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 靄のかかった意識がじわじわと明るくなり、小路仁子はゆっくりと目を覚ました。

 先ほどまで耳の奥で鳴っていた雑音が遠ざかっている。なんだかうるさかったけど、夢でも見ていたのだろうかーー。

「……お兄ちゃん?」

 部屋の明かりは消さずにソファで寝てしまっていた。眩しさに目を細めながら、ゆっくりと半身を起こす。

「お兄ちゃん?」

 もう一度呼ぶ。壁の掛け時計を見上げると夜の十時。いつもならもう兄の優一が帰ってきている時間帯だが、この部屋にはいない。ただいま、という兄の声を聞いたような気がしていたが、それも夢か、気のせいだったのか。……ああ、自分の部屋にいるのかもしれない。

 仁子はソファに腰掛けたままそう判断して、うん、と伸びをした。

 あくびをしながら部屋の奥にあるパソコンデスクに向かう。

 今日の作業は上々だった。いくつか新しい展開を組み込んで、格段に好みの出来に近づいた。もう少しウワモノをいじって、エフェクトも調整したいな、というところでひと休憩し、その途中で眠ってしまった。

 ととと、とデスクに歩み寄る。上下スウェットの部屋着の裾を両手両足ともに捲り上げて、脚を折りたたんで椅子に座った。

 デスクの上のヘッドフォンを手にとって耳に当てて、制作作業を再開する。

(――ん?)

 さっきの作業中は、スピーカーからそのまま音出してなかったっけ。

 ふと疑問がよぎったが、それくらい無意識に睡魔に襲われていたのかもしれない。

(まあいいか……)

 仁子はとりあえず出来ているところまでを確認しようと、スペースキーを押して全トラックを再生させた。音量を上げる。

 自分の作った音楽を聴くのは好きだ。ちょうどいいところとイマイチなところ、全てが手に取るようにわかるのが本当に面白いと思う。自分で作ったこの世界には、自分の思いが隅々まで届く。現実の世界はなんだかざわざわして不安ばかりでわかりたいとも思えない。それは逃げでもなんでもない、と兄の優一もいつも言っている。自分の作り出す世界が好きなら、ずっと作り続けていていい。好きなことなら構わない。俺はお前が作り出すものが本当に好きだから――。

 兄の言葉を反芻させながら、お腹の中がじんわり温まってくるのを感じた。目を閉じて、自分の音楽にじっと耳をすませる。深く深く、音の中に入り込んでゆく。

 そのため、どたばたと玄関のドアが開いて、優一と一組の男女が言い合いながら部屋に入ってきたことには気がつかない。

「だからーー! ちょっと、困りますって!!」

「ちょっと、一杯だけでいいから! もう料理酒とかでもいいし!」

「真理亜さんさすがに人のお宅はまずいっすよーー」

 リビングから漏れる明かりの中、短い廊下をくんずほぐれつ、三人の男女がひと塊りになってずずず…と前進してくる。塊の中心には目を血走らせたざんばら髪の女、その肩と二の腕に引っかかるようにして優一、そして顔は笑顔のままで鈍い行軍に参列している男。

「すみませんねえ本当、この人、今朝くらいからずっと飲みっぱなしで…」

 女の勢いとは打って変わってのんびりした口調で男が言う。「ちょっとお酒に対して見境いがなくなってまして」

「いやいや!」ぐいっと振り返って優一は語気を荒くする。

「事情とかは別にいいんで! フツーに不法侵入ですから!」

「いいじゃん! だって頼夫が飲ませてくんないからじゃん!」

「真理亜ちゃん、もう充分飲んだでしょ? ケーサツ呼ばれる前に帰ろうよーー」

「ケーサツも呼んで一緒に飲んだらいいじゃん!」

(何か、大事なところが破綻している……!)

 女を必死で引き留めながら優一は思った。以前に廊下ですれ違った隣人の美しい佇まいからはかけ離れた、鬼の形相と酒への飽くなき欲望を目の前にして今さらのように慄く。

 しかし、この先には行かせられない。ぎぎぎ、と床に踏ん張り、優一は渾身の力で女を引き戻そうとする。

「すみません本当、家族が寝てますんで! ほんっとーに、迷惑ですから!」

「いーじゃん、めんどくせえからみんなで飲もうよ~~」

「いやあの、妹は、未成年ですから!」

 優一の必死の静止も空しく、長い髪を振り乱しながら女はすさまじい怪力で右手を振りほどく。リビングへ続く開け放されたドアの木枠に爪を立てる。

 そこからほんの数メートル先、窓に向かうデスクチェアの上に脚を折りたたみ、背を丸くして自分の音楽に聴き入っていた仁子が、ようやく異変に気付いた。

 なんだかさっきからざわざわとノイズが入っているような気がして、ボリュームのつまみをいじっていたが、気配を感じてちらり、と振り向いた。両目にかぶさる長い前髪の隙間から見えた光景に「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。

 笑顔を張り付かせ目を見開いた女と、女の背後から自らの腕を絡ませ顔を真っ赤にしている自分の兄の優一。廊下の暗がりにはもう一人、困り顔の男の姿も見える。

 仁子の知る限り、優一が第三者を自宅に招き入れたことは同居を始めてこれまで一度もない。この家に、部屋に、誰かがいる、という感覚が初めてのことで、仁子は瞬間的に激しくたじろいだ。ヘッドフォンをしたままデスクチェアを蹴立てて立ち上がり、がばっと体ごと三人に向き直る。そして――

 ――ぶつん。

 ヘッドフォンからの音圧が途切れる。

 背中からすうっと穏やかな一陣の風が吹き抜けた。

 ヘッドフォンジャックが抜け、ディスプレイの両側に置かれたスピーカーからの出力に切り替わった。ヘッドフォンで聴いていた大音量がそのまま、振動となって仁子が身につけているスウェットの生地を微かに揺らす。

 仁子の作った音楽の風が、座卓の上を撫で、ソファの背を乗り越え、フローリングを突っ切って、部屋の入口へ抜けてゆく。

 旋律と、和音と、リズム。それらが混然一体となったその風は、一気に三人の身体へ届いた。吹き抜けて、女の髪がふわりと浮かんだ。ドアの木枠にみしっと爪を立てた状態で動きを止める。

 スピーカーからの大音量は、大きさこそすさまじいが自然と耳に馴染んだ。優一ははっとして、女の後頭部越しに部屋の奥に目を向ける。ヘッドフォンをはめ、デスクに後ろ手をついた仁子が、驚いた様子でこちらを向いて固まっている。

 そこで、優一は掴んでいた女の二の腕から急激に力が抜けるのを感じ、そっと緊張を解いた。これまでの怪力がすべて潰えたように、優一の支えを失って、女はへたりとその場に座り込む。廊下の壁に頭をもたせかけた姿勢で、仁子と同様にこちらも固まってしまった。

 スピーカーからの音楽は続いている。突然響いてきた音楽に戸惑っているだけではなく、明らかな異変が女に起こっている。

 豊かな音色に包まれて、目を見開いたままで、誰ともなく、女はつぶやく。

「これ、やっばい……」

 そのまま目を閉じ、呆気にとられた後ろの二人の目の前で、昏倒した。
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