八 湯屋の三吉

文字数 2,632文字

 神無月(十月)十日。夕七ツ半(午後五時)。
「お帰りなさいませ。お早いお帰りで。お小夜さんがお待ちです。
 夕餉をお持ちしますんで」
 石田屋の玄関の取次の間で、手代富吉が笑顔で石田を迎えた。

 声を聞きつけ、取次の間に主の幸右衛門が出てきた。
「御上のお墨付きを頂いてきました。昨日朝の話の続きです・・・」
 石田は、小夜が語った清太郎一味の賭場襲撃を幸右衛門に話した。
「花代は明日取り立てます。
 清太郎が捕縛されれば、親である呉服問屋山科屋清兵衛も咎めを受けます。
 山科屋が取り潰される前に手を打ちます」

「承知しました。
 小夜さんに、明日と明後日も仕事を休むようお伝えください。
 私からお二人にいつものお礼です」
「あいすみません。有り難く申し出をお受け致します」
「早う、やや、を見たいものです」
「承りました・・・」
 そう言った後で石田は顔を赤くした。


 我ながら妙な返答をしたものだ・・・。そう思いながら、石田は小夜の部屋へ戻った。
「お帰りなさい。一風呂浴びてくださいな。夕餉はその後で・・・」
 そう言う小夜を石田は抱きしめた。愛しい小夜さん・・・。
 小夜も石田を抱きしめた。
「何か良い事がありましたか」
 小夜が顔を離して石田を見つめた。いつもと違う笑顔の石田に、小夜がそう言った。
「この顔がいつもと違っていますか」
「はい。いつもより笑顔ですよ」
「今、そこで幸右衛門さんと会いました。
 明日と明後日も休みにするようにとの事でした」
「まあ、それなら私も笑顔になりますなあ。
 ところで、旦那様。私から耳寄りの話があります。
 清太郎一味が襲う賭場は小梅の水戸徳川家下屋敷の賭場です。
 期日は今月二十二日との事。
 詳しい事とて有りませぬが、続きは湯から戻ったら話します。
 湯へいってらっしゃいな」
 小夜は腕を解いて石田に手拭いを渡した。
「分かりました。行ってきます」
 石田は小夜に見送られ、部屋を出た。


 湯屋に入ると風呂番の三吉が石田に挨拶した。
「ご苦労さん。石田の旦那」
 石田より歳上と思われる三吉は、石田が幸右衛門お抱えの始末屋だと知っている。そればかりか、名字が石田屋と同じ石田を幸右衛門の親戚で身内だと思っている。その事は石田にとって好都合だった。三吉が石田の背中を流しても、客ではない石田は祝儀の一朱(二百五十文)を渡す必要は無いからだ。

 三吉が石田の背中を流しながら言った。
「旦那。また、仕事かい」
「はい、仕事です」

 三吉が小声になった。
「つかぬ事を耳にした。近いうちに、客が三人で水戸家下屋敷の賭場を襲うそうだ」
 水戸家は水戸徳川家のことだ。
「此度の不始末をしでかした者たちですか」
「へい。さようで」
「日取りはいつですか」
「今月の二十二日の夜に、三人で賭場を襲うそうで」
 今日は神無月(十月)十日だ。商家の締め日は二十日が多い。締め日後は、商家の主や大番頭も、無頼漢(ごろつき)を用心棒に雇って賭場に来る。清太郎一味はこの折を狙っている。

「得物は何か」
「鑿の柄の桂を指に填めた拳とのことで」
 鑿の柄の桂は、鑿の柄の先端にある金輪のことだ。『下がり輪』とも呼ばれる。

「よく知らせてくれました。取っておいて下さい」
 石田は髷(まげ)の結いの間から一分(四朱、一千文)を取りだして、三吉に渡した。
「めっそうもねえです。こんな大金をいただくわけにはゆかねえ。主に叱られる」
(一両は四分で、十六朱、四千文である。現代に換算すると一両が二十万円前後と言われる時代であるから、一分は五万円ほどか)

「年に一度、有るか無いかの私と小夜からの礼です。一年分と思って受け取って下さい」
「そこまで言うんなら、ありがたくちょうだいします。
 御内儀さんにはいつも優しく声をかけてもらって、感謝してます。
 あっしでできることがあれば、何でも言いつけてくだせえ。
 御内儀さんにも、そうお伝えくだせえ」
 三吉はそう言って頭を下げた。今や、三吉のみならず石田屋の奉公人にとって、石田と小夜の夫婦は幸右衛門の身内だ。

「さて、もう一度、湯に浸かって上がります。いろいろ忝うございました」
「はい。御内儀さんに、祝儀をありがとう、と伝えてくだせえ」
「分かりました」
 石田は熱い湯に浸かって上がり湯を浴び、三吉に挨拶して湯屋を出た


 部屋に戻ると、石田と小夜の夕餉の膳が整っていた。
「風呂で三吉が、
『二十二日に、清太郎たちが水戸家下屋敷の賭場を襲う』
 と話してくれました」
 石田は濡れた手拭いを手拭い掛けにかけながら、小夜にそう話した。
「あら、私も三吉さんからその事を聞いたから、旦那様に話そうと思ってた。三吉さんから聞けたなら話さなくていいね」
 小夜はそう言い、石田が夕餉の膳に着くと石田の盃に酒を注いだ。

「三吉に日頃世話になっている事も兼ねて、一年分の礼だ、と一分を渡しておきました」
「あら私も話を聞いた折、三吉さんに一朱を渡しました。三吉さんは商売じょうずだこと」
 小夜はクスクス笑っている。
 石田は小夜から銚子を受けとり、小夜の盃に酒を注いだ。
「三吉は何かと小夜さんの助けになってくれるだろう」
「はあい」
 石田は小夜とともに盃の酒を飲み干した。

「湯に行く前に、何か良い事があったか、と聞いたのは、何故ですか」
 石田は小夜の盃に酒を注ぎ、己の盃にも酒を注いでいる。
「はい。いつもより、顔がほころんでいたような気がしたの。
 明日と明後日の休みの他に、良い事がおありでしたか」
「ここに戻った折、幸右衛門さんが、早くややの顔を見たい、と話しておった・・・」
「まあ、それなら私も笑顔になりますなあ。
 そしたら、今宵だけでなく、もっとたくさん抱いて下さいね」
 そう言った小夜の顔か赤くなった。
「分かりました。奥様」
「はあい。お酒を飲んで御飯にしますか」
「そうだな。早く褥に入るか」
「はあい。私、うれしいっ」
 小夜は石田の盃に酒を注いだ。

 石田は幸右衛門の言葉、『早う、やや、を見たいものです』が気になった。
 私たちの子を待ち望むより、なぜ、己たちの子を持たぬのか・・・。
「小夜さん。なぜ、幸右衛門さんに、子が居らぬのですか」
「はい。二人とも子ができぬ体質、と見世の者がこっそり教えてくれました。
 それで、家系を溯って、見世を任せられる身内を探していると・・・」
 小夜はそれ以上話さなかった。
 石田は、幸右衛門が石田と小夜の祝言を挙げてくれた事と、専属の始末屋になって、ゆくゆくはこの見世の警護もお願いしたい、と話した事を納得した。
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