第十話

文字数 3,938文字


「お世話になりました」
 マネージャーの山口に付き添われて挨拶してまわるショーンを、由莉は離れたところからそっと眺めていた。
「初めてなのに、本当によく頑張ったわね」
 大物女優の久永めぐみにねぎらわれ、ショーンは照れたような笑顔を浮かべて頭を下げる。
「ありがとうございました」

 ロケ日程はまだ半ばだが、ショーンは出番を終えたので一足先に帰京することになった。スケジュール通り、何の問題もなく撮影終了となり、本人もまわりも皆ほっと胸を撫で下ろしている。
「お疲れ様、ショーンくん」
「また一緒にやろうね」
 共演した俳優たちやスタッフにも声をかけられ、ぎこちないながらも自分で対応している姿は、以前と比べたらものすごい進歩だと由莉は思った。はにかんで口数の少ないところが、モデルの派手なイメージと真逆ということで、誰からも好感を持たれているようだ。

「どうにか終わったな」
 奏が由莉の隣に立ち、小声で話しかける。
「あいつ、俳優として十分やっていけるよ」
「奏がたくさん面倒みてやったって聞いたよ」
「奥様の頼みだからね」
「ありがとう」
 奏はニヤッと笑ってうなずいた。
「このロケ終わったら、あとはクランクアップまで東京のスタジオで撮るんだよね?」
 由莉はさりげなく夫に確認しながら、沢彩音の方へちらりと視線を送る。遠目からだが、さっきから彼女は強い光を宿した目で、挑発するような視線を由莉に向けてきている。
「ああ。放送もはじまるし、あっちに戻ったら撮影と並行して宣伝や取材もこなすようだから、色々と忙しくなるな」
「しっかり体調管理して乗り切らなきゃね」
 彩音の視線を無視し、夫に微笑みかける。この後すぐ、由莉もショーンと一緒に東京に帰ることになっていた。
「残りの撮影も頑張って」
「気をつけて帰れよ」
 奏は優しげな表情で由莉を見つめる。

 何もやましいことなどない完璧な夫の顔だった。これが妻がいるホテルの別室で浮気相手と密会するような男だとは、この場にいる誰も思わないだろう。

 ロケ隊は旅館を丸ごと借り切って宿舎にしており、キャストもスタッフも全員そこに滞在している。由莉はドラマには関係ない部外者なので、別のホテルに宿を取り、夫がいるとはいえ宿舎への出入りはなるべく遠慮していた。

 数日前、由莉は子役のころから顔見知りの俳優に「愛妻家の旦那で幸せだね」と冷やかされた。

「夕方終わって宿に戻っても、メシは由莉と食うからって出てっちゃうんだもんな。地元の人も高宮奏はしょっちゅう嫁のとこ行ってるって噂してるらしいよ」
 由莉が泊まっている部屋を夫が訪ねて来たことはあるが、そのホテル内のジム施設を利用するついでに寄っただけで、食事など一度も共にしていない。そもそも奏は普段から節制していて、自宅にいる時も日が落ちると食事を取らないのだ。
 由莉のところに寄らないだけで、せっせとジム通いしているのかとも思ったが、それならわざわざ妻と夕食を取るなどと嘘をつく必要はないはずだ。

 嫌な勘がはたらいた。

 その日の夕刻、ロビー横のカフェスペースで原稿を書くふりをしながら、それとなく出入りする人を観察していると、メガネとマスクをかけた若い女がフロントを素通りしてエレベーターに乗るのを見た。髪型をアップにして変装しているようだが、沢彩音に間違いない。
 しばらくして奏が堂々と現れ、由莉の部屋があるフロアへ上がって行った。エレベーターの表示はそれきり変わらなかったので、そこからは非常階段でも使って彩音のいる部屋へ向かったのだろう。二人とも由莉にはまったく気付かなかった。

 由莉に会いに行くと見せかけて、別の部屋で彩音と密会する――なんて大胆なことをするのだろうと呆れた。他の共演者だってホテルの施設を利用しに来ることがあるのに、誰かに気付かれたらどうするつもりなのか。

 ショーンもよくジムを訪れていて、たまには由莉も一緒にどうかと誘うが、応じたことはない。山口も同伴とはいえ、夫のいる身で変に疑われるようなことはしたくなかった。
 奏と彩音のことで何を見たのか、ショーンは(がん)として口を割らないが、密会を知った時、由莉は「ああ、これだったのか」と悟った。
 何も知らず、いきなりそんな場面を見せつけられたのだとしたら、繊細なショーンはどれほど傷付いたことだろう。そう思うと、由莉は切ない気持ちになった。
 不思議なほど夫への怒りはなかった。もう失望することも傷付くこともない。感じるのはただ、奏の妻でいることの虚しさだけだった。





 東京へ帰る新幹線は、山口が普通の指定席で、ショーンと由莉にはグリーン車が予約されていた。
「寒い?」
 ひざ掛けを広げた由莉に、窓側の席のショーンが尋ねる。
「ううん」
 由莉はいたずらっぽい顔でショーンの手を握り、ひざ掛けの下に引っぱりこんだ。
「こうやって手つないでても見えないように隠すの」
 ショーンは頬を染めて嬉しそうに笑い、ぎゅっと由莉の手を握り返した。
「どうしよう、今すごくキスしたい」
「ダメ」
「ちょっとだけ」
「がまんして」
 口をとがらせたショーンは窓の外をチラッと見て声を上げた。
「あ、あれ何?」
「え?」
 思わず顔を向けた由莉の唇にショーンが素早くキスして離れた。
 子どもじみた策略にまんまと引っかかった恥ずかしさと、ショーンの真っ直ぐな想いを感じて、由莉はがらにもなく頬を赤らめた。
「誰かに見られたらどうするの……」
 グリーン車には他に何人か乗っていたが、席は離れている。それでも人の目なんて、いつどこにひそんでいるかわからないものだ。
「ほんの一瞬だから大丈夫だよ」
 ショーンはひざ掛けに隠れた手の指を開き、由莉の華奢な指とからめて握り直す。いわゆる恋人つなぎの形となり、手のひら同士がぴったりくっついて、お互いの体温をじんわり感じる。
「ドラマの放送が終わるまで待ってて」
 由莉はショーンにささやいた。
「ちゃんとするから」

 この小説ドラマは奏にとっては長年の目標であり、ショーンにとっては俳優デビューとなる大切な作品だ。由莉としても、出来るだけヒットして成功をおさめてもらいたい。
 だから、放送が無事終了するまでは「高宮由莉」でいようと決めた。ショーンとの関係を進めるつもりもない。
  今は互いの想いを感じながら、こうして手をつないでいるだけで幸せだった。
 もし奏との結婚を終わらせないままショーンと一線を越えてしまったら、この幸せな気分は消えるだろうと由莉は思う。違うと否定しても浮気の仕返しのように思われて、宝物のようなショーンとの関係が(けが)れてしまう気がするのだ。

「今まで希望もないまま何年待ったと思ってるの? あと少しで一緒にいられるようになるなら、半年でも一年でもおとなしく待つよ」
 由莉を見つめて答えるショーンは、かつて見たことがないほど穏やかな表情をしていた。
「本当に私でいいの? 後悔しない?」
 ただでさえ五つも年上なのに離婚歴のバツがついてしまうと思うと、由莉は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だから、そんな陳腐なことなど言いたくないのに、つい確認してしまう。

「絶対しない」

 ショーンは即答した。

「俺にとって特別なのは由莉だけだから。好きになるのも大切なのも、欲しくて堪らないのも、失いたくないのも、一緒に生きていきたいのも全部、由莉だけ」

 よどみなく言い切って、にっこり笑う。
 純粋できれいで、一点の曇りもないその想いに、どうやって応えるのが正解なのか、もっとよく考えなければいけないと由莉は思った。

「ありがとう、ショーン」

 今はまだ、愛の言葉を口にする資格はない。由莉はからめた指先にきゅっと力をこめ、ショーンの美しい瞳を、万感の想いで見つめ続けた。






「やってくれたわ」
 カオルは興奮した表情で社長室に入ると、大きなデスクに一枚の紙を叩きつけるように置いた。
「明日発売の週刊文秋にスクープが載るってファックスが届きました」
 女社長の市田ミチルが、一人娘の顔を上目使いにじろっと見る。視線を返すカオルの大きな目には意志の強さがにじみ出ていて、その部分は母親に実によく似ていた。
「本当にいいのね?」
「もちろん!」
 ミチルはふうっと大きく息を吐き、紙を手に取って老眼鏡をかけた。
「不倫ねえ……こういう汚い手しかなかったのかしら」
 そこには、週刊誌の記事のあらましと掲載予定の写真が印刷されていた。ファックス印刷のモノクロで粗い画像だが、背の高い男がほっそりした女としっかり抱きあっているのがわかる。
「あの子をどっかに隠さないとね」
「もう例のホテル押さえてます」
「手回しが良いのね」
「すぐにでも山口さんに連絡して、ホテルに向かわせないと」
 楽しい行事を前にした子供のように高揚しているカオルを見て、ミチルはちょっと肩をすくめた。
「計画通り

が運んで満足そうね」
 娘はあっさりウンとうなずく。
「ずいぶん待ってたけど、もう限界。これ以上あんな不幸そうな姿は見ていたくないし。事務所の将来のためにも一石二鳥になるなら、やらない手はないわ。それに、強引に(わな)()めたわけじゃない。最終的には彼ら自身が選んだのよ」
「あなた、親友じゃなかったの?」
 半笑いで問いかける母親に、カオルは片頬だけで笑ってニヒルな表情を作った。
「親友だからこそ、よ。こんな悪役、あたしにしか出来ないでしょう?」



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