第8幕
文字数 1,766文字
特別声を張り上げて話しているわけではないのに、蔦彦の落ち着いた言葉は、石造りの壁に反響して、不思議なエコーに包まれて聞こえた。
晶は心地好い浮遊感に浸りながら、蔦彦の声が物語るのを待った。
「人なつっこいえくぼさえ浮かべていそうな、ふっくらまんまる顔の満月の晩。
雲飼いの少年ラウは、幾つかの千切れ雲を連れて、晴れた夜の空の散歩をのんびりと楽しんでいた。
空中を浮遊する彼らの遥か下には、翠緑(すいりょく)の草の海原が、月明かりに照らされて、ゆったりと広がっている。
さらさらと零れてくる柔らかな月の光を浴びて、ラウの細くて真っ直ぐな白銀の髪の毛が、雪の結晶のようにきらきらと光り出す。
少年の足許に戯れている、子兎のようなチビの千切れ雲達も、月光のシャワーを浴びて、さも気持ち良さそうに、ぽんぽんと弾んでいる。
そこへ、新鮮なレモンの香りが、ラウの鼻先をふっと掠めていく。
耳許でひゅるんっと風の吹き過ぎる音がしたかと思うと、もう目の前には、風飼いの少年ジルの姿があった。
栗鼠のようにすばしこそうなエメラルドグリーンの瞳は、いつも何か面白そうなことを探して、生き生きと輝いている。
〈やあ、ジル。とても気持ちの良い晩だね〉
〈そうだね、ラウ。
今日は、夕空を閉じ込めた薔薇色の硝子の欠片を持ってきたんだ。きみは?〉
〈僕は、瑠璃色の蝶が印刷された切手。
この深い鮮やかさが好きなんだ〉
一日の終わりに顔を合わせ、その日収穫した美しい物を見せ合ったり、交換し合ったりすることは、少年達が楽しみにしている日課だった。
ささやかな宝物について言葉を交わしているうちに夜も更け、瞼もとろんとしてきたところで、また明日と言い合って、ラウはジルと別れ、自分の寝床のある巣穴へと帰ることにした」
蔦彦は一巡目の役割を終えたらしく、そこで口を噤んだ。
その後を引き取って、生まれたばかりの物語に規則正しい鼓動を与えたのは、真澄だった。
「歳ふりた大樹の洞の中にある、干し草と苔を混ぜて拵えた、ふかふかの寝床。
それは、巣穴から射し込んでくる淡い月の光に程良く温められて、香ばしく乾いた匂いがするだろう。
その寝床で見る夢は、いつも安らかな光に包まれていた。
既に半分ほど眠りの世界の住人となっていたラウは、大きなあくびに顔を半分占領されながら、少しずつ高度を下げて、草原の真ん中に聳え立っている大樹の洞の中へと、どうにか無事に帰り着いた。
そうしてそのまま寝床の中へ、ばったりと倒れ込もうとした時、ラウの額に、ごつんと何かがぶつかった。
一瞬、目の中に、無数の金色の星が飛び散った。
〈…‥痛いっ! いたたたた、痛いよお〉
あまりの痛みに目尻に涙さえ浮かべながら、自分が何にぶつかったのか、恐る恐る目を開いて、確認してみる。
それは、ラウの背丈ほどもある、大きな大きな半透明の卵形の物体だった。
月明かりに透けて見えるその中身には、ぷりんとした蒼白い花の蕾が宿っている。
それは内側に螢が閉じ込められているかのように、内部からポワッと滲むような光を発していた。
そのほんわりとした光景は、幻想的でさえあったが、問題は、そんな得体の知れない物体が我が物顔で、ラウの寝床を、ででんと占領していることだった。
じんじんと熱く疼く額を押さえて、ラウはぼんやりと考え込む。
今朝起きて、この洞の中から出るまでは、こんな幅を取るような物は、間違いなく存在していなかった。
何が目的かは分からないが、誰かがラウの留守中に置いていったのだろうか。
それとも、もう夢を見ているのか。
でも夢にしては、この額の疼く痛みは、とてもリアルに感じられる…‥」
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・・・ 第9幕へと続く ・・・
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