第1章 第1節 「せんだい市民病院外科」

文字数 18,391文字

 平成17(2005)年3月末──。
 春めいてきた北国七州・宮城県せんだい市にも、三寒四温というやつで、揺り返しのように寒い日が来る。そんな日に引っ越し作業が当たってしまったが、今日中にやってしまわないと後がつかえているので、葦原は朝から黙々と作業をしていた。昼過ぎにはそれもだいぶ片付き、書籍などを詰め込んだダンボール箱を廊下に出してしまうと、七州大学病院外科診療医員・同助手として6年間使ってきた机の上には、手荷物分のダンボール箱のほかには、一枚の書類だけとなった──1月の人事内示から間もなくして交付されていた辞令だ。
「……………」
 何度も見たはずのそれを、葦原はつい手にしてしまう。

『辞令 七刄会医伯長 葦原 建命 殿
    せんだい市民病院外科主任医長の業務に任ずる。
 発令 平成17年4月1日 七刄会総裁 外神悠也』

 何度そうしたところで中身が変わるものではない。もう、人事は確定してしまったのだ──葦原はため息と一緒にそれをダンボール箱の中に入れて、ガムテープで閉じた。医局秘書に廊下の荷物の配送を依頼し、医局撤退は完了した。時計を見ると、ちょうど、医局長から来るようにと言われていた約束の時間だった。
 七州大学医学部研究棟3号館7階に七州大学医学部外科学講座、通称「七刄会(しちじんかい)」の医局がある。「医局がある」というのはこの場合、そのフロアに教授室があり、医局員研究室(控室)があるという意味合いである。他の階では1フロアに2つ、3つの医局が入っているが、七刄会は「大外科」と呼ばれる大所帯のため、例外的に1フロア全体を1つの医局で利用している。医学部発足時から連綿と続く伝統医局だからこそである。
 フロアで最も奥まったところに外科学講座教授室があるが、医局員が立ち入ることはほとんどない。葦原も入ったことがあるのは、先々代教授に入局のご挨拶に同期一同で上がった時と、先代教授に学位取得のお礼に同期一同で上がった時きりだ。当代総裁(教授)自体もご多忙で、ほとんど不在のようだ。
 教授室より手前に医局長室がある。扉の上には「外科学講座医局長室」の看板が出ている。他の講座(医局)で医局長室が独立していることはないが、七刄会医局長は組織の実質ナンバー2として大所帯の七大外科学教室全体を管理する特別の立場であり、またその職責上、公表できない話を扱うことも多いため、部屋は個別に与えられているのだ。教授室とは逆に、葦原はここには数え切れないほどに出入りした。
 医局長室の前にはスーツ姿の人間が列をなしていた。葦原は約束の時間であることを確認して、ノックして入ったが、まだ先客がいた。退がろうとすると、真田先生がなにやら持ってドアのところまでやってきた。
「すまん。なかなか帰らなくてな……これ、部屋の前に貼りながら、待っていてくれ」
 ずしりとしたプレートを渡され、両腕で抱きかかえた。『七州大学病院外科特命教授室』とある。
「あれ、偉くなったんですね、真田先生。おめでとうございます」
 真田善次。七刄会医伯総監。84年七大医卒、90年七大院卒。当代総裁の教授就任と同時に七大外科学講座医局長就任。総合班最高執刀責任者。元中部班。
「肩書だけだよ」
 真田先生の職分である「医局長」というのは、各講座に必ずあるものだが、実のところ非公式の部内役職でしかない。七大の中での真田先生の正式な肩書は、医局長就任と同時に昇格した、医学部講座講師だったはずだ。
「あっ、総裁が病院長になられるからですね」
 真田先生はうなずいた。来月、平成17(2005)年4月から葦原らのボス、七州大学大学院医学系研究科外科病態学講座外科学分野教授は七州大学病院長に就任する。それに伴う慣例で、外科学講座教授として兼務していた大学病院外科診療科長の職を離れることになる。それを真田先生が引き継ぐわけだが、『診療科長等部局の長は、医学部講座教授、または相応のものをもってあてる』とする規程があるため、講座教授以外がそれを担う場合は「特命教授」という肩書をもたせることになる。七刄会ではこういう場合は代々、教室ナンバー2の医局長が特命教授を名乗ってそれに当たってきた。ただ、特命教授というポストが独立して存在するわけではないので、真田先生は「肩書だけ」と言ったのだ。
「じゃ、しばらくトンカンやってますので、うるさかったら言ってください」
「うるさくやっていいんだよ、帰らざる客に聞かせるんだからな」
「そういうわけでしたか。了解です」
 葦原は総合医局から必要な物品を持ってきて、壁にそのプレートを取り付け始めながら、さっき少しだけ聞こえた部屋の中のやりとりを思い出していた。
 七刄会撤退を考え直してほしい──そう懇願していたのは、七刄会

関連病院、仙台りんあい病院の事務次長のようだった。この病院は医業収益に見合わない事業拡張のツケが祟って経営不振に陥り、ついに昨年、関東を中心に事業拡大中の民間病院グループに買収されてしまった。そのグループ本部から「経営立て直し」のために病院長と事務長が送られてきた。事務長はともかく、病院長はグループでお抱えの、昔どこかで偉かったらしい老年医師の天下りとしてだった。ただ、その病院長ポストは、当医局の大先輩である尾関先生の定年後の行き先として内定していたものだったから、七刄会としては医局の意向が覆された格好だった。医局員ならみな知っているが、同院は今般の買収に至るまで、そしてその後もなお混乱混迷(ゴタゴタ)していて、出入りしていた外科の医局員も相当の迷惑を被っていた。他の診療科のいくつかはすでに撤退していて、その一部は外科でカバーさせられる有様だったのだ。それでも七刄会関連病院の一つとして外科診療を滞りなく続けてきたというのに、恩を仇で返したわけだから、もはや是非に及ばず、外科撤退に踏み切ったのだった。葦原としても、新しいオーナーに振り回される事務次長さんに対する同情心より、先に喧嘩を売ってきたのはそっちだ、という気持ちのほうが強い。
 こんなもんか──廊下の反対側の壁に背中をくっつけるようにして眺めて、プレートがうまく貼れたのを確認した。退屈そうに待っていた客人たちからは拍手をいただいた。大学の医者の業務は教育、研究、診療と多岐にわたるが、それに収まらない雑多な仕事を担う医局長の私設実働部隊を葦原は務めてきたので、こういう雑用はお茶の子さいさいなのだ。
「終わりましたけど──」
 もう一度入ってそう言ったが、どうやら帰らざる客との話し合いはまだ終わらないようだった。入ってきた葦原を意に介さず、その客はなおも陳情しつづけていたので、会話の内容も聞こえてきたが、外科撤退の決定を覆せるだけの材料を持ってきたわけでもないようだった。すでに尾関先生の次のポストも用意されているし、そこが七刄会の新しい関連病院になることも決定している。つまりこの病院と七刄会との関係は完全に終わっている──そう思ったとき、真田先生と目があった。
「葦原先生、こちらはもうお帰りだ」
 葦原は扉を開けた。これで帰らないのであれば実力行使もやむなしだったが、事務次長はそれで諦めたようで、ようやく帰っていった。
「おつかれさまでした」
 扉を締めて、葦原は言った。
「ああ。食い下がる相手は、うちではなく、自分のところだろうにな。せっかく、人格者の尾関先生に一肌脱いでもらって立て直してやろうと思ったのに、臨床素人の定年退職教授を病院長に据えてしまうとはなあ。もうしばらくは低迷するな。次はもっと、劇薬が必要になるぞ」
 真田先生はそう言って、話を切り上げた。この時間は葦原が客なのだ。
「市民病院は久しぶりなんじゃないか」
「はい、6年ぶりです。何度も出たり入ったりですが」
 真田先生との付き合いは長い。葦原が実地修練医、真田先生が学外出向中の頃にその市民病院で出会ってからだから、もう15年になる。
「卒後臨床研修制度が始まって、学外はいろいろと大変みたいだぞ」
「いやいや、大学よりはマシかと」
 真田先生は苦笑いした。多忙さゆえに「戦場」と言われる市民病院ではあるが、過酷さゆえに「地獄」と言われている大学病院で6年やってきた葦原には、どこであっても過ごしやすいはずだった。
「さて、葦原は96年組だな」
「はい。そうですが……?」
 七刄会では大学院卒業年次が同じもの同士が「医局同期」となる。というのも、医者の医学部入学や卒業年次は人それぞれで、その上下関係で年齢はあてにならないからだ。また、この大学院卒業年次がキャリアのスタート学年となり、以後の医局内の序列の基本となる。葦原は90年に七大医学部を卒業し、2年の実地修練および4年の大学院博士課程を修了した、96年の院卒組だ。
「同期で医局を辞めそうなやつはいるか?」
「えっ」
 真田先生は封筒を差し出した。
「医局に辞表が届いたんだ──見てみろ」
「辞表?」
 受け取って、中を取り出して、見た。

『退職願
 国立大学法人七州大学 大学院医学系研究科外科病態学講座外科学分野教授 外神悠也 殿
 私は、一身上の都合により 平成23年3月末日 限りをもって 七州大学医学部外科学教室 を退職いたしたいのでご承認くださるようお願い申し上げます。
                          _________ 印』

 手渡されたものが辞表だということもさることながら、「外科学教室」、つまり医局に「

退

」としてそれが提出されているということに驚いた。退

願ではないのだなとも思った。
「これって、医局を辞めるって話ですね」
 真田先生はうなずいた。医局を辞めるとは金輪際、その人事で動かない、働かないということを意味する。開業するなり、自分で勤務先を見つけるフリーエージェントになる。それはともかく──。
「でも、辞めたいのって誰ですか? 肝心の、自分の名前がないじゃないですか」
 この退職願には、宛名である総裁教授の名前はあるし、すでに退職の希望年月日も記載されているが、差出人の名前がない。ただ、封筒の表面には確かに切手が貼ってあって、その上に消印が押してある。警察や探偵ではないから、それで差出人の絞りようはないが、誰かがこれを投函したことだけは確かなようだ。
「心当たり、あるか?」
 辞表の中の退職希望年月日を見つめながら、葦原は答えた。
「……俺たちの学年なんでしょうけど、聞いたことないです」
 医局は入ったら最後、好き勝手に辞められるものではないのだが、七刄会では実際のところ、30歳大学院卒後から60歳定年の間の折返しにあたる45歳(院卒後15年目頃)までが義務年限、という暗黙の了解がある(年齢は医学部現役合格者のそれだが、医学部は数年浪人して入ることも多いので、目安にすぎない)。これは、入局時に将来の開業希望を申し出たものが医局退職を許可される時期から導かれたものだ。七刄会は大所帯とはいえ、大学本部でも関連病院でも仕事が多く、常にギリギリの人員で回しているから、「明日辞めます」は許されない。もし円満に辞めたいのであればそれなりの仁義を切る必要がある。時間的なものに限って言えば、3年1期で回る人事において、「2期(6年)前」に退職を申し出ておく必要がある。そして、今年で院卒後10年目を迎える葦原らの学年こそ、その退職願にある平成23(2011)年が、今期3年・次期3年を経ての奉職15年後に該当する。フリーエージェントを予告宣言するなら今というわけだ。
「それくらいしかヒントがない。この差出人が誰なのか、96年組をあたってくれるか」
「かしこまりました──」
 その時、葦原は正体不明の嫌な気持ちを覚えた。
「それにしても、医局を辞めるって大事(おおごと)ですよね。こうやって郵送してOKというものでもないでしょう」
「郵送はかまわない。ただ、その後に面談はする」
「そりゃそうですね」
 頭の中で、七刄会医局人事の「香盤表」を開いてみる──来期からは96年組の同期は皆、せんだい市内の各関連病院に一斉に着任する。さらに再来月には──。
「総会がありますもんね、そこの同期会で探ってみます」
 真田先生もうなずいた。5月の七大外科学教室同門会年次総会には七刄会関係者が幅広く集うのだ。
「でも……仮にうちの学年に辞めたいってやつがいたとして、俺はどうしたらいいんですか? そいつを止めたらいいんですかね」
「いや、辞表を出すってことはもう、医局から心が離れてしまっている。辞めたいなら止めはしない。ただ、こんな匿名の辞表で数年後に辞められたらかなわん。かと言って、誰かわからないからっておおっぴらに探って、ヘタに騒ぎが大きくなるのもごめんだ」
 少々、冷たく感じた。七刄会外科医で、己の出所進退を駆け引きに使うような軟弱者はいないと思いたいが、これはもしかしたら、医局員からの声なきメッセージなのではないか。
「なにか言いたいことがあるなら直接、俺のところに来ればいいんだ。名前も書かずに辞表をよこしやがって。馬鹿かこいつは」
 真田先生はむくれた子どものように言った──それで、葦原は安心した。それが本音なのだろう。辞めるとだけ伝えてこられたら、腹が立つのも当然だ。医局長は相談さえすれば、たいていのことはなんとかしてくれる。今までその手伝いをしてきた葦原はわかっている。匿名の辞表の差出人が葦原の同期かはわからないが、もしそうなら、一言言ってやりたいところだった。
「あまり騒ぎにならないように、探ってみます。少し時間をください」
「ん。葦原、頼んだぞ」
 この言葉で何度、一緒に仕事をしたことだろう。大学にいて、真田先生の下で働くのが当たり前だと思っていたから、大学を離れていく今後のことを考えて、途端に寂しくなった。
「今日の試合、葦原も行くんだろ?」
 急に変わった話は、今夜行われるプロ野球のシーズン開幕戦のことだ。この七州地方にもついにプロ野球チームが発足した。ファンやマスコミを騒がせたプロ野球界の再編問題は、既存2チームの統合で1チーム、また空いた1枠にインターネット通販サイト「エニッチ」などの多角経営で知られるIT企業「縁日(えんにち)」が参入して新チームが結成されることで決着した。そして、その新チームである「七州エニッチブラックタートルズ」球団は宮城県せんだい市に本拠地(フランチャイズ)を置くことになったのだ。
「いえ、チケット争奪戦で負けました」
 真田先生は呆れたような顔をした。
「お前も先月、エニッチ社長さんの手術をしただろ」
 エニッチ球団社長はつい先月、腹痛で七大病院に搬送された。それがこじれにこじれた胆嚢炎で、隣接臓器の切除・再建が必要なくらいの重症だったが、真田先生と葦原と診療医員の宍戸の3人でやった手術で無事に回復して退院した。後日、医局には今日の開幕戦の観戦チケットが届けられたのだが、希望者多数で抽選となり、葦原は当たらなかった。
「別に野球の趣味はないので、いいんです」
 学外転落決定後で正直、野球どうこうで浮かれる気分でもなかった──くじ運にすら見放されたのはさすがにショックだったけれど。
「俺のをやるか?」
 家族で行くのだろう真田先生のチケットをもらってしまうわけにもいかないので、葦原は丁重に断った。
 真田先生の用件はわかったが、さっきの嫌な気持ちの正体がわからず、モヤモヤとしたままだった。それどころか、更に腑に落ちない気持ちにもなった。葦原は、今日こうして医局長室に呼ばれたのは、自身の学外転落についてなんらかの話があるものだと思っていたのだ。大学病院在職中、いや、そのもっと前から、真田先生とは公私共にいろんな仕事をやってきた。看板(プレート)をトンカンさせられるだけの単なる医局の上司部下の関係ではなかったはずだ。診療スタッフ人事案を評議する医伯監会議に医局長が入っていないのは重々承知だが、医局内外に千里眼と地獄耳をめぐらしている真田先生のことだから、なにか人事の裏事情のようなものを知らせてくれるのではないかと期待していたのだ。
「これからいろいろと大変になるよ」
 その言葉で、葦原の学外転落は真田先生にとっても仕方のないことだったのだと受け止めるしかなかった。
「いえ、こちらこそ、いろいろとおせわになりました」
 外から催促するかのようなノックの音がした。医局長は忙しいのだ。
「学外はいろいろと早いぞ。時間の流れに呑まれるなよ」
「はい」
 葦原は医局長室を辞した。中部班スタッフ控室に戻り、6年間世話になった机に別れを告げ、手荷物分のダンボール箱を抱えて外に出た。緊急の呼び出しに備えて近くに住んでいるので、自宅は徒歩圏内だ。そもそも学内は慢性かつ重度の駐車場不足で、教授クラスにしかその割り当てはない──教授が緊急に呼び出されることなどあってはならないが。
「大学もこれが最後か──」
 医学部の敷地に面する作並街道まで出て、振り返って、そうつぶやいた。西側の大学医学部キャンパス、東側の大学病院、それぞれの正門には関係車両や人の出入りがひっきりなしだが、そのちょうど真ん中に、車は出入りできない古めかしい様相の門がある。20世紀初頭にあった、七州大学病院の前身に当たる県立宮城病院の正門を復元したものだ。日頃は何気なく通り過ぎるだけだったが、今日が大学職員最後の日だと思って、葦原はダンボール箱をいったん下ろし、その門を撫でた。連綿と続く七大の歴史から離れてしまうのだと思うと、自ずとこみ上げてくるものもある──大学病院は面倒が多いにせよ、最先端・高難度の手術がやれること、他では治らないものに挑むということは、外科医としてはかけがえのない経験であった。これからの外科医人生、学外病院では物足りなくないかと、不謹慎ながらに思いもした──それで、先ほどの医局長室で感じた嫌な気持ちの正体に気づいた。
 そうか、俺が退職願を出しづらくなったからだ──。
「馬鹿らしい……七刄会は一所懸命」
 葦原は口に出して言った。そう、七刄会は一所懸命。学外に出てからが本番だ。「大学で学び、実地で働く」ことが七刄会外科医局人事の理念である。大学病院で行われる研究的診療ではなく、あくまでも学外病院での実地診療こそが七刄会外科医の本分なのだ。それに、みんな大学病院から解放されて言っているじゃないか──学外は忙しいが、仕事はシンプルで目の前の診療に集中できると。ようやく人並みの医者としての生活が送れるようになると。キャリアが終わり、ライフが始まると──葦原はまたダンボール箱を持って歩き出した。
 赤い縁取りの入った黒の帽子とジャンパーといった格好をした人たちがワクワクした顔で葦原とすれ違っていく。ブラックタートルズの開幕戦の応援に行くために、地下鉄北四番丁駅方面に向かうのだろう。その楽しげな群れとは逆方向に、葦原は帰っていった。


 4月1日──。
 自宅マンションを出て、作並街道を東に進み、大学病院を素通りし、直行する愛宕上杉通りで南に曲がって、仙台駅を通り過ぎて更に行くと、せんだい市民病院が見えてくる。今日は荷物があるから車にしたが、市内で有数の渋滞ポイントを通る経路も、こうして朝早く出る分にはさほど困らない。ただ、季節もよくなってきたから徒歩通勤でもよさそうだなと思った。
 到着したせんだい市民病院は大学には比べるべくもないが、市内トップクラスの大病院だ。病床数約650。三次救急医療施設。七刄会関連市内大規模(Aランク)病院。平成16(2004)年より卒後臨床研修指定病院となっている。
「ここに来るのは3度目か──」
 葦原は七大卒後の平成2(1990)年からの実地修練の2年間と、大学院卒業後の平成8(1996)年からの学外出向3年間、それぞれここで働いたことがあったが、そのときはまだ「仙台市民病院(せんだいしみんびょういん)」という漢字表記だった。平成の改元の頃、周辺自治体との合併を経て政令指定都市となった仙台市は、平成15(2003)年頃のいわゆる「平成の大合併」の際に、青葉・若林・太白・宮城・泉野の既存5区に加えて、近隣ベッドタウンを組み入れて新たに発足した十宮(とみや)区と、地区人口増で分区された広瀬区の合計7区からなる人口100万人都市「せんだい市」に移行した。ひらがなの「せんだい市」となったことに伴い、市立・市営の各種施設も名称が変更され、ここは「せんだい市民病院」となった。生まれも育ちも宮城県仙台市の葦原は平仮名の間の抜けた字面にいまだに慣れないが、この辺で「市民病院」と言うのは今も昔もここしかないから、医者としては病院内外で困らない。そもそも、ずっと昔は「仙臺」とも書いていたのだろうし。
 職員駐車場に車を止め、ダンボール箱を担いで職員通用口から中に入り、医局フロアのある一般診療棟4階に進んだ。ここには医者が集会や休憩ができる総合医局(ラウンジ)の他、各診療科医局(医師控室)、当直室、それから研修医室(旧実地修練医室)などがある。葦原は外科医局に荷物を置いて、着替えた。先日、すでに上司や病棟への挨拶は済ませてあったが、仕事始めの改めての顔合わせまでまだ時間があることを確認し、下に降りた。葦原にはこの市民病院でお気に入りの場所があった。
「ここは変わらないな」
 救急外来や手術室、集中治療室が入っている中央診療棟(南棟)と外来・入院病棟からなる一般診療棟(東・西棟)をつなぐ病院2階の渡り廊下の一角には、朝のこの時間、たっぷりとした陽光が差し込む。ここで朝一番に陽光を浴びると、夜中の緊急手術で火照った躰や無影灯の照り返しに高ぶった眼が不思議とリセットされたものだ。実地修練、それから学外出向時代を思い出しながら、日光浴と深呼吸で光合成をしていると、不意に声をかけられた。
「……あれ、葦原先生かい?」
 恥ずかしいところを見られて赤面したが、見知った顔だった。
「平田先生、ご無沙汰しております」
 平田先生は、葦原の実地修練時代からここにいる、確か50歳を超えたベテラン外科医だ。市民病院外科にゆかりのある人間には「万年ヒラ医長」としておなじみの先生だった。葦原が医学部卒後の実地修練で入ったときもヒラ常勤医の外科医長だったし、大学院4年を終えて学外出向で来たときも外科医長だった。七大卒のはずだが、なぜか七刄会には所属していなかった。したがって、大学外科医局人事とは関係なく、この辺だけで通じる「病院採用医長」という当たり前の言葉を冠した肩書でここに長く勤務してきた。6年前までと変わらず、外科用の緑色の術着の上に長白衣を羽織っていた。その左ポケットからは丸めた紙の束が覗いていた。
「またこちらで働くことになりました」
「ええっ、そうなの?」
「はい、よろしくおねがいします──平田先生は、救急外来に呼ばれたんですか?」
 葦原が以前ここにいたときには、平田先生は外科の中で「救急外来担当」という役割で、日中の外科救急の窓口として外傷の対応や迅速処置、それから外科入院となる症例の初期対応などにあたってくれていた。そのおかげで、手術中に外の仕事で葦原らは手をおろさずに済んだものだった。数年前と変わらず、今日も当直明け間近の医者に虫垂炎(アッペ)疑い症例の引き継ぎでも頼まれたのだろうか。
「僕は今は救急部専属なんだ」
「救急部の……専属なんですか?」
「卒後臨床研修制度が始まって、カリキュラムとして救急部ローテート体制の整備が必要になったから、その担当者になったんだよ。形ばかりのね」
 平田先生は苦笑して言った。胸元の名札を見ると、確かに「せんだい市民病院救急部医長」との肩書があった。近年、問題視されることの多い救急患者の「たらい回し」を解決するためとして、卒後臨床研修制度では医師の志望する将来の専門性に関わらず、幅広く救急診療ができるようにと救急(診療科)研修が必須となった。ここ、せんだい市民病院は100万人都市せんだいの救急医療を担う中心的な病院の1つだ。市立市営の病院として「救急患者を断らない」という運営ポリシーのもとに、心肺停止などの三次救急はもちろん、肺炎や腹膜炎、脳卒中や心筋梗塞など入院・処置・手術を要する二次救急、風邪やめまいの患者の対応といった一次救急まで診療するし、かつ社会福祉的な対応を要するような政策医療的側面までオールラウンドに担っている。
「そうでしたか。平田先生に教えてもらえるなら、研修医も安心ですね」
「僕が教えられることなんてないよ」
 平田先生はそう謙遜はするが、葦原も若い時分にずいぶんと世話になったから、その力量には信頼をおいている。
「しかし、そうかあ、葦原先生が戻ってきたのか」
 その慰めるような表情を見て、葦原は悟った。平田先生は、医局員ではないが、医局との関連の強いこの病院の外科に長らく関わっていたから、七刄会人事の意味を知っている──院卒後に副主任医長としてここに来る場合は出世コースのスタート地点だし、また副部長として着任する場合はそのゴール地点でもあるが、例外として主任医長として赴任する場合は学外転落、つまり大学内の出世競争の敗北者なのだと。
「一所懸命やらせていただきますので、また色々と教えてください」
「僕が教えられることなんてないよ。葦原先生が外科に来たなら、僕のほうこそ心強い。救急部から相談することも多いから、よろしく頼むよ」
 自分よりも干支で一回り以上、年上のベテランにそう言われては恐縮するよりない。
「こちらこそよろしくおねがいします」
 気づけば、だいぶ人通りも増えてきた──葦原は平田先生と別れ、医局に戻った。
 総合医局前の廊下掲示板には製薬会社主催の勉強会の案内ポスターがたくさん貼られていた。これらはよくある催し物だから、葦原も見流して通り過ぎるところだったが、「第2回七州総診セミナー」というポスターに目を引かれて足を止めた。主催は「せんだい市民病院総合診療部」とある。そんな部署はいままでなかったはずだが……。
「ご興味あります?」
 不意に声をかけられて振り向くと、ワイシャツにネクタイ、スラックスという出で立ちの男がいた。事務方だろうかと思ったのは、総合医局のある4Fフロアは、エレベータホールを挟んで反対側は病院事務局になっていて、その職員が医局側へよく出入りしているからだ。
「はじめまして。総合診療(ジェネラル・プラクティス)の白神というものです」
「はあ……外科の葦原です」
「外科の新しい先生ですね。いろいろと相談させてくださいね」
「こちらこそ……えーと、内科の先生ですか?」
 白神と名乗った男はアルカイックスマイルを浮かべた。
「総合診療は内科や外科といった従来の診療区分ではなく、それらを包摂する領域です。内科とか外科といった時点で、すでにある程度の専門性(スペシャリティ)や溝が生まれてしまうのでね」
「はあ」
 総合診療が最近注目されていることは葦原も知っていた。従来の臓器別診療では対応しきれない患者の病状に対応することで、溝や隙間のない医療を提供するらしい。とはいえ、内科や外科自体を専門性(スペシャリティ)と言われてしまうのには面食らった。
「よろしかったら、このセミナーにご参加くださいね」
 爽やかな残像を残して白神医師は立ち去った。改めて、先ほどのポスターを見直して気づいた──これがひときわ目を引いたのは、他の講演会案内のそれと比べてすこぶるシンプルだったからだ。そしてそれは製薬会社(スポンサー)がついていないからだ。ふつう、こういう勉強会は製薬会社の共催や後援がついて、当然に会社名や薬剤商品名も載っているはずなのだ。そうではないとなると、さっきの医者のポケットマネーでやるのだろうか。いやいや、まさかな──と思いながら、間もなく外科病棟でのスタッフ顔合わせの時間だと気づき、葦原は急ぎ足で向かった。

 その日の夜の外科歓迎会は、市民病院外科御用達の焼き鳥屋『とり宗』で行われた。
 平成17(2005)年4月からのせんだい市民病院外科メンバーは以下のとおりだ。
 藤堂副院長。七刄会医伯監。元七州大学病院診療助教授。
 大和外科部長。七刄会医伯監。元七州大学病院診療助教授。
 押切外科副部長。七刄会医伯監。前七州大学病院診療助教授。
 葦原外科主任医長。七刄会医伯長。前七州大学病院診療助手。
 伊野外科副主任医長。七刄会医伯正。七州大学大学院修了後。
 狩野外科副主任医長。七刄会医伯正。七州大学大学院修了後。
 長野外科副主任医長。七刄会医伯正。七州大学大学院修了後。
 それから、2年目初期研修医(外科選択ローテート)の宮田。
 市民病院外科スタッフはこの4月、部長に昇進した大和先生以外は一新されているので、今日は歓迎会というより顔合わせというほうがふさわしい。それは、大学・関連病院を通じて3年1期でガラリと動く七刄会人事では珍しくはないし、みな、医局員同士として見知った顔ばかりなので困ることはない。藤堂先生には葦原が副主任医長時代にここで世話になったし、大和先生や押切先生には大学で指導いただいた。伊野ら副主任医長トリオは大学でさんざん一緒の手術に入った。
 藤堂先生が挨拶し、大和先生が乾杯の音頭を取り、残りの自己紹介が一通り済んだあとは、和気藹々とした飲み会となった。葦原は研修医の宮田に話しかけた。
「宮田、よろしくな。外科志望だって?」
「はい。こちらこそ、よろしくおねがいします」
 宮田は平成16(2004)年に開始した卒後臨床研修制度の第1期生だ。この、いわゆる「初期研修制度」は、臓器別専門性を口実にして患者診療を断ることのない医者を涵養することを目的に、複数の診療科を研修する「スーパーローテート」方式を骨子としてスタートした。昔から「七大方式」と言って、七州大学の内科系・外科系といったいわゆる「メジャー系診療科」は医学部卒業後すぐの大学入局はさせず、学外病院での2年の実地修練を課していた。葦原が大学にいた最後の年から七大病院でも今般の制度自体は始まっていたが、メジャー系診療科は引き続き七大方式を踏襲し、学外での初期研修を求めたため、宮田のような外科志望者はこうして学外にいるというわけだ。一方で、精神科や眼科などの「マイナー系診療科」志望者は従来どおりに七大にストレート入局し、初期研修も七大病院で行うことにしたので、それらへの受け皿として、葦原も昨年度は七大病院外科で2〜3ヶ月ごとに入れ替わる研修医の面倒を見た。
「さみしいよなあ。うちらの実地修練の時代は卒後1年目も2年目もたくさんいたんだぜ」
 この市民病院は外科志望の実地修練医には人気が高く、若手も多数いた。当然、トレーニングや上司へのアピールのために仕事の奪い合いも珍しくなかったし、飲み会ともなればこぞって駆けつけたものだった──往時を思い出すと、いまこの場に宮田一人しかいないというのがなんとも寂しい。昨今の医療不信を煽るマスコミ報道のせいもあってか、外科はいまや訴訟リスクの高い診療科の一つとして若手医師に不人気になってしまった。
「僕らの学年でも外科系志望はそれなりにいますよ。けど、2年目の選択ローテートでは整形とか脳外に行っちゃうみたいです。外科は1年目必修で見てるので」
「医者1年目にたった3ヶ月間回っただけだと、外科がどんなもんかわからんだろ」
 この市民病院の初期研修カリキュラムでは、1年目は内科6、外科3、救急・麻酔科3ヶ月の必修ローテートですべて埋まっていて、2年目にも6ヶ月(小児科2、産科2、精神科1、地域保健1ヶ月)の必修ローテートがある。残り6ヶ月は「選択」で、自由に選んでよい。せっかく研修できるなら、他の診療科の仕事も見てみたいというのはわかるが、たったの数ヶ月でその診療科のノウハウが学べるわけがない。そして、選択すべてを外科に当てても、合計9ヶ月しかない。これまで外科志望者は2年間すべて外科だったのに比べれば、その半分にすら満たない。
「そう思ったので、僕はまた来ました」
 葦原は宮田と握手して歓迎の意を表した。
「宮田はうちに入局するそうですよ」
 宮田指導担当の長野が横からそう言うと、本人は慌てたように手を振った。
「まだ検討中です、検討中」
「前向きに検討してくれ。手術もバンバンやらせるからさ」
 葦原は頃合いを見て藤堂先生に挨拶に行った。
「藤堂先生、よろしくお願いいたします」
 藤堂壮平。七刄会医伯監。元七州大学(医学部附属)病院診療助教授。前みやぎ県北医療センター石巻病院副院長。今期からは、市民病院副院長・外科系診療科統括局長・手術部部長だ。総裁よりも1期上の世代である。腹腔鏡下胆嚢摘出術(ラパタン)の七州地方の先達者(パイオニア)だが、それよりも、昔ながらのおっかない外科医というか、術中に叱責のカミナリを落とす「雷神藤堂」の異名の方で有名だった。ご無沙汰の挨拶も程々に、昨今の外科不人気をどう打開するかという説教がはじまった。
「外科医が減っている」
 外科医の正確な定義とカウントは難しいが、例えば、日本外科医学会入会者数を目安にした場合、医学部を卒業して医師になる人間が毎年八千人程度とすると、以前はそのうち2割弱は毎年同学会に入会していたのだが、今ではその半数近くにまで落ち込んでいるという。この外科医学会の入会および同学会認定専門医の取得がなければ、胸部外科や腹部外科などのメジャー系外科専門医も取得できない。つまり、最近の学年ごとにではあるが、全医者の約1割しか外科医にならない、外科の専門家になろうとしていないのだ。これが驚かずにいられるだろうか──葦原も相づちを打ちながら、言った。
「いまの研修制度は外科には逆風ですよね、実際」
 そしてスーパーローテート研修必修化だ。外科は必修診療科とはいえ、初期研修1年目に数ヶ月回るだけだ。それだと外科のやりがいが理解される前に終わってしまう。外科は患者の躰を直接傷つけて治すのが生業(なりわい)である以上、他科より細かい決めごとやしきたりが多いので、そんな短期間の研修ではむしろ、やりづらい診療科だと誤解されるだけではないかとも懸念させられる。
「この辺りはまだ恵まれている。初期研修制度のせいで、地域に派遣した医師を引き揚げざるを得ない大学もあると聞く」
 藤堂先生の言うように、従来、医学部卒後の研修というのは任意で、だいたいは出身大学や出身地の地元の大学で行っていたものだが、今回の制度によって研修指定病院なら全国どこであっても研修可能になったので、研修医は地方から都会の研修病院へと流れているらしい。どうも、そのほうが勉強になるという都市伝説がまかり通っているようなのだ。研修医は研修医なりに大学病院の貴重なマンパワーだったから、研修先として選ばれなかった地方の大学病院では、その埋め合わせに地域に派遣している医局員を戻さざるを得ないらしい。
「若手をたくさん入局させるんだ。それが葦原、お前のここでの仕事だ」
「はい」
 藤堂先生からの説教はそれで終わり、大和部長のところに移って、お酌をした。
「大和先生の肝切除、また勉強させていただきます」
「おう、よろしくな」
 大和達郎。七刄会医伯監。元七州大学病院診療助教授。前せんだい市民病院外科副部長。肝臓手術の名手だ。
「本当は1年目の研修医も誘いたかったんですが、オリエンテーションが終わってないうちは夜の付き合いはさせないらしくって、まいりました」
「いまはもう、研修医さまさまって感じだ」
 医師国家試験は従来、3月試験実施で4月中旬合格発表だったから、4月の研修開始後に不合格が判明した医者が途中でいなくなるという切ない事例もあったものだが、今年から2月試験の3月末発表に改まったため、年度替わりの4月には医師国家試験合格者がちゃんと揃うようになった。ただ、国家試験合格後の医籍登録が結局、4月中旬までかかる。医師国家試験合格者以上医師未満という空白の2週間に事故でも起こされたらたまらないということで、研修医はまだ現場に出さず、院内オリエンテーションとして医療安全講習やら電子カルテ使用法やらを学ばせているという。

な話でけっこうだ。
「あの研修ローテート予定表もひどいですよねえ」
 各診療科には年度初めに研修医ローテート予定表が配られているのだが、これがお粗末極まりないもので、研修医ごとの診療科ローテートパターンしか書かれていなかった。このあとに外科に回ってくる3名については、パターンG、H、I(外科からローテート開始、その後に麻酔・救急、そして内科と回る)とあるだけだ。卒後臨床研修制度に消極的な七大病院のそれですら、研修医の名前や年齢はもちろん、出身地や出身大学・志望する診療科などの情報は載っていた。
「クレームをつけられたんだよ」
 大和部長曰く、いまの2年目研修医(04年入職組)が昨年、市民病院に新たに設置された臨床研修管理委員会に申し入れて、今年からそうなってしまったのだという。ローテート中の診療科を不志望の研修医がその診療科で、あるいは七大卒に比べて七大医学部以外の出身者が粗雑に扱われているというクレームがあったようだ。だからといって、これはやりすぎではないのか。出身大学や志望診療科が指導医と研修医で同じであれば、そうでないのに比べて雑談の盛り上がり方にも差があったくらいのことではないのか。研修医を出身大学や志望科で差別するほど指導医側には他意も悪意もヒマも興味もない。
「そんなんで、懇切丁寧に指導してやれって言われて、納得できるかってなあ」
 大和先生の言うとおりだった。実際、制度開始後、葦原も外科医にならない研修医の面倒をみるほうが多くなったが、そういう研修医の外科指導で困っていたのは本当だ。糸結びや縫合はどの診療科でも使うから、大学病院勤務の頃から医学生を含め、丁寧に教えては来たが、それ以上はどこまで指導したものかと悩まされていた。眼科志望者に腹腔内リンパ節廓清を、精神科志望者に標本整理を、放射線科志望者に術後管理を教えて意味があるのだろうか。そもそも、外科医志望だった葦原自身、懇切丁寧にもてなされたからと外科になったわけではない。さっきのオリエンテーション然り、いまの若手は甘やかされている……と思ってしまうのは、それなりに歳をとった証拠だろうか。
「そういえば──平田先生とも中央診療棟(ちゅうしん)の廊下でさっそくお会いしました。救急部ですって?」
 大和部長はニヤリとして言った。
「卒後臨床研修制度ができて、形ばかりは救急部の研修体制の整備も必要になったから、その担当者ってことでな。実際のところは、俺らよりも年上のヒラ医長がいたんじゃやりづらいだろうって、藤堂先生が外科の外に出したんだろうから、割れ鍋に綴じ蓋ってやつだ」
 大和先生の言い方に苦笑しつつも、平田先生のことは惜しくも思っていた。市民病院のような大学医局の「関連病院」では、その人事は診療科三役(部長・副部長・主任医長)といった役職ポストから常勤医(医長)枠まで、当該病院ではなく大学医局が決めている。つまりは、医局に属していないと昇進できず、役職ポストは平田先生のような「病院採用医長」の頭上を素通りするように、大学医局人事で刷新されていくことになる。平田先生が外科医局員だったら年齢的には外科部長か副院長になっていてもおかしくはないのだ。『七刄会にあらずば外科にあらず』のご当地にあって、外科医が医局に属さない理由や利点はないと言ってよい。実際、市内・県内で固有名詞として「外科」をやっている医者のほとんどが七刄会に属しているか、そのOBだ。例外は、他の都道府県で外科医をやっていて、なんらかの理由でこっちに流れてきた場合くらいだ(それであっても、どこの病院・地域も医師不足だから、医師本人が待遇に納得できるのであれば、病院採用医長として歓迎される)。ちなみに、常勤医という意味合いの「医長」職ですら、医局からの出向者は「副主任医長」と称し、准役職的に位置づけられ、非医局員の常勤外科医である「病院採用医長」と差別化されてきた。実際、目の前の医者を相手に「病院採用医長」だの「副主任医長」だのと呼び分けるような面倒な真似は誰もしないものの、葦原も大学院卒業後にここに来たときには、すでに形ばかりは平田先生を追い越してしまって恐縮したものだった……。
 その後、押切副部長に締めの挨拶をいただいて、一次会はお開きになった。藤堂先生が全額支払いしてくれて、大和先生が二次会には充分すぎるほどの小遣いをくれて帰ったので、残りの面々で二次会に行くことにした。オンコールの伊野は病棟に呼ばれて帰っていった。二次会の少し色っぽいお店で、押切先生に改めて挨拶をした。
「引き続き、よろしくおねがいします」
「ああ。今度はここを七州PDの総本山にしてやろう」
 押切慶二。七刄会医伯監。前七大病院診療助教授。膵臓手術の名手だ。押切先生とは上司部下として長くやってきた。押切先生は真田医局長と同期同専で、葦原が市民病院で実地修練医の頃から世話になっている。大学病院に移ってからも様々な難手術を一緒にこなし、今期一緒にここに戻ってきた。
「大学のときのPDのデータもまとめておきます」
「頼む──そうそう、ここだけの話だが……」
 葦原はドキッとしたが、押切先生が話したのは別の話だった。
「葦原から見て、誰が

だと思う?」
 PDトライアルのことだった──中部班学外出向(副主任)医長には、これから中部班伝統の競争が待っている。
「そうですねえ、今のところは伊野かなと。でも一番伸びるのは狩野かもしれません」
 その後も市民病院でのこれからのことを話し合ったが、押切先生が葦原の学外転落について触れることはなかった。その年度を限りに学外転出する上級診療スタッフは、その後に大学に残る人事には関わらないらしいから仕方がないが、密かに葦原は自身の学外転落の原因を教えてもらえるのかもしれないと期待していただけに、残念だった。
 今日は早めにということで、午前2時頃に解散となった。
 翌朝土曜8時からの病棟回診にはまた同じ面々が顔を揃えた。外科は飲み会明けの朝が肝心だ。前日にどれほど遅くまで飲まされようが、翌朝に遅刻するようなものは信用を失う。そのせいで、しばらく手術室出入り禁止を言われたものもいるくらいだ。かといって、下っ端が飲み会で上司より先に帰ることは許されない。きつい風習だなと思わないわけでもないが、医長トリオはもちろん、研修医の宮田も遅れることはなかったので、こういうしょうもないことで叱らずに済んで、自分が遅刻しなかったこと以上に葦原は安心するのだった。


 4月中旬になると、平成17(2005)年入職の1年目研修医のオリエンテーション・医籍登録その他が済んで、外科にはローテートパターンG、H、Iこと、檜山、木戸、成瀬の3名が外科必修ローテートとして回ってきた。檜山は七大卒で外科志望、木戸は山形国立大卒で循環器内科志望、成瀬は北海道国立医科大卒で志望科は未定と自己紹介した。それぞれ、医長に1人ずつ預けた。新研修医を交えて改めての飲み会開催を狩野に頼んだ。
 市民病院外科は中部班関連筆頭病院だから、大学病院レベルの肝臓、胆道、膵臓の大手術をメインに扱う。また、大病院志向の患者が押し寄せて来るおかげで一般的な消化管や乳腺・甲状腺の手術症例も豊富だ。救急病院として虫垂炎(アッペ)腸閉塞(イレウス)など飛び込みの外科的急性腹症(サージカルアブドメン)の対応も多いので、2年目研修医の宮田にもどんどん執刀を割り当てていく方針だ。第一助手、第二助手として手術に入って学ぶことも多いが、まずは執刀医としての景色を見てからのほうが学びが多いので、指導者が前立ちする前提で、入門的症例からどんどんと執刀させるのが七刄会のやり方だ。
 数年ぶりに赴任した市民病院はやっぱり多忙ではあったが、それでも引き継ぎ時期が過ぎてしまえば、大学病院にいるときよりは早く帰れるようになっていた。そのことを嬉しく思う反面、大学に残留した牛尾は今ごろもっと忙しくやっているのだろうなと思うと、複雑だった。
 学外転落して迎えるせんだい市民病院外科の1年は静かに始まっていた。
─────
©INOMATA FICTION 2019-2020
本作の一部または全部を無断で複写、複製、転載、配信、送信することを禁止します。また、内容を無断で改変・改竄することを禁止します。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

葦原建命(あしはら・たてる)

 七刄会医伯正

 七州大学病院外科診療助手(中部班)

久斯創(くし・つくる)

 せんだい市民病院「アラサー」初期研修医

 論文モンスター

 

真田善次(さなだ・ぜんじ)

 七刄会医伯総監

 七州大学病院外科特命教授

 七州大学医学部外科学講座医局長

藤堂壮平(とうどう・そうへい)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院副院長

 「雷神藤堂」「七刄会ラパ胆のパイオニア」

大和達郎(やまと・たつろう)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科部長

 「肝臓手術の名手」

押切慶二(おしきり・けいじ)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科副部長

 「七刄会PD最速」

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み