2021年5月 二度迫られて諦めた

文字数 2,050文字

大学附属病院に今すぐ行けと言われた私は、紹介状を手に初夏の陽気を堪能していた。通りすがりの庭の垣根は青空に茎を伸ばし、先端に咲いたバラは皐月の風に揺らいでいる。喉のほかはすこぶる健康な状態なので、歩いて10分程度の道程を散歩のつもりで向かった先は、ものものしい空気に包まれていた。
まず病院に入る前に手指の消毒液の列に並び、受付を済ませると建物の外にあるプレハブ小屋で待つこと小一時間、ようやく呼び出されて行ってみると、いかにもホームセンターで揃えてきたという無垢の角材を組み合わせ、アクリルのシートを貼って作った手作りの防護ブースが置かれている。そこに座り綿棒で鼻の奥をグリグリされる抗原検査を受け、結果が出るまでまた待ち時間。「陰性でしたので、ひとまず安心ですよ」と声をかけてもらえるまでに既に2時間近くが過ぎており、そこからいよいよ診療である。やれやれ。

幸運にして「大病院」というものとあまり縁のない人生を送ってきた。関わる時は義父、義母の付き添いばかりで、自分自身はせいぜい町医者でどうにかなってきた人間としては、諸事初心者であり何をするにも心許ない。さらに今度の病院は、大学附属病院というものだった。それはつまり、湯気の立つような「なりたての医療従事者」によって回っているということに他ならない。そういうものに不安を覚える人はさっさと転院するなり、セカンドオピニオンを探したりするのだろうが、私にそこまでのパッションはなかった。というか、あるべき医療の姿とか、もっとこうしてほしいだとか、理想どころか何も知らないので不安も感じないというのが正しいのかもしれない。突如現れた謎の症状も、自分で選び取ったわけでもなくレミセンに紹介されて訪れた病院も、とりあえず自分に巡ってきたものであり「これも何かの縁である」と信じ、素直に受け取ることで精一杯である。

予想通り、私よりもはるかに年若い先生が診察にあたってくれた。ここでも再びスコープを鼻から差し込まれ、喉の様子をモニターで確認し「イー、って声出してください」というリクエストにお答えする。さすがにレミセンほどの手練れではないのでげほげほと咳き込みながら「イー」っと言ったり息を止めてみたり、ようやく解放されると先生はさらりと「これからすぐ入院できます?」と私に迫ってきた。
どうやら病名の見当はつかないものの、このまま放置するわけにはいかない状況だという判断らしい。そこまでの大ごとになるとはこれっぽっちも予想していなかった私の脳裏にあったのは、塩麹に漬けたシャケの切り身とぬか床のことだった。シャケは今夜焼いて食べるつもりだったし、ぬか床は毎日混ぜてナンボのちょっとしたペットだ。事実「ぬか床ジョニー」と名付けて可愛がっている。ペットのことが気になった私は、いやちょっと今すぐ入院は勘弁してください。通えと言うなら通いますからと担当医に食い下がり、すると先生は渋々ながら、月曜日の10時に通院の予約を入れ、異常があったらすぐに連絡するようにと言って解放してくれた。抗生剤を処方されて、自宅に戻った時はすでに午後4時。抗原検査さえなければ、もう少し早い時間に帰宅できたんじゃないかと思うが、こればかりは避けて通れない時勢である。

夕食、そして寝る前に処方された抗生剤を飲み、その効果を期待するのだが、一向に状況は変わらない。喉の腫れが何某かのウイルスによるものなら、殺菌することで治まるのではという担当医と私の希望はまるで報われず、それどころか翌日にはさらに患部の腫れが酷くなったのか、食事も水も飲み込む際に猛烈な痛みに襲われるようになった。多少の熱はあるものの、他はすべていつも通りだから腹も減るので食事を作るのだが、飲み込む瞬間だけが飛び上がる程痛い。でも腹は減るから食べる。トーストを一口齧ってはドロドロになるまで咀嚼し、目玉焼きを一口噛んでは気合いを入れてエイヤっと飲み込む、ということを繰り返すもんだから、遅々として食事が進まない上に、処方された薬を飲もうにも痛いときている。
そうして迎えた月曜日の10時、またしても診察室に入るためにまず抗原検査を受け、綿棒で鼻をグリグリと撫でられる。やっとのことで診察室に呼ばれると、先週末に担当してくれた先生が急遽出張に出てしまっているとのことで、また別の医師が診察にあたってくれた。またしてもここで鼻からスコープを突っ込まれ、状況に変化がないことを見るや、その先生も私に通告したのであった。

「これから入院できます?」

観念した私はとりあえず荷物をまとめたいから、一旦帰宅させてくれと申し出て戻り、ジョニーにコールドスリープを施さんと冷蔵庫に入れて、読みかけの本と愛読書を1冊ずつ、それから身の回り品をカバンに詰めて入院病棟へと向かった。とにかく一度病院を出てしまうと、再度入場の際にはもう一度抗原検査のやり直しになるという現実にシビれながら、初回から数えて都合3回目の抗原検査ののちに病棟の人となった。

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