第1話

文字数 1,995文字

 新東京国際空港に到着した洪画伯夫妻は緊張した面持ちで入国手続き等を済ませて到着ロビーに向かった。
 今回の日本旅行は平沼氏という日本人による招待によるものだった。
 昨年、画伯がヨーロッパで巡回展覧会をした際、ちょうど旅行中だった平沼夫人が観覧し、すっかり彼の絵を気に入り、その場で何点か買い上げ、出来れば自身の肖像画を描いて欲しいとまで言われた。
 その時は単なる社交辞令だと思ったが、年が明けると、平沼氏から連絡があり正式に依頼され、今回の日本行となった。
 到着ロビーに行くと
「洪先生と奥さまですね」
と若い女性に流暢な韓国語で話しかけられた。
「そうですが…」
「ようこそ、日本へ。平沼から通訳と案内をするように言われている夏木香子と申します」
 こう言いながら女性は頭を下げた。
「まぁ、あなた、日本人なの!在日僑胞だと思ったわ」
 夫人が香子の韓国語の巧みさに驚きの声をあげた。
「恐れ入ります」
 香子は恐縮しながらショルダーバックからカメラを取り出し
「まずは到着記念の写真を撮りましょうか」
と言って、夫妻を片隅に寄せてシャッターを切った。
 その後、二人をタクシーに乗せて宿泊先のホテルに向かった。
目的地に到着すると香子は夫妻を部屋に案内した。
「では、夕方、またお迎えに参ります。夕食は焼肉です。日本の焼肉は韓国とは異なった味わいですので楽しみになさって下さいね」
と言って出て行った。
 
 午後6時過ぎに、香子は迎えに来た。
「ここから少し歩いたところにあるお店です」
 こう言いながら香子が案内する。
 まもなく焼肉店とは思えないおしゃれな店に着いた。夕食にはまだ早いせいか店内は空いていた。
 テーブル席の間を通り抜け、奥の座敷へ行く。
 香子が声を掛けて襖戸を開けると中に恰幅のよい年配男性がいた。
「洪先生、ようこそ」
 年配男性が挨拶をすると香子が即座に通訳する。
「この度はお招き頂きありがとうございます。平沼先生」
 洪画伯が応じる。
 その後は香子の通訳を介して平沼と画伯夫妻は談笑しながら食事を楽しんだ。

 翌日から、画伯は平沼邸で夫人の肖像画を描くことになった。
 朝食を済ませた頃、香子が車で迎えに来た。
 屋敷に着くと夫婦は広めの洋間に通された。
 既に室内で待っていた平沼夫人は、嬉しそうに迎えた。
 絵の道具等は用意されていたので、画伯はさっそく筆をとり、前に座っている夫人を描き始めた。妻は夫の傍らで見守っていた。
 昼食、夕食を屋敷で取って夜遅くに夫婦はホテルに戻った。
 翌日は、画伯が平沼邸で描き、夫人は香子と共に買物に出かけた。
 夕方、夫人は平沼邸に戻った。平沼から夕食を勧められたが、後輩と会う予定があるといって断った。
 香子の運転する車で二人はホテルに戻った。
 玄関を入ると、画伯の後輩・李氏が駆け寄ってきて、挨拶もそこそこに
「今すぐここを出ましょう、そして明日一番の便で出発して下さい」 
と言った。
「どういうことだね」
 夫婦は怪訝な顔をしたが、李氏は早く部屋に行くように促した。
 部屋に入るや否や李氏は
「先日のヨーロッパでの韓国人声楽家誘拐未遂事件を御存じですか」
と口火を切った。
「北韓が仕組んだという…」
「はい、今回は先輩がターゲットになったようなのです。今回の話を聞いて、気になったのでいろいろ調べてみたのです。あの平沼という実業家は本名を尹何某といい朝鮮総盟の人物で、一年に何度も日本と北韓を往来しているそうです……」
 そう言われれば何か出来すぎた怪しげな話だった。
 画伯夫妻は身支度を始め、李氏と共にホテルを出た。

 翌日、“平沼邸”の応接間には重苦しい空気が流れていた。
「欧州に続いて今回も失敗か」
 目付きの鋭い壮年の男が朝鮮語で呟いた。
「南朝鮮社会は変わったが我が共和国に対する南の同胞たちの認識は変わらないようだ」
 同じく朝鮮語で若い男が応じた。
「常に警戒心を持っているのでしょうね」
 香子も朝鮮語だった。
「そうだろうな。だいたい日本人ぐらいだろうね、能天気に鈍感に暮らしているのは。未だに共和国をユートピアみたいに言っているヤツがいるのだから」

 平沼こと尹が苦笑した。
―そうよ、鈍感だから攫われてしまったのよ!
 香子は心の中で日本語で叫んだ。
               * * *
 21世紀に入ったある日、洪画伯夫妻は数十年ぶりに日本を訪れた。
 駅で電車を待っている間、あるポスターを見て驚いた。
「これ、香子さんじゃない?!
 夫人が“特定失踪者の人々”と書かれた下に並んだ小さな写真の中に夏木香子を見つけたのだった。
「彼女は本当は輝田星香という名前なのか」
 画伯は呟きながら、あれこれ思いを巡らせた。
 旨すぎる日本旅行の話、拉致された日本人女性と朝鮮総盟…。
―やはり自分たちは拉致されかかったのだろうか
 思いがここに至った時、夫妻は背中に冷たい汗が流れたように感じた。

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