第39話 イドラ
文字数 685文字
この世界で最大・最高の偶像(イドラ)は一神教に於ける「神」である。
ところが、その至高のイドラ自身が、自らの偶像視=偶像化を禁じている。
つまり、そのことは恐らく、自らが単なる抽象的存在ではなく、「実在」していることの主張であると感じられる。
人間はイメージできないものに祈ったりする能力が弱い。
人は神に祈る時、その人特有のイメージを造り出している人が大半であると想われる。
神がなぜ、自らのイコンなどを禁じているのかは筆者には甚だ不明である。
なんらかのイメージ=偶像に祈る方が、人的には祈り安く・祈る力も増大すると考える故である。
最近流行りのスピリチュアリストの言によると、「神とは自分自身のこと」であるという。
つまり、「神に祈る=自分に祈る」ということらしい。
だから、偶像視=偶像化を禁止した ?
だが、もともとの聖書が書かれた時代には、神=自身、という概念は、一般的であったろうか。
多分、為政者が宗教を支配のために利用した痕跡からすれば、神=自身、というのは冒涜と呼ばれるものであったと推測される。
現在のように人が様々なものに対する、自由で自在な捉え方は許されていなかったであろう。
すべてが支配層と言われている者たちに仕組まれた業(わざ)という見方に陥るのは行き過ぎのように感じられるが、極端から極端へ揺れ動いて、ある地点に人は落ち着くものなのかもしれぬ。
人は申し示しあうことにより、神議(かむはか)りに議りて、和氣藹々と生きて行ける道が開けていくであろう。
ひょっとしたら、吾々、人間は、話し合って至った地点より、話し合うことそれ自体の方が大切な存在であるのかもしれない。
ところが、その至高のイドラ自身が、自らの偶像視=偶像化を禁じている。
つまり、そのことは恐らく、自らが単なる抽象的存在ではなく、「実在」していることの主張であると感じられる。
人間はイメージできないものに祈ったりする能力が弱い。
人は神に祈る時、その人特有のイメージを造り出している人が大半であると想われる。
神がなぜ、自らのイコンなどを禁じているのかは筆者には甚だ不明である。
なんらかのイメージ=偶像に祈る方が、人的には祈り安く・祈る力も増大すると考える故である。
最近流行りのスピリチュアリストの言によると、「神とは自分自身のこと」であるという。
つまり、「神に祈る=自分に祈る」ということらしい。
だから、偶像視=偶像化を禁止した ?
だが、もともとの聖書が書かれた時代には、神=自身、という概念は、一般的であったろうか。
多分、為政者が宗教を支配のために利用した痕跡からすれば、神=自身、というのは冒涜と呼ばれるものであったと推測される。
現在のように人が様々なものに対する、自由で自在な捉え方は許されていなかったであろう。
すべてが支配層と言われている者たちに仕組まれた業(わざ)という見方に陥るのは行き過ぎのように感じられるが、極端から極端へ揺れ動いて、ある地点に人は落ち着くものなのかもしれぬ。
人は申し示しあうことにより、神議(かむはか)りに議りて、和氣藹々と生きて行ける道が開けていくであろう。
ひょっとしたら、吾々、人間は、話し合って至った地点より、話し合うことそれ自体の方が大切な存在であるのかもしれない。