ヤチブキ
文字数 6,937文字
梢の向こうに白く尖った頂が三つ並んで見える。
あの峰の残雪は、真夏にならないと消えない。
遠くからでもよく見えるので、この辺りに住まう者からは三峰(みつみね)と呼ばれ、山行の目印となっている。
まだ真っ白なそれを頭上に、小さな女の子が谷の道を歩いていた。
道といっても急な斜面に無理やり切った踏み跡なので、下生えにしがみ付いて這いずらなければ、あっという間に川に滑り落ちてしまう。
「あった……」
雪融けの湿った泥の中に、鮮やかな黄緑。
ひとつ、ふたつ……かじかんだ指先で摘んで、腰の山菜袋に入れる。
見上げた峰には夕暮れの闇が掛かっている。
この辺りで引き返さないと、谷で夜に巻かれてしまう。
ペシャンコの袋を開いてみる。
何回覗いたって増える訳ではない。
口を結んで女の子は、更に上流へ向かった。
擦り切れたスカートも穴の開いた靴も、元の色が分からないくらいに煤だらけ。
唯一色があるのは、頭に巻いた茜のスカーフだけ。
さっき雪渓を踏み抜いて擦りむいた膝には色が付いていそうだが、見ないようにしている。
見たらきっと痛くなってしまうから。
そう、痛みなんか感じている暇はない。
今は袋を一杯にする事だけなのだ。
谷はますます狭くなり、陰鬱さを増す。
それでも女の子は取り憑かれたように先へ先へと歩き続ける。
あの角を曲がるともっと生えているかもしれない。
もう少し……袋を覗いて一杯感があるくらい採れなきゃ。
帰り道、ちょっと暗くて怖いのをガマンする方が、このまま帰るよりずっといい。
それに、暗くなってから帰ったら、少しは頑張ったって思って貰えるかもしれない。
行く手に太い柳の木があり、斜面を覆って根を張り出していた。
小さい女の子にとっては土と根っこの壁。
根を掴んで渾身の力で身体を引っぱり上げ、ようよう反対側に下りた所で、いきなり目の前が開けた。
「ひっ!」
思わず声が出てしまった。
獣や蛇や、あらかじめ予測の着いている者なら、どんなに恐ろしくたって彼女は喉を押し殺す事が出来る。
思いもしない者がいたから、びっくり声が出たのだ。
開けた所は空の光が届いて明るく、広い浅瀬には一面ヤチブキの花。
その黄色い絨毯が覆った中洲に、自分と同い歳くらいの子供が、二人、いたのだ。
二人は男の子で、声に反応してこちらを向いた。
山岳民族特有のカラフルな帽子の下の目が、やけにキラキラしている。
明るい景色と裏腹に、女の子は背筋が凍った。
だって、こんな時間にこんな所に子供がいるなんて、おかしい。いや自分は別にして。
「はあ――ん」
背の高い方の子供が、おかしな声を出しながら近付いて来た。
「・・ヒック」
女の子は喉がひきつった。
その子は自分と同じ、見慣れた肌の色と黒髪なのだが、後ろから覗く背の低い方の子供が、やっぱり明らかにおかしい。
顔が真っ黒なのだ。
光の加減じゃない、頬も額も首筋も、かまどの消し炭を塗りたくったみたいに真っ黒。
その黒い肌の奥に光る、山猫みたいな黄色い瞳。そして帽子から覗く髪が真っ白だ。
最初年寄りかと思った。でもやっぱり子供だ。
二人の子供は首を傾げながら、女の子に斜めに近寄った。
「僕達が見えてる? 『赤岩』の下流なのに」
「あは! センサイな子供には何処に居ても見えるって、父者(ててじゃ)が言ってた。
……センサイって何? キロロ」
「分かんなかったら言うなよ、ハルル」
男の子達は、その睫毛が見える近さにまで迫って来た。
――!! ・・普通だと思った子の方も、やっぱりおかしい。歩幅と進む距離が違う。
ゆっくりとしか歩いていないのに、あっという間に目の前だ。
しかも全然まばたきをしない。
「ああああ――‼」
女の子の恐怖がはち切れ、悲鳴と共に両の拳がぶんぶん振り回された。
「おっと」
二人はちょっと後ずさった。
「『センサイ』って『凶暴』って意味だっけ? キロロ」
「『弱虫』って意味かもしれないよ、ハルル」
「うあ、うあああっ」
二人が退いた隙に逃げようと、女の子は背後の柳の根に飛びついた。
しかし全く背が足りず、ジタバタした挙句、泥田にビシャンと落っこちてしまった。
「あーあ」
二人の子供の足が近付く。
冷たい泥にしゃがんだまま、身体を丸めて目をぎゅっと閉じる。
谷の地霊は、子供を拐って暗い水底に沈めて魂を食べるっていう……
両側から伸びた手に肘をギュッと掴まれた。
「いやややややいやだ」
「さっきからうるさいな」
「女ってうるさいから嫌だ」
「こいつ怪我してる」
「ホントだ」
掴まれたまま、女の子はズルズル引きずられた。
痩せっぽちの非力な身で抵抗したって、物の役にも立たない。
そのままザブンと川に放り込まれた。
雪融けをたっぷりふくんだ水は、心臓までも凍らせる。
この冷たい水底に沈められて食べられちゃうんだ……
……・・??
何も起こらなかった。頭を押さえ付けられる事もない。
恐々と目を開けてみると、周囲には誰もいなかった。
よく見ると、座り込んでいる水たまりは、足の甲くらいの浅い所。
歯をガチガチ震わせながら、お尻で這って水から上がった。
そして、見下ろした膝に、ヤチブキの葉が巻かれている事に気付く。
いつの間に……?
気付いたら、ジンと痛みが来た。
ヤチブキの葉は、傷口の魔を払って治りを早めてくれる。
大昔、まだお母さんが元気だった頃に、そう教わった。
もしかして自分をここまで運んだのは、傷口をきれいな水で洗う為?
そして薬草まで巻いて手当てしてくれたって? いやいやまさか、信じられない。
男の子って、石を投げたり物を取り上げたり、弱い者を虐める事しか考えない生き物の筈。
おかしい、こんなの変だ、おかしい。
村の大人にも子供にも、誰にだって、そんな親切を受けた事などない。
お前は余分に生まれた厄介者だって、いつも言われて育った。
しんと冷えた空気と夕闇が、彼女を現実に戻した。帰らなくちゃ。
立ち上がって、よろめいた。
原因は足の怪我ではなく、腰の山菜袋だった。
中には、瑞々(みずみず)しいイタドリの新芽が、ぎっしり詰まっていた。
それが、女の子がその日、谷で出会った不思議のすべてだ。
***
夕暮れの谷を、一人の少女が転がるように駆けていた。
初春の残雪残る斜面は、今の彼女でも往生する。
私、よくあんな小さな子供の頃、こんな所まで歩いて来たなあ。
そんな事を考えながら、穴の開いた靴でひた走る。
薄衣で来たので谷の冷気がジンと凍みる。
もっとも上衣を羽織ってくる余裕なんかなかった。
谷にずんずん分け入り、苔に被われた柳の木の根を這い登ると、目の前が開けた。
「あった……」
少女は思わず声に出した。
小さい時に一度きり来た記憶の通り。
開けた平らな地形で、流れが穏やかに広がった、黄色いヤチブキの園。
木々の切れ目から届いた光が、水面にキラキラしている。
だが今の少女には、それをキレイだと堪能しているゆとりはなかった。
浅瀬を横切り、川の中洲にたどり着く。
明るい陽射しに照らされたそこだけ、泥んこの谷の中で別世界だった。
あの時はこの場所に、二人の男の子が立っていた。
小さい自分は、集落へ帰ってからも、二人の子供の事は話さなかった。
大人に袋一杯のイタドリの説明を求められても、闇雲に歩いていたらたまたま新芽の林に行き当たった、と答えた。
秘密にするのに特別な理由があった訳ではない。
ただ、この季節にこんなにイタドリが出ている訳がないと問い詰める大人に、反抗したかっただけだ。
イタドリで袋を一杯にして来いと言ったその口で、恥ずかし気もなくそう言い切る大人に。
あの子供達は、何だったのだろう。
今から考えると、離れた所に連れの大人がいたのかもしれないし、人知れず山奥に住む部族なのかもしれない。
自分は小さかったし、本当に人ならざるモノだったのかどうかは、怪しい。
ただ、あの二人の居た空間のグニャリとした異様さだけは、今でも忘れられない。
物想いにふけったのは一瞬で、少女はすぐに上流へと駆け出した。
下流から、人の声とザバザバ歩く水音が聞こえて来たからだ。
さっきの清涼な場所を過ぎると、もう谷は暗くて陰湿な顔に戻っている。
目の前に背丈の何倍もある赤い岩がそそり立っていた。
足掛かりはあったので何とかよじ登ったが、上に立った所で絶句した。
見上げるような垂直の滝がそそり立っている。
水量はさほどでもないけれど、とにかく高い。上の方がかすんで見える程だ。
そして滝壺の水をたたえた淵は、身震いがする程、真っ黒で深かった。
大雨の時あの高さから落ちる大量の水が、ここを抉(えぐ)るのだろう。
両側の岩盤もほとんど垂直で湿った苔に覆われ、とても登れそうにない。
人の入る場所なら、こういう滝には迂回路があるものなのだが、それは見当たらなかった。
要するに、この先は人間の領域ではないって事だ。
後方に、知った声のざわめきがする。
水を蹴って歩く足音は、思ったよりも多い。
山側の斜面は、びっしり密生した笹薮だった。
取り付いてみたが、太い笹がバリケードのように身体を跳ね返し、一歩たりとも登れない。
藪にしゃがんで身を隠す程度なら出来るが、捜されたらお終いだ。
逃げ口を探してうろうろしている間に、人の声が赤い大岩のすぐ裏までやって来た。
次の瞬間には、もう見付かってしまうだろう。
探す目的を、逃げ道から別の物に切り替えた。こういう場所にならある筈……
「あった……」
それを見付けて、少女は覚悟を決めた。
谷を遡って来た数人の男は、水に逆らいながら滝の中を登る少女を見付けた。
確かにこういう地形は、実は水が叩いている所の方が足場があるのだ。
「馬鹿者! 戻れ!」
男の一人が叫んだ。
「今なら許してやる、早く降りて来んか!」
少女は登るのをやめない。
一人の男が、持っていた石弓を構えた。
「傷を付けるな、買い叩かれる」
「脅しだ、当てはしない」
「もうあの高さじゃ落としちゃまずい……あっ!」
弓を放つ前に、掴んだ岩が崩れ、少女の身体が滝から離れた。
そうして悲鳴も上げず、その形のまま滝壺に落ちた。
男達は慌てて水際に駆け寄った。
少女の頭を覆っていた茜のスカーフだけが浮かんで来た。
身体は多分、滝壺の魔に持って行かれたのだろう。
「何てこった、馬鹿めが」
男の一人がスカーフを拾って、怒りに任せて引き裂いた。
「手付け金を貰っていたのに、返さねばならなくなったではないか」
「仕方がない、ガキの頃から反抗的な奴だった。金をかけて育てたのに、大損害だ」
男達はぎゃあぎゃあ喚きながら、大岩を降りて行った。
その煩い声が遠ざかって…
―― ざぶん ――
水面に輪を描いて、頭が突き出した。
「う~~ぃ」
それはしかし、少女ではなかった。
猫みたいな白い髪から滴を垂らして、小柄な少年が勢いよく水から上がった。
「耳に水が入っちまった」
少し離れた笹薮が揺れて、黒髪の少年が立ち上がった。
「さすが、ハルルは息が長いな」
彼の足元では、真っ青な少女が半裸でうずくまってガチガチと震えている。
「誉める所、そこ? キロロ。我ながら芸術的なダイビングだったと思うんだけれど?」
白い髪の少年は、身体をぶるんと振るって水滴を飛ばし、シダの向こうに脱ぎ捨てた自分の衣服を拾いに行った。
程なく、カラフルな民族衣装に戻った少年が、少女の煤けた衣服を振り回しながらやって来た。
「濡れちまったけれど、絞れば着られるだろ?」
少女はまだ、膝に顔を埋めて身を縮めている。
「いつまで震えてるんだよ、寒いのはこっちだってぇの」
「ひぇっ! ひぃっ! いやあっ!」
少年の真っ黒い手が肩に掛かると、少女は感電したみたいに悲鳴を上げた。
「何だよ、こいつ」
「いきなり笹の中へ引っ張り込まれて、着ている物を剥ぎ取られたら、そりゃ、普通の女の子は怯えるんじゃないかい?」
黒髪の少年の方が、絞った衣服を受け取って、少女の傍らにそっと置いた。
「行こう、ハルル」
「行くの? キロロ」
「下に住んでる者には関わるモンじゃないって言われているだろ」
「先に手出ししたのは、キロロの癖に……」
「そりゃ……ああ……」
黒髪の少年は思い出したように、さっき彼女の手からむしり取ったフスの葉を、パラパラと足元に落とした。
「一応言っておくけれど、それ、口に入れたら、もうこの世に戻って来られない。まあ、知らなかった訳じゃないんだろうが」
木々のざわめきの中に二人の気配は遠ざかり、少年の声の最後は、遥か滝の上方に消えた。
***
麓の様子は変わっても、あの白い三つの峰だけは変わらない。
残雪の谷を歩きながら、娘は三峰を仰ぎ見た。
ここに来る前に通り過ぎて来た子供時代を過ごした集落は、すっかり寂れて廃墟となっていた。
自分が去った少し後に、水害や疫病に立て続けに見舞われたと、人づてに聞いた。
もっとも大した思い出もないので、彼女には何の感慨もない。
座った事もない椅子や、入る事を許されなかった母屋が、泥を被って朽ちているのを見ると、返って晴々(せいせい)とした気分になれた。
谷の道は、幼い記憶よりもずっと長い。今の方が歩幅も力もある筈なのに。
「ああ、あの時も、次の時も、必死だったものね……」
思わず口を付いて出た。
最初は、山菜袋を一杯にして帰らないと棒で打たれる恐怖に駆られて、幼い足で這いずり歩いた。
次は、畑労働から帰ると待っていた死神みたいな人買いの恐怖から逃れる為、この道を逃げた。
あの頃の自分を思い出すと、今でも胸がつかえる。
追っ手から逃げおおせたのは、本当に奇跡だった。
逃げ切れなかったら命を終わらせる覚悟でいたからだろうか。
それを切っ掛けに、自分の運命は切り替わった。
あの後、暗くなってから谷を抜け出し、集落を避けて山を降りた。
大きな街で下働きから始めて、一生懸命働くと、ちゃんと評価して貰えた。
物覚えは良いし利口だしと評判が立つと、良い雇い主が現れた。
意欲を示すと、教育も受けさせて貰えた。
そして自分が、多兄弟の末っ子だから無駄に生まれたって訳ではなく、親だから無駄な子供はどう扱ったっていいって訳でもない事を、知った。
見覚えのある大きな柳の木が見えた。
背が伸びた今でも苦労する根元の壁を登ると……
「あった……」
また口を付いて出た。
平らな地形の、穏やかな流れの広場。
でも、記憶の中より、大分狭い。
キレイだと感じる余裕のなかった昔の方が、おとぎの国みたいに思っていた。
明るい川の中洲に立ってみた。
水面は相変わらずキラキラしている。
ヤチブキにはまだ少し早くて、残雪のそこここに、蕾をもたげた若芽が立ち上がった所だ。
広場を通り越してしばらく歩く。
今度は赤い大岩。足掛かりも昔の記憶と同じ。
「ああ……」
やっぱりあった。夢じゃなかった。
苔とシダに覆われた、切り立った滝。
こちらは記憶通り、やはり険しくて高い。
岩をつたい歩いて滝壺の淵に立ち、地獄の釜みたいな水底を見下ろした。
あの時は怖くてちゃんと見られなかったけれど、こんな滝壺に落ちたのなら、大人はそりゃ、見限るだろう。誰一人、ほんの一瞬も、助けようともしないで。
また胸がつかえて来たので、顔を上げて滝を見た。
そう、こんな高い滝からこんな怖い水底へ、自分の為に落っこちてくれたヒトがいる。
命を絶つ事で逃がれようとした自分を、当たり前に止(とど)めて叱ってくれたヒトがいる。
それらの事実を言葉にして噛み締める度に、心に光が射して力が湧いて来るのだ。
だから、新しい街で、独りで、まっとうに、頑張れたのだ。
街で学んで、世の中には色んな肌や髪の色の人間が、普通にいるって知った。
いや、彼らが人であろうが妖怪であろうが、もうそんな事はどうでもいい。
大切な事は、もっと別の所にあったんだ。
人生で、ただ長く一緒にいたって、何にも残らない人がいる。
ほんの一瞬しか関わらなかったのに、一生残るヒトもいる。
娘はすうっと息を吸って、胸を張った。
「ねえ、キロロさん、ハルルさん!」
滝上に向かって、大きな声で叫ぶ。
「私、……えっと、あのね、この間求婚されたの。それでね、受けようと思うの。
とってもとっても優しい人だわ。子供が安心して帰って来られる、暖かいおうちを作るの」
滝はどうどうと流れ落ちる。
最初は気恥ずかしかったけれど……
これを言いに来たんだ、誰かに聞かれたって構うものか。
滝上の真青(まさお)な空を仰ぎながら、娘は高らかに叫んだ。
「今、とても幸せに生きているわ。貴方がたのお陰です。本当にありがとう」
昔、言い損ねた言葉。
古(いにしえ)から変わらずただ流れ落ちる滝をしばらく眺めてから、踵を返して帰り道に付いた。
赤い大岩を降りて、先の広場が見えた時、娘は目を見開いて、胸が一杯になった。
中洲の白い残雪の上に、黄色いヤチブキの花が、お祝いの飾り付けみたいに、丸くこんもりと積み上げられていた。
~おしまい~
あの峰の残雪は、真夏にならないと消えない。
遠くからでもよく見えるので、この辺りに住まう者からは三峰(みつみね)と呼ばれ、山行の目印となっている。
まだ真っ白なそれを頭上に、小さな女の子が谷の道を歩いていた。
道といっても急な斜面に無理やり切った踏み跡なので、下生えにしがみ付いて這いずらなければ、あっという間に川に滑り落ちてしまう。
「あった……」
雪融けの湿った泥の中に、鮮やかな黄緑。
ひとつ、ふたつ……かじかんだ指先で摘んで、腰の山菜袋に入れる。
見上げた峰には夕暮れの闇が掛かっている。
この辺りで引き返さないと、谷で夜に巻かれてしまう。
ペシャンコの袋を開いてみる。
何回覗いたって増える訳ではない。
口を結んで女の子は、更に上流へ向かった。
擦り切れたスカートも穴の開いた靴も、元の色が分からないくらいに煤だらけ。
唯一色があるのは、頭に巻いた茜のスカーフだけ。
さっき雪渓を踏み抜いて擦りむいた膝には色が付いていそうだが、見ないようにしている。
見たらきっと痛くなってしまうから。
そう、痛みなんか感じている暇はない。
今は袋を一杯にする事だけなのだ。
谷はますます狭くなり、陰鬱さを増す。
それでも女の子は取り憑かれたように先へ先へと歩き続ける。
あの角を曲がるともっと生えているかもしれない。
もう少し……袋を覗いて一杯感があるくらい採れなきゃ。
帰り道、ちょっと暗くて怖いのをガマンする方が、このまま帰るよりずっといい。
それに、暗くなってから帰ったら、少しは頑張ったって思って貰えるかもしれない。
行く手に太い柳の木があり、斜面を覆って根を張り出していた。
小さい女の子にとっては土と根っこの壁。
根を掴んで渾身の力で身体を引っぱり上げ、ようよう反対側に下りた所で、いきなり目の前が開けた。
「ひっ!」
思わず声が出てしまった。
獣や蛇や、あらかじめ予測の着いている者なら、どんなに恐ろしくたって彼女は喉を押し殺す事が出来る。
思いもしない者がいたから、びっくり声が出たのだ。
開けた所は空の光が届いて明るく、広い浅瀬には一面ヤチブキの花。
その黄色い絨毯が覆った中洲に、自分と同い歳くらいの子供が、二人、いたのだ。
二人は男の子で、声に反応してこちらを向いた。
山岳民族特有のカラフルな帽子の下の目が、やけにキラキラしている。
明るい景色と裏腹に、女の子は背筋が凍った。
だって、こんな時間にこんな所に子供がいるなんて、おかしい。いや自分は別にして。
「はあ――ん」
背の高い方の子供が、おかしな声を出しながら近付いて来た。
「・・ヒック」
女の子は喉がひきつった。
その子は自分と同じ、見慣れた肌の色と黒髪なのだが、後ろから覗く背の低い方の子供が、やっぱり明らかにおかしい。
顔が真っ黒なのだ。
光の加減じゃない、頬も額も首筋も、かまどの消し炭を塗りたくったみたいに真っ黒。
その黒い肌の奥に光る、山猫みたいな黄色い瞳。そして帽子から覗く髪が真っ白だ。
最初年寄りかと思った。でもやっぱり子供だ。
二人の子供は首を傾げながら、女の子に斜めに近寄った。
「僕達が見えてる? 『赤岩』の下流なのに」
「あは! センサイな子供には何処に居ても見えるって、父者(ててじゃ)が言ってた。
……センサイって何? キロロ」
「分かんなかったら言うなよ、ハルル」
男の子達は、その睫毛が見える近さにまで迫って来た。
――!! ・・普通だと思った子の方も、やっぱりおかしい。歩幅と進む距離が違う。
ゆっくりとしか歩いていないのに、あっという間に目の前だ。
しかも全然まばたきをしない。
「ああああ――‼」
女の子の恐怖がはち切れ、悲鳴と共に両の拳がぶんぶん振り回された。
「おっと」
二人はちょっと後ずさった。
「『センサイ』って『凶暴』って意味だっけ? キロロ」
「『弱虫』って意味かもしれないよ、ハルル」
「うあ、うあああっ」
二人が退いた隙に逃げようと、女の子は背後の柳の根に飛びついた。
しかし全く背が足りず、ジタバタした挙句、泥田にビシャンと落っこちてしまった。
「あーあ」
二人の子供の足が近付く。
冷たい泥にしゃがんだまま、身体を丸めて目をぎゅっと閉じる。
谷の地霊は、子供を拐って暗い水底に沈めて魂を食べるっていう……
両側から伸びた手に肘をギュッと掴まれた。
「いやややややいやだ」
「さっきからうるさいな」
「女ってうるさいから嫌だ」
「こいつ怪我してる」
「ホントだ」
掴まれたまま、女の子はズルズル引きずられた。
痩せっぽちの非力な身で抵抗したって、物の役にも立たない。
そのままザブンと川に放り込まれた。
雪融けをたっぷりふくんだ水は、心臓までも凍らせる。
この冷たい水底に沈められて食べられちゃうんだ……
……・・??
何も起こらなかった。頭を押さえ付けられる事もない。
恐々と目を開けてみると、周囲には誰もいなかった。
よく見ると、座り込んでいる水たまりは、足の甲くらいの浅い所。
歯をガチガチ震わせながら、お尻で這って水から上がった。
そして、見下ろした膝に、ヤチブキの葉が巻かれている事に気付く。
いつの間に……?
気付いたら、ジンと痛みが来た。
ヤチブキの葉は、傷口の魔を払って治りを早めてくれる。
大昔、まだお母さんが元気だった頃に、そう教わった。
もしかして自分をここまで運んだのは、傷口をきれいな水で洗う為?
そして薬草まで巻いて手当てしてくれたって? いやいやまさか、信じられない。
男の子って、石を投げたり物を取り上げたり、弱い者を虐める事しか考えない生き物の筈。
おかしい、こんなの変だ、おかしい。
村の大人にも子供にも、誰にだって、そんな親切を受けた事などない。
お前は余分に生まれた厄介者だって、いつも言われて育った。
しんと冷えた空気と夕闇が、彼女を現実に戻した。帰らなくちゃ。
立ち上がって、よろめいた。
原因は足の怪我ではなく、腰の山菜袋だった。
中には、瑞々(みずみず)しいイタドリの新芽が、ぎっしり詰まっていた。
それが、女の子がその日、谷で出会った不思議のすべてだ。
***
夕暮れの谷を、一人の少女が転がるように駆けていた。
初春の残雪残る斜面は、今の彼女でも往生する。
私、よくあんな小さな子供の頃、こんな所まで歩いて来たなあ。
そんな事を考えながら、穴の開いた靴でひた走る。
薄衣で来たので谷の冷気がジンと凍みる。
もっとも上衣を羽織ってくる余裕なんかなかった。
谷にずんずん分け入り、苔に被われた柳の木の根を這い登ると、目の前が開けた。
「あった……」
少女は思わず声に出した。
小さい時に一度きり来た記憶の通り。
開けた平らな地形で、流れが穏やかに広がった、黄色いヤチブキの園。
木々の切れ目から届いた光が、水面にキラキラしている。
だが今の少女には、それをキレイだと堪能しているゆとりはなかった。
浅瀬を横切り、川の中洲にたどり着く。
明るい陽射しに照らされたそこだけ、泥んこの谷の中で別世界だった。
あの時はこの場所に、二人の男の子が立っていた。
小さい自分は、集落へ帰ってからも、二人の子供の事は話さなかった。
大人に袋一杯のイタドリの説明を求められても、闇雲に歩いていたらたまたま新芽の林に行き当たった、と答えた。
秘密にするのに特別な理由があった訳ではない。
ただ、この季節にこんなにイタドリが出ている訳がないと問い詰める大人に、反抗したかっただけだ。
イタドリで袋を一杯にして来いと言ったその口で、恥ずかし気もなくそう言い切る大人に。
あの子供達は、何だったのだろう。
今から考えると、離れた所に連れの大人がいたのかもしれないし、人知れず山奥に住む部族なのかもしれない。
自分は小さかったし、本当に人ならざるモノだったのかどうかは、怪しい。
ただ、あの二人の居た空間のグニャリとした異様さだけは、今でも忘れられない。
物想いにふけったのは一瞬で、少女はすぐに上流へと駆け出した。
下流から、人の声とザバザバ歩く水音が聞こえて来たからだ。
さっきの清涼な場所を過ぎると、もう谷は暗くて陰湿な顔に戻っている。
目の前に背丈の何倍もある赤い岩がそそり立っていた。
足掛かりはあったので何とかよじ登ったが、上に立った所で絶句した。
見上げるような垂直の滝がそそり立っている。
水量はさほどでもないけれど、とにかく高い。上の方がかすんで見える程だ。
そして滝壺の水をたたえた淵は、身震いがする程、真っ黒で深かった。
大雨の時あの高さから落ちる大量の水が、ここを抉(えぐ)るのだろう。
両側の岩盤もほとんど垂直で湿った苔に覆われ、とても登れそうにない。
人の入る場所なら、こういう滝には迂回路があるものなのだが、それは見当たらなかった。
要するに、この先は人間の領域ではないって事だ。
後方に、知った声のざわめきがする。
水を蹴って歩く足音は、思ったよりも多い。
山側の斜面は、びっしり密生した笹薮だった。
取り付いてみたが、太い笹がバリケードのように身体を跳ね返し、一歩たりとも登れない。
藪にしゃがんで身を隠す程度なら出来るが、捜されたらお終いだ。
逃げ口を探してうろうろしている間に、人の声が赤い大岩のすぐ裏までやって来た。
次の瞬間には、もう見付かってしまうだろう。
探す目的を、逃げ道から別の物に切り替えた。こういう場所にならある筈……
「あった……」
それを見付けて、少女は覚悟を決めた。
谷を遡って来た数人の男は、水に逆らいながら滝の中を登る少女を見付けた。
確かにこういう地形は、実は水が叩いている所の方が足場があるのだ。
「馬鹿者! 戻れ!」
男の一人が叫んだ。
「今なら許してやる、早く降りて来んか!」
少女は登るのをやめない。
一人の男が、持っていた石弓を構えた。
「傷を付けるな、買い叩かれる」
「脅しだ、当てはしない」
「もうあの高さじゃ落としちゃまずい……あっ!」
弓を放つ前に、掴んだ岩が崩れ、少女の身体が滝から離れた。
そうして悲鳴も上げず、その形のまま滝壺に落ちた。
男達は慌てて水際に駆け寄った。
少女の頭を覆っていた茜のスカーフだけが浮かんで来た。
身体は多分、滝壺の魔に持って行かれたのだろう。
「何てこった、馬鹿めが」
男の一人がスカーフを拾って、怒りに任せて引き裂いた。
「手付け金を貰っていたのに、返さねばならなくなったではないか」
「仕方がない、ガキの頃から反抗的な奴だった。金をかけて育てたのに、大損害だ」
男達はぎゃあぎゃあ喚きながら、大岩を降りて行った。
その煩い声が遠ざかって…
―― ざぶん ――
水面に輪を描いて、頭が突き出した。
「う~~ぃ」
それはしかし、少女ではなかった。
猫みたいな白い髪から滴を垂らして、小柄な少年が勢いよく水から上がった。
「耳に水が入っちまった」
少し離れた笹薮が揺れて、黒髪の少年が立ち上がった。
「さすが、ハルルは息が長いな」
彼の足元では、真っ青な少女が半裸でうずくまってガチガチと震えている。
「誉める所、そこ? キロロ。我ながら芸術的なダイビングだったと思うんだけれど?」
白い髪の少年は、身体をぶるんと振るって水滴を飛ばし、シダの向こうに脱ぎ捨てた自分の衣服を拾いに行った。
程なく、カラフルな民族衣装に戻った少年が、少女の煤けた衣服を振り回しながらやって来た。
「濡れちまったけれど、絞れば着られるだろ?」
少女はまだ、膝に顔を埋めて身を縮めている。
「いつまで震えてるんだよ、寒いのはこっちだってぇの」
「ひぇっ! ひぃっ! いやあっ!」
少年の真っ黒い手が肩に掛かると、少女は感電したみたいに悲鳴を上げた。
「何だよ、こいつ」
「いきなり笹の中へ引っ張り込まれて、着ている物を剥ぎ取られたら、そりゃ、普通の女の子は怯えるんじゃないかい?」
黒髪の少年の方が、絞った衣服を受け取って、少女の傍らにそっと置いた。
「行こう、ハルル」
「行くの? キロロ」
「下に住んでる者には関わるモンじゃないって言われているだろ」
「先に手出ししたのは、キロロの癖に……」
「そりゃ……ああ……」
黒髪の少年は思い出したように、さっき彼女の手からむしり取ったフスの葉を、パラパラと足元に落とした。
「一応言っておくけれど、それ、口に入れたら、もうこの世に戻って来られない。まあ、知らなかった訳じゃないんだろうが」
木々のざわめきの中に二人の気配は遠ざかり、少年の声の最後は、遥か滝の上方に消えた。
***
麓の様子は変わっても、あの白い三つの峰だけは変わらない。
残雪の谷を歩きながら、娘は三峰を仰ぎ見た。
ここに来る前に通り過ぎて来た子供時代を過ごした集落は、すっかり寂れて廃墟となっていた。
自分が去った少し後に、水害や疫病に立て続けに見舞われたと、人づてに聞いた。
もっとも大した思い出もないので、彼女には何の感慨もない。
座った事もない椅子や、入る事を許されなかった母屋が、泥を被って朽ちているのを見ると、返って晴々(せいせい)とした気分になれた。
谷の道は、幼い記憶よりもずっと長い。今の方が歩幅も力もある筈なのに。
「ああ、あの時も、次の時も、必死だったものね……」
思わず口を付いて出た。
最初は、山菜袋を一杯にして帰らないと棒で打たれる恐怖に駆られて、幼い足で這いずり歩いた。
次は、畑労働から帰ると待っていた死神みたいな人買いの恐怖から逃れる為、この道を逃げた。
あの頃の自分を思い出すと、今でも胸がつかえる。
追っ手から逃げおおせたのは、本当に奇跡だった。
逃げ切れなかったら命を終わらせる覚悟でいたからだろうか。
それを切っ掛けに、自分の運命は切り替わった。
あの後、暗くなってから谷を抜け出し、集落を避けて山を降りた。
大きな街で下働きから始めて、一生懸命働くと、ちゃんと評価して貰えた。
物覚えは良いし利口だしと評判が立つと、良い雇い主が現れた。
意欲を示すと、教育も受けさせて貰えた。
そして自分が、多兄弟の末っ子だから無駄に生まれたって訳ではなく、親だから無駄な子供はどう扱ったっていいって訳でもない事を、知った。
見覚えのある大きな柳の木が見えた。
背が伸びた今でも苦労する根元の壁を登ると……
「あった……」
また口を付いて出た。
平らな地形の、穏やかな流れの広場。
でも、記憶の中より、大分狭い。
キレイだと感じる余裕のなかった昔の方が、おとぎの国みたいに思っていた。
明るい川の中洲に立ってみた。
水面は相変わらずキラキラしている。
ヤチブキにはまだ少し早くて、残雪のそこここに、蕾をもたげた若芽が立ち上がった所だ。
広場を通り越してしばらく歩く。
今度は赤い大岩。足掛かりも昔の記憶と同じ。
「ああ……」
やっぱりあった。夢じゃなかった。
苔とシダに覆われた、切り立った滝。
こちらは記憶通り、やはり険しくて高い。
岩をつたい歩いて滝壺の淵に立ち、地獄の釜みたいな水底を見下ろした。
あの時は怖くてちゃんと見られなかったけれど、こんな滝壺に落ちたのなら、大人はそりゃ、見限るだろう。誰一人、ほんの一瞬も、助けようともしないで。
また胸がつかえて来たので、顔を上げて滝を見た。
そう、こんな高い滝からこんな怖い水底へ、自分の為に落っこちてくれたヒトがいる。
命を絶つ事で逃がれようとした自分を、当たり前に止(とど)めて叱ってくれたヒトがいる。
それらの事実を言葉にして噛み締める度に、心に光が射して力が湧いて来るのだ。
だから、新しい街で、独りで、まっとうに、頑張れたのだ。
街で学んで、世の中には色んな肌や髪の色の人間が、普通にいるって知った。
いや、彼らが人であろうが妖怪であろうが、もうそんな事はどうでもいい。
大切な事は、もっと別の所にあったんだ。
人生で、ただ長く一緒にいたって、何にも残らない人がいる。
ほんの一瞬しか関わらなかったのに、一生残るヒトもいる。
娘はすうっと息を吸って、胸を張った。
「ねえ、キロロさん、ハルルさん!」
滝上に向かって、大きな声で叫ぶ。
「私、……えっと、あのね、この間求婚されたの。それでね、受けようと思うの。
とってもとっても優しい人だわ。子供が安心して帰って来られる、暖かいおうちを作るの」
滝はどうどうと流れ落ちる。
最初は気恥ずかしかったけれど……
これを言いに来たんだ、誰かに聞かれたって構うものか。
滝上の真青(まさお)な空を仰ぎながら、娘は高らかに叫んだ。
「今、とても幸せに生きているわ。貴方がたのお陰です。本当にありがとう」
昔、言い損ねた言葉。
古(いにしえ)から変わらずただ流れ落ちる滝をしばらく眺めてから、踵を返して帰り道に付いた。
赤い大岩を降りて、先の広場が見えた時、娘は目を見開いて、胸が一杯になった。
中洲の白い残雪の上に、黄色いヤチブキの花が、お祝いの飾り付けみたいに、丸くこんもりと積み上げられていた。
~おしまい~