6/7 「下がって!!」

文字数 3,558文字

「下がって!!」

 あかりの声が、病室に響く。

「じょ…冗談はやめなさい…あかりちゃん…」

 医者が震えた声で言う。

「黙って!!」

 果物ナイフを持つ、あかりの右手に力が込められる。

「お…緒方先生…」

 看護婦がオロオロとして、どうすれば良いのか分からない、といったふうに医者の名を呼ぶ。

「言う通りにしたまえ…刺激してはいけない…」

 できる限り、抑えた声を出したつもりだったが、医者の声はうわずってしまう。

「黙ってって、言ってるでしょ!!」

 あかりがヒステリックに叫び、医者はグッと口をつぐんだ。

「看護婦さん!! 名前は!?」

「いッ、市河ですッ!!」

 看護婦は、ビクッとなって答えた。

「じゃ、市河さん!! それを、この人に着せて!!」

 そこには、あかりが着せられるはずだった、拘束衣が置かれていた。

「ボーッとしてないで!! 早く!!」

「ハ、ハイ!!」

 病院関係者や、患者たちが、何だ、何だ、と、集まってきた。そのなかを、拘束衣に猿ぐつわまで噛まされた緒方医師と、看護婦の市河さん、そして、その背後に貼りつき、医師の喉元にナイフを付きつけたあかりが、進んでいく。

「あかりちゃん!!」

「あかり!! おまえ、何を!?」

「バカなまねは、やめるんだ!! あかりちゃん!!」

「あかり!!」

 あかりとヒカルの両親が、騒ぎに駆け付けてきて、口々に叫ぶ。しかし、あかりのすがたは、緒方医師の背後に隠れていて、ほとんど見えず、ナイフを握った右手だけが、見えるような状況である。

 逆に言えば、あかりからも、両親たちのすがたは見えなかったのであるが、それが幸いして、両親たちと視線を合わせることなく進むことができた。そのおかげだろう、あかりは、この切迫した状況のなかで、自分でもおどろくほどに、落ち着いて行動することができた。

「言う通りにしてください!! 静かにして、患者を刺激しないでください!!」

 緒方医師に代わり、看護婦の市河さんがそう言って、まわりの人間を下がらせる。あかりは、背後から緒方医師の喉元にナイフを突き付けたままの状態で、市河さんに先導をさせて、エレベータに乗り込み、地下駐車場へと向かった。

* * *

 土蔵の暗闇のなかに、しわがれた女の声が反響する。ディープネスという名の、このミイラは、外見に違わず、みにくい声の持ち主だった。その声には、魔法使いの老婆のような、イメージがあった。

「俺の命をやるから、あかりとの契約を破棄してくれ」という、ヒカルの要求は、かるく鼻であしらわれた。

「なんのために、わたしが、五年ものあいだ、がまんしてまでも、おまえの命より、あの娘の皮膚を選んだのか、考えてもごらんよ…」

 身振りをまじえて、話しているのか、暗闇から、乾いた皮膚のかすれる音が、断続的に聞こえてくる。

「空腹を満たすのは一時的なことに過ぎないけど、乙女の肌ってのは一生ものだからねえ…」

 そう言うと、ウフフ、とつぶやいて、何かを撫ぜるような音を立てた。

 暗闇のために、ディープネスの姿は見えないのだが、その音の意味することが、ヒカルには分かった。あかりの皮膚の一部分が、黒く変色しているのだから、ディープネスの皮膚の同じ部分も、すでに、あかりのものに取って代わっているはずで、暗闇の向こうで、うれしそうに撫ぜているのは、その部分に違いなかった。

 ヒカルは、そう考えると、ムラムラと怒りがわき起こるのだが、どうすれば良いのか分からないので、その場に立ち尽くすしかなかった。

「だけど…」

 ディープネスが、自分の腕を撫ぜるのをやめて、口を開く。

「だけど…おまえ、あの娘を助けるために、自分の命を犠牲にするつもりだったんだね?」

 ヒカルは、それには答えずに、暗闇に向けて、その強い視線だけを送った。

「ふーん…そうかい…」

 ガサガサと、乾いた皮膚をこすり合わせながら、ディープネスの気配が近づいてきた。

「それは、感心な心がけだねえ…いまどき、珍しいよ…」

 暗闇から手が伸びてきて、ヒカルのあごの下に指をあてがい、あごをそらさせたり、左右に巡らせたりして、品定めをするようだった。ヒカルは、何やら、良からぬ雰囲気を感じたが、されるがままにして、様子を見ていた。

「フン…なかなか、いい男になったもんだねえ…五年前は、クソガキだったんだがねえ…」

 乾いた指先の感触が、あごから、つつつッと首筋を通って、シャツのなかに滑り込んでいく。ぞぞぞッとした悪寒が、ヒカルの背筋に走る。その手を払いのけたい欲求におそわれるが、向こうの態度が軟化しつつあることに気付いていたので、必死になって、それに耐えた。

「いいだろう…あの娘との契約を破棄しよう…ただし…条件がある…」

* * *

 そのころ、あかりは、市河さんの自動車に乗り込み、ヒカルの自宅へと急いでいた。市河さんが運転席につき、あかりと緒方医師が、後部座席に並んで座った。あかりの手には、依然として、果物ナイフが握られ、緒方医師の喉元に突き付けられている。

「市河さん!! もっと急いで!!」

「ハ、ハイ!!」

 市河さんは、しだいに、この状況に慣れてきて、あかりが、錯乱したり、狂気に陥ったりしているわけではなく、何か目的を持って、行動しているのが分かってきた。その目的が、何であるかまでは分からなかったが、必死に頑張っているあかりのすがたを見て、力を貸してあげたいという気にもなり始めていた。

 それに、緒方医師には、日頃から理不尽にいびられているので、猿ぐつわを噛まされて、ウンウンとうなっているすがたを見ると、すっきりとした気持ちになるのだった。

 それらの理由で、市河さんは高揚してきたのだろう、前方の信号が、黄色から赤になったにもかかわらず、お構いなしにアクセルを踏み込み、横断し始めていた車にクラクションを鳴らされながらも、交差点を全速力で突破していった。

 あかりは怒っていた。

 ヒカルくんのバカ…何が、「土蔵に誘い込んで、不純な思いを遂げようとした」よ…肩車しただけで、真っ赤になっていたくせに…どうせ、わたしが契約のことを忘れていると思って、こっそり、契約を破棄しようって思っているんでしょ…フン、かっこつけちゃって…おかげで、あやうく、狂人あつかいされて、病室に監禁されるところよ…

 わたしは、あの時、自分の意志で、契約をむすんだの…ヒカルくんの命と、自分の皮膚とをはかりにかけて、きちんと決断したのに…もちろん、真っ黒になってしまうのは、本当に悲しいことだけど…影でコソコソされて、わたしの知らないところで、契約を破棄されるのは、もっとイヤ…だって、それって、わたしの意志が無視されたことになるから…

 何で、ひとこと、言ってくれなかったんだろう…わたしのこと、信頼できなかったのかな…メソメソして、「真っ黒になるのもイヤだけど、ヒカルくんがいなくなっちゃうのもイヤだあ」とか言われると思ったのかな…

 バカにしないでよ…自分のことぐらい、自分で決断できるのに…

「ヒカルくんのバカ!!」

 あれこれ考えていると、あまりに腹が立ってきたので、あかりはそう叫んだ。市河さんと緒方医師が、ビクッとなった。

 あかりは、そう言ってしまった後、ちょっと恥ずかしくなったので、別の話をして紛らせようとしたが、何も思いつかなかった。仕方がないので、その場はそのままにして、何となく車内を見回してみた。

 すると、そのとき、緒方医師の足元に、何かがあることに気が付いた。市河さんは、自動車のなかで化粧をしたりするのだろうか、それは、バスケットに詰め込まれた、化粧品の数々だった。

 なぜ、そんなものが気になるのか自分でも分からなかったが、あかりはそれをじっと見つめていた。

 次の瞬間、ハッとひらめくものがあり、緒方医師のポケットをあちこち調べ始める。そして、それは、すぐに見つかった。それは、ガスライターだった。あかりは、それを手にして、「よし」とつぶやく。

 一部始終をバックミラー越しに見ていた、市河さんが訊ねる。

「あかりちゃん…それ、どうするの?」

「ん…えと、対ミイラ用の最終兵器ってやつかな…」

「…」

 市河さんは、すぐには言葉が出ずに、しばらくのあいだ、黙っていたが、かろうじて、「へえ」と答えることができた。しかし、真顔で、「最終兵器」などと口にするあかりを見ていると、やっぱり、この子、おかしいのかしら、と、心配になってくるのだった。
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