一杯の紅茶のためなら

文字数 2,000文字

 ウラジーミルの生神女大聖堂から、華やかに打ち鳴らされる鐘の音が聞こえる。
 十月に鍛冶(クズネーチヌイ)横町の角にある家に引っ越してきた。この通りは鍛冶屋が多い。すぐ近くの大聖堂には、孤児院と女子救貧院がある。

 すっと立ち上がると、小麦を発酵させて作った自家製ウォッカをグラスへ注いだ。
 夫は毎朝、パンと一緒にウォッカを飲む。
 黒パンを一口かじり、ウォッカを少し口に含んで、
「これが一番健康に良いウォッカの飲み方だ」
 と、満足げにほほえむ。

「アンナ、また本棚に何か甘いものを入れておいてくれないか」
 二十五歳も年上の夫は、書斎の本棚に特別な箱をしまっていた。
 箱の中身は、ナツメヤシ、クルミ、干しブドウ、マーマレード、プルーン…。
 
「あなた、パスチラはいかがですか?」
「聞くだけ野暮だ、もちろん、お願いするよ!」
 パスチラには、とても酸味が強くて香りが良いリンゴ、アントノフカが最適だ。
 リンゴを丸ごとオーブンで熱し、皮も芯もピューレにする。卵白と砂糖を加えて、ハンノキの型に入れ、水分がとぶまで何時間も焼かなければいけない。
 作り方はちょっと面倒だけれど、夫の喜ぶ顔を見たら、本棚の箱に入れてあげたくなった。

 夫は果物の砂糖煮が大好きだった。リンゴ、さくらんぼ、パイナップル…。
 デザートの洋梨コンポートをつまみながら、彼は熱っぽく語り出した。
「今書いている小説だが、父親と息子が同じ一人の女を愛するのだ。悪魔的魅力の女だよ」
「その方の名は、何と名づけましたの?」
「グルーシェンカだ」
「まぁ! 親子で一つの(グルーシャ)を取り合うのね」
 熟したやわらかい梨を選び、はちみつと白ワインとレモン汁を加えて砂糖煮にした、甘くとろけるひと切れを口に入れる。
 まるで黄金のリンゴを取り合ったあげく、戦争になったギリシア神話のよう。
 夫の名づけ方は変わっている。以前、酔っぱらいの九等官にマーマレードから作った名字をつけていた。

「昼食は炒めたジャガイモ、夕食はセリャンカをたのむ」
「プーシキン風ジャガイモに、モスクワ風セリャンカですね」
 小ぶりのジャガイモを皮ごとゆでてから皮をむき、バターと塩、ハーブを加えてフライパンで炒める。
 夫が敬愛してやまないプーシキンは、昼食に炒めたジャガイモと半熟卵を食べていたそうだ。
 この鍛冶横町には、プーシキンの乳母アリーナが住んでいた。

 結婚前に、ペテルブルク生まれの私を驚かせようと、モスクワっ子の夫はレストランでモスクワ風セリャンカを食べさせてくれた。
 モスクワ風セリャンカは、スープではなく、フライパンで焼いたメイン料理だ。
 みじん切りした玉ねぎをバターで炒め、そこにザワークラウトを混ぜて、塩を加える。かき混ぜながら炒め煮にし、小麦粉をふる。その間に別のフライパンで、細かくきざんだ肉やソーセージを焼いておく。
 できあがったザワークラウト炒めの上に肉を敷きつめ、その上に層になるようにザワークラウト炒めをかぶせる。
 一番上にピクルスとオリーブ、塩漬けキノコを飾り、肉を焼いた時の肉汁をかけて、フライパンのままオーブンで焼く。
 夫によれば、ザワークラウトとピクルスの酸味が、二日酔いに良いのだとか。
 デザートの前にはいつも、コニャックを半杯飲む。

 そろそろ仕事に取りかかる時間だ。夫は立ち上がって、お茶の準備を始めた。
「ああ、きみは座っていてくれ。お茶だけは自分で淹れるからね」
 夫はお茶の淹れ方にうるさい。夫は書き物机に向かいながら、濃い紅茶をたっぷり飲む。
 結婚して十年以上だけれど、お茶だけは私を信用してくれない。

 まず大きなサモワールから熱湯を注いでポットを温め、小さじ三杯の茶を入れ、ポットの三分の一だけお湯を注ぐ。
 ポットをナプキンで覆って三分待ったら、ポットがいっぱいになるまでお湯を注ぎ足し、またナプキンで覆う。
 自分のカップにお茶を注いで、お茶の色を確かめた。
「うむ、良い色だ」
 ティー・スプーンで砂糖を二杯入れ、カップを持って書斎に行った。

 パントリーには、ジャガイモと玉ねぎ、ザワークラウトとソーセージ、それからリンゴもある。パスチラは娘と一緒に作ろう。

 きまり悪げな顔で、夫が書斎から食堂に引き返してきた。
「お茶を入れた時は良い色に見えたのだが、机の上に置いてみたら、色が良くないのだ…」
 そう言い張って、カップから湯こぼしに移し入れ、お茶を足し、もう一度熱湯を注ぎ足した。
 夫はお茶の淹れ方にうるさい。顔をしかめ、憂鬱そうに注ぎ足したり、減らしたり…。
 お茶は、仕事を始める前の儀式なのだ。

 口述筆記の仕事で、夫に呼ばれるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
 結婚する三年ほど前に夫が出版した著作の一文を、ふいに思い出す。淹れ立ての紅茶が、さわやかに香っていた。

 僕がいつもお茶を飲むためなら、世界など滅んだっていい。
     フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』
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