二、壅夘連土(ユウヅツ)

文字数 4,412文字

 関東検非違使所の門前はまだ暗く人の往来はない。そこに赤い小袿を壺に被り市女笠を手にした旅装姿のクサビが佇んでいる。小袿の中から東の空を一瞥して、茜色に染まりだしたのを確認すると、クサビは一人出立した。スハエは現れていないがいつものことだ。ここから西には一本道で最初の三叉まで終日歩かねばならない。いずれ追いつくつもりなのだ。
 一時ほど歩いて来たところ、薄の穂が風に揺らぎ、まるで波のようにたゆとう原に出た。右手奥に禿山が控えもするが目に見える範囲は全て薄である。そこを壺装束のクサビがよろよろと歩く。薄野を割って走る一本道は泥濘んで足元が心もとないのだ。ただでさえ歩きずらい格好をしている上、草履に慣れないため、クサビの足はなかなか先に進まない。こんなことでは早々にスハエに追いつかれ、それと同時に汚い言葉で罵られてしまう。クサビは草履を脱ぐと慣れた素足になって歩き出す。これならば倍の速さで進んで日の入り前に西の三叉にたどり着ける。
 クサビが歩き出してしばらくすると男が駆けて来くるのが見えた。足元はクサビと同じく裸足で、身なりは黄ばんだ水干(すいかん)を着てい、姿からすればおそらく公家や寺社に仕える雑色《ぞうしき》のようだ。その雑色はそのままの勢いでクサビの横を通り過ぎたが、少し行ってから足を止め、
「この先はだめだ」
と喘ぎながら言った。しばしこちらを見ていたが、クサビの反応がないものだからすぐに走って行ってしまった。あの慌てようでは野盗でも出たのだろう。こんな一本道でも見渡す限り生い茂ったこの薄野ならばありえそうなことだった。待ち伏せするに潜みやすく、逃げるに紛れやすい。彼方に見える禿山の裏手にでも山塞があってもおかしくはない。
 しかしクサビはまったく動じない。野盗など恐るるに足りないのだ。女のクサビが屈強な男どもと伍して走り隷をしているのは、それなりの技量を認められているからだし、これまで関東を旅して何度も野盗、山賊の類に出くわし切り抜けて来た。ただ困ったことといえば今ここにスハエがいないことだ。もしものことがあった時クサビ一人ではどうする事も出来ない。かといって引き返す気にはならない。戻ってスハエに会い、野盗のせいで引き返したなどと言ったら、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけられるに違いないのだから。ならば、クサビはもしものことが起こらない方に賭けて前に進む。
 少し道を進むと泥だらけの草履が片方落ちていた。先ほどの男の忘れ物だろう。雑色身分の者にとって草履は財産である。それを忘れて行くとは、よほどの恐怖だったと見える。さらに進むと、牛車や長櫃が放置され、その周りに数人の男女が倒れている。泥の中にうつ伏している者、上半身が薄に突っ込んだまま両の足を突っ張らせている者、首が離れたところにある者、牛車の中で胸を血で染めたまま動かぬ者。泥水の中に折り重なって倒れているのは、高貴そうな装束からしてこの一行の主夫婦か。息をしている者もいたが見たところ助かりそうにない。腹からわたが飛び出てしまっている。すでに逃走したのか、一帯にあるのは死体ばかりで野盗らしきものは見当たらない。気になるのは、金蒔絵の施された長櫃が三つ、道のまん中に置いたままなことだ。これらを狙っての荒事ではなかったのか。それとももっと大きな葛籠でもあってそっちを持ち去ったか。
「待て、待たぬか」
 左手の薄の中から男の声が上がった。数人の頭が薄原を動き回っている。どうやら何かを追いかけているらしい。クサビはその頭どもが、あっちへ行きこっちへ行きするのを道の端から眺めていたが、それがだんだんとこちらに近付いて来て、あっと思ったら薄の中から何かがクサビに体当たりして来た。咄嗟にクサビはそれをかわし、尻尾のようなものを掴んで引き留めた。クサビに捕えられたのは年のころで言えば十才前後、裳着(もぎ)もまだらしい童女(めのわらわ)だった。クサビが掴んだのはその童女の汗衫(かざみ)の裾だった。童女はしばらくもがいていて観念したのか静かになるとクサビを振り仰いだ。野盗どもの慰みにされまいと薄原の中を逃げ回っていたのだろう、汗衫は引きちぎられ白い肌が見え、恐怖のためか青ざめた顔をしている。その童女がそのままの姿勢で、大きな黒目でクサビをじっと見つめている。その時クサビは気が付いたてしまった、その瞳が虚無に支配されていることを。クサビは嫌な予感がした。童女の身中のものと共鳴して、クサビの胸のうちが悲鳴を上げつつあったからだ。これは良くない傾向だ。
 去ぬる夏、女の詮議に立ち会った。その女は嬰天と疑われて検非違使所に拘引されて来た。御前に引き据えられ仕置き隷が苛烈に執行する中、クサビは何かの叫びを聞いた。それは仕置き隷や衛士には届かずクサビだけが聞こえる叫びらしかった。クサビは女の声かと思ったが、顔を上げさせると目からはすでに精魄が失せ声など発する体ではなかった。しかし、仕置き隷が鞭を入れるたびに悲鳴は強く響いて来る。それは次第にクサビに切迫して来て、遂にはその叫びの主が目に見えた。女は子を孕んでいたのだ。その腹の子が命の声を張り上ている。母体の消滅に抗って命にしがみつこうとして絶叫しているのだ。それを感知した刹那、クサビの意識ははじけ飛んだ。
 長い暗黒の時が過ぎ、クサビの意識がおぼろに見たのは、炎天の下、数十人の衛士に槍先を突き付けられて御前でのたうつ己の姿だった。その時には女は御前から引きずり出されようとしていたがクサビにはどうすることも出来なかった。その時のクサビには、露出した己の目から流れる涙をただ感じることしか出来なかったからだ。
 今、そこにいる童女がその時の女のようなのだった。童女はこの惨状を目の当たりにし、抗えない暴力の衝撃に呆然自失している。そんな童女の中の何かが絶叫している。この幼さで子を孕んでいるわけはなかろう。しかし、あの時のように何者かがクサビに叫びかけている。無視すればよいものを、以前にこれに応えて痛い思いをしたはずのクサビがどうして惹かれるのか。それは、この叫びに甘い香りがあるからだ。応えよそして我がものとせよと誘う香りが。こうしてクサビが胸中の陥穽に落ちまいともがいている最中、さぶらいのなりをしたものどもが薄をかき分けクサビたちの前に現れたのだった。その中の一人が何か言ったようだったが、すでにクサビはそれを理解する気はなかった。もはや興味は別の次元にあったから。そしてそれはクサビの意識がクサビの体躯の埒外に押しやられたことを意味していた。
 クサビの意識が薄明の中を彷徨っている。何かがクサビを濁世に引き戻そうとしている。それが喜ばしいことかどうかは今のクサビには分からない。早くここから出てゆかないと取り返しのつかないことになる。あの局室に戻れなくなると思う。しかし、同じクサビの意識がこのままでいいとも感じる。ここに永遠にたゆたいその喜ばしき時に身をゆだねるのも悪くない。その狭間にクサビはいる。痛みがあった。尻が痛い。尻を叩かれている。かなり強く。これは憎しみだ。あの女が幼いクサビに向けた憎悪だ。憎しみが鞭となって尻を打っている。これは仕置きだ。許されざる悦楽だ。口の端に笑みを浮かべて鞭を打つ仕置き隷の仕業だ。逃れねばならない。この憎しみから逃れるのだ。喜悦から。明るい場所へ。
 クサビは瞼を開いた。
「糞は厠でしろ」
 と、唾を吐きかけたのはスハエだった。相変わらず癪に障る顔をしてクサビを見下ろしている。仕置きと思ったのはこの男の打槌(だつい)だったのだ。打槌とは、己を見失った嬰喰使をこの世に引き戻すための儀式だ。認めたくないがこの男のおかげで助かった。それと同時に自分が賭けに負けたことを知った。どだいこれを思うままにしようなど無理なことだったのだ。
 クサビは丸裸のままで立ち上がった。その白い尻に打槌の痕がくっきりと刻まれている。クサビの透き通るような白い肌にまた一つ鞭のような傷痕が増えたのだった。クサビは道に脱ぎ捨てられた下着を身に着けると小袖を羽織り周りを見る。
 道の上の長櫃や駕籠は例外なく押しつぶされ中の物が散乱し、生死なく人の姿もない上に牛さえどこにも見当たらなかった。あたりの薄は広範囲にわたってなぎ倒されていて、まるで天から振り下ろされた大砧に押し潰されたようだ。クサビの市女笠は奇跡的に無傷で道ばたに転がっていた。それを拾いに行こうとすると、スハエがクサビの背後を指して言った。
「糞、そいつは何だ」
 クサビが振り向くと、そこにはあの童女が全身泥だらけで、胸の前の手先を小刻みに震わせながら立っていた。
「知らぬ。どこかに隠れていたのだろう」
 クサビはなぜか嘘をついた。
 スハエはそれには何の興味も湧かなかったらしく、クサビの支度を待たずに薄野の上空に舞い上がると飛び去って行ってしまった。
 クサビはスハエの姿が見えなくなると童女に近付き、
「来るか?」
 と言った。童女は一瞬警戒の色を示したがすぐに大きく頷いた。一族郎党を失った己に、来ないという選択肢などないと悟ったのだろう。
「どこから来た?」
 返事がない。
「名は?」
 童女は喋る仕草はするが言葉が出て来ない。
「聞こえるか?」
 というと頷いた。耳が聞こえるのなら今言葉を失ったものか。あの惨状を目にしたのだから無理もないとクサビは思った。
 クサビは散乱した荷から汚れの少ない童装束を選び、童女に与えて着替えるように言った。その間、クサビは荷をそれとはなしに品定めしていたが、ひしゃげた長櫃の下から錦糸の衣が出ているのを見て、この童女の親は相当の貴顕であったことを悟った。
 クサビは着替え終わった童女の元に戻ると前にしゃがみ、泥だらけの顔を両手で包む。童女は少し身を固くしたがクサビの目を見てすぐに為されるがままとなる。クサビが顔の汚泥を拭ってやると童女は少し顔をゆがめた。見るといくつも切り傷がある。野盗から逃げる際、薄の葉で切ったものだろう。クサビが小袖の端布につばを付け血を丁寧に拭いてやると真白いふくよかな素肌が現れた。そして後ろを向かせて腰袋から櫛を取り出し髪を梳いてやる。童女の髪は手入れがよくされていたものかすぐにつややかな髪になった。髪を梳きながら、クサビは前にもこうして誰かと睦まじやかに過ごした時があったような気がしたが、すぐさまそんなことはありはしないと思い返した。
 身づくろいが終わるとクサビらは手を取りあって西に歩み出す。壺装束の女に童装束の子。二人の姿は誰が見ても道行の母子そのものだ。
 かりそめの母子が大禍が時の薄野を歩いてゆく。西の空には茜色の雲が棚引き、その雲間の紺青に大きな一つ星が明るく瞬いている。
「お前の名は今から、ユウヅツだ」
 ユウヅツとなった童女は大きく頷くとクサビの手をしっかり握り直した。
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