備中高松城水攻め
文字数 2,429文字
いつも冷静なメガネが珍しく悲鳴を上げた。
信長がにやりと笑う。
珍しく普通の会話をしている。
清明がいなくなったので、こちらの方が便利だと思われる。
猫娘姿のコスプレをした雛御前の使い魔である≪
一応、人間のかわいい女の子に化けているが。
メガネも考えたくなかったが、その後の最悪のシュミレーションをしてみた。
雛御前はミニスカ十二単美少女に変化して、オタクたちの視線を釘づけにしていた。
『見えるか見えないか半分スケスケモードのサイバーグラス』で月読波奈のパンツを見ることを悲願としていたオタクたちも現金なもので、とりあえず、可愛ければいいという節操の無さであった。
性欲ばかりのオタクの青春とはそんなものである。
そうこうしてるうちに、備中高松城の水攻めで出来た湖水に派手に着水する超大型空母<天龍>であった。
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メガネはさすがにため息をつく。
メガネも呆れるしかなかった。
当時の備中高松城の情勢であるが、毛利家は天正4年(1576年)に京都を追放された将軍足利義昭を庇護して「鞆幕府」を樹立させたり、信長の石山本願寺攻めの際、毛利水軍を差し向けて兵糧を城に入れたりして対信長戦略を展開していた。
正確には戦略というより成り行きに近く、将軍足利義昭が転がり込んで来て仕方なく庇護したり、その将軍家との関係や本願寺の門徒が毛利家にもいたことで石山本願寺の合戦に参戦した面が強い。
その後、秀吉の中国地方攻略における兵糧攻めは凄まじく、三木城では『三木の
鳥取城で降伏した城兵に秀吉は粥を振る舞いましたが、あまりに飢餓状態にあったために、急に食べ物を摂ったために亡くなる人が相次いだという。
備中高松城水攻めはその秀吉の兵糧攻めの第三弾であり、宇喜多直家に裏切られて情勢がはっきり毛利不利に傾く中の戦いでした。
さらに、四国の長宗我部元親、北九州の大友氏も親信長派でありました。
なので、本能寺の変への対応で秀吉が講和を申し込んできた際には、それに応じるしかなかったのですが、秀吉の中国五ヶ国割譲の条件も厳しかったが、名将、清水宗治の首を差し出すという条件にも難色を示してました。
が、毛利家の外交僧である
当時は切腹の作法はまだ武士に定着していませんでしたが、清水宗治以降、切腹を武士の作法として取り入れていきました。
それに加え、安国寺恵瓊が本能寺の変の10年ほど前に「信長之代(は5年、3年は持つだろうが、いずれは)高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申候、藤吉郎さりとてはの者にて候」と言っていたらしい。
智将、小早川隆景辺りは本能寺の変までは知らなくても、薄々、変事があったことには気付いていて、秀吉に恩を売ったのかも知れません。その後、豊臣政権の樹立に手を貸していきます。
安国寺恵瓊も秀吉の直臣として活躍して、最終的に伊予6万石の大名になっていきます。
信長は高らかに宣言した。
仕方ないなあと思いつつ、メガネは<ボトムストライカー>に搭乗した。