「負けたら悔しい」と「勝てたら嬉しい」
文字数 3,421文字
5月も終わりにさしかかり、夏の大会の抽選会が近づいてきた。
裾花清流高校は守備をより堅固にする態勢に入っている。
礼がセカンドに速いノックを打つ。
結城まこが正面に回り込んで押さえ込み、1塁に送球――する体勢だけ作る。
礼はセカンドベース付近に打球を放つ。
桜が追いついて逆シングルでキャッチ。反転しながら送球の体勢に移る。
一ノ瀬桜の武器は打球に対する反応の速さと、バウンドに合わせられる柔軟性だ。
バッターのスイングを見て、インパクトの瞬間には直感で動き始めている。
だからこそ速い打球にも追いつけるし、時には正面に回り込むことすら可能なのだ。
一方、反対方向では緋田恵がショートの二人、天城奈緒と広野皐月に対してノックを行っていた。
皐月がイレギュラーした打球を押さえ込み、送球の体勢を作る。
桜が移動したのを確認して、恵がセカンドベース寄りにボールを打つ。
奈緒が体を伸ばして捕球し、走りながらくるりと一回転してファーストへ送球する――ふりをする。
送球するふりだけなのは、ファーストがいないからだ。
ショートの後方では、ファーストの赤羽夕日が、サードの水崎美晴と送球練習を行っている。
サードベースからファーストベースまでと同じ距離で二人が立ち、美晴が転がっているボールをダッシュしながら拾い、投げる。その繰り返しだ。
美晴が決められた地点にボールを置き、三歩ほど下がる。
微妙な距離から走り出し、拾って送球――これは体勢がやや乱れてショートバウンドになった。
が、夕日がうまく合わせてしっかりキャッチする。
体力や体勢によって軌道も変化するので、これは様々な送球を受けるファーストの練習にもなる。
緋田恵は、休憩中のグラウンドを見渡している。
二遊間はこのチームの守備を固める重要な部分だ。そのため他のポジションより守備練習を徹底させている。
とはいえ、恵は千本ノックのような練習はさせない。
それはただ選手を潰すだけだと思っている。
一歩目を速く。
取ってからを速く。
不規則なバウンドから目をそらさない。
なるべく正面に入る。
目的意識を持って臨む100本でも充分だと恵は考える。
それは現役時代、周りで故障する仲間を見てきたからこその考え方だ。
甲子園に出場した高校の監督にも、「現役時代はつらいことしかなかった」「強豪校には練習量で勝つしかない」と言う人がいる。
恵はそれを否定も肯定もしないが、つらいだけの部活なら、途中でリタイアする選手が出てくるのも当然だと思う。
男子の高校野球人口は年々減少してきているという。
練習が厳しすぎるところにも問題があるのではないか――とは、プロ野球選手からも指摘されている部分だ。
恵は高校時代、必死で数だけこなしてきた。
素振り1000本、ノックも数百本は当然で、ミスすれば回数が上乗せされる。体が悲鳴を上げ、辞めたいと思いながらも意地だけで最後まで続けた。家に着けば疲労のあまりすぐに寝てしまい、食事も不規則になって家族を心配させた。
あの頃は、たくさん練習すれば上手くなると信じてひたむきに打ち込んだ。しかし、それだけやっても最後の大会は初戦敗退だった。
初戦で敗れた時、恵は高校野球の監督になることを決意した。
こんな悔しさを選手たちに味わってほしくない。
なんのための3年間だったのかなんて、思ってほしくない。
選手には、野球は楽しいものだと思い続けてほしい。
楽しくやってこその野球だと、うしろの世代に伝えていってほしい。
だからこそ、いつも楽しくプレーできる環境を、恵は作ろうとしてきた。
楽しそうに投球練習する二人を、恵は微笑みながら見つめている。
恵はとにかく選手が前向きでいられるように考えてきた。
試合中にかける言葉もそうだ。
「スライダーに手を出すな」と「スライダーは見送っていこう」では、同じ意味でも印象が変わってくる。
前者の方が、選手の心理にかかるプレッシャーが大きくなるのだ。
そうした些細なところからでも選手の力を引き出せるよう、頭を回転させる。
裾花清流高校は、冬場の練習メニューを選手たちが自分で考えて決める――という慣習がある。
恵はそれを受け入れ、今年の冬も礼に任せた。
漆原礼は統率力のあるキャプテンだ。新チームをよく導いてきた彼女に、恵は絶対的な信頼を置いていた。
だから、まさか故障者を出すような厳しいメニューを組んでいるなんて思いもしなかった。
払った犠牲は大きく、ちゃんと見てやらなかった後悔も抑えきれなかった。
だからこそ、残ったメンバー全員とよく対話して、方針を確立させた。
何度も同じ失敗はしない。
心に誓った。
それでも高池凪のような案件も起きるし、課題は尽きない。
ノック100本にしても一気には行わない。
20本を5セットにして、二人交互に受けてもらう。
なるべく集中力を維持させるためだ。
集中力が切れると怪我につながりやすい。
夏の大会にチームのピークを持っていくためには、全員が万全の状態でいられることがベスト。
新海澪のように予期できなかった不調もあるが、今のところ最小限で抑えられている。
恵はノックを打ちながらも、頭の中では夏の大会のことを自然と考えている。
「負けたら終わり」と言うつもりはない。
「長い夏にしましょう」とだけ言うだろう。
負けたら悔しいだろう? だから負けないように練習を頑張るんだ。
高校生の恵たちに対し、あの時の監督はそう言った。
けれど恵は違う言葉を選ぶ。
選手にかける言葉は、最初の時からずっと同じだ。