第26話 レット・イット・ビー
文字数 4,059文字
十二月二十二日 月曜日
渋谷は坂の街である。小劇場ジャンジャンの手前を入って一本細い道に出ると、道路より窓の方が低い薄暗い喫茶店がある。
階段を下りると、ビートルズの『カム・トゥゲザー』が聞こえた。窓から一番遠い席に、桑田の巨体を見つけた。
「生死に関わる用って何だ。怪我の補償はしないぜ、先輩」
待ち合わせの相手は揃っていなかったが、大男の斜向かいに座った。木のテーブルの上にはホットミルクがあった。これほどコーヒー豆が香る店で、こんなものを注文するとは信じ難い。
「お陰でギプスはとれた。生きるか死ぬかというのはお前の事だ」
「仕返しでもするつもりか」
「暴力はもうやってない」
「笑わせるぜ。サファイアの彼氏の肋骨折ったのも、そう大昔じゃねえ筈だがな」
曲が『サムシング』に変わる。香り立つキリマンジャロが届く。大男は、俺用のミルクを自分のカップに入れてかき混ぜる。
「マナの脅迫犯は見つかったのか」
「そんな話で俺を呼んだのか!」
桑田はカップを置いて怒鳴った。
「早く本題を話せ、俺は忙しいんだ」
たまらぬ乳の匂いに閉口しながら、待ち人はまだかと入口を見た。
「これが本題だよ」
「なに?」
「脅迫犯だ。俺が見つけた」
細い目がこちらを一瞬だけ睨み付けると宙に浮いて、視線が動いた側から桑田の顔に影が掛かった。大男は言葉を失った。
テーブルの横に、若い男女が暗い顔をして立っていた。後から来たウエイトレスが、座ろうとしない二人の客に戸惑っている。
「ここに座れよ、クミ。それと…」
「岩井です‥」ひょろ長い青年が言った。
テーブルに膝をぶつけて、桑田が立ち上がる。
「いったい、何の真似だ!」
「彼の肋骨を折っただなんて、どうして知ってるんだ、ん?」
「俺をはめる気だな」
「座れ。ゆっくり話を聞いてやる」
「何をだ?やったのは全部こいつらじゃねえか!」
「なに?今何て言った」
大きな失言に気付き、桑田は唇を噛んだ。
その隣りを岩井青年が挟む。クミは俺の横に並んだ。昨日観た映画とは違う栗色のショートヘアが大人びている。
「脅迫犯が誰か、よく知ってるようだな、探偵さん」
岩井を押し退けて、桑田が席から飛び出す。
出口で正面衝突したのは、三人連れの背の高い男たちだった。先頭には嶋チーフマネージャーの顔がある。
「おう、桑田。お前も呼ばれたのか」
嶋が言う。すぐに店内の顔ぶれに気付く。
「何の集まりだ。これはいったい…」
「ご苦労さんです、嶋さん」
BGMは違っていたが、俺は言った。
「レット・イット・ビー」
ビートルズ『アビイ・ロード』B面は、ポールの『ユー・ネヴァ・ギヴ・ミー・ユア・マネー』から始まる十六分のメドレーで構成されている。この店のマスターがビートルズ・マニアなのは、店内あちこちの壁に飾った輸入盤・海賊盤のジャケットから窺える。
「上っていくマナが憎かったって言うのか。マナのデビュー前は、仲良く遊び回ってたじゃないか」
クミと岩井はうつむいたままだった。嶋の声だけが、ビートルズをバックにして店内に響きわたった。
昨日、ポルノ劇場から飛び出した俺は、すぐに事務所でクミの住所を聞いた。練馬の小さなアパートで、同棲中のクミと岩井を程なく見つけた。
彼らは俺の恐さを知っている。じきに全てを白状した。
裸になってでも芸能界にすがりたいクミにとって、上り坂のマナが妬みを通り越して憎悪の対象となったのは想像に難くない。
「あの性悪娘がどうして?」自分が落ちれば落ちるほどそう感じる。ならば足を引っ張り合うのが芸能界だ。一緒に遊んだ頃、ネタはいくつか仕入れていた。だが、マナを奈落へ落とすには足りなかった。
「あの写真を送ったのもお前らか?」
力なく岩井がうなづいた。
「しかしあれは死んだ村木が持ってたんじゃ‥そうだろ?」
嶋に確認を求められた桑田は、その巨体をひと回り小さくして顔色を変えた。嶋はやっと、桑田がかしこまってこの場にいる理由を飲み込んだ。
俺も危うくクミの罠に嵌まるところであった。十八歳の肌は、坂道を転げ落ちていくアイドルがマナに、そしてオノプロに復讐するための周到な準備だった。
俺が乗り逃げしたためにクミは桑田に迫った。愚かな大男は見事に嵌まり、若い娘の甘い蜜を吸うかわりに、自分の持つ情報を吸い上げられた。
「マナを一思いに殺せるすごい写真があるって、桑田から聞いたの」
村木にとって甘美な想い出の証しである写真たちを、桑田は家捜しで見つけた。クミと岩井はこの決定的な武器を手に入れるため、大男相手に美人局まがいの強請をかけた。
「シャワーの間に服を隠して、出て来たところに僕がいるんです。裸で泣いてるクミを抱き締めながら警察に電話する真似したら、あいつバスタオルひとつでうろたえちゃって、何でも言う事聞くから服を出せって」
「商品に手は出すは、秘密は外に流すは、バレたら業界追放間違いなしでしょ。あの図体でママが余程恐いらしくって、桑田のやつ渋々ネガを差し出したわ」
この時より、桑田は二人と共犯関係同然となった。クミたちが週刊誌へ写真を送った事を知ると、自分に火の粉がかからぬよう、すぐに写真とネガを村木の部屋へ返した。それを俺は発見した。
海外へ出ていたのも写真事件と無関係と見せるため。途中で帰って来て、村木に罪を押しつけたのも作戦のうちだろう。核心を掴もうとする俺を妨げたのもこれで理解できる。
「でっち上げだ!こいつら口からでまかせを」
桑田が叫んだ声は店中に響いた。他の客たちにとって異様な団体は、先程より気になって仕方がない存在である。
「証拠があります」岩井が小型テレコを出す。
「ズルい奴が逃げないようにと思って」
テープが回り出した。
「前に言ってたマナの写真をちょうだい」
「ダメだ。どうしようって言うんだよ」
「目的は関係ないでしょう。要はあなたがここから無事出て行きたいのかどうかです。写真を渡す約束をして下さい」
「あれはママにも見せていない写真だ。マナがビッグになったら週刊誌に高く売れる。簡単には出せねえよ」
「じゃあ、婦女暴行で警察へ行って下さい。それか、その格好で家まで帰るかです」
「‥わかった、やるよ、やるから早く服を出してくれ」
「約束よ。ここに書いて。マナのセックス写真渡しますって」
「ちくしょう、なめやがって。覚えてろよ」
テーブルに一枚の便箋が乗った。
「てめえ、ぶっ殺してやる!」
突然桑田は、斜め向かいに座った岩井に殴りかかった。嶋と一緒に来た若い男たち二人が、すぐに桑田の両肘を掴んで制した。
桑田の鉄拳は岩井の鼻前をかすったが、その次の瞬間、桑田の鼻の真中には俺の右の拳がはまっていた。
鼻から血混じりのミルクを流して、桑田はその場に伸びた。
「顔だけは守れって教えただろうが‥」
ビートルズのメドレーはいつの間にか終わっていた。
六畳二間風呂付き八万円のアパートで、一部始終をしゃべった後、クミはこう言った。
「中途半端なアイドルが、どんなにみじめか知ってる?めったにアップでなんか映らなくって、水泳大会じゃ画面下の丸の中で歌わされたり、誰も聞いてないデパートの屋上で営業やったりしてさ。恥ずかしい変な歌うたってもピンクみたいに売れればいいけど、売れなきゃ単なるバカよ。それでお手軽な女と思って、タレントやプロデューサーは口説いてくるし」
アイドルと呼ばれた少女たちの多くは、その時代を振り返るのを嫌う。売れた売れなかったではなく、祭りのあとに襲う苛酷な運命が、思い出をネガティブに変えてしまう。
「ポルノなんか出ちゃって、初めて雑誌の取材とか受けて、ちょっといい気分になったわ。で、帰ってテレビつけたら、そこでマナが笑ってたのよ」
『ベストテン』でマナが歌う。サファイアは一度も出られなかった番組だ。
「マナと私のどこが違うの。両親を恨むよ、どうしてマナみたいに産んでくれなかったのって…」
竹の子族が大勢並ぶ写真の中、子狐のようなクミの細い顔は、群を抜いて光っている。あと二年デビューが遅ければ、ピンクレディーのイミテーションにはならなかっただろう。スターになるのは無理でも、もう少し注目を受けていたかも知れない。
しゃべりながらクミは、しきりに自分の腹を撫でた。岩井が寄り添い、いたわりを見せた。
「きっぱり足を洗って、普通のおかあちゃんになれ」
この世界に長く住めば傷だらけになる。ポルノに出た娘がごく普通の主婦になるのも苦難の道だろう。
デビュー当時のステージ衣裳が壁にぶら下がっている。ピンクのラメが物語るのは、スポットライトへの未練と、過去との落差。今の突き出た腹ではきっと着るのは無理だろう。
「俺たち、警察に捕まるんですか」
「脅迫罪というのがあるが、ママが訴えなければ犯罪があった事にもならない」
面倒な事は極端に嫌いな人だ。警察やマスコミに渡す事などあり得ない。そう言ってやった。
「よかったな、クミ」
俺の機嫌の虫が急に短気を甦らせた。
「何がよかったって?」
立ち上がった俺を見て、クミと岩井は身を硬くした。
「いいものか。お前らのおかげで人生狂った奴らをどうしてくれる。マナだけじゃないんだ」
この一ヵ月間で失ったもの。そして、村木の部屋の血の匂いを思い出した。
「お前らは人を殺したも同然だ」
腹の虫が治まらなかった。何を怒鳴り散らしたか憶えていない。二人は何も言えず、からだを寄せて震えていた。
我に帰った俺は紙とペンをクミに借りると、何行か走り書きして岩井に渡した。
「事務所に電話して、この通りにしゃべれ」
ビートルズのラスト・シングルの曲名を紙の最後に書き入れた。
「これを合い言葉と言え。お前らの運命の事だ」
「レット・イット・ビー?」
なるようになれ。あとは聖母マリア様のなされるがままだ。
岩井が、暗記しているオノプロの番号を回し始めた。
本日十二月二十二日付けオリコン一位は、近藤真彦の『スニーカーぶるーす』。
『ゆれる想い』は三週連続一位ならず、四位に転落した。
渋谷は坂の街である。小劇場ジャンジャンの手前を入って一本細い道に出ると、道路より窓の方が低い薄暗い喫茶店がある。
階段を下りると、ビートルズの『カム・トゥゲザー』が聞こえた。窓から一番遠い席に、桑田の巨体を見つけた。
「生死に関わる用って何だ。怪我の補償はしないぜ、先輩」
待ち合わせの相手は揃っていなかったが、大男の斜向かいに座った。木のテーブルの上にはホットミルクがあった。これほどコーヒー豆が香る店で、こんなものを注文するとは信じ難い。
「お陰でギプスはとれた。生きるか死ぬかというのはお前の事だ」
「仕返しでもするつもりか」
「暴力はもうやってない」
「笑わせるぜ。サファイアの彼氏の肋骨折ったのも、そう大昔じゃねえ筈だがな」
曲が『サムシング』に変わる。香り立つキリマンジャロが届く。大男は、俺用のミルクを自分のカップに入れてかき混ぜる。
「マナの脅迫犯は見つかったのか」
「そんな話で俺を呼んだのか!」
桑田はカップを置いて怒鳴った。
「早く本題を話せ、俺は忙しいんだ」
たまらぬ乳の匂いに閉口しながら、待ち人はまだかと入口を見た。
「これが本題だよ」
「なに?」
「脅迫犯だ。俺が見つけた」
細い目がこちらを一瞬だけ睨み付けると宙に浮いて、視線が動いた側から桑田の顔に影が掛かった。大男は言葉を失った。
テーブルの横に、若い男女が暗い顔をして立っていた。後から来たウエイトレスが、座ろうとしない二人の客に戸惑っている。
「ここに座れよ、クミ。それと…」
「岩井です‥」ひょろ長い青年が言った。
テーブルに膝をぶつけて、桑田が立ち上がる。
「いったい、何の真似だ!」
「彼の肋骨を折っただなんて、どうして知ってるんだ、ん?」
「俺をはめる気だな」
「座れ。ゆっくり話を聞いてやる」
「何をだ?やったのは全部こいつらじゃねえか!」
「なに?今何て言った」
大きな失言に気付き、桑田は唇を噛んだ。
その隣りを岩井青年が挟む。クミは俺の横に並んだ。昨日観た映画とは違う栗色のショートヘアが大人びている。
「脅迫犯が誰か、よく知ってるようだな、探偵さん」
岩井を押し退けて、桑田が席から飛び出す。
出口で正面衝突したのは、三人連れの背の高い男たちだった。先頭には嶋チーフマネージャーの顔がある。
「おう、桑田。お前も呼ばれたのか」
嶋が言う。すぐに店内の顔ぶれに気付く。
「何の集まりだ。これはいったい…」
「ご苦労さんです、嶋さん」
BGMは違っていたが、俺は言った。
「レット・イット・ビー」
ビートルズ『アビイ・ロード』B面は、ポールの『ユー・ネヴァ・ギヴ・ミー・ユア・マネー』から始まる十六分のメドレーで構成されている。この店のマスターがビートルズ・マニアなのは、店内あちこちの壁に飾った輸入盤・海賊盤のジャケットから窺える。
「上っていくマナが憎かったって言うのか。マナのデビュー前は、仲良く遊び回ってたじゃないか」
クミと岩井はうつむいたままだった。嶋の声だけが、ビートルズをバックにして店内に響きわたった。
昨日、ポルノ劇場から飛び出した俺は、すぐに事務所でクミの住所を聞いた。練馬の小さなアパートで、同棲中のクミと岩井を程なく見つけた。
彼らは俺の恐さを知っている。じきに全てを白状した。
裸になってでも芸能界にすがりたいクミにとって、上り坂のマナが妬みを通り越して憎悪の対象となったのは想像に難くない。
「あの性悪娘がどうして?」自分が落ちれば落ちるほどそう感じる。ならば足を引っ張り合うのが芸能界だ。一緒に遊んだ頃、ネタはいくつか仕入れていた。だが、マナを奈落へ落とすには足りなかった。
「あの写真を送ったのもお前らか?」
力なく岩井がうなづいた。
「しかしあれは死んだ村木が持ってたんじゃ‥そうだろ?」
嶋に確認を求められた桑田は、その巨体をひと回り小さくして顔色を変えた。嶋はやっと、桑田がかしこまってこの場にいる理由を飲み込んだ。
俺も危うくクミの罠に嵌まるところであった。十八歳の肌は、坂道を転げ落ちていくアイドルがマナに、そしてオノプロに復讐するための周到な準備だった。
俺が乗り逃げしたためにクミは桑田に迫った。愚かな大男は見事に嵌まり、若い娘の甘い蜜を吸うかわりに、自分の持つ情報を吸い上げられた。
「マナを一思いに殺せるすごい写真があるって、桑田から聞いたの」
村木にとって甘美な想い出の証しである写真たちを、桑田は家捜しで見つけた。クミと岩井はこの決定的な武器を手に入れるため、大男相手に美人局まがいの強請をかけた。
「シャワーの間に服を隠して、出て来たところに僕がいるんです。裸で泣いてるクミを抱き締めながら警察に電話する真似したら、あいつバスタオルひとつでうろたえちゃって、何でも言う事聞くから服を出せって」
「商品に手は出すは、秘密は外に流すは、バレたら業界追放間違いなしでしょ。あの図体でママが余程恐いらしくって、桑田のやつ渋々ネガを差し出したわ」
この時より、桑田は二人と共犯関係同然となった。クミたちが週刊誌へ写真を送った事を知ると、自分に火の粉がかからぬよう、すぐに写真とネガを村木の部屋へ返した。それを俺は発見した。
海外へ出ていたのも写真事件と無関係と見せるため。途中で帰って来て、村木に罪を押しつけたのも作戦のうちだろう。核心を掴もうとする俺を妨げたのもこれで理解できる。
「でっち上げだ!こいつら口からでまかせを」
桑田が叫んだ声は店中に響いた。他の客たちにとって異様な団体は、先程より気になって仕方がない存在である。
「証拠があります」岩井が小型テレコを出す。
「ズルい奴が逃げないようにと思って」
テープが回り出した。
「前に言ってたマナの写真をちょうだい」
「ダメだ。どうしようって言うんだよ」
「目的は関係ないでしょう。要はあなたがここから無事出て行きたいのかどうかです。写真を渡す約束をして下さい」
「あれはママにも見せていない写真だ。マナがビッグになったら週刊誌に高く売れる。簡単には出せねえよ」
「じゃあ、婦女暴行で警察へ行って下さい。それか、その格好で家まで帰るかです」
「‥わかった、やるよ、やるから早く服を出してくれ」
「約束よ。ここに書いて。マナのセックス写真渡しますって」
「ちくしょう、なめやがって。覚えてろよ」
テーブルに一枚の便箋が乗った。
「てめえ、ぶっ殺してやる!」
突然桑田は、斜め向かいに座った岩井に殴りかかった。嶋と一緒に来た若い男たち二人が、すぐに桑田の両肘を掴んで制した。
桑田の鉄拳は岩井の鼻前をかすったが、その次の瞬間、桑田の鼻の真中には俺の右の拳がはまっていた。
鼻から血混じりのミルクを流して、桑田はその場に伸びた。
「顔だけは守れって教えただろうが‥」
ビートルズのメドレーはいつの間にか終わっていた。
六畳二間風呂付き八万円のアパートで、一部始終をしゃべった後、クミはこう言った。
「中途半端なアイドルが、どんなにみじめか知ってる?めったにアップでなんか映らなくって、水泳大会じゃ画面下の丸の中で歌わされたり、誰も聞いてないデパートの屋上で営業やったりしてさ。恥ずかしい変な歌うたってもピンクみたいに売れればいいけど、売れなきゃ単なるバカよ。それでお手軽な女と思って、タレントやプロデューサーは口説いてくるし」
アイドルと呼ばれた少女たちの多くは、その時代を振り返るのを嫌う。売れた売れなかったではなく、祭りのあとに襲う苛酷な運命が、思い出をネガティブに変えてしまう。
「ポルノなんか出ちゃって、初めて雑誌の取材とか受けて、ちょっといい気分になったわ。で、帰ってテレビつけたら、そこでマナが笑ってたのよ」
『ベストテン』でマナが歌う。サファイアは一度も出られなかった番組だ。
「マナと私のどこが違うの。両親を恨むよ、どうしてマナみたいに産んでくれなかったのって…」
竹の子族が大勢並ぶ写真の中、子狐のようなクミの細い顔は、群を抜いて光っている。あと二年デビューが遅ければ、ピンクレディーのイミテーションにはならなかっただろう。スターになるのは無理でも、もう少し注目を受けていたかも知れない。
しゃべりながらクミは、しきりに自分の腹を撫でた。岩井が寄り添い、いたわりを見せた。
「きっぱり足を洗って、普通のおかあちゃんになれ」
この世界に長く住めば傷だらけになる。ポルノに出た娘がごく普通の主婦になるのも苦難の道だろう。
デビュー当時のステージ衣裳が壁にぶら下がっている。ピンクのラメが物語るのは、スポットライトへの未練と、過去との落差。今の突き出た腹ではきっと着るのは無理だろう。
「俺たち、警察に捕まるんですか」
「脅迫罪というのがあるが、ママが訴えなければ犯罪があった事にもならない」
面倒な事は極端に嫌いな人だ。警察やマスコミに渡す事などあり得ない。そう言ってやった。
「よかったな、クミ」
俺の機嫌の虫が急に短気を甦らせた。
「何がよかったって?」
立ち上がった俺を見て、クミと岩井は身を硬くした。
「いいものか。お前らのおかげで人生狂った奴らをどうしてくれる。マナだけじゃないんだ」
この一ヵ月間で失ったもの。そして、村木の部屋の血の匂いを思い出した。
「お前らは人を殺したも同然だ」
腹の虫が治まらなかった。何を怒鳴り散らしたか憶えていない。二人は何も言えず、からだを寄せて震えていた。
我に帰った俺は紙とペンをクミに借りると、何行か走り書きして岩井に渡した。
「事務所に電話して、この通りにしゃべれ」
ビートルズのラスト・シングルの曲名を紙の最後に書き入れた。
「これを合い言葉と言え。お前らの運命の事だ」
「レット・イット・ビー?」
なるようになれ。あとは聖母マリア様のなされるがままだ。
岩井が、暗記しているオノプロの番号を回し始めた。
本日十二月二十二日付けオリコン一位は、近藤真彦の『スニーカーぶるーす』。
『ゆれる想い』は三週連続一位ならず、四位に転落した。