そのさん

文字数 7,463文字

その三

「安藤米粉店」の、厨房片隅には、野球のバットを持った少年の写真。まだあどけなさと、子供特有の奔放さが、十分あふれ出た本当にかわいらしい少年だな、なんていう印象を与える。

彼の側からみたら、多分自分って迷惑な親父だっただろうな、なんて思ってしまうのは、なぜかなと思う。妻から我慢させないといけない食べ物の代表格に挙げられた、うどんを作り続け、俺はうどん屋の板長だから、今更やめろなんていうもんでないと怒鳴っていた。沼津界隈でも超高級と言われていたうどん屋「墨家人」の板長をやっているなんて自分でも本当に自慢要素の一つだったから、辞めるなんてもってのほかだったのだ。妻からは、やめろやめろとさんざん言われて、そのたびに喧嘩して、息子には泣かれて。でも、自分は墨家人で働いているんだからいいのだ!なんて言い聞かせて無視して働き続けたような気がする。確かに墨家人と言えば、流行りの何とか製麺と違って、普通の人ならめったに入れないと言われるうどん屋であったし、つい最近まで「一見さんお断り」的なところがあって、かわいらしい芸妓さんたちがよく踊りを披露して楽しませてくれるなどのサービスがあった。ただの観光客ばっかりではなく、政治家とか大企業の社長とか芸能人とか、そういう人たちが数多く来店し、その人たちがうまいうまいと絶賛したことも自慢の種である。それに、うどんのこと、つゆのこと、器の事までこだわりは強く、輪島塗のような、国際的な名物となっている道具を使用していたことから、それを見たくてやってくる外国人の客も少なくなかった。

でも、そういう日本文化に徹底的にこだわりすぎたことは、かえって衰退の原因になった。平成時代がやってくると、うどんよりもパスタやラーメンのほうが流行し、来店客は減少した。そうなると、芸妓さんたちの人件費、つまり揚代も支払えなくなって、彼女たちを呼び寄せることはなくなった。それがまた客がやってこなくなる原因にもなった。また、変な倫理観というか、女性の人権団体が突然やってきて、芸妓さんたちを呼び寄せることは、セクハラなのでやめろと指摘されて、それがまたメディアに掲載されたことも客が減る原因の一つになった。不思議なことに、例えば芸妓さんとか仲居さんなんかが、お客さんのお酒を注いでやることは、別に日本では普通にあったのだが、それがいつの間に「人権侵害」になっていた。そして、日本国民もそれを支持する人たちに変わっていた。そんなわけだから、墨家人は沼津地域で最も大規模な料亭と言われておきながら、いつの間にセクハラをする店に、王者転落していたのである。

そして、追い打ちをかけたのが、息子の学校でのいじめだった。学校給食の半数を口にできなかったために同級生からからかわれて、泣いて帰ってくることが多くなってしまった。学校の先生も、息子さんのそばについていてやれない親が悪いの一点張りで全く対策なんかしてくれなかった。何か言えば、うどんを作っている親が悪いという。自分からしてみれば、うどん作りは自分の生業で、もし、それができないというのであれば、他の事で何かすればいいと思っていた。昔の親だったら、それで通じたかもしれなかった。でも、今は、それ以外に子供を支える存在はないという事を忘れていた。昔の家族であれば、親以外に人生について助言してくれる存在は一人か二人は必ずいて、自分は金の製造マシーンに専念するということもできたけど、今はそうじゃないから、親が経済的なことだけではなく、精神的にも支えなければならないし、時には哲学者にもならなければならない。よく言われるのが、それを母親だけに押し付けることで、それに耐えられなくなった母が、子供を押し付けて出て行くとか、あるいはその逆で、役に立たない父親に見切りをつけ、別の男を探しに行く場合もある。そういう事は、今の時代なら、別に汚いことではないし、そのほうが子供の幸せになれるからと言って、支持をする女性支援団体も数多い。また、教育機関も、そういう女性を援助する制度を作ってくれている場合もある。

でも、自分はそういう事を許さなかった。やっぱり板長あるべき人が妻に逃げられたとなったら、他の板前に馬鹿にされる可能性もあるし、客が噂する原因にもなりかねなかった。それではいけないと医療関係者に言われたこともあるが、親が働くところを見せていれば子供も成長する、という昔の神話をばねにして、墨家人で働き続けたが、もう今は人間の目より恐ろしい道具が数多く販売されていて、他人の生活などある程度丸見えになってしまう時代なのだという事を忘れていた。よく息子が、同級生たちがツイッターで自分の事を言いふらしていると言って泣いていたが、それが、どういうものなのかなんて全く知らなかったから、人のうわさも七十五日だから大丈夫、なんていうのんきな言葉は通じないことも気が付かなかった。

その間にも、古来から信じられてきた「料亭の日本文化」が次々に人権侵害と指摘されていく。板長としては、そこを生活資源にしている人権専門雑誌の記者たちに、これは日本で古くからある伝統であり、江戸時代にはよくありましたからなんて弁明を続ける。そこをまた、面白がっていじめの材料にする同級生。負けるもんかとしらを切り続けたが、今となってはもう、素直に負けたと認めて、店を出て行き、他の商売をしていたほうが、幸せになれただろうな、なんて思う。

結局、息子は10年も生きることなく逝った。親としてやってやったことと言えば、体育の授業で必要だとされた野球のバットを買っただけだった。さらに、いじめを避けるため、沼津ではなく、静岡の私立の中学校への進学も決めていたが、それも叶わなかった。

そのあとなんて、どうでもいい。もう墨家人で働く気もなくなって退職させてもらい、息子にとって凶器になっていたうどんを一切使用しないこの店を始めたが、売り上げはさっぱりである。妻は、そんな自分に嫌気がさして出て行ってしまったし。噂によると、どこかの外国の人と再婚して、日本から遠く離れたところで暮らしているようだが、そのほうがかえって、本当に幸せになれるじゃないかなと思っている。

今日も、誰も客の来ない店の中で、呆然とテレビを見ている。こないだ、着物を着たお客さんが、面白いことを言ってくれたが、あれは一夜の夢として忘れることにしている。だって、あんなラッキーは二度と来ることはないもの。あれはきっと、ダメな人間だった俺に、神様が憐れみをくださったんだよ。自分でそう言い聞かせていた。

「はい、ここです。確かに、びいふんが食べられる店と看板に書いてあるので、、、。」

「そう。墨家人に比べたら十分の一もないほど小さな店だけど、なんか雰囲気は似てるわね。」

店の外で、一人の男性と一人の女性の声がした。

「ビーフンというと中華料理だけど、なんだか料亭という感じだな。そういうミスマッチも時には商売がうまく行く理由の一つになるが、基本的に商品内容と店の雰囲気は合致したほうがいいんじゃないか?」

「あれ、カールさんのお店なんて、呉服屋だけどそんな雰囲気は全くないぜ。見かけで判断してはいけないよ。」

「あ、そうか。」

また別の二人が会話している声がする。あれれ、一人は聞いたことがある声だ。誰だっけかなあ。

そんなことを考えていると、入り口ががらがらっと開いた。

「やっほ!今度は別の友達を三人連れてきたぞ!」

後を振り向くと、杉三と蘭、そして晴と、ブッチャーこと須藤聰がたっていた。

思わず、これは夢なのではないかと思って、ほっぺたを叩いたが、強烈に痛いので現実なのだと気が付く。

よく見ると、女性も、大昔によく来店していた客の一人だった気がする。

「どうも安藤さんこんにちは。覚えていらっしゃいますか。ほら、もう、二十年以上前ですが、よく商談で墨家人を利用させていただきました。伊能です。富士で製紙会社をしていると言えば思い出すかしら?」

と、ご挨拶をするその女性に、そう言えばそうだったと思いだす忠男さん。

「あ、その節はどうもです。いやあ、、、お変わりありませんな。さいごにお会いして、もうかなり経ってますのに、お顔も何も変わりませんね。」

まあ、こういう挨拶も、場合によっては人権問題になるのかもしれないが、日本料亭では普通にあった文化だった。

「へへん。やっぱり連れてきて正解だったね。それにしても、おじさんお世辞が上手なんだねえ。」

こないだの、車いすのお客さん、つまり影山杉三がでかい声で言った。

「杉ちゃんそれほめてるの?」

「そんなこと知らんわ。ただ上手だと言っただけだ。」

「ほんとに杉ちゃんは変な人だな。」

蘭はまたため息を着く。

「じゃあ、どうしましょうかね。テーブル席が生憎二人掛けしか用意できていないので、いまくっつけますから、少しお待ちください。」

と、忠男さんは、急いでテーブル二つをくっつけて、四人掛けにした。

「あ、悪いねえ。とりあえず、何か食べさせてもらおうぜ。」

杉三たちは、用意してくれた席に着いた。忠男さんは、一人一人の前にお品書きを置いた。

「えーと、お茶のほうがいいですかね。それとも、この前お水のほうが良いと言っていましたねえ。」

「今回はお茶でいいよ。」

「はいわかりました。」

とりあえず、お茶を出して、またそれぞれの前に置いた。今日は、あの綺麗な人はいないのか。まさか、自分の息子と同じ病名の人はどうしたのかなんて、聞くわけにもいかないけど、なぜか知りたくなってしまう。

「水穂さんにも来てもらいたかったわね。証人は多ければ多いほどいいのよ。」

「水穂さんなら今ごろ製鉄所で寝ているよ。多分、教授が許さないでしょ。あと、恵子さんも。ま、代理でブッチャーに来てもらったけどさあ。」

「あ、こんなぶさめんではまずかったかい、杉ちゃん。」

「そういう事じゃないわよ。できるだけたくさんの、味がよかったとかそういう評価を集めなきゃ。まず、客を獲得するのは、まず、口コミなんだから。」

そういうやり方をする晴も、昔ながらのやり方であったが、

「そうだよな。インターネットの口コミは、二の次だ。あれは例外も多いからな。」

と、杉三も同調した。

「まあいい、とにかく食べさせてもらおう。で、杉ちゃんはこないだ何を食べたの?」

「ああ、豆もやしビーフンだ。水穂さんは、塩味汁ビーフンだと思った。この間とおんなじの、もう一回食べる。」

蘭が聞くと、杉三は即答した。よく覚えているな。

「うまいもんは、一度食べるとなかなか忘れられないもんなのよ。」

「杉ちゃんそれ、大昔の人の言葉ともとれるよ。戦前の。」

「うるさい。」

この二人の会話は、なんだか聞いていると面白いものだった。

「この豆もやしビーフンでも結構豪華だぜ。意外に量が多くてさ、腹にたまった。もしかしたら、武則天母ちゃんには少し多いかも。」

「じゃあ、私はそれにしてみようかな。」

「僕は、水穂と同じ奴にするよ。」

「俺は、、、。このニ、三日まともなものを食べられなかったので、この焼肉入りビーフンが食べたい、、、。でも、そうしたら水穂さんに申し訳ない、、、。」

「いいよブッチャー。本人に言っても別に怒んないと思うよ。そういう事でおこる人じゃないから。仮に、一緒にいたとしても、自分に気を使ったら嫌だからとかそういう言い方すると思うから、気にしないで食べろ。」

「じゃあ、わかりました。ご注文を確認しますと、豆もやしビーフンがお二つと、塩味汁ビーフンがお一つ、あと、焼肉入りビーフンがお一つですね。少々お待ちくださいませ。」

「おう、頼む頼む!よろしくな!」

「はい。」

にこっとして、厨房に戻っていく忠男さん。

「しっかし、結構広い店ですね。もうちょっと簡素なところかなあと思ったんですが、これなら単に飲食店としてでなく、他の事でも使えそうだ。」

聰が、店の中を見渡してそういった。

「そうだね、車いすの人間には移動がしやすくてちょうどいい感じ。」

と、蘭も言った。

「でもさ、グラスに琉球硝子使ってたりして、そう考えると、料亭というルーツもわかる店だ。ちゃんと、正統なものをつかってるじゃないか。」

「へえ、琉球硝子ね。あれ、今ギフト品として、若い女の子に人気があるそうよ。もともと廃品のビール瓶だったから、割と安く買えるとか言って。」

杉三の発言に晴が付け加えた。

「やっぱりお母さんは詳しいですね。若い女の子に人気があるものを知っているんですかあ。きっと和紙だって、人気があるんだろうな。」

うらやましそうに言う聰。

「銘仙だって、若い女の子に人気があるんじゃないか?」

「いや、どうですかね。俺のサイトに注文をしてくれる人は、大体中年以上のおばさんばっかりですよ。」

「へえ、あんな柄なのにか?だから言っただろ、若い美女にモニターになってもらわないと、ダメだって。中年のおばさんじゃ、中年のおばさんしか集まらなくなっちゃうんだよ。」

「杉ちゃん、そんなこと言うと、せっかくレポートを出してくれた多香子さんに失礼だぞ。」

蘭はそう言ったが、事実、着物を着るのは中高年ばかりである。

「だけど、やっぱり若い美女にレポートだしてもらわないといかん。そうだなあ、おしゃれに関心があって割と暇人な女子大生とかどうだ?例えば、静岡大学の近くでフリーマーケットでも開催したら?」

「あ、杉ちゃん、意外にそれいいかも。」

杉三の発言に晴も賛同する。

「そうですねえ。でも野外での販売は、雨が降ったら開催できませんよ。それに最近は大雨が多いですから、できれば屋根のある会場を借りたいな。もし、よろしかったら、この店を貸し切りにしてやってみたいですね。」

聰がそう発言した。確かに、展示会の会場にはちょうどいい広さだった。

「例えば、座敷スペースを展示スペースにして、テーブル席はいつも通りビーフン屋としてやってもらう。そうすれば、ご飯を食べながら着物も見れて、まさしく一石二鳥の楽しみができる。」

「ああ、いいかもよ。確かに雨が降ったら着物もだめになるし、それならここを借りたほうがいいわ。ちょっと、ご飯が来たら話してみましょうか。」

さすがの蘭もこれは名案だと思った。

「はい、さすがに全部借り切るほど、商品の数はないので、座敷エリアだけ借りられればそれでいいですから。」

「しかしブッチャー、このあたりに大学ってあったっけか?おしゃれな女子大生ってたくさんいるか?」

杉三が口を挟むと、聰はまたがっかりして、

「そういえばないな、、、。」

と言った。

「あ、それなら大丈夫。一番近くで沼津学園があるから、そこの生徒さんがこの道通るんじゃないかしらね。大きなポスターでも貼れば、目を向けてくれると思うわよ。まあ、大学じゃなくて、高校だけど、今は大して変わらないわよ。」

確かにそうだ。駅の近くに沼津学園高校が存在していた。

と、同時に、忠男さんが一番目の料理を持ってやってくる。

「はい、豆もやしビーフンでございます。」

「あ、ありがとう。それからね、おじさんよ。このブッチャーが、この店を借りて着物の展示会をしたいというのだが、どうだろう、貸してやってくれないかね。」

いきなり何も前触れもなく、杉三が話し出した。

「杉ちゃん、すぐに本題をしゃべるな。」

蘭は注意しようとしたが、

「いえいえ、顔を見れば大丈夫。喜んでいらっしゃるわ。」

と、それを晴が止める。

「そうですか、、、。いや、夢のようですな。こんな古ぼけた店でイベントをやっていただけるなんて、信じられません。ぜひ使ってくださいな。」

「あ、ありがとうございます!じゃあ、準備をして開催したいのですけど、空いている日付とか、、、。」

聰は手帳を取り出して、日付の確認を始めた。

「はい、この店の電話番号をお知らせしておきますから、いつでも連絡をいただければ、それで準備しておきます。」

「やったぜ!よし、すぐに工場に帰って、商品を決めよう。もう、売れ残りがいっぱい過ぎて困っているから、この際たくさん持って来よう。」

「馬鹿だなお前。まずは食べてからだ。」

「わかっているよ、杉ちゃん。」

その間に、他のビーフン料理も次々にテーブルの上に乗せられていった。

「よし、食べようぜ、いただきまあす!」

すぐに箸をとって杉三は遠慮なく食べ始める。

「うまいうまい、うまいなあ!やっぱりこの前もそうだったけど、麺のこしが違う。」

「うん。確かに、これは、ラーメンとかうどんを食べれない人にはいい味方かもしれないよ。味がそっくりだもん。塩ラーメンに。」

と、蘭も認めなければいけないその味。

「そうね。できれば女性用のハーフサイズがあるといいわね。ねえ、安藤さん。そういう風に、工夫をするともっとお客さんが来てくれると思うわよ。いい味なんだから、量が多すぎていたら、店のよさが半減するでしょ。」

晴の意見も最もだった。確かに器が、女性用にしては大きすぎだ。

「ああ、すみません。このあたりサラリーマンばかりやってくるエリアなので、あんまり女性のお客様は来店しなかったんですよ。」

「まあ、過去はそうだけど、これからは違うかもしれないでしょ。せっかくおいしいのにもったいないわ。」

「いいですよ、お母さん。残してくれたら俺がおこぼれを食べます。」

聰がそういったので一同大爆笑だった。

こんなに店が賑やかになったのは、何年ぶりだろうか。

神様、やっとわがままな自分を許してくれたのだろうか。

そして、この店でイベントが開催されるなんて、杉ちゃんという人は、座敷童というかそういうもんだろうか、、、?



数日後、須藤聰が提案した、簡単着物の展示即売会の日程はすぐに決定され、金土日の三連休を利用して、開催されることになった。

その日、びいふんの食べられる店の看板の隣に、「簡単に着られる着物」と書かれた模造紙が貼りだされた。
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