真夜中の音色

文字数 2,364文字

 息苦しさで目が覚めた。
 無意識に枕元のスマホをつける。
 朝にはまだ遠い時間。
 最近はこんなことは減っていたのに。寝汗で湿った布団の中が気持ち悪くてすぐに外に出る。それでも寝間着すら気持ち悪くて、仕方なく真夜中だけれど風呂へ向かった。暗い家の中を、普段以上に音を立てないように気をつけながら歩いて風呂場に行き、シャワーで全身さっと洗っただけでも少し気分が晴れた。
 何か夢を見ていたとか、そういう記憶はいつもない。
 ただ突然に息苦しさに目が覚めて、ひどく汗をかいている。そんな夜が時々あるだけだ。
 ついでに失った水分を取ろうと冷蔵庫まで向かった所で、人影を見つけてどきりと鼓動が大きく跳ねた。
「……何してんの」
「遙こそ」
 暗いままの部屋で、冷蔵庫の運転中を示すランプの緑の光と、それを受けてぼんやりと浮かび上がる春翔の姿。光と同じ色のせいか、彼の緑の目がいつも以上に妙な存在感を示している。
「ちょっと目が覚めただけよ」
「俺も」
 最近ようやく馴染んできたような気がする我が家の新しい住人は、しかしやはりまだ私の中では父のようにしっくりきているわけではないらしい。ここにいるのが父ならば浮かばない疑問も、頭をよぎる。なぜこんな夜に限ってこいつがここにいるんだろう。
 それを問うと、そのまま自分に返されそうで(そしてそうなると返答に困るので)、何も言わずに冷蔵庫を開けた。
 中にある水を取り出し、コップに注いて飲み干す。
 体内へ一気に流れ込む冷たさが心地いい。
 一緒に、自分の中に残っていた濁った何かも流れ落ちるようだ。
 でもそんなものは気のせいで、実際にはこういう夜はもう一度眠ることができずに朝を迎えるのを知っている。あぁ今日はどうやってこの夜を越えようか、と思いながら流しの中に使い終わったコップを置いた所で、先に来ていた彼がずっと動いてないことにようやく気がついた。
「何してるの?」
「ちょっと来て」
 ぐいっと腕を掴まれて有無を言わさず連れて行かれたのは春翔の部屋。
 彼が来る前は物置ですらなかった未使用の部屋は、今はすっかり人が住める場所になっていたが、私が入るのはこれが数度目だ。用もないのに入る理由もないから、連れてこられない限りはまず入らない。
 黙ってついてきたのは、行き先は想定の範囲内だったし、その部屋に入る上で危機感など微塵もなかったからだ。
 ただ、連れてこられた理由は一切わからないが。
「その辺座って」
 ようやく腕を解放されてそう言われても、板の間ばかりの部屋の中で座っても痛くなさそうなのはベッドの上くらいである。人を連れてくるなら座布団くらい用意しろと言いたいのだが、この家で彼は我が父に扶養されてる身だ。私と同じく生活の全部が父の経済頼みであるから、本人に言うより父に言った方が早そうである。
 甲斐性だけは人並みはずれた父は即日用意するだろう。
 この部屋の他の家具と同様に。
 明日あたり父に言ってみようか、と思ったところで、春翔がクローゼットから取り出した大きな黒い四角が目に入る。
 見覚えのあるそれは、数年前まで私の部屋にあって、そういえば最近は見てなかったものだ。捨ててないので物置となってる部屋のどこかにあるだろうとは思うが、なぜこの部屋に。
「それどうしたの?」
「この部屋に元からあったよ。使っていいよね?」
「いいけど……音量気をつけてよ」
「了解」
 キーボードなど真夜中に叩くものじゃない。
 が、最近の電子楽器は音量調節が簡単にできる優れものだ。スイッチを上下するだけで夜中でも問題ない程度の音量を用意してくれる。この家自体がそれなりに広さがある上、隣近所とも余裕があるし壁も厚いから、そもそも音を出すなと言う気は起きなかった。
 それ以前に、興味がひかれたというのもある。
「何か弾けるの?」
「リクエストある?」
 床の上に直置きされたキーボードの前で、部屋の電気もつけないままで彼が言う。
 春翔がピアノを弾けるということを今まで知らなかった。
「リストの練習曲4番」
「……別にいいけど、ソレ聞いても面白い曲じゃないの知ってる?」
「冗談よ。あんなもの弾けるなら音大目指しなさい」
「嫌だね。それに俺の音はそういうものに向いてない」
 言いながら春翔が鍵盤を指先で弾くと、灯りもつけてない部屋の中で最低限に音量が絞られたキーボードから電子的なピアノの音が出る。それは合成された音である以前にどこか冷たい響きをしていた。
「冷たい音ね」
 それを素直に伝えれば、春翔の横顔が笑った。
「遙は知ってる? 小屋に入れない犬の漫画。世界的に有名なアレ」
「あぁ、お父さんの部屋に英語版の漫画あるわよ」
「あの中にさ、いつも毛布持ってる主人公の年下の友達がいるでしょ。おもちゃのピアノしか弾けないやつ」
「いるわね。確かそのピアノだけをものすごく上手に弾けるんでしょ」
「そう。それを犬や主人公が幸せそうに隣で寝ながら聞いてるの。俺はそいつが羨ましかった」
 それだけ言って春翔が弾き始めたのは、何かわからない曲。私自身、別に楽曲に詳しくないから検討もつかないその曲は、冷たい音色で真夜中を流れる。
 確かに、この音では幸せそうに犬は寝ないかもしれない。
 だけど私は思い出す。
 ついさっき喉を通り抜けた水の冷たさ。
 あれと同じだ。
 淀んだ気持ち悪い生暖かさを消し飛ばすような、引き締まる冷気。体に蓄積された熱のせいで寝苦しい夜を一掃する、痛くない冷たさ。
 何も言わずに冷たい音を奏で続ける春翔に、私の中で去っていた睡魔が戻ってくる。
 あぁ不味い寝てしまう、と思った時にはもう体の自由が奪われていて。
 眠ってはいけないとわかっているのに抗えない誘惑。雪山で遭難した人が襲われる眠気はこういうものだろうか、なんて思いながら私は意識を手放していた。
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