狴犴インタビュア
文字数 4,999文字
わたし、夢野壊色は、トレッキングウェアを着込み、冬の山を登っていた。
「ここは最果てか……?」
わたしの吐く息は白い。
一方、わたしの前方の鏑木盛夏は、街中で歩くかのごとく耳にヘッドフォンをかけ歩いている。
どーやったらこんな高い山を音楽聴きながら歩けるのか。
わたしは盛夏の背中を見ながら、県内一の高い山を、ここにしか生えていない植物を採取するために、登る。
そもそも前方にいる盛夏の〈百合ップル〉の相手、雛見風花が欲しいとねだる植物の採取に、なんでわたしが付き合うはめになったのか。どーいう流れだ。勝手にいちゃらぶしてればいいものを、わたしまで巻き込みやがって。
「狴犴(へいかん )」
振り向きざま、盛夏はわたしに向けてか、謎の単語を発した。
「なによ、狴犴て」
わたしは一瞬、足を止める。
「竜が生んだ子供の一匹。姿は老いた虎。力を好む。監獄の扉の意匠に使われるわ。また、監獄の異名でもあるの」
「監獄ねぇ。この山からは遠くを一望できて、一望監視できそうよね」
身体を翻し、盛夏はまた山を登り始めた。どーせヘッドフォンでわたしの声は聞こえない。盛夏は思いついたことをふと言っただけ。いつものことだ。
しばらく登り続けていると、突如。
「ごめん、壊色。吹雪が来るわ」
こっちを見ないで謝る盛夏。
十分後。
果たして山は吹雪に見舞われた。
吹雪いてヤバそうなところで、山頂近くにあるログハウスに入り、わたしと盛夏は行き倒れを防ぐことに成功した。
だが。厄介ごとはいつもわたしに降りかかる。
☆
「どうやら先客がいるようね」
盛夏が言う。
ログハウスに入り、ウェアについた雪を振り落とし、安堵の息を吐く。
「やっと休めるわー」
暖かいログハウスの室内に、腰を下ろすわたし。
「先客がいるのだから、挨拶はしないとダメでしょう、壊色。殺されて食べられちゃうわよ」
「山姥かい!」
と、そこに男性の太いしわがれた声。
「誰が山姥だって?」
見ると、奥の方からひとが現れた。筋肉はムキムキな、老人の男性だ。
「先客かぁ」
わたしが言うと盛夏は、
「そう。先客なのよね」
と、含みを持たせて、わたしに言った。
男性は尋ねてくる。
「ここになんのようだい、お嬢ちゃんたち」
「いきなり吹雪が襲ってきて、それでこのログハウスに入ったんです」
素直にわたしが伝えると、
「失礼ですが、あなたはここの管理人さんかなにかですか」
と、割って入るように盛夏が老人に訊く。
「いや。違うが。それがどうした。ここは誰が使ってもいいようにつくられてる。それこそ、今みたいな吹雪のときのような事態に備えて」
「そう、ですね」
鏑木盛夏は、こくんと頷く。
「まあ、ゆっくりくつろいでくれ。猪鍋、食べるか?」
「猪鍋? つくってるんですか? そういえば、おいしそうなにおいが」
言うや否や、わたしのおなかがぐーと鳴る。
「奥がキッチンになってるんだ。トイレも奥にあるからな。待ってろや」
「お気遣いありがとうございます」
盛夏が、頭を下げる。それに気を良くした老人は、奥のキッチンへと消える。
ドアが閉められたのを確認してから、盛夏は携帯電話で通話する。相手は救助隊だ。
「やっぱり、とうぶん、吹雪は止みそうになくて、救助隊が来てくれるそうよ」
「どのくらいかかるの、盛夏」
「三十分もあれば用意をしてここまで来れるらしいわ。それまで、あちしたちは〈おとなしく〉していましょ」
「そりゃおとなしくするわよ、盛夏。いつもわたしがぎゃーぎゃー騒いでいるわけじゃないって知ってるでしょ」
「そうね、壊色……。ふふ」
「もう、なによ、その含み笑いはぁ」
「壊色は、吹雪の山荘がお気に召したのかしら? なんて思ってね」
話していると、老人がドアを開けて、土鍋を持って、戻ってきた。
「猪鍋だ! うめぇぞ! たんと喰え!」
「うぇーい!」
わたしは喜んだ。生まれて初めての猪鍋である。喜ばないほうがおかしい。
盛夏は、眠そうにしている。
「盛夏の分もわたしが食べちゃうぞ」
「あちしの分も食べていいわ。じゃ、あちしはしばらく、横になってるわね」
「山登り、疲れたのね」
「……そうよ」
ぐでーっと横になる盛夏を眺めてから、わたしは猪鍋をほおばることにした。
☆
「完食したー!」
わたしが空っぽになった鍋の前で宣言すると同時に、盛夏がヘッドフォンをつけた頭を起こし、眠りから目覚める。
「おはよう、壊色。食べたの?」
「ええ」
「ご苦労さま」
ヘッドフォンは着けているが今は音楽を聴いているやらいないやら。
「おいしかったわよ」
「それはよかったわね」
「龍田さん……あ、龍田ってのは鍋をごちそうしてくれたお爺さんの苗字なんだけど、その龍田さんの身の上話を聞きながら食べてたの! 聞きたい?」
「壊色、手短にお願いね」
「龍田さんには生涯の四分の三を共にした奥さんがいたらしいの。その奥さんの思い出話。それが龍田さんの人生の歩みの全てなんだって! 素敵よね」
「素敵……ねぇ。人生の全てだって言うわりには、ここにはいないじゃないの」
「バカねぇ、盛夏。その奥さんがお亡くなりになってしまったっていうのが、龍田さんが山を登った理由だって言うのよ」
「ふーん。そういえば山の中腹に古刹があるわね」
あはは、と照れ笑いをする龍田老人。盛夏は老人に尋ねる。
「龍田さん……ですか。奥様はどうなさったんですか。ずいぶん奥様の思い出話をそこの阿呆に語られたようですが」
龍田老人は遠い目をして、
「虎に、喰われちまったよ」
と、ぼそりと呟いた。
「ご冥福をお祈りします」
「なに言ってんの、盛夏。虎に喰われるなんて、仏教の古典みたいな例え話で、そこにツッコミを入れなきゃダメなとこでしょうが! このお惚け盛夏!」
「お惚けはあなたよ、壊色。これは、正確には『狴犴』ね」
「また狴犴? 老いた虎の姿っていう」
「そしてここは狴犴の監獄の中よ」
「意味わかんないわよ」
「それより壊色。トイレがあなたを呼んでいるんじゃない?」
「そうね。ちょっとお花を摘みに行ってきましょうか」
わたしは腰を上げた。
「龍田老人。キッチンのさらに奥がトイレという構造ですね」
「ドアの向こうがキッチン。そこからトイレにも行けるわい」
「行ってきなさい、壊色。あちしはリュックで持ってきたペットボトルのお茶を飲んでいるわ」
わたしは歩いていき、ドアを開け、キッチンに入った。
キッチンに置いてある大きなポリバケツが満杯になっていて、そこから強烈な臭気が漂っている。
気になったわたしは中身を見た。
捨ててあったのは、バカみたいにたくさんの、臓腑だった。血に染まったままの。
血液で赤く染まった、ピンク色の、臓器、臓器、臓器。
ポリバケツのふたを閉め、わたしはトイレに駆け込んだ。
そして、胃の中に入っているすべてを吐き出した。
吐きすぎて涙がだらだら出た。気持ち悪い。
☆
わたしが戻ると、龍田老人が席を立ち、料理の食器などの片づけにキッチンへと向かっていった。
「よくあんなキッチンにいられるわね!」
わたしがぷんすか怒ると、
「生涯の四分の三、連れ添った臓器ですもの」
と、盛夏は冷笑する。
「それ、どういう……。えっ? それってまさか」
「あちし、言ったじゃない、狴犴の檻の中だって。狴犴。奥さんを殺した老いた虎は龍田老人よ」
「それの確認のために、わたしをキッチンの方へ行かせたのね!」
「吐いてた声、聞こえたわよ。老人にも、ね」
「龍田老人はなんでこんなことを?」
「老人はここの管理人ではないって言ってたじゃない。それは〈真〉。しかし、ログハウスは誰にでも解放されているってのは〈偽〉よ」
「どうしてわかるの?」
「救助隊に連絡したでしょ。あれはあちしが老人がいない隙をついて電話した。目の前で連絡してたら、あちしたちも食べられちゃってたかもね。殺される可能性は、持続中だけど」
「それで?」
「救助隊は、ログハウスはカギがかかっている場所だ、と教えてくれたわ。それに、カギ穴が壊されてるのは入るとき、確認済み。そして、救助隊が出動するのも、ここは普段誰も登らない場所だから」
「登らない場所なの?」
「人間の手にかかってない場所に咲く花を、あちしの可愛い風花ちゃんは欲しがっていたの。だから来た。この山道は、中腹にある古刹に登るためにある道からお情け程度に繋がってるだけよ。ログハウスも、修行僧が泊まることを想定してただけみたい」
「龍田老人がいるのは、吹雪と関係ない?」
「猪鍋……正確には人間鍋は、つくるのに時間がかかる。吹雪の前からいて、食べる気だったんでしょ」
「証拠隠滅なら、余った臓腑をポリバケツに捨てるのはおかしいでしょ」
「ポリバケツには臓腑以外は入ってなかった。臭い物にふたを閉めただけでしょ。あとでいくらでも使える。冬だしね。彼がひとりでいたいところに、あちしたちが来てしまった」
ドアの開く音がして、龍田老人が戻ってきた。ニコニコ笑顔だ。
そこに、盛夏が尋ねる。
「失礼ですが、奥様の晩年は、もしかして痴呆が始まってしまった、とか?」
挑発が過ぎるぞ、盛夏!
わたしは心臓が飛び出るかと思った。
老人は言う。
「そろそろ吹雪は弱まってきたが、そこのヘッドフォンの嬢ちゃんがおそらくは呼んだであろう救助隊が来るまで、あとどれくらいかかるだろうねぇ」
老人の目は血走っている。
鏑木盛夏は、毅然とした態度で、龍田老人に向かって、言う。
「あちしたちは女の子二人組。女の子だけで山を登るのに、まさか自分を守るものをなにも持たずにここまで来た、とはお思いではないでしょう?」
龍田老人はあごひげに手をやり、しばし沈黙する。
それから口を開く。
「なにを持っている、おまえら?」
「教えるつもりは毛頭ありませんよ」
「わしは今すぐおまえらを殺すかもしれないぞ。そして鍋にして、お前らも喰う」
「救助隊が来るのでは、と言い出したのはあなたの方では? 追い詰められているのはどちらでしょうね」
「殺すのなんて簡単だぞ。首を絞めて、おまえらも殺す」
そこで盛夏はけらけらと乾いた笑いで、相手をけん制する。
「おやおや。絞め殺すとはね。あちしの実家では、動物を殺す手段を教えて実践させるのです。だからずいぶんあちしも殺しましたよ」
「ハッタリだな」
「動物を屠るには、眉間に棍棒を上手く打ち込むと、一撃ですね」
「おまえの眉間に棍棒を打ち込んでやろうか」
「その防御策を、実践を学んだあちしが知らないとでも? ご老人。ずいぶん即物的ですね」
「防御策? 確かにおまえは、さっきから〈姿勢が正しい〉な。寝ている時ですら、すぐに起きることを想定している」
会話の風向きが変わったのを、わたしは感じた。盛夏は続ける。
「あなたはあちしたちがここに〈偶然〉迷い込んだと思っている。でもどうです? あちしたちが当局の〈囮〉としてここに来たのだとしたら」
「……くっ!」
歯ぎしりする龍田老人。
話し続けた、引き伸ばし続けた。
会話を制したのは鏑木盛夏だった。主導権を握り、会話を続けていき、龍田老人は手も足も出ない。なにが飛び出してくるかわからないからだ。
ログハウスの入り口が、ようやく開く。救助隊が到着したのだ。
龍田老人と鏑木盛夏の攻防戦を見守っていたわたしは、いつの間にか汗だくになっていた。
ログハウスの中に、救助隊と、そして盛夏が呼んでいた警察の捜査班が一斉に入り込む。
「助かったぁ……」
その場にへたり込むわたし。
盛夏はへたり込んでるわたしに、
「あちし、壊色といるといつも怖い目に遭うわね」
なんて言う。
「誘ってきたのはあんたの方でしょう、盛夏ぁ!」
「狴犴の監獄を、無事脱獄できたわね」
「上手くまとめよーとすんなっ!」
わたしは仰向けに寝転んだ。あー、もう。吹雪の山荘なんて、気に入るわけないじゃない!
嘘つきハッタリ勝負、勝者は鏑木盛夏なのでした。
〈了〉
「ここは最果てか……?」
わたしの吐く息は白い。
一方、わたしの前方の鏑木盛夏は、街中で歩くかのごとく耳にヘッドフォンをかけ歩いている。
どーやったらこんな高い山を音楽聴きながら歩けるのか。
わたしは盛夏の背中を見ながら、県内一の高い山を、ここにしか生えていない植物を採取するために、登る。
そもそも前方にいる盛夏の〈百合ップル〉の相手、雛見風花が欲しいとねだる植物の採取に、なんでわたしが付き合うはめになったのか。どーいう流れだ。勝手にいちゃらぶしてればいいものを、わたしまで巻き込みやがって。
「狴犴(へいかん )」
振り向きざま、盛夏はわたしに向けてか、謎の単語を発した。
「なによ、狴犴て」
わたしは一瞬、足を止める。
「竜が生んだ子供の一匹。姿は老いた虎。力を好む。監獄の扉の意匠に使われるわ。また、監獄の異名でもあるの」
「監獄ねぇ。この山からは遠くを一望できて、一望監視できそうよね」
身体を翻し、盛夏はまた山を登り始めた。どーせヘッドフォンでわたしの声は聞こえない。盛夏は思いついたことをふと言っただけ。いつものことだ。
しばらく登り続けていると、突如。
「ごめん、壊色。吹雪が来るわ」
こっちを見ないで謝る盛夏。
十分後。
果たして山は吹雪に見舞われた。
吹雪いてヤバそうなところで、山頂近くにあるログハウスに入り、わたしと盛夏は行き倒れを防ぐことに成功した。
だが。厄介ごとはいつもわたしに降りかかる。
☆
「どうやら先客がいるようね」
盛夏が言う。
ログハウスに入り、ウェアについた雪を振り落とし、安堵の息を吐く。
「やっと休めるわー」
暖かいログハウスの室内に、腰を下ろすわたし。
「先客がいるのだから、挨拶はしないとダメでしょう、壊色。殺されて食べられちゃうわよ」
「山姥かい!」
と、そこに男性の太いしわがれた声。
「誰が山姥だって?」
見ると、奥の方からひとが現れた。筋肉はムキムキな、老人の男性だ。
「先客かぁ」
わたしが言うと盛夏は、
「そう。先客なのよね」
と、含みを持たせて、わたしに言った。
男性は尋ねてくる。
「ここになんのようだい、お嬢ちゃんたち」
「いきなり吹雪が襲ってきて、それでこのログハウスに入ったんです」
素直にわたしが伝えると、
「失礼ですが、あなたはここの管理人さんかなにかですか」
と、割って入るように盛夏が老人に訊く。
「いや。違うが。それがどうした。ここは誰が使ってもいいようにつくられてる。それこそ、今みたいな吹雪のときのような事態に備えて」
「そう、ですね」
鏑木盛夏は、こくんと頷く。
「まあ、ゆっくりくつろいでくれ。猪鍋、食べるか?」
「猪鍋? つくってるんですか? そういえば、おいしそうなにおいが」
言うや否や、わたしのおなかがぐーと鳴る。
「奥がキッチンになってるんだ。トイレも奥にあるからな。待ってろや」
「お気遣いありがとうございます」
盛夏が、頭を下げる。それに気を良くした老人は、奥のキッチンへと消える。
ドアが閉められたのを確認してから、盛夏は携帯電話で通話する。相手は救助隊だ。
「やっぱり、とうぶん、吹雪は止みそうになくて、救助隊が来てくれるそうよ」
「どのくらいかかるの、盛夏」
「三十分もあれば用意をしてここまで来れるらしいわ。それまで、あちしたちは〈おとなしく〉していましょ」
「そりゃおとなしくするわよ、盛夏。いつもわたしがぎゃーぎゃー騒いでいるわけじゃないって知ってるでしょ」
「そうね、壊色……。ふふ」
「もう、なによ、その含み笑いはぁ」
「壊色は、吹雪の山荘がお気に召したのかしら? なんて思ってね」
話していると、老人がドアを開けて、土鍋を持って、戻ってきた。
「猪鍋だ! うめぇぞ! たんと喰え!」
「うぇーい!」
わたしは喜んだ。生まれて初めての猪鍋である。喜ばないほうがおかしい。
盛夏は、眠そうにしている。
「盛夏の分もわたしが食べちゃうぞ」
「あちしの分も食べていいわ。じゃ、あちしはしばらく、横になってるわね」
「山登り、疲れたのね」
「……そうよ」
ぐでーっと横になる盛夏を眺めてから、わたしは猪鍋をほおばることにした。
☆
「完食したー!」
わたしが空っぽになった鍋の前で宣言すると同時に、盛夏がヘッドフォンをつけた頭を起こし、眠りから目覚める。
「おはよう、壊色。食べたの?」
「ええ」
「ご苦労さま」
ヘッドフォンは着けているが今は音楽を聴いているやらいないやら。
「おいしかったわよ」
「それはよかったわね」
「龍田さん……あ、龍田ってのは鍋をごちそうしてくれたお爺さんの苗字なんだけど、その龍田さんの身の上話を聞きながら食べてたの! 聞きたい?」
「壊色、手短にお願いね」
「龍田さんには生涯の四分の三を共にした奥さんがいたらしいの。その奥さんの思い出話。それが龍田さんの人生の歩みの全てなんだって! 素敵よね」
「素敵……ねぇ。人生の全てだって言うわりには、ここにはいないじゃないの」
「バカねぇ、盛夏。その奥さんがお亡くなりになってしまったっていうのが、龍田さんが山を登った理由だって言うのよ」
「ふーん。そういえば山の中腹に古刹があるわね」
あはは、と照れ笑いをする龍田老人。盛夏は老人に尋ねる。
「龍田さん……ですか。奥様はどうなさったんですか。ずいぶん奥様の思い出話をそこの阿呆に語られたようですが」
龍田老人は遠い目をして、
「虎に、喰われちまったよ」
と、ぼそりと呟いた。
「ご冥福をお祈りします」
「なに言ってんの、盛夏。虎に喰われるなんて、仏教の古典みたいな例え話で、そこにツッコミを入れなきゃダメなとこでしょうが! このお惚け盛夏!」
「お惚けはあなたよ、壊色。これは、正確には『狴犴』ね」
「また狴犴? 老いた虎の姿っていう」
「そしてここは狴犴の監獄の中よ」
「意味わかんないわよ」
「それより壊色。トイレがあなたを呼んでいるんじゃない?」
「そうね。ちょっとお花を摘みに行ってきましょうか」
わたしは腰を上げた。
「龍田老人。キッチンのさらに奥がトイレという構造ですね」
「ドアの向こうがキッチン。そこからトイレにも行けるわい」
「行ってきなさい、壊色。あちしはリュックで持ってきたペットボトルのお茶を飲んでいるわ」
わたしは歩いていき、ドアを開け、キッチンに入った。
キッチンに置いてある大きなポリバケツが満杯になっていて、そこから強烈な臭気が漂っている。
気になったわたしは中身を見た。
捨ててあったのは、バカみたいにたくさんの、臓腑だった。血に染まったままの。
血液で赤く染まった、ピンク色の、臓器、臓器、臓器。
ポリバケツのふたを閉め、わたしはトイレに駆け込んだ。
そして、胃の中に入っているすべてを吐き出した。
吐きすぎて涙がだらだら出た。気持ち悪い。
☆
わたしが戻ると、龍田老人が席を立ち、料理の食器などの片づけにキッチンへと向かっていった。
「よくあんなキッチンにいられるわね!」
わたしがぷんすか怒ると、
「生涯の四分の三、連れ添った臓器ですもの」
と、盛夏は冷笑する。
「それ、どういう……。えっ? それってまさか」
「あちし、言ったじゃない、狴犴の檻の中だって。狴犴。奥さんを殺した老いた虎は龍田老人よ」
「それの確認のために、わたしをキッチンの方へ行かせたのね!」
「吐いてた声、聞こえたわよ。老人にも、ね」
「龍田老人はなんでこんなことを?」
「老人はここの管理人ではないって言ってたじゃない。それは〈真〉。しかし、ログハウスは誰にでも解放されているってのは〈偽〉よ」
「どうしてわかるの?」
「救助隊に連絡したでしょ。あれはあちしが老人がいない隙をついて電話した。目の前で連絡してたら、あちしたちも食べられちゃってたかもね。殺される可能性は、持続中だけど」
「それで?」
「救助隊は、ログハウスはカギがかかっている場所だ、と教えてくれたわ。それに、カギ穴が壊されてるのは入るとき、確認済み。そして、救助隊が出動するのも、ここは普段誰も登らない場所だから」
「登らない場所なの?」
「人間の手にかかってない場所に咲く花を、あちしの可愛い風花ちゃんは欲しがっていたの。だから来た。この山道は、中腹にある古刹に登るためにある道からお情け程度に繋がってるだけよ。ログハウスも、修行僧が泊まることを想定してただけみたい」
「龍田老人がいるのは、吹雪と関係ない?」
「猪鍋……正確には人間鍋は、つくるのに時間がかかる。吹雪の前からいて、食べる気だったんでしょ」
「証拠隠滅なら、余った臓腑をポリバケツに捨てるのはおかしいでしょ」
「ポリバケツには臓腑以外は入ってなかった。臭い物にふたを閉めただけでしょ。あとでいくらでも使える。冬だしね。彼がひとりでいたいところに、あちしたちが来てしまった」
ドアの開く音がして、龍田老人が戻ってきた。ニコニコ笑顔だ。
そこに、盛夏が尋ねる。
「失礼ですが、奥様の晩年は、もしかして痴呆が始まってしまった、とか?」
挑発が過ぎるぞ、盛夏!
わたしは心臓が飛び出るかと思った。
老人は言う。
「そろそろ吹雪は弱まってきたが、そこのヘッドフォンの嬢ちゃんがおそらくは呼んだであろう救助隊が来るまで、あとどれくらいかかるだろうねぇ」
老人の目は血走っている。
鏑木盛夏は、毅然とした態度で、龍田老人に向かって、言う。
「あちしたちは女の子二人組。女の子だけで山を登るのに、まさか自分を守るものをなにも持たずにここまで来た、とはお思いではないでしょう?」
龍田老人はあごひげに手をやり、しばし沈黙する。
それから口を開く。
「なにを持っている、おまえら?」
「教えるつもりは毛頭ありませんよ」
「わしは今すぐおまえらを殺すかもしれないぞ。そして鍋にして、お前らも喰う」
「救助隊が来るのでは、と言い出したのはあなたの方では? 追い詰められているのはどちらでしょうね」
「殺すのなんて簡単だぞ。首を絞めて、おまえらも殺す」
そこで盛夏はけらけらと乾いた笑いで、相手をけん制する。
「おやおや。絞め殺すとはね。あちしの実家では、動物を殺す手段を教えて実践させるのです。だからずいぶんあちしも殺しましたよ」
「ハッタリだな」
「動物を屠るには、眉間に棍棒を上手く打ち込むと、一撃ですね」
「おまえの眉間に棍棒を打ち込んでやろうか」
「その防御策を、実践を学んだあちしが知らないとでも? ご老人。ずいぶん即物的ですね」
「防御策? 確かにおまえは、さっきから〈姿勢が正しい〉な。寝ている時ですら、すぐに起きることを想定している」
会話の風向きが変わったのを、わたしは感じた。盛夏は続ける。
「あなたはあちしたちがここに〈偶然〉迷い込んだと思っている。でもどうです? あちしたちが当局の〈囮〉としてここに来たのだとしたら」
「……くっ!」
歯ぎしりする龍田老人。
話し続けた、引き伸ばし続けた。
会話を制したのは鏑木盛夏だった。主導権を握り、会話を続けていき、龍田老人は手も足も出ない。なにが飛び出してくるかわからないからだ。
ログハウスの入り口が、ようやく開く。救助隊が到着したのだ。
龍田老人と鏑木盛夏の攻防戦を見守っていたわたしは、いつの間にか汗だくになっていた。
ログハウスの中に、救助隊と、そして盛夏が呼んでいた警察の捜査班が一斉に入り込む。
「助かったぁ……」
その場にへたり込むわたし。
盛夏はへたり込んでるわたしに、
「あちし、壊色といるといつも怖い目に遭うわね」
なんて言う。
「誘ってきたのはあんたの方でしょう、盛夏ぁ!」
「狴犴の監獄を、無事脱獄できたわね」
「上手くまとめよーとすんなっ!」
わたしは仰向けに寝転んだ。あー、もう。吹雪の山荘なんて、気に入るわけないじゃない!
嘘つきハッタリ勝負、勝者は鏑木盛夏なのでした。
〈了〉