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 護衛も三日目を迎えた。

 鍋島は毎朝決まった時刻に丸山和子を八尾の職場まで送ると、しばらくはその周辺を車で巡回した。しかしいつも特に不審な人物は見当たらず、何となく心細い気分で大阪市内へ戻っていくのだった。
 そして昼間は仲間に裏切られて無念の死を遂げた──きっと殺人犯はそう思っているのだろうが、鍋島はちっともそんな風には考えていなかった──飯田健と関わりのある人物の割り出しに懸命になった。
 しかしすでに一条が同じことをやって徒労に終わっている通り、それらしい人物は浮かび上がってこなかった。
 飯田健は孤児だった。市内の施設から高校まで通い、その後は西宮市の小さな文具メーカーで真面目に働いていた。それがなぜだか去年の秋、突然退職してしまったのだ。
 時期的に考えて丸山に誘われたのだな、と鍋島は考えた。それから先の行動は、大阪ではまるで判らなかった。
 やがて今月の五日、自ら強盗に入った横浜の宝石店の前で、ひき逃げ死体となって発見されたのである。
 孤児の飯田には当然、肉親はいなかった。刑事たちは同じ時期に施設にいた人間や関係者を洗い出し、全員で手分けして消息の分かる限り調べてまわったが、施設を離れてからの飯田と親しい者は誰もいなかった。
 それどころか、ほとんど全員がその頃の話をしたがらなかった。無理もないなと鍋島は思った。誰だって望んでそんなところで育ったのではないはずだ。
 やがて太陽が西に傾き、街の隅々までが朱に染まり始める五時をまわると、鍋島は再び八尾へ向かって車を走らせるのだった。

 芹沢と一条の方は、もう少し護衛に忙しかった。
 丸山美登利は中学三年生で、東成(ひがしなり)区の公立中学に通っていた。女子バトミントン部の部長で生徒会の副会長でもあり、成績優秀、当然クラスの人気者だった。決して家庭的に恵まれているわけではないのに、本当に明るく、活動的な学校生活を送っている。いったいどうしたらこんなに気丈でいられるのだろうと、芹沢も一条も美登利の様子を不思議にさえ感じていた。
「──刑事さん、お待たせ」
 五時半をまわって生徒たちの姿が途絶え始めた校内から出てきた美登利は、校門の向かいに停めてあった車のウィンドウを叩いて中の一条に微笑んだ。  
 身長165cm、体重52kgの育ち盛りの身体を白いブラウスと千鳥格子のプリーツ・スカートで包み込み、上半身を直角に屈めて窓を覗いている。耳のあたりでカットした丸いシルエットのショートボブの髪型が、まだあどけない顔によく似合っていた。
「お帰り。どうだった? 部活は」
 一条は笑顔で言うと後部座席に振り返ってドアを開けた。
「試験が終わるまで今日でいったん終わりやていうのに、集まりが悪くって。いくら試験前やて言うても、ちょっとひどすぎるわ」
「仕方ないわよ、みんな美登利ちゃんみたいに成績がいいわけじゃないんだもの。試験前になると慌てて勉強し出すのよ」
「刑事さんはどうやったの?」
「もちろん、成績優秀だったわ」一条はさらりと言った。「一学年三百人中、いつも三番以内よ」
「……すごい」
「と言っても、女子校だったからね。男子がいないのって、あまりたいしたことないのよ」
「それでもトップ3なんてすごいわ。あたし、一条さんのこと尊敬する」
「ありがと。で、どうするの? このまま塾へ直行?」
「もう一人の刑事さんは?」
「新聞買ってくるって言って、環状線の駅まで行ったんだけど──」
 一条は時計を見た。「まったく、何やってんのかしら」
「ねえ、一条さんって、あの刑事さんのこと好きなん?」
「……何でそういうこと考えちゃうわけ?」
 一条は唖然とした顔で振り返った。
「だって、見てたらそんな感じやし」
「あのね、美登利ちゃん」一条は噛みしめるように言った。「わたしと芹沢刑事は仕事で組んでるの。好きで一緒にいるわけじゃないのよ」
「分かってるけど──二人ともなんか愉しそうやし」
「あなたを不安がらせないように、わざと明るく振る舞ってるの。みんな打ち合わせ済みのことなのよ。大人って、あなたが思うほど単純じゃないのよ」
「そうかなあ」と美登利は首を傾げた。「でもあの刑事さん、超イケメンよ。あたし、あんなにかっこいい男の人に会ったの、初めて」
「何言ってんの、男は顔じゃないわよ。よく覚えときなさい。あのテの男は逆に要注意よ。ルックスを武器に、女を食い物にするのが多いからね。まあ、食い物にされる女も馬鹿なんだけど」
 ふうん、と美登利は感心したように頷いた。
 そこへ当の芹沢が戻ってきた。左脇に新聞を挟み、手にはソフトドリンクの缶を二つ持っている。右手には自分の缶コーヒーを持ち、飲みながら歩いてきた。
「よ、お帰り、美登利ちゃん」
 車に乗り込みながら芹沢が言った。「待ってたよ。その可愛い笑顔を早く見たくてさ」
 そんな芹沢を指差し、一条は美登利に振り返った。
「ね。調子がいいでしょ」
「誰がだよ」
「あなたよ。何やってたのよ、今まで」
「うるせえなあ、そうガミガミ言うなよ。ほら、お土産だってちゃんと買ってきてやったんだから」
「そんなの買ってきてって言ってないわよ」
「何だよ? 何とんがってんだよ」
 そう言うと芹沢は後ろの美登利に振り返った。「このお姉さん、どうしちまったんだ?」
「一条さんも女だから、いろいろあるんよ」
「美登利ちゃん、余計なこと言わないの」
 芹沢はまじまじと一条を見て、すぐに何か思いついたように目を細めた。
「ああ──

のか」
「バカっ! またセクハラ!」
 一条は思い切り芹沢の腕を叩き、顔を真っ赤にして前に向き直った。「ほんっと、耳を覆いたくなるわ。もういいから早く出しなさいよ!」
「──ったく、何だってんだよ……」
 芹沢は腕をさすりながらキーを回した。


 それから二人は美登利を自宅から一キロほど離れた学習塾へと送っていった。
 裕福な家庭の子ではなかったが、彼女も受験生である。塾は九時までで、そのあいだに二人は交替で食事を摂った。
 九時近くになって一条が車に戻り、二人は塾の入っているビルから美登利が出てくるのを待った。
「雨が降りそうよ」一条は言った。「さっき、雷が鳴ってたわ」
「……よく降りやがるな」
「当然よ、梅雨だもの」
 芹沢はちらりと一条に視線を向けると、ふんと鼻を鳴らして前を見た。
「──どうやら終わったみたいだな」
 ビルの入口からは美登利と同じ年頃の少年少女が出てきた。それぞれに談笑しながら、やがて二、三人のグループに分かれ、歩いて駅へ向かったり、あるいは建物の裏手にある自転車置き場から自転車を転がしてきて、乗りながらその場を去っていく。どの顔にも受験勉強に追われているのだという悲壮感はなく、むしろそれを愉しんでさえいるようだった。
「……近頃のガキは器用なんだな」
 芹沢は溜め息をついた。「それとも、諦めが良過ぎるのかね」
「普通なんでしょ、これが」
「一流校へ入ったら親は安心ってわけか」
「最後は一流の仕事に就いてもらって、自分たちの余生を保障してもらおうって考えなのよ。国の社会保障制度があまりにも頼りないから」
「甘いと思うぜ。あいつらが大人になった頃にゃ、親はどこかの施設に送られてるのが関の山だ。ヘタすりゃ、それまでにかなり衝撃的な方法で殺されてるかも知れねえ」
 そう言った芹沢に一条は振り返った。「何でもそうやって穿(うが)って見てしまうのね」
「刑事を三年もやってみな。おたくだってそうなるさ」
 芹沢は言うと腕時計を見た。「──九時だな。俺ちょっと鍋島に連絡入れてくるよ。あいつ、九時までには母親と一緒にアパートに戻ってるって言ってたし」
「ケータイはどうしたの?」
「あいつに貸してあるのさ。あいつ、今どき持ってねえんだ」
「じゃ、わたしので掛ければ?」
 一条は言って、ジャケットのポケットから自分の携帯電話を取りだして芹沢に渡した。
「いいよ」
「どうして?」
「……何となく、女のケータイ使うのは気が引けるんだ」
「似合わないこと言うのね」と一条は笑った。「気にすることないわよ。仕事なんだから」
「いいよ。ちょうど近くに公衆電話があったから、そこ行ってくる」
「ま、勝手にすればいいけど」と一条は肩をすくめた。「ただし、今度は早く帰ってくるのよ」
「分かってるよ」
 車を降りた芹沢は表通りへ出る方向へと走っていった。
 一条はビルの二階の窓を見上げた。教室と思われる部屋にはまだ明かりが点いていたが、玄関から出てくる子供たちはいなくなっていた。彼女は首を傾げた。いったい、美登利は何をしているのだろう。
「遅いわね──」
 そう呟くとドアを開け、車を降りた。
 一条はビルに近づいた。玄関の階段を上がり、出入口を覗いた。静かなフロアには人影はなく、その先にある階段から誰かが下りてくる気配もなかった。彼女は再び表に出た。


 ──女刑事が外の通りに出たのを確認して、ゆっくりと立ち上がった。壁にぴったりと背をつけ、足音を立てないように廊下を進む。
 階段の前に来ると、その上を見上げた。


 外では雨が降り出していた。天を仰いだ一条の頬に落ちてくる滴は、意外にひんやりとしていた。そのままさっきの窓を見上げると、まだ明かりは点いてはいたが、人のいる様子はうかがえなかった。
 一条は裏の自転車置き場にまわった。
「──う……!」
 誰かに後ろから口を塞がれ、一条はバランスを崩した。さらに羽交い締めにされた彼女は必死でもがいたが、相手の力の方がはるかに強く、まるで歯が立たなかった。それでもようやく右手を振り解いて上着の懐から拳銃を抜いたが、見計らったように叩き落とされた。軽量の銃は雨に濡れたアスファルトを滑り、並んだ自転車の下へと消えていった。
 口を塞がれたままの一条は、息苦しさに身悶えながら力任せに腕を振り、相手の脇腹に肘鉄を食らわせた。
「うぐっ……!」
 女だ、と一条は思った。若くはない。四、五十くらいの中年の女。三人の女性の身体にあれだけ無惨に(やいば)を突き立て、しかも約束したように右の太股をえぐっておく。あんなひどいことができるのは頭のおかしい男に違いないと、彼女は勝手に思い込んでいた。それが何と、犯人は意外にも女だったのだ。
 そして今、その獣のような女は今度は彼女を獲物にしようとしているのだ。
 頭上で何かが光った。一瞬、一条はそれが稲妻だと思った。
 しかしそれは夜空のどこかで光ったのではなく、自転車置き場の電灯を反射する、鋭く尖った牛刀だったのだ。
 殺されるのはいやだ、と一条は思った。振り下ろされる包丁を頬のギリギリのところでかわし、同時にその腕を右手で掴む。相手の力が数倍強かったが、今の彼女もかなりの力を振り絞っていた。こういうのを『火事場の馬鹿力』と言うのだろうと、とてもこんなときに考えている場合ではないことが頭に浮かんだ。
 つまり彼女は、そのくらい冷静だったのだ。
 それに今度は、この前工藤達彦を取り逃がしたときのような恐怖感もなかった。
 それよりも、この女を絶対に逮捕してやるのだという思いだけが全身を動かしているのだと言っても良かった。依然として口を塞がれながらも、彼女は必死で応戦した。
 一条はヒールで女の足を踏みつけた。女は足を引っ込め、その拍子に少しふらついた。けれどもすぐにバランスを取り戻すと、怒り狂ったように包丁を持つ手を振り回した。
 刃先を避け、一条は顔を左右に揺らした。女は彼女を突き飛ばし、彼女は足を滑らせて地面にうつ伏せに倒れた。素早く女に向き直ったが、女は彼女の腰の上に馬乗りになり、外灯の真下で包丁を振り上げた。
 真っ黒のシルエットが、彼女に覆い被さってきた。
 これで駄目だ、と思った。反射的に目を閉じ、唇を噛んだ。

「──そこまでだ」
 芹沢の声だった。
 一条は目を開けた。芹沢が女の背後にぴったりと張りついてひざまづき、その後頭部に拳銃を突きつけていた。
「一ミリでも動いてみろ。そのイカれた頭を吹っ飛ばしてやる」
 そう言った芹沢の、銃を持つ指がゆっくりと撃鉄を起こした。
 そして抵抗の気配のない女の手から包丁を抜き取ると、足下に落として女の腕を背中に回した。
「大丈夫か」芹沢は一条に言った。
「……ええ」
 一条は呆然と答えた。全身の力が抜け、急に腰が重く感じられた。
 女は芹沢に引きずられるようにして一条から離れ、そのままぺたんと座り込んだ。
 芹沢は拳銃を収め、女に手錠を掛けた。
「殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 その言葉を聞いた瞬間、一条に恐怖が襲ってきた。膝が震え、肩が震え、唇が震えた。胸が熱くなり、みるみるうちに涙が溢れた。
「……もう……駄目だと思った……ここで死ぬんだ……って」
 そう言うと一気に涙がこぼれた。青ざめた頬を伝い、激しくなった雨の滴とともに顎から流れ落ちた。涙と雨でくしゃくしゃになった顔で、彼女は芹沢を見上げた。
「……怖かった。けど、必ずあなたが来てくれるって信じてた」
 芹沢は穏やかな眼差しで彼女を見つめた。
「……独りにさせて悪かったよ」
 そして犯人の手首に掛かった手錠を持ったまま、空いた方の手で彼女を抱き寄せた。
「よく頑張ったな」
 芹沢の言葉に、一条は声を上げて泣いた。

 二人が犯人を車まで連行してくると、その前で美登利がぽつんと突っ立っていた。雨に打たれ、口を半開きにしてこちらを見つめている。リュック型の鞄がアスファルトの上でぐっしょりと濡れていた。
「美登利ちゃん……!」
 一条が駆け寄った。「……ごめんね、中で待っててくれれば良かったのに」
「……捕まったの?」
 美登利は犯人を見て言った。
「ああ、もう安心していいぜ」芹沢が答えた。
 しかし美登利は犯人をじっと見つめたままだった。そして、やがてゆっくりと足を踏み出すと、その女の前に立ちはだかった。
 その顔は、彼女がこの三日間で刑事たちに見せたことのない、十五歳の少女とは思えない凄みが感じられた。見つめられた犯人の女も思わず顔を背けてしまうほどだった。
「美登利ちゃ──」
 呼びかけた一条の手を振り払うと、美登利は女に言った。
「──最後の最後でしくじりやがって。どうしてくれんのさ」
 芹沢も一条も、このときばかりは我が耳を疑った。


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