとう。頂きます」
 綾美は小さく礼を言った。
 僕と綾美はコーヒーのカップを手に持ち、お互い向き合った。お互いに何を話そうか考えていなかったから、妙に落ち着き払った時間が僕と綾美の間に流れていた。
「ここに来た理由は、何かあるの?」
 僕は単刀直入に綾美に訊いた。僕の中にある綾美のイメージは僕よりも精神的に成熟した同い年の人間。そんな彼女が突然東京に来るのだから、何か理由がある筈なのだ。
「一人で新年を迎えたくなかったから。知らない人の顔もなしに過ごす夜が怖くて」
 僕は答えられなかった。僕と綾美が離れていた間、彼女に何があったのだろうか。再会したのは数か月前だが。それ以上に七年の時間が僕と綾美を隔てている。その隔てられた時間は過去の物に出来ても、埋め合わせる事は出来ない。
「この前僕に会って、また会いたいと思ったの?」
「そう。ごめんなさい、自分勝手で」
 綾美は俯いた表情のままそう詫びた。でも僕はその言葉をすんなり受け入れることが出来た。彼女の事は好きだったし、今の彼女を拒絶したら自分がこの世に存在してはならない人間になってしまうような気がした。
「謝らなくていいよ。僕も一人なのか恵まれているのか分からない人間だから」
 僕はそう答えた。そして意味もなく見慣れた自分の部屋を見回し、話題を変える目的でこう言った。
「今日は、泊っていくのかい?」
 綾美に僕は質問した。この時間から東秩父に戻るのは、車でもないと無理だし年を跨いでしまう。
「英司が迷惑でなければ。いいの?」
「いいよ」
 僕は即答した。そしてこう続ける。
「夜の九時から、地元のBarで仲のいい人達と集まるんだけれど、良かったら来るかい?」
 僕が綾美にそう提案すると、綾美は再び笑顔を取り戻してこう聞き返してきた。
「私みたいな根暗な女が行ってもいいの?」
「これからLINEのグループに連絡して、許可がもらえればね。同世代の人間が増えるのは歓迎されるよ」
 僕は答えた。
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