第6話 堀川貴昭

文字数 1,688文字

 堀川貴昭はイラついていた。フロントガラス越しに見える渋滞の列に、動く気配は全く感じられない。昨日から続いている雪の影響のため、各所で渋滞が起きていることを地元のラジオ局が告げるのを聞くなり、貴昭はステアリングを強く叩いた。新古で買った四輪駆動のアウディが誇る高い性能も、この状況では何の役にも立たない。
  だが、このままだと仕事に遅刻してしまう。母親からの小遣いだけでも生活には十分だが、遊ぶ金までは回らない。貴昭にとって仕事をすることは、パチスロをするためであると言っても過言ではない。以前は仕事を辞めても次がすぐに見つかった。しかし、四十歳を過ぎるとそれも難しくなってきた。貴昭は遅れることを職場に電話しようかと思ったが、どうせ嫌味を言われるのがオチだと考えてやめた。
  コンビニの求人で面接を受けたはずが、いつの間にかオーナー夫人の実家が経営する珍味工場で働くことになっていた。この町に数多く存在する個人経営の小さな会社ではよくあることなので今さら驚きはしないが、かなりの時間をオーナー夫人の気分で拘束されるのにはうんざりしている。パートのおばちゃんたちによると、何度か労基署に入られているらしい。それでも労働条件は改善されそうにない。今日も出勤前にオーナー夫人が工場へ行くのに呼び出されて、迎えに行く途中なのである。
  人のいいオーナーとは対照的に、彼女はあこぎで性格も悪い。貴昭がアウディを買ったと知ると、まるで社用車を得たかのように使い始めた。ところが、その分の油代どころか給料も出ない。工場ではサービス残業は当たり前で、契約した労働時間など、あって無いようなものである。朝から晩までイカの内臓や皮が引き剥がされていくのを見ていると、まるで自分のことのように思えてくるのだった。
  降りしきる雪を見ながら、そんなことを考えているうちに、貴昭は今の仕事を辞めることに決めた。
 携帯が鳴ったので、デニムのポケットから取り出し画面を見た。母親からの着信だ。貴昭は左手をステアリングにかけたまま、もう片方の手で携帯に出た。
「貴ちゃん、昨日はどうして来なかったの?貴ちゃんの大好きなべこ餅を用意して待ってたのよ」
  猫なで声がいつも癇に障る、と貴昭は思った。
「パチスロやってて行けなかったんだよ。いちいちうるせえな」
「そんな言い方はないじゃないの。お母さんは心配しているだけなのよ」
  貴昭はその言葉に虫唾が走る思いがした。
「マジでうるせえ。夕方に行くから小遣い用意して待ってろや。それと、今月から増やしてもらうから」
「えっ、増やすってどういうこと?また仕事を辞めるの?だって――」
  貴昭はそこまで聞くと携帯を切って助手席に放り投げた。自分の言いなりである母親の小言に付き合う気はない。小遣いを増やすにしてもパチスロの回数は減らすことになるだろう。それでも、あの女の顔をいつも見るよりずっとマシだ。貴昭はノロノロと動き始めた車列に合わせて、ゆっくりアクセルを踏んだ。
  そうだ、これからあの女に会ったら辞めることをガツンと言ってやろう。工場には、てめえで行けと言ってやるのだ。遅れずに迎えに行って、それが当たり前のような顔をして人の車に乗ろうとする、あの女に向かって言ってやりたい。
  貴昭はこの渋滞が、三百メートルほど先の交差点までだということを知っている。そこを越えれば後は比較的スムーズなのだ。道の両側に積まれた雪の山で道幅は狭くなっており、視界も路面状況も最悪だが、貴昭はステアリングを右に切るなりアクセルを踏み込み追い越しをかけた。何台かの対向車がクラクションを鳴らしたりパッシングをしてきたが、かまうことなくアクセルを踏み続ける。
  もはや貴昭には周りの様子など見えていない。これから自分が叩きつける言葉で、あの女がどんな顔をするのか、そればかりを考えていた。
 貴昭の車は交差点に入ろうとしていた市営バスの前へ強引に入り込むと、ウィンカーも点けずにブレーキを踏んだ。バスの運転手が慌てているのが、バックミラーに映っていた。
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