一話完結

文字数 2,000文字

 名前も分からないセミ達が校内全体に響くほどに鳴き始めた七月の中頃、僕は窮地に立たされた。
 僕の学校では、誰もが中国語を学ばなければならなかった。もともと言語に関してはセンスがないのか、やる気がないのか、毎回テストの結果は恥ずかしいものであった。しかし、なんとか先生の温情によって、ぎりぎり進級が許されていた。だが、今回は違う。中国語を教える先生は、去年に変わって、新しく山下先生が務めることになった。この先生が、噂だとかなり厳しいらしく、テストの結果だけで評価をし、テストも持ち込み何でもありなのだが、それすらも通用しない難問を出すみたいだ。そして、案の定、先生の口から、テストにおいては何を持ち込んでも問題ない。パソコンなり、辞書なりすきに持ってくるがよい、と強気な口調でしゃべった。
 テスト当日。僕が教室の中に入ると、先ほどまでの騒々しいしゃべり声が一気に静まった。教室を見回すと、各々がパソコンや辞書を持ち込んでいる。だが、僕は違う。彼らの視線は、僕には向けられていなかった。向けられているのは僕の隣の子、スーチーだ。彼は威風堂々としていた。生まれも育ちも中国の、まさに中国語のエキスパートだ。彼は僕の兄の友達で、僕の手伝いを快く了承してくれた。もちろん、不法侵入だ。
 チャイムが鳴り、みんなが席につく。スーチーは僕と同じイスを分け合って座っている。山下先生は教室に入るや、真っ先に僕ら二人の存在に気が付いた。無理もない。スーチーの身長は190cmを超えている。座っているとはいえ、彼の存在は間違いなく、この教室で一番だろう。先生は恐る恐る、僕に聞いた。
「横山、この人は誰だ」
「スーチー君です」
「違う。名前を聞いているんじゃない。なぜ試験に関係がない人がいる」
「関係あります。この人は僕のアシスタント、言ってしまえば、僕の持ち込んだ道具です」
「人は考えたことなかった」
「ダメなんですか?」
「何でもありだと言ってしまったし、友達を作る人脈も能力の一つだから、今回は特別に許可しよう。だが、回答は自分で行うこと。」
「わかりました。ありがとうございます」
 先生は複雑な笑みを浮かべたが、すぐに答案用紙と、ホッチキスで止められた二枚の問題用紙を、一人一人に手渡した。全員に配り終わった後、椅子を一つ持ってきて、スーチーに与えた。そして、咳払いをしてから、開始の合図をした。
 僕は、戦う前から、勝ちを確信していた。それは、僕とっての、この難問の長文は、彼にとっては子守歌に等しいからだ。スーチーは、開始と同時に問題用紙を手に取って、文章に目を通していた。
 数分後に、彼は最初の問題を指さした。解けたのだろう。だが、声を出されたら、失格になってしまうから人差し指を口に当てて、静かにとジェスチャーを送った。伝わったのか、無音の空間に察したのか、彼は一切の音を立てずに、ペンをもって、問題用紙に、書き込んだ。
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 うーん、全くわからない。問題は、日本語で要約しなければいけない。だが、見ろ。彼は中国語で書いている。僕は、彼に日本語で書くように小声で伝えた。だが、彼の表情は困惑の一つだけだ。そして、我不知道你在说什么、と白紙のページに書いた。いや、何をいっているか分からない。この時に僕は、最悪の可能性を考えてしまった。
 彼は、中国語しか喋れないし、書けない。日本語は、一切分からない。
 僕は、去年も中国語を習っていたが、赤点との境界線をさまよってた人だ。ニイハオは分かるが、文章なんて悲しいことに、辞書か翻訳機を使わなきゃ、全く分からない。おまけに、スーチーがいるからと、パソコンも辞書も、何も持ってこなかった。
 彼は、そんな僕を知ってか知らずか、次の問題を読み、そして、傻瓜不等于吃药、と書き込んだ。いや、読めないっす。そして、僕の反応を確認して、次の問題は、白痴、とだけ書き込んだ。これは分かる。バカって意味だ。バカにしやがった。
 時計の秒針は刻む一方、僕の額からは気味の悪い汗が噴き出している。スーチーは、全部解き終わったのか、天井を見上げて暇そうにしている。答案を見る。白紙。問題用紙には、最初こそ、正解の答案が書かれているだろうが、だんだんと適当になっていった。しまいには絵を描き始めている。いや、絵で伝えてもらえばいいのか。天才的な発想だった。さっそく、彼にジェスチャーをして、彼も理解したのか、一問目の答案の横に、絵を描き始めた。時間はまだある。いける。彼は、描き終わったのか、僕の肩をたたく。そして、僕は我が物顔でそれをのぞく。……地獄?そこに移されたのは、まさに阿鼻叫喚の絵だった。こいつ、絵心が全くないのかよ。古代文字の翻訳のように、頭をひねらせ考えたが、やがて大きなチャイムが鳴る。

 終わった。試合終了。

 セミの反響する鳴き声が、いつまでも僕の頭の中に響いていた。
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