文字数 21,319文字

==第1話==
 人という種が誕生してからずっと、
多くの人々は畑を耕して、作物を育て
それを食べて暮らしてきた。
 しかし今や、両側の道には雑草が生い茂り
流れる水は汚れ、小麦も芋も取れない
汚れて、実りのない大地が続いている。
 ここは、18世紀の半ばの大英帝国。

 陽もまだ上がりきらない午前浅く、一人の青年が
一人の少女を抱え込みゆっくりと歩く。
青年はよわよわしく息をする少女を心配して、
自分を励ますように声をかけ続けていた。
「がんばれ、グレイス。」
「がんばれ、グレイス。」

 農村から都市部へ働きに来た彼らの親の世代は
過酷な労働環境で死に、残された彼らは
スリや泥棒、殺人をも犯していた。

 工場の下水の流れこむ劣悪な環境の
川とは名ばかりのゴミだめで暮らす彼らには
希望などない。
 工場の吐き出す灰色の煙と、悪臭の漂う
糞尿の流れこむ場所、そこが彼らのすべてだ。

 普段どおり、スリや置き引きで稼いでいる彼らは
身なりのいい紳士から金貨の多く詰まっているであろう
革袋を手に入れた。そこには山のような宝石が入っていた。
窃盗団としても宝石を金には変えたかったが
これだけ大量の宝石では足がつくだろうことくらい
子供でも分かる。
頭領は無造作に宝石の入った革袋を倉庫に放り込むと
酒を飲んで寝込んでしまった。

 彼、ライアン・マグレガーの妹は半年くらい前から
体調を崩している。原因は分からないが
唯一の肉親が死んでしまうのではないかと苦しんでいた、
それに盗賊ギルドのみんなも心配していた。
犯罪者の集団ではあるが、彼らは極悪人の集団などではなく
道徳的な意味では、善良なる者たち、であろう。

 社会の構造が彼らから住む場所を奪い、工場は畑を奪い去った。
当然、彼らが医者にかかることなどなく、乞食同然の彼らに
ライアンの妹を助ける手段はなかった。
窃盗団の頭領も、宝石は換金できないとあきらめ
ゴミのように放置されていた。

 ライアンはこんな生活から抜け出したかった。
自分は無理でも、せめて妹にはまともな生活を送ってほしい。
窃盗団で宝石を持ち出しても誰も怒らないだろうし、
このチャンスに、妹を腕のいい医者に診せてやりたかった。
だが、代金が大量の宝石では怪しまれる。
だから、闇の医者を探し求めていた。

 宝石は英語で「ジュエル」、ユダヤ人の扱うものだ。
宝石の換金とともに、医者を探していることを
聞いて回ると、ある場所に行くように言われた。
 
彼らには不似合いな高級住宅街の一角を歩いていた。
朝早く、夜明け前ということもあって、見咎めらる事はない。

 10月のマンチェスターは夜明け前ということもあって
凍えるような寒さだ。ライアンの着ている穴だらけの
薄いシャツとボロボロの半ズボンで耐えるには
かなりの忍耐を要する。

 薄いぼろ布に包まれた病弱で顔が土色の妹が心配だ。
死んでしまうのではないかと思える。

 自分たちの住んでいる汚泥と糞尿にまみれた街と
ここはなぜこんなにも違うのだろう。
日曜日の教会で、憎きブルジョアと叫ぶ
神父の言葉が身に凍みる。

 それから、15分ほど歩き続けると、目的の場所が見えてきた。
これだけの宝石があれば、ずっと暮らしていけるだろう。
闇医者といえど鬼ではないのだ。
 これだけの報酬を払えば大丈夫。
そう思い決意を固め叫んだ。そして、
根拠のない言い訳を心の中で呟きながら
ドアを強くノックした。

 妹を置いていくのは心苦しいが、盗賊団にとって価値はなく
捨て置かれた宝石とはいえ、無断で持ち出したのだ、
掟に従い、過酷な制裁が待っているだろう。
それがルールというものだ。
たとえ犯罪組織であっても。

 「夜分すみません、開けてください、ドアを開けてください。」
ライアンの声は静まり返った朝の空気に響いた。

 アデルは早朝、外で物音がするような気がして起きた。
寒さで乾燥した空気が絡みつき、喉がひりつく様だ。
ベッドの脇に置いてある陶器製の水差しから、陶器のコップに
水を注ぐと、流し込むように飲みこんだ。
喉の痛みは少しましになったようだ。

 高級住宅街らしく、部屋の調度品もそれなりのもので
使用人として暮らしているアデルのベッドは
なんと、天蓋付きだ。
とはいっても新調したものではなく、
破産した貴族の邸宅から売りに出されたものを
購入したものだ。

 ユダヤ人がこんなところに暮らしているのは重大なリスクだ。
もちろん、大英帝国ではユダヤ人への差別も少なく、
寛大なほうだ。
 これがフランスやイスパニアならいつ殺されてもおかしくない。
2階にある自室の窓を開けてみると、ドアの前にボロボロの
服を着た乞食にしか見えない兄妹が座り込み、
大声で必死に叫んでいた。

 そもそも、ここに来るのは同胞の富裕層であり、
王家の侍従医を頂点とする、数百年より長く続く
ユダヤ人の積み上げたヒューミントの結晶なのだ。
高級住宅街にある、立派な家。

 しかも、家具調度品は貴族の家と同レベル、
こんな場所がスパイ活動の拠点だとは、
なかなか気がつきにくいものだ。
スパイは香り高い紅茶と共にあるのだ。

 おそらく、単なる闇医者とでも思っているのだろう。
免許制度のない時代に、光の医者も闇の医者も
ないだろうとは思うが、ここが闇の医者と呼ばれる所以は
患者を選ばないことだ。

 その理由は、怪我をするということは、何かの事件に
巻き込まれていたりする、また、支払われる金銭の出所が
怪しい場合、情報が隠れていることが多いからだ。
そして、そういう患者はたいてい口が堅い。
そして、こちらに都合が悪ければ殺してしまえる。

 ただ、扱いに困るのが、こういう馬鹿な勘違いをする
貧乏人だ。どうせお金など持っていないだろう。
その薄汚れたぼろ布で清潔な家には入っていただきたく
ないものだ。どう追い返せばいいか思案を巡らせながら
部屋の棚からランプを取り出し灯りを点すと、
アデルは部屋のドアを開けて廊下に出た。
やはり寒い。ここは重要拠点であり、
一日中薪をくべることも可能だが、
全室というわけにはいかない。

 所詮、使用人の部屋だ。
金持ちの中には、看護をするものがボロボロの部屋で生活
していると不安に思うものもあり。
そのおかげで、アデルもよい生活ができるわけだが。
もっとも受診しに来た先の医者や看護スタッフが
血色の悪い唇をしていたらかなり不安だろう。

さて

 ドア越しに話しかけることにした。こういった乞食に
ドアを開けるのは勇気がいる。だから、ドアを開けずに
帰ってもらえるのが最良だ。
まずは代金の確認だ。そう考え、
「あのう、お代はお支払いいただけるのでしょうか。」
「全額前払いでないと受け付けることはできませんが。」
アデルは経験からお金は持っていなさそうだなと見当をつけ
それでも返事を待った。本人にお金がありませんと
申告させることは重要だ。医者は慈善事業でなくビジネスだ。
そう考えないものは、教会に行って神にでも祈ればいい。
「救貧院か教会に行かれてはどうですか。」そう言うと、

 青年はやつれてボロボロの少女を抱えて必死に声を絞りあげた。
「お、お金はありません。」

 (ああ、そう)しかし叫ばれるのは迷惑だ。
 この類は、学習能力もなく、ただ叫ぶだろう。
何の工夫もない「お願い」はだれもいらない。
しかも、少女が死んだら恨みそうだ、困った。
ドアの中ほどにある覗き穴からじっと覗きながら、
アデルは兄妹の様子を注視していた。

 アデルとしても、まったく同情しないわけではない。
自身も、もともとユダヤ貧民街ゲットーで、
ゴミを拾って暮らしていた。しかし、少なくとも誰かが
助けてくれるとは考えていなかった。
この診療所の主のガブリエルに治療を受けた時
諜報員に空きがあり、恩義を重く受け止めた、
忍耐強く、常識人である、使い捨てのエージェントと
なっただけだ。同情だったかもしれない、故に
幸運なことにゲットーを出て住み込みで、
看護の仕事をしている。

 静かになったと思ったら、その青年はアデルの想定していない
言葉を吐いた。

 「あ、あのう、宝石ではダメでしょうか。おそらく
ダイヤモンド、それにルビー サファイヤ。」
青年は怯えるようにそう言った。

「えっ。」

 さすがのアデルも驚いて思わず声を出してしまった。
動揺を悟られないように口に手を当て、深呼吸をする。
金持ちやユダヤ人ならともかく、こんな浮浪者が
闇医者に宝石を持ってくる。ただ事ではない。
これは、医者という副業ではなく、本業である
諜報活動としてのお仕事のようだ。


 反応のないアデルに向かって、青年は何かを悟ったらしく
こう付け加えた。

 「知人に宝石商がいまして、財産を持ち運びできるように
宝石に交換して、ウェールズからマンチェスターに
出てきたんです。」ライアンもこんな嘘が通用するとは
まったく思っていなかった。だが、妹を助けたい。
「お願いします。」意識が遠のき、体が崩れ落ちる瞬間、
ドアのカギの開く音を、聞いた気がした。

 アデルはいぶかった。なんて馬鹿な男だい。
盗品だと言っているもんだよ。
しかし、この量は異常すぎる。
(なんで、こんなに宝石を持っているんだい。)
(不自然だねぇ、放っておくわけにはいかないねぇ。)

 アデルは一大決心をした。すごい演技をするぞと気合を入れた。
できるだけ、慈愛に満ちて心配する、優しいお姉さんに
見えるように。
「そうだねぇ、まあいいわ。どんとまかせな。」
「いま先生を呼んであげる。」
ドアを開けると、喜んだその兄妹をせかすように招き入れた。
絶対に逃がさないように。

 「先生、先生、急患です。」
アデルは家中の人間に聞こえるように大声で叫んだ。
アデルとしては銅鑼でも鳴らして回りたい気分だ。
寝ぼけた使用人や同僚の看護の者が一斉に起きてきた。

 「なんだ、なんだ、うるさいな。」
アデルのあるじでありラビであるガブリエルは不機嫌そうだ。
しかし、アデルという人物が無意味にこんなことをする馬鹿
でないことや、いたずらをする人物でないことも知っていた。

 何か緊急の事案でもあったのだろう。
寝ぼけた頭を起こすためガブリエルは、
凍りつくように冷たいバケツの水に頭を突っ込むと
10秒ほど息をとめ顔をあげた。
鼻から水が入りむせた。
タオルを取って顔と頭を拭くと寒さが身に浸みた。
だが、頭はかなりはっきりした。

 アデルは寝ぼけた使用人に兄妹を案内するように言うと
医師ガブリエルに青年から受け取った皮袋の中身を見せた。
何事かと思っていたが、ガブリエルも心臓が止まるかと思った。
信じられないほどの大量の宝石だ。
「どうやって、・・・手に入れたんだ。」
ガブリエルも思わずうめいていた。

 ガブリエルは気持ちを切り替え、
医師としてではなく、諜報員として、
青年からできるだけ多くの情報を聞き出すことにした。

 ガブリエルは心配そうに患者を診ると深刻そうに言った。
「かなり重症だ。栄養状態の良いところで、
長期間休養すれば命は助かるだろう。だが、
いままでの生活を続けるならば、近い将来
確実に命を落とすだろう。」
諜報員とはいえ医師だ。
義務は果たした。

 青年は言った。
「代金は宝石で払います。」

 「ウム、わかった。」
そう言うとガブリエルは考え込んだ。

「おじょうちゃん、名前はなんていうの。」
 アデルは気さくに妹に話しかけた。

「グレイスだよ。グレイス・マクレガー。」

 妹の答えを聞いた青年は仕方なく名乗った。
「俺は ライアン・マクレガーと言います。」

 ガブリエルは押し殺すように聞こえるように呟いた。
「私としても救える命を救えないのはつらい。
だがこの宝石を君が持っている理由を知らなければ
対価として受け取ることはできない。」

 医者は暗に出所を言わないと妹を見捨てると言っているのだ。

 「先生、宝石商の知り合いがいるらしく、
全財産を宝石に変えてこちらに来たと・・・」

 「黙りたまえ、アデル君。」

 わざとらしいアデルとガブリエルの会話。

 ガブリエルは問うた。

 「きみは現金をこの宝石に変えたと言ったね。
では、君はこの宝石が何ポンドに相当するかわかるかね。」

 自己の全財産だ。答えられない人間などいないだろう。
だが、ライアンは答えられなかった。

 ガブリエルは優しく言った。

 「盗品なんだね。」

 「本来であれば、盗品の宝石を受け取るわけにはいかないし
 私は君を死刑台に突き出さねばならない。
だが君が正直に話してくれるのならば、グレイスの
身柄は保障しよう。治療後、我が家で面倒を見てもよい。」

 「君が直接殺して奪ったとか言うならともかく、
拾ったとか盗んだというだけなら見逃そう。」

 あまりにも寛大な条件にライアンは混乱してしまった。
騙されているのではないかとも思った。
妹の命が掛っている、頭を必死に回転させた。

 そんなとき、アデルがポツリとグレイスに話しかけた。

 「わたしも治療費の払えない乞食だったんだよ。
毎日ゲットーでゴミを漁ってたよ。」

 「それ、ほんとう。」
グレイスは無邪気に尋ねた。

 ライアンにとって、この話はあまりにも都合がよすぎた。
だが、ほかに頼るところもない。
そもそも、この人たちが自分をだますメリットがない。
事情は呑み込めないが、縋るしかないのだ。
ライアンは腹をくくり、すべてを話すことにした。

 ガブリエルは宝石はすべて放棄することを条件に
ライアンにまともな服や銀貨を渡し、
別の街のゲットーへ行くように言った。

 「すぐに逃げたほうがいい。
妹さんのことは私が命に代えても守る。」

 ガブリエルはそういうとアデルに指示を飛ばした。

 ライアンは地面にひれ伏し、心からお礼を言った。
ガブリエルは少女をベッドに寝かせ 体を拭く様に
言うと、蒼白な顔をアデルに向ける、
今すぐゲットーの反ユダヤ主義へのレジスタンス活動拠点に
連絡するように言った。

 アデルは事態をよく飲み込めずにいたが、
緊急であることは理解した。
ライアンを引き連れ早朝の街に飛び出した。

 (逃げるかも、いや妹がいる。あれだけの宝石を盗めば
法律で死刑だ。盗賊団も拷問するだろう。
恩義は恐怖を超えることもあるか。)
アデルはそう判断し、ゲットーに走りこんだ。
事情をライアンから聞いたレジスタンスの男は言った。

 「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
それを聞くと大慌てで、2人の男が別々の方向に
飛び出していった。

 「これだけの量の宝石がカルテルに見咎められぬとはな、くっ。」
男は歯軋りし、吐き捨てた。

 「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」
今度は、その男ともう二人が外に走りだした。
全速力で走っているのだろう、見る見る姿が小さくなる。

 「はぁ、どうするんだろうねぇ。」
アデルはそう溜息をつきながら、立ち尽くしていた。

==第2話== 
ここは大英帝国、アン女王の逝去によりドイツからやってきた
ハノーファ朝の支配する。7つの海の支配者の大英帝国である。
植民地からの大量に安く流入する物資で、急激に工業化が進み
世界で唯一、産業革命を起こした超大国である。

 首都ロンドンから紡績の都市マンチェスターへ続く主要路は
この季節には珍しく、雪にもならず、かといって雨ともいえない
すさまじい勢いで降り続くもので覆われていた。

 道路は降り続くものでぬかるみ、路行くものすべてが足を取られ、
ゆったりとした勢いで動いていた。背中に荷物を背負い何かに打たれながら、
ゆっくりと歩く農民、荷馬車に油を塗った麻の布をかけて、商品の
綿製品を首都ロンドンまで運んでいく行商人、多くの荷物を載せた馬車は
ぬかるみにはまり立ち往生していた。

 そんな中、時折鳴り響く雷鳴が、王侯が乗るような豪華に仕立てられ、
磨き上げられた馬車を光に包み、輝かせていた。

 誰が乗っているのかは窺い知れないが、装飾過剰ともいえるその馬車は
4頭だてであり、馬も筋骨隆々とした4歳から5歳の牡馬だ。
ただ、その馬車は、周囲のぬかるみやゆったりと流れる人々を
無視するように、猛然と、信じられない速度で走っていた。

 「くそやろう、あぶねえだろ。」粗暴な農民の一人が怒りに身を任せて、
もっているたまねぎを馬車の窓に投げつけた。

 どんっ、鈍く大きな音がする、窓に何かがぶつかったのだろう、
彼は少し気はとられたが、また思考に没頭し始めた。

 首都ロンドンを出発したのは3日前であり、本来はもうとっくに
到着していなければならない。主人のハッペンハイム卿からの厳命であり、
是非も無かった。何の具体的な内容もなく、ただ、「行け。」と言われたのだ。


 しかし、一昨日の夜から降り出し、あたりを漂う、これによって
到着は当初の予定を大幅に遅れていた。

 「せめて、こんな豪華な馬車でなければ、気も楽だったのだが。」
彼はそういうと深くため息をついた。

 ふかふかの高級なソファーのようなすわり心地、壁には銀の柱と
絹のカーテン、窓はガラス張りだ。車内も暖かい。
乗客は自分ひとり、
誰も見ていないので、道中は寝ていた。
体は軽く元気なのだが、心は重い。

 ハノーファ朝の大英帝国を、実質的に支配し統治している、
彼の主人、ホーフユーゲン(宮廷ユダヤ人)モーセス・オッペンハイムですら、
その言葉に責任をもてないが故の処置、待ち合わせの人物はさぞかし
大物だろう。こんな馬車を用意するくらいだ。
言外に、「時間を守れ。」との含みだろう。
まだ少年とも言える年齢ではあるが、かなり頭が回るだけに
その意味が理解できてつらい。

 窓の外を見ていると、急速に景色が移り変わる。
御者も理解しているのか、すさまじい速度だ。
「誰かをひき殺してなどしていないだろうか。」
本気で心配だ。
もっとも農民や商人をひき殺したところで、彼を処罰など
出来はしないだろうが。轢き殺した相手が「騎士」であっても
「乗っていたのは別人だ」と言う主張が100%まかり通るだろう。
そういった意味では安全である。

 やがて、馬車は速度を落としていた。
「ふぅ、やっと都市部に入ったか。」彼は半日の遅れを
なんと言い訳すれば良いか考えあぐねていた。

 やがてマンチェスターの街並みが見えてきた。
 古代ローマのように、下水道が整備されていないため
街の住民たちはトイレの中身を路に向かって毎日投げつける。
そのため道路は汚物であふれており普段から鼻のひん曲がりそうな
悪臭が漂っている。こんな路を歩くなど真っ平ごめんだ。

 この街は大英帝国の中央よりやや南西に所在があり、植民地から
大量に運ばれてくる、綿花から大規模な工場で布製品にすることで
栄えている。作り出された布生地から様々な服、帽子、ズボンやチョッキ
などが職人の手により作られていた。そのため、かなり供給過剰であり
綿製品の販売価格は非常に低く抑えられていた。

 ゆえに商人たちは、ここで綿製品を買い入れ、ヨーロッパ大陸全土に
せっせと海を渡って、商品を運び利益を出していた。
と言えば聞こえはいいが、「ヨーロッパ大陸全土の布製品が暴落し
諸列強が大損害を受けている。」と言うのが正しいのだろうか。
布製品と関係の無い職業の人々は安くなって大喜びだろう。
まあ、それも彼らにとっては 「明日はわが身」であるのだが。
商品が下がれば通貨は上がる。
買うためにはポンドが必要だが、売って手に入るのはポンド以外だ。
当然ポンドの価値が上がる。というのが、ハッペンハイム銀行の方針だ。
もっとも、真の目的は他にあるのだが、守秘義務があるので
若輩の私が話すことは、今は出来ない。残念だが。

 大英帝国、特に我々にとって最も怖いのが、実力行使、軍事力だ。
いくら金を貸そうが、彼らの通貨が下がろうが、戦争に負ければ終りだ。
だが、7つの海を支配する世界一の大帝国は、四方を海に囲まれている。
陸上戦力による侵略は不可能であり、世界最強の海軍である
ロイヤルネイビーを撃破できる存在など、どこにもいない。
幸い、ユダヤコミュニティーのヒューミント(人的諜報)は史上最強、
死角はない。

 ハッペンハイム家の使用人である彼は、懐から懐中時計を取り出し、
時間を見るのだった。すでに10時間以上遅れている計算になる。
ふと、馬車の窓から外を見ると、働いている工場から我が家に帰る途中の
薄汚い格好をした、労働者階級の人間が急ぎ足で歩く姿が見られた。

 紳士の一人が傘をさしながら、懐中時計を見るとまた歩き出した。
「ふう、こんなものが無ければ、ちょっとは言い訳できるんだけどね。」
ハッペンハイムの使用人はそう独り言を言うと、懐中時計をじっと見つめた。
元々、大航海時代に正確な経度を測るために開発競争をしていたのが、
時計の由来で、「国王の身代金」と同額の賞金がかけられていた。
もっともいまは、大量生産され、工場での労働管理に使われているが。

 彼は、おおよその自身の役割は推測していた。
最後の英国王室、アン女王が逝去なされたあと、跡継ぎがいなかったため
いざこざはあったが、これを継承したのがドイツから来たドイツ人
ジョージ1世、そして2代目ドイツ人ジョージ2世、皇帝であるのに
「イングリッシュ」がまったく話せない、ドイツに居住御希望されるのだ。
当然、英語が話せるドイツ人はいる、だが「イングリッシュ」は、
「ポテト」が大嫌いだ。なぜか、英国に在住のユダヤ人が宮廷を支配し
ハノーファ御付のハッペンハイム卿の自由にできる国となってしまった。

 それに猛攻撃したのが清教徒オリヴァー・クロムウェルの最大の支援者で
ヴァチカンのスパイ、トーリー党のハンタギュー公爵家と
実質的にアン女王を殺した故オックスフォード卿と
僭王チャーリーの残り香であるジャコバイトだ。
残党はブルボン・カトリックと結託し、テロリズムをしている状態であった。

 十月末に先王ジョージ2世が崩御し、じきに戴冠式が行われる。
いままでどおり、大英帝国の皇帝陛下が、ハッペンハイムの
傀儡であればよいのだが、次の皇帝は不運か必然か、
「イングリッシュ」が堪能であらせられる。
ユダヤ人を嫌悪されているご様子、不幸なことだ。

 ハッペンハイムとその取り巻きのユダヤ人は排斥されつつあり
かつての初代首相ロバート・ウォルポールの盟友で
12支族の族長の家系、ギデオン男爵でさえ
謁見を拒否される有様だ。

 おそらく彼の役割は 「案内役」だ。賓客の接待だろう。
外交使節が戴冠式にお祝いに来るのに「会わない」ということは
大英帝国の次期皇帝でも、出来ないだろう。
ハッペンハイム銀行の現当主モーセス・ハッペンハイム卿から
直接指名され、接待を任された。そういうことだろう。
その賓客は名前も不明、どこから来るどのような人物か、
まったく知らされていない。そこが不安だ。

 ハッペンハイム銀行で、重役である彼が選ばれるということ
その年齢を考えれば、賓客の年齢は「ティーンエイジャー」
だろう。

「子供、か。」

 濃い霧の漂う、
今日、この日は、
1760年12月25日。
先王の喪の明けぬままの聖夜であった。

 接待人 ハイヤーハムシェルを乗せた豪華な馬車はスラムを抜け
治安が悪く、住む家がなく働くこともない犯罪者の巣窟
そこさえも天国と思えるだろう、
マンチェスターの中心部を抜け、薄暗く、陰鬱な雰囲気の漂う
ユダヤ人の住む場所に到着した。
たいていの人々は、ここをユダヤ人街などではなく
「ゲットー」と呼ぶ。

ここよりこの物語は始まる。


 ユダヤ人、そう呼ばれる彼らは、後述する十字軍以降、蔑まれ、
社会の最底辺であった。彼らの生命はゴミと同価値であり、
日々、物を乞い、ゴミを漁って暮らしていた。
大英帝国の人々は、まるで流行り病人などを見るように
それを見ていた。

 ユダヤ人は、古代オリエントに居住していたとされる。
その後、大離散ディアスポラにより各地に散ったとされる。
もともと、イスラエル周辺に残留した、肌が褐色でアラム種の
ミズラヒムのユダヤ人、肌が褐色でアラム種だが、
移住し、イスラム圏に住居を構え、
権勢と膨大な財力を誇るスファルディムのユダヤ人。
そして、当時、由来のわからなかった。
肌が白く、ゲルマン系のアシュケナジムのユダヤ人だ。

 風の噂に聞くところによるとアシュケナジムは巨大な2つの国にはさまれ
その2カ国のどちらかの宗教に帰属するように求められた、
ハザールと言う国が、国民全員をユダヤ教に改宗させてしまった。
結局彼らの国は滅亡し、ヨーロッパ全土に貧しい難民として押し寄せ、
その最下辺として定着した。

 田畑を耕して作物を得ること、牛や羊を飼うこと、
槌を振るい金属を加工すること、糸を紡ぐこと、布を織ること
木を切ること、商品を売ること、商品を運ぶこと、すべてが禁止された。
ゲットーに住む売春婦や物乞いは、アシュケナジムのユダヤ人である。

 イスラム圏に居住するスファラディムのユダヤ人は現地の言葉とラディノ語を
使用している。アシュケナジムのユダヤ人はイディッシュ語を使用しており、
当然会話は通じない。しかし、一部のアシュケナジムのユダヤ人は、
トーラーやミシュネー、ハーラート、タルムードを介し、ヘブライ語を学ぶため
ラビやインテリは共通の言語として、ヘブライ語を使用した。

 この物語の主人公 ハイヤーハムシェル・バウアー、正しくは、
田舎者のハイヤーハムシェル、若しくは、単に、ハイヤーハムシェルであろう。
現在のドイツ、ヘッセン・カッセル領のフランクフルト・アムメインに生まれた。
白人種であり、身長は当時の男性にしては高く、176cm、体重は73kg。
好きなものは種無しパンで、嫌いなのは肉だ。趣味は古銭収集。
兄と弟が故郷におり、仕送りをしている。

 8歳のとき、父親の勧めで、ハノーファのハッペンハイム銀行に仕え、
臆病でありながらも聡明であり、何よりも慎重であった。
ハッペンハイム家をして、その天凛を覗き見ることができた。その才能を買われ、
ハッペンハイムの本拠地、大英帝国へ来たのは12歳のときだ。
正直、英語は話せるが、ドイツ訛りがあり、滑舌とは言いがたかった。

 ハノーファ家はドイツの地方領主であった、その財産管理を任されて、
側近として実務を行っていたのが、ハッペンハイム家である。
大英帝国の血縁ではあるが、単なる田舎貴族だ。
だが、アン女王の逝去により大英帝国の王冠を戴くようになった。
即位したジョージ一世は英語が話せず、宮廷ユダヤ人として同行した、
ハッペンハイムが大英帝国のユダヤ人を使い政治経済を動かしていた。
それはジョージ2世の時代も同じだった。

 ハイヤーハムシェルは自身が組織に「高く」、いや、「非常に高く」
評価されているのは知っていた。
マンチェスターでの取引の多くを占める綿製品のほとんどを
任されていると言って良い。
15歳にして経営中枢に入り、
貴族であるキデオン卿や大商人ホォーバーグ卿とも会えるほどだ。

 ハイヤーハムシェルはハッペンハイム卿の指示した通り、
マンチェスターのゲットーへとやってきた。

 建物に入ると最前列の木製の椅子に、何かがいた。

 「やぁ、ハイヤーハムシェル。時間に遅れるとは契約に従順な
ユダヤ人にしては珍しいな。早朝から待っていて日暮れ前だ。
尤もその分、多くの時間を神への祈りに捧げられたがね。」

 「感謝しとるよ。」

 黒服の男性は、粗雑で硬い椅子に長時間座っていたためか、
少し体が痛いそぶりを見せながら、ゆっくりと立ち上がった。

 少し、歩み寄り3mほどまで近づいたとき、
ハイヤーハムシェルは腰を深く折り、頭を下げた。

 「真に申し訳ありません。馬車が遅れてしまいました。」
ハイヤーハムシェルは素直に謝罪した。本当に申し訳ない。
待っていたのが、かなり高齢の方であり、真っ暗闇で
一人で半日待っていたことを考えれば、当然の感情だ。
暗がりに目が慣れると、ラビだとわかった。

 「いったい、なぜ私はここに呼び出されたのでしょうか?」
大体、接待役についてだろうとは想像できたが、
直接、言葉として聞くことは大切だ。推測は時として
致命的なミスを生む。だから、「私は聡明だ、推察できる。」
などと言う態度は微塵を見せず、尋ねてみた。

 すると、老人は高価そうな装飾された箱の封印を解き、蝋で閉じた
一枚の手紙を手渡してきた。
それを読んだときの衝撃を隠せた自信は無かった。
「ナスィ」とはヘブライ語で、「トップ」の意味だ。
シメオン族のトップは族長、イスラエル王国のトップは当然、「国王」
天地万物のトップは「神」である。色々な意味のある言葉ではあるが、
ここでの、「ナスィ」はある一族のことだろう。

 ネーデルランド独立運動の最大の支援者にして、謀略を仕掛けた人物
「グラツィア・ナスィ」、
オスマンの海賊としてキリスト教徒を討ち破った「ヨセフ・ナスィ」
この2人は「ドナ・ドン」つまり貴族だ。
ヨセフ・ナスィは従妹であるグラツィアの娘を娶った。
つまり現在においても、2千年以上前の古代イスラエル王国の正統王位継承者、
いや、それ以上の意味がある。
神、ヤハウェと十戒を契約した「モーセ」の正統な後継者である。
 「ナスィ」とは 神のファミリーネームであり、すなわち、
ブナイブリス(契約の子供達)と言う意味である。
(※契約の息子達と訳すのは、モーセが男性であったため)

 「馬鹿な!」
思わず、ハイヤーハムシェルは声を上げていた。
本気でハッペンハイム卿の正気を疑った。
「わ、わたしは 貧しいゲットーの出身です。
乞食の出身と言ってもいい。なぜですか。」

 それにラビは答えることは無かった。

 「ふむ、専用馬車であったはずだが、さすがにこの豪雨と霧では仕方ないか、
まあ、私を待たせるのは一向に構わんが、王女殿下を待たせたら、
その首を斬られるぞ、物理的な意味でな。」

 ハハハ、にこやかに笑い声を上げると、

 「冗談だよ、殿下はそれほど狭量ではない。」

 そういいながら、老人はこう言葉をつなげた。

 「殿下が殺せと命令されれば、いつでも殺すがね。」

 これは本気だ。事実に違いない。
正直ボスであるハッペンハイム卿が恨めしい。

 「ひとつ聞いてもいいかな、君はその若輩とも言える年齢で、
ハッペンハイム銀行の重要な一翼を担い、ハッペンハイムが
王女殿下の接待役に推薦するほどの人物だ。」

 老人はふと目を落とし悲しそうな顔をした。
しかし、その双眸は怒りに満ちているようでもあった。

 「半年で、このゲットーの人間が何人殺されたか知っているかな?」

 ハイヤーハムシェルは黙して待った。ここで言う言葉など無い。
問いかけでないことは確実だ。これは独白だ。

 「120人だ。フランクフルトでは日常だろう。
だがここは我々の地だ。」

 「しかも、一般民衆の溜め込んだ宝石を奪っていく。
理由がわからんのだ。
小さな宝石に価値は無い、・・・はずだ。」

 老人はそう言うと、ハイヤーハムシェルの言葉を待つように
黙り込んだ。

 しばしの沈黙が流れる中、ハイヤーハムシェルの頭は
フル回転しすぎて、パニックになっていた。

 先ほどの首と胴が離れると言う脅しにドキドキしながら
様子を伺っていた。ハイヤーハムシェルも実際、
物理的に首を斬られた人間を百や二百では利かない数を見てきた。
その理由は、些細なことも多い。
犯罪はもちろん、居眠りや、失敗、身分の高いものに「態度が悪い」などと
言いがかりをつけられたり、枚挙に暇が無い。
それにこのラビなんだか迫力がある。
いつも行くシナゴーク(ユダヤ礼拝所)のラビとは
明らかに違う。

 落ち着いてきたハイヤーハムシェルは、
これは何か答えなければまずいな、などと頭を回転させる。
しかし、なぜ私にこんな話をするのだろう。まったく意味が無いような気がする。
解決方法がわかるくらいなら、当の昔に進言している。
意を決し、思いつく限りを述べる。

 「宝石は、我々ユダヤ人が鑑定しなければ価値がわからず、
盗まれても、奪われても、換金できない。」

 「それは貴族であっても同じ、必ずカルテルに見つかるはずです。
ましてや小さな宝石など、貴族が隠れ持つ意味も、買う意味も無い。」

 「故に我々は、宝石を主要財産としている。違いますか。
なぜ、そのような質問を。」

 またしてもそのラビは答えずにこう言った。

 「ふむ、まあ、仕方なかろう。私が言えるのは、
君もここで神と会話して、その言葉に耳を傾ければ、
何かに気がつくかも知れんな。」

 「それでは私は帰るとするか。祈りは大切じゃよ。
長く生きたものからの助言じゃ。」

 ハハハハハ、そう言うと、わざととわかるくらい、わざとらしく笑いながら
老いたラビは去っていった。

 ユダヤ人の祈りの場シナゴーク、水を湛えたミグェを見つめながら
ハイヤーハムシェルは心の中でこう尋ねていた。
「全知の王 ヤーウェよ、あなたは見捨てられた。
全能の神 ナスィよ。驚くべき御業はどこにあるのでしょう。
勇者ギデオンへの奇跡、海を割かつモーセス王の力はどこにあるのでしょう。
シェマー・イスラエール・アドナイ・エロヒム・アドナイ・エカッド。」






==第3話==
16世紀初頭 ポルトガルにて

ドナ・グラツィア・ナスィ

 「アーニャの夢は何?」

 いつの頃か、誰にかはわからないが、おそらく
キリスト教徒の貴族であろう友人から聞かれた。
幼い私がどう答えたのか、長い年月がたったが、
今もなおはっきりと覚えている。

 アーニャは元気にこう答えた。

 「みんなをパン屋さんにすることゾ!」

 キリスト教社会ではユダヤ人の多くが差別迫害され、
パン屋どころか、靴磨きにすらなれない。
ユダヤ人はみんなそれを知っていた。
まだ幼い、アーニャのような子供でも。

 それを聞いたキリスト教徒の友人、
正確にはキリスト教貴族の友人が言った。

 『アーニャは馬鹿だなぁ。パンなんて
お皿にいくらでもでてくるじゃないか。」

 「うちの使用人が作ってるぜ。
いつでも雇ってやるよ。」

 周囲の子供には理解されない。
アーニャは一人さびしく空を見上げるのだった。

 当時、ヨーロッパに住むユダヤ人には2種類いた。
ヨーロッパ北中部に住んでいる言葉の通じない、
 ユダヤ人と名乗ってはいるが、その大半は
乞食であり物乞い、ゴミ拾い、なんとでも形容できるが、
キリスト教徒により、家畜や奴隷扱いをされる者たち。

 対して、アフリカ北部沿岸とヨーロッパ南岸の
地中海沿いに居住する者、アーニャの一族のように
ポルトガル王家に帰属する大貴族、
表向きはキリスト教徒を名乗ってはいるが、
誰が見ても、ユダヤ教徒のユダヤ人だ。
褐色の肌でアラム種のため、外見ですぐに判別できる。
もしユダヤ人でないとすれば、イスラム教徒であろう。

 これについては後述するが、ノルマンコンクェスト以降、
諸侯を乱立させ、フランク勢力の弱体化を目的とし、
教皇権を確立するため、ウルバヌス2世が画策した、
第一次十字軍以降、迫害されてきた白人のユダヤ人がいた。

 アーニャの両親も迫害される白人系ユダヤ人を支援する気はあるのだが、
あまりにも文化が違いすぎる。まず、言葉がまともに通じるものが少ない。
大半のスファルディムのユダヤ人は、イスラムを盟友と考えているが、
白人系ユダヤ人にイスラムを友と呼ぶものはほぼいない。

 同じユダヤ人にも、戒律を守らず、法も守らないため、
冷遇するものも多い。
周囲にキリスト教徒ばかりがいる環境で、そのような思想や習慣を
持つことは、確かに、危険だ。

 密告や拷問、彼らは疑心暗鬼のあまり、少し狂った人々だと、
アーニャですら思わざるを得なかった。
だが同じ、ゆだやびと 救うべきものたち、好くべきものたちだ。

 学校が終わり、家の前に着けた馬車から下りて家に入ると
父がイライラしていた。最近はずっとこうだ。

 「カーッ、またヘマをやらかしおって」

 最近とみに怒りっぽくなった、オスマン領で大商人をする父は、
従者のメンデスを叱っていた。
何をしたかは知らないが、申し訳なさそうに謝罪をしている。

 アーニャの勘ではあるが、単なる父のやつあたりであろう。

 後世の歴史では、メンデス家は香辛料を扱う新キリスト教徒で、
ふっがー家と比肩する大富豪と伝えられているが実際には
それは少し違う。

 「スルタンの侍従医」、「王の侍従医」、
ユダヤ人の名門に侍従医がやたらと多いが、
侍従医とは現在で言うところの王専用のCIA長官のような存在だ。

 仮にキリスト教徒に諜報をさせたとしよう、同じキリスト教徒に
情報が漏れる可能性が高く、イスラム圏にコネクションなど
構築できない。少なくとも十字軍での聖絶という行為による、
イスラム教徒の持つキリスト教徒に対する恐怖感は想像を絶しており、
見つけたら即殺すだろうし、内通者は拷問以上の極刑だろう。

 ユダヤ教徒は、キリスト教徒とイスラム教徒の間で蝙蝠のように
諜報活動をしていた。もちろんどちらかといえばイスラム寄りではあるが。

 当然、スルタンや国王の意見を直接聞き、報告する義務がある。
ゆえに、「侍従医」なのだ。

 王の健康状態は王位継承にかかわる、特級の機密事項だ。
王妃や王子に知られることもだめだ。当然、貴族もだ。

 内部での抗争や外国の蠢動を許すことになり、
戦争の発端が開かれかねない。
ゆえに、支配者が変わると、大物ユダヤ人が殺されたりする。

 メンデスが大富豪と言ったが、メンデスはナスィ家の財産管理人で
信用のおける側近だ。
だから、身寄りのなくなったアーニャを娘として育てた。

 父は有力ユダヤ人や新キリスト教徒など数人と
何やら深刻そうに話しこんでいた。

 後世で「レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教徒による
領土回復運動だ。もはやオスマン帝国のイベリア半島撤退は
時間の問題。各地の侍従医、諜報担当の貴族から
厳重な警告がなされていた。

 「撤退か、そうなれば、キリスト教徒が同胞をどう遇するか。」

 それが皆の話題だった。

 「火を見るよりも明らかでしょう。最低で改宗、火あぶりや全財産没収
もありうるでしょう。」

 「最悪の事態、かつての十字軍のようなアナテマ、無差別な虐殺も
視野に入れるべきです。」

 家全体が、闇の帳に覆われたかのような雰囲気だった。
グラツィアも心配になって少し口を挟んだ。

 「キリスト教徒にも友人はおるゾ。
そ、そうじゃメンデスもキリスト教徒ゾ。」

 父はグラツィアを気にかける様子もなく、
メンデスに謝罪する。
メンデスもバツが悪そうだ。

 今、考えれば、メンデスも好きで改宗したわけでもないだろう。
 この陰鬱な雰囲気が嫌なグラツィアは軽挙にも
また口を挟もうとする。

 すると、さすがに見かねたように、母が諭す。

 「グラツィア、殿方のお話に首を突っ込むものではありませんよ。」

 すると弟が、母の差し金であろう絡んでくる。

 「姉上、あそぼ!」

 グラツィアがユダヤ人でありながらキリスト教徒の学校に行き
ナスィ家の財産がメンデス名義に変わっていたのか、
当時の私は、それを知る努力すらしていなかった。

 ナスィ家は有力者、諜報のトップだ。もっと早く逃げられた。
だが、グラツィアの父は踏みとどまることを選んだ。
情報が得られなくなれば、ユダヤの最高権力者が逃げれば、
一般のユダヤ人は見せしめに、皆殺しにされるだろう。

 ユダヤ人の元締めといえる、ナスィ家の名誉にかけて
それはできなかった。ナスィ家の改宗はユダヤ教の死を
意味していた。

 家を出るときに架けられたロザリオに注意を払うべきだった。
なぜ、私だけがキリスト教徒の教えを受けていたのかを。

 闇夜に兵士たちが、松明をもって近づいてくる。
皆の生きる希望として選択の余地はなかった。

 「ひぃっ。」

 今思えば、父らしからぬ言葉だった。
割礼を受けている弟は逃げることはできない。
 母は、幼い弟だけを逝かせるつもりはなかった。

 死の瞬間まで弟と一緒にいる気だろう。
一族の根絶やし、それだけは避けねばならない。

 遥かなる祖先、モーセから受け継いだ、神の名を繋ぐために。


 「ここまで付いてきてくれてありがとう。
メンデス親子は帰れるのでしょう?」

 これが私の聞いた母の最期の言葉だった。

 自然とほほを流れる涙。
家族との離別、そしてその死、耐え難かった、抗えなかった。

 気絶しないように、最後の気力を振り絞ってこう言った。

 「密告したのは私です。」

 「お世話になったのに、裏切って申し訳ありません。」

 無言で泣く弟。

 姉、グラツィアの未来を祈って。

 父は去り際にこう叫んだ。

 「おのれ、生涯忘れぬぞ、メンデスの娘グラツィア!」

 グラツィアは馬車に乗せられて、離れていく家族に向かって、
聞こえるかどうかなど考えることもなく、こう絶叫していた。

 「これからは、あなた方の分まで生きてゆきます。」

 「さようなら、旦那さま、奥様、お坊ちゃま!」

 そしてグラツィアは力なく崩れ落ち、気を失った。
永遠の別れであった。
レコンキスタの時代、グラツィア、十代になったばかりである。

 それから、五年後
ネーデルランドから早馬が到着した。

 馬から降りた従者は異端審問官にこう告げた。

 「グラツィアからの手紙だ。責任者にそう言えばわかる。」

 鬱陶しそうに異端審問官は鼻を鳴らした。

 収容され、死体と生きているものの区別さえつかない中、
改宗拒否者はうずくまっている。

 ラビに至っては鼻と耳、両目を抉られていた。

 扉を開けると「ううぅっ」悲痛なうめき声が聞こえ
耐え難い悪臭もする。血と糞尿、腐った死体に沸く蛆。

 だが、異端審問官は嬉しそうに手紙の中身を読んだ。

 「いましがた手紙が届いた。差出人は、豚のグラツィア・メンデス。
今はベアトリーチェ・ルナという名だ。」

 「グラツィアはユダヤ教を棄て、キリスト教徒となった。」

 ハハハハ、そう笑いながら続きを読む、異端審問官。

 「自殺が禁じられているので、改宗しなければ殺せとさ。」

 ラビは抉られた目をそっと閉じると、尋ねた。

 「私は眼が見えません、その手紙、何色で書かれているでしょうか。」

 「ん、これは、血、血か。」

 ラビは最後の命のともしびを燃やし叫んだ。

 「おお、かたはらよ。神は、神は、我らを見捨てたもうた。」

 改宗の手紙、無条件降伏命令書であった。

 「たとえ豚と言われようと、生きよ。」

 王家の娘、グラツィアからの告解であった。

==第4話==
 ベットフォード公爵家、それは・・・・・・

 アメリカ合衆国大統領ビル・クリキントン、彼は若いころ
ローズ奨学金を受け取り英国貴族、王党派の屋敷で学んだ。
彼の所属する組織を「スカルボーンズ」と呼ぶ。

 タフト、バンディ、アダムス、スチムソンらが主要メンバーで
独立を進めるワシントンやランドルフを妨害し、
建国をさせまいとした『ミドルトン』もこの一派である。

 英国諜報部そして英国王立海軍を組織した、
初代ジョン・ラッセル、そして、アルマダ海戦で無敵艦隊を
打ち破ったフランシス・ドレイクの名付け親
フランシス・ラッセル。

 英国王室の最大の守護者にして英国聖公会の設立者である。
スカルボーンズもラッセル家が創設したものである。

 敵対する、共和党はケルト貴族のワイルドギース騎士団を前身とする、
ロッキード、ノースロップ、ホーイング、ダイナミクス、レイシオン
にヘクテルを加えたアメリカ全土に広がる軍産複合体。

 ハンタギューの支援のもと清教徒革命を成したクロムウェルの信徒。
フッシュはメソディストであり、その開祖はジョンウェスレー、
彼は、ハイチャーチのアルミニウス学派に所属する。
カトリック教徒である。その最大の支援者は英国の序列第一位
ノーフォーク公爵ハワード家である。
パンの教会であるハプテスマのロックヘラーもまた同じくである。

 ジョン・ラッセル

 後世に記録が残るかもわからないほどの小さな可能性。
英国王ヘンリー八世は、無名の平民に
イングランドの命運を賭けていた。
だが、イングランド貴族は彼が何かできるとは思っていなかった。

 一介の貿易商人である彼の船出などだれも注目していなかった。
かろうじて手に入れた、おんぼろキャラックに「まぬけ」という名を冠し、
まともな資金もなく航海に出る羽目になった彼は絶望していた。

 船員はある程度経験を積んだものだが、この船一隻で海賊行為など論外だ。
国王がハワード公爵の妨害工作で無為無策。私掠海賊の権利もなく、
単なる無法者だ。

 ハワード公爵のせいでプリマスの港に長く留まることも危険だ。
下手をすれば、イングランド国内の陸地で海賊人生が終わりかねない。
だが、生きていられるのは、あまりにも無力でちっぽけだからだ。
彼自身、意志は強く持ち続けたが、コネも金もなしでは、
海の藻屑となることは確定だ。無論覚悟の上ではあるが。

 故に考えた、イングランドの敵はだれか?
確実に教皇である。
それが彼の結論だった。

 (もちろん現実には、カール・フランク以降のローマ帝国の
王侯貴族を中心としたグループ『皇帝派』と
十字軍で確立されたヴァチカンの神のもとに平等という平民派、
後の清教徒でもある、『教皇派』に分かれていることは
平民ジョン・ラッセルの立場では知る由もなかった)

 では、教皇、キリスト教徒を最も殺したいのはだれか、
そう、『ユダヤ人』である。
二番手としてはイスラムのオスマン帝国だろう。

 ジョン・ラッセルは宗主国イスパニアへの敵意の高まる
ネーデルランドのアントワープに滞在していた。

 ネーデルランド独立運動それを仕掛けたのが、他ならぬ
ベアトリーチェ・ルナ、(グラツィア・ナスィ)であった。

 ある日、アントワープの酒場で酔いつぶれていると、
ルナという女貴族が使いをよこしてきた。

 「あぁ~、」

 ラッセルは酒臭い息を吐きながら、周囲に聞こえるくらいに
小さくつぶやいた。

 「俺はオスマンとヴェネチア経由で連絡を取るために
手下を送ったはずだぜ。なぜ、イスパニア領に連絡が来るんだ。」

 「ちっ、しかたねえ、これが罠なら死ぬしかねーな。」

 酔っ払っているところを狙っての一報だ。
逃げることはできまい。

 二本の蝋燭のある真っ暗な部屋に案内されると、通訳の男がやってきた。
どんな腹黒い男が来るのかと思っていたが、
若い女、しかも上玉だ。

 「はじめまして、ルナと申します。」

 女が口を開いた。

 「とりあえず、おれはオスマン帝国に連絡したはずなんだが、
あんたはイスラム教徒か?」

 ラッセルは内偵かと疑って聞いた。

 「我々はイスラムの家(ミレット制)の者です。」

 ルナと名乗った女は強靭な肉体は持っていないが
強靭な精神は持っているようだった。
通訳を除けば、サシで無法海賊と会話しているわけだ。

 「あなたは、国に見放された無法者、キリスト教徒に捕まれば、
海賊として縛り首でしょう。」

 そういうと女はくすっと笑った。

 「あんたは俺に何を望む、何を与える?」

 ラッセルは率直に聞いた。

 「イスラムの家は、お金と伝手はありますが、
軍事力は全くありません。」

 「はぁ、まぁ、金はほしいが、俺は金がほしくて
海賊をしているわけじゃないんだよ。」

 「では、何がお望みですか?」

 「七つの海だ。わが祖国に仇なすイベリアの糞には
海の上から御退場願うことだ。」

 「だから、イスラム教徒とオスマン帝国と同盟を結ぶと?」

 「ああ」

 「イングランドも十字軍として、エルサレムを襲っています。
あなたでは無理でしょう。」

 「それで、本題は何だ?」

 「イスラムの家に スルタンの侍従医のハモン、
そして、オスマン帝国海軍、いえ、公認の海賊をしているスィナンと
言うものがおります。なにぶん手が足りていないため、
助力しかいたしかねますが。」

 「さっき聞いたはずだ。何を与え何を求める。」
ラッセルは無意味な会話は嫌いだった。

 「求めるものは キリスト教の分断、そして、新キリスト教徒を作る。
その折には、我々ユダヤ人に住みやすい国にしていただけるとありがたいです。」

 「与えるものは、あなたが求めるだけの、お金とそれと
オスマン海軍の一翼を担っていただくことを可能としましょう。」

 「悪い条件じゃないな。」

 「が、それは俺にとってはだ。」

 「あんたにメリットがあるようには見えんな。
俺は王侯貴族じゃないんだぞ。単なる貧乏な三流海賊だ。」

 「私怨、とだけ申しておきましょう。」

 心の奥深くで燻ぶるものがあったのか、化物を見た気がした。

 「じゃあ早速だが、最新鋭の帆船、戦闘用だ。20隻、
毎年、金貨換算で1万枚(十五億円相当)、
それとあんたのコネを使ってオスマンの大物貴族に直接会いたい。」

 「ネーデルランドは独立し、我が勢力に入る予定ですが、
現在はイスパニア領、船はアルジェにてお渡しいたします。
金貨に関しては、この場で用意いたします。」

 「オスマンの高位貴族とおっしゃられましたが、
それはわたくしで事足りるかと存じます。
あなたの船に同乗させていただきます。」

 「わかった、降参だ。俺の負け。」

 「そこまでの覚悟があるのなら、イングランド王を
裏切ることが無い限り、あんたの手駒になってやるよ。」

 翌日ラッセルが、アントワープの港にある船に乗り込むと
部下達が有頂天だ。

 「なに騒いでんだ手前ら、声を落とせ。」
 「ここはイスパニア領だぞ。」

 「提督、金貨です。2万枚以上ありますよ。あと信用小切手とか言う物
ユダヤ人の銀行家なら誰でも交換してくれるらしいです。」

 「うおーまじすっげえ。」

 「あとすごい美人が乗ってきましたよ。」

 「オスマンの大物貴族だ。失礼なことしたら殺すぞ。」

 「あ、あいさー。」

 「今こそ、これを開けるときか。」そう言うとヘンリー8世から
預かっていた文書の蝋の封印を解き、ラッセルはこう宣言した。

 「今から俺は騎士爵だ。」

 「陛下、海賊ラッセルは、信頼できる支援者を見つけました。
これからは無法海賊としてではなく、英国騎士ラッセルとして
大陸の奴らの鼻をあかしてやりますよ。」

 それから、1ヵ月半の航海の後、アルジェに到着した。

 約束されていた 「帆船」は20隻確かにあった。
予想していたが度肝を抜かれた。
どうやってこんな短期間に戦闘用の大型帆船
を新造したのか、想定の範疇を超えていた。
だが乗組員はいない。
乗ってきた船の乗組員は、ある程度熟練だ。

 
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